はてなキーワード: 特権階級とは
今更だけど、先の参議院選挙で参政党に投票した人達をバカにする事を批判する声が強いのが納得いかなかった
つーかそもそも参政党に投票した人々が弱者や負け組だって認定が大きな間違いなんだよ
競争社会から溢れた負け組が排外主義に走るという、分かりやすい物語で語る人達が多かったが、
でも参政党の支持層って元々自民を支持していた人が多いようだし
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/withbloomberg/2060337?display=1
参政党支持者の中で、「現在の自民党への評価は、かつての安倍政権の頃と比べて悪くなった」と感じている人が97%に上るなど“安倍政権を評価していたが、今の自民党に失望している”という人が多くいることがわかりました。
どう見ても「リベラル政党が救ってくれなかった弱者」などではないんだよな
https://news.yahoo.co.jp/articles/cb47d47609385c95ef23fbbcd19c0d44ff4c9f39
女性が高学歴になるほど婚姻率が上がる今世紀においては、けして低学歴ゆえに判断能力のない無知で愚かな可哀想な人達などではない
持てる者達が、持たざる者達をさらにいじめて苦しめようと躍起になっているのが参政党現象だが?
自分達の子育ての負担を減らしたいがために高齢者を殺せ、外国人労働者を追い出せと叫ぶ参政党支持者の何処が弱者なんだよ
データから分かる参政党支持は負け組のルサンチマンではなく勝ち組の傲慢。
それに対して、共産党、社民党といった昔ながらの野党や新興勢力の中でも立憲民主党やれいわに投票する層の方が、明らかに社会的経済的に不遇な人間が多いんだが?
非正規でしか働けず、結婚できないから男に養ってもらう事もできず、子供も持てず未来に何の希望もない氷河期世代から見たら、
参政党支持の子育て世代は特権階級の勝ち組以外の何物でもないんだから。
有権者の愚かな選択をバカにしてはいけないと杓子定規に述べる人達は
強者が弱者をバカにするのと弱者が強者をバカにするのとが同じなら訳がない
それよりも明らかに貧困率が高く学歴や健康状態も悪い有色人種の底辺層よりも弱者だと本気で思ってるなら、それは差別思想ゆえに感覚が歪んでいるからだよ
SNSでは度々、体育が嫌いな人や音楽が嫌いな人の話になる。昔から運動会が苦痛だった、音楽で人前で歌わされるのが辛かった、等。それに対して昨今では、「そんな奴いるわけない」という人間の方が少数派だろう。そういう「好きな人もいるだろう物」に対して嫌いであっても、それもまたその人の価値観であると認める方向になっていると思っている。
それに対して絵を描くということは、それなりに描いている人がSNSに多いのもあるんだろうが、取り立てて「嫌われるもの」にあがることが少ない、気がする。
私は嫌いだ。
とにかく絵を描く事が嫌いだ。
授業中のノートに落書きなんて楽しそうだと思って、落書きの犬すら犬にならない自分の画力に絶望して、こんなんなら何も描かないほうがマシだと消す。
夏休みの宿題の読書感想文は大好きだったが、読書感想画とかなんとかポスターとか、その3倍は時間がかかった。
無事オタクに成長して、二次創作というものに憧れたって、絵が描けねえのだからしょうがない。脳内にいる推しは誰にも見てもらえない。文章をこねくり回したところで伸びるのはイラストである。鮮明で、魅力的で、一発で伝わりやすい。
羨ましい。
とか言ってると、SNSに絵をあげる程度に描ける人間は言うのだ。「描けば上手くなる」と。
しゃらくせえ。
描きたくないんだよ。
この手は鉛筆を持ったところで思うような線は描けないのだ。脳にある円すら描けない。人間が人間に見えるようになるより早く私の人生が終わる。
なので私は絵を描くのが嫌いだ。
思うようにならないのは苦痛だ。結局のところ人それぞれ嫌いな副教科ってそれだと思う。思うように体が動かないから運動なんて面白くないし、思うような音が出ないから音楽は楽しくないし、思うような線が引けないから絵なんか嫌いなのだ。
で。
画像生成AIってすごいと思う。そんな「絵が描けない人たち」にとっては、自分の脳内のものを出力する手段になり得る。
すごい。画期的だ。こんな私でも、脳内だけにあった絵を世界に発信することができる!是非とも使いたい!
しかし世間は、というか主にSNSは、どうもAI生成イラストに風当たりが強い。
もちろん、画像生成AIを使っているのに自分で描いたと言うのはダメだ。単純に虚偽なのだから。
また生成された絵なのに実際の写真かのように見せるのも大問題だろう。
あるいは特定の人の絵のみを覚えさせて「その人が描きそうな別の絵を出力する」のも何かしら問題になりそうだ。著名な画家の絵を覚えさせて出力したものを「未発表作品」と言い張ったら…これは完全に詐欺の方法になるか。
けれど現在画像生成AIを使用していると明記してあるものに対しての批判は、どうも正当なものとは思えない。「この絵は〇〇の絵柄だから〇〇の権利を侵害している」とか、「この構図はこの絵と全く同じだからパクリである」みたいな具体的な指摘は、私は見たことはない。あるのは物の形だとか指の数だとか、「画像生成AIの技術不足」に対する文句が多い。
Google検索して出てくるなんかよくわからない文だって、ChatGPTだって、ネットのどっかに転がってる文章を勝手に引用してそれらしく並べている。画像も同じく、絵の構図や線や色味を勝手に持ってきてそれらしくしてるのだろう。ここでイラスト学習だけに苦言を呈するのは、むしろ横暴ではないのか。そこら中の絵から拾ってきた各要素のツギハギは、今反対派が訴えているほど特定の誰かの権利を侵害しているのだろうか?
結局のところ私には、「絵が描ける」特権階級の人たちが、その特権を渡すまいと、言える文句を言っているようにしか見えないのである。そして画像生成AIによるイラストの全てを犯罪であるかのように騒いでいる人たちを病的だと思っているし、使用している人に対して人格否定まで及ぶ人は普通に何様なのかと思う。
AI学習及び出力に関する法はおそらく今後議論されていくだろうけれど、現状は何もない。今何を言ったって、賛も否も「個人の感想」の域を出ないのだ。
私は思うように出力されないことに腹が立ったのでやめたけど。
俺はガンの露悪的な趣向が好きで見てるから最高だったけど、良心派の映画好きギークの中にはそこが引っかかって楽しめないって人が少なくないからそういう人には地獄の作品だったかもしれない。
ガンのフィルモグラフィーを見ても彼が「トキシックマスキュラリティ(有害な男性性)」の徹底的なアンチであり、それはいわば反父性主義であり、ファミリー(血族ではない)の力でそれを乗り越えるという展開が繰り返し描かれ続けている。
リブート版のスースクでトキシックマスキュラリティの権化として現れたピースメーカーが「政府」という巨大な父性に操られ本当の「平和の使者」であるリックを殺害してしまったことから、自身のアイデンティティがゆらぎ、自身の過去と向き合っていくのがシーズン1。
過去と決着=家族と決定的な別離をするもその結果になおも苦しむピースメーカー。しかし我が家の次元ポータルの先に「全員が無事な世界線」があることがわかり、家族を再構成したい、理想的な自分でありたいと考えてしまうも、実はその世界は……というのがシーズン2。
特に示唆的で面白かったのが、ポータルの先の世界線はいわゆるアースXと呼ばれる「ナチスが勝利してナチス的な思想になったアメリカ」であり、ピースメーカーはその世界で誰もが認める「ヒーロー」として活躍している。これは「悪人」として登場し、世間からも政府からも冷ややかな目で見られている元の次元のピースメーカーとは真逆である。
しかし、問題はアースXは「ナチス的思想の非常に差別的な世界である」ということである。
その世界でヒーローとして崇められるピースメーカー。つまり、ガンはこの脚本を通じて「元々のピースメーカーの思想というのは非常にナチス的で危ういもの」であると再度警鐘を鳴らしている。もっと言ってしまえば「アメリカのために"悪人"を容赦なく退治するアメコミヒーロー」というものに対するアンチテーゼともとれる。それって「国のために」ユダヤ人を虐殺したナチスと何が違うの?ということである。
ちなみにこの部分は見ていればそうわかるように作られているが、具体的に言及されることはない。エラい作りだ。
ピースメーカーがアースXがナチスの世界だと気づいていなかったことをギャグ的に「我が闘争がオフィスに大々的に置いてあるのに?」「マッチョは本なんか読まない」「オフィスの壁にヒトラーが書かれてるのに?」「今気づいた」と詰められるシーンがあるが、これも単なるギャグではなくピースメーカーが典型的な「白人男性」であることから「特権階級者はそのことに異常に無自覚である」という強い皮肉を感じる。
でもこういうことを口煩くお説教してこないのがガンのいいところだと思う。これらは「見ていればわかる」ように描かれているが基本的にはおバカ集団がポータルを狙う政府組織を戦いながらガン的不謹慎ジョークを飛ばし合いながらときに殴り合い、ときに慰め合うエンタメ全振りの展開が続くので、普通に楽しい作品に仕上がっている。
ナチスの世界だと視聴者に気づかせる(さまざまな細かなモチーフは第1話から登場しており、登場人物も白人しかいない状態が続くが)決定的な要素として、元世界のピースメーカーチームの黒人女性が歩いていると「黒人が逃げ出したぞ!」と追いかけられる展開もめちゃくちゃガンらしくてよい。あとヴィジランテを名乗る反社会的ヒーローがめちゃくちゃオタクで家(つまり子供部屋おじさんでもある)では年老いた母親に「ババア!ノックしろって言っただろ!」系のイキリを披露しまくるシーンではイテテテテとなってしまった。ガンは嫌な奴だ(憤怒)
最終的に仲間たちの力でピースメーカーは過去を振り払い、新たなヒーロー組織(ほぼ全員社会不適合者)を結成し大団円、最後の最後でとんでもないクリフハンガーを挟んで終了。私、アメドラのはちゃめちゃクリフハンガー嫌い。
スーサイドスクワッド、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーといったガン映画が好きならマストで見ていい作品だと思う。まぁ、1のほうが展開もダイナミックで面白かったと言われたらそれはそうかもしれんけど。
児童ポルノや児童への性加害を野放しにしてきたツケが回ってきている。日本では「児ポ男が多すぎて警察が対応しきれない」みたいな説がネットで回ってるけど、そんな説を笑って済ませられる段階はもう終わっている。
フランスは性犯罪・児童保護の管理で具体的な仕組みを持っている。たとえば、性的・暴力犯罪の加害者を登録・追跡する全国的なファイル(FIJAIS)が運用されており、再犯防止や捜査のために活用されている。こうした制度は被害予防のツールとして機能している。
具体策のイメージは単純だ。
これらをセットで運用すれば、加害の“機会”そのものを減らせると思う。フランスは児童保護や情報削除、コンテンツ監視の法律を相次いで整備してきており、単なる合憲討論に終わらせていない。
「でも日本じゃ無理だろ」という悲観論には反論が要る。確かに制度を作るだけでは意味がない。登録の精度、個人情報の扱い、誤認逮捕や人権問題への配慮、運用する人員・技術の確保——これらを同時に設計しないと逆効果になる。それでもやる価値はあると思う。被害児童の未来を守るほうが優先順位は高い。
それから現実的な話。上級国民にも犯行者が紛れているとか、警察が捜査しきれないとかいう“説”が出るほど問題が深刻なら、制度を強化して透明化し、第三者の監視と民間通報の仕組みを整えるしかない。情報を握るのが特権階級だけ、って構図を放置する余裕はない。検挙力を上げ、被害の報告が埋もれない仕組みを作ることが先だと思う。
最後に一言。厳罰化だけ叫べば済む話じゃない。だが「入国禁止・未成年関与禁止・登録制度」の三本柱は現実的で即効性がある対策だ。フランスが既に取り入れている制度や運用を研究し、速やかに導入していくべきだと思う。草を生やしてる場合じゃない、被害児童が実際にいる。
個人の感想だけど稲田の乗っ取り事件知ってたら「言い過ぎではあるけど、自戒したり考え直さないといけないな」ってなると思うんだよ
でも「こいつは特権階級だ」だとか稲田の件が見えていないような発言ばっかですっごい気持ち悪いんだよ
考えたくないけど記事タイトルだけ見て「松尾が暴言吐いた」ぐらいしか把握してなさそうなコメントもある
怒り狂って叩く前にきっちり記事見たりバックグラウンド調べたりすればちょっとは思いとどまったりもうちょっと考えたりできるはずなのにそれができていない、やらないのが怖すぎる
インターネットで注目されたり、その延長線上で小遣いを稼いだりするためのハードルの高さに関して、絵を描く人間のそれは他の技能に比べてずっと低いよな、とずっと感じている。俺は描けない人間なのでやっかみもあるんだとは思う。
でも、一流の研究者が自分の専門分野についてほぼ毎日更新しているブログが1日数百PVとかなのに、デザインの専門学校入りたてみたいなやつが描いたキャラクター絵が簡単に数千、数万閲覧されていたりするのを見るとどうしてもそう思ってしまう。
物語を作る能力があったとしてもマンガと小説ではリーチできる数が全然違うし、ゲームシステムとかの設計ができてプログラミングができても、絵を描けなかったら独力でゲームを作ることはできない。俺の作った世界一面白いはずのゲームは、Unityroomの片隅で誰にも見向きされてない。
生成AIが登場した時、ついにそういう状況が改善された、と思った。文章を書くのが苦手ならAIに書かせ、プログラミングができないならAIにコーディングさせ、絵を描くのが苦手ならAIに生成させればいい時代が来た、と思っていた。
もちろん、絵を描く人が見たら、自分がAIの書く文章やコードに感じるのと同じ物足りなさを感じるんだろうけど、少なくとも誰でも一人で「成立する」程度のものは作れるようになるんだ、と。
みんな得意な部分のクオリティだけで勝負できるようになるんだ、と。
ところが、絵を描く人間たちは、「AIで生成した絵」が倫理的にダメなものだという風潮を作り、それを使った作品を忌避したりゾーニングし始めた。
インターネット上の文章やコードを無断学習したAIにメールを手直したり、ちょっとした便利ツールを作らせたりは当たり前にしているのに。
俺が魂を込めて書いたフェチ小説は、表紙にCanvaの生成イラストを使ったせいで、DLSiteの「AI使用作品」カテゴリの中で埋もれている。
だったら描く練習をすればいい。あるいは、描ける人間にお金を払って頼めばいい。
もちろんそんなことは分かっている。ただ、たまたま絵を描くことが楽しいと思えるように生まれたというだけで、そうでないものに楽しみを見出す人間よりもずっと良い場所からスタートを切れるというのは、こちら側からすればどうしても不公平に感じてしまう。
俺はfanboxの収入で毎月新しいガジェットを買えてるインターネット絵描きが絵にかけたのと同じくらいには、より良い文章やコードを書いたり設計する努力をしてきたと思うんだ。
改めて起きたことを書き出すと、
この騒動が「左翼・リベラルやオールドメディア(特権階級)vs普通の日本国民」という構図を無党派層や選挙に関心の薄かった人々に意識させる絶好のチャンスになり、参政党躍進の後押しになったのは間違いない。
なるほど、その視点は非常に興味深いです。ボエティウスの自発的隷従論を権力者に寄生する少数者が多数派を抑圧し続ける構造に関連付けて説明すると、以下のように考えることができます。
ボエティウスの考え方において、支配者や権力者は外的な支配を行うだけでなく、しばしば自らの利益を追求するために支配の構造を維持します。この場合、少数者(例えば、特権階級や権力者の側近など)は、権力者に従い、彼らと共に支配の体制を維持し、権力者のために利益を享受しています。この少数者は、実際には一般市民や多数派の自由を抑圧する役割を果たしていることになります。
ボエティウスが「自発的隷従論」で強調したのは、人々が無知や内面的な弱さから進んで支配を受け入れることです。この観点を当てはめると、支配者に寄生する少数者は、一般市民の無知や無力感を利用して、権力者の利益に繋がるように体制を強化します。彼らは多数派が反抗するのを抑え込むために、権力者に対して忠実に従い、その支配を維持することが自らの利益に繋がると認識しています。
ボエティウスによると、心の自由を失っている者は、外的な支配を受け入れやすいとされています。現実的には、少数者は多数派に対して精神的・物理的な圧力をかけ、彼らを無知や恐怖に陥れることによって、自発的な従順を引き出すのです。このような従順は、教育の欠如や情報の制限、あるいは過剰な propaganda などによって強化され、結果として抑圧が継続します。
少数者は、権力者と結びつくことによって自らの特権を確保し、支配体制を維持します。彼らは、多数派の利益に対して無関心であり、むしろその利益を損ねることで自分たちの地位を高めるのです。このようにして、支配体制は少数者によって強化され、権力者に従う少数者はしばしば支配の維持者として機能します。
ボエティウスは、理性と知識によって自由を確立することを強調しましたが、少数者はこの理性や知識を封じ込めることによって、支配を確立しやすくします。無知に対する支配は、権力者が少数者を使ってさらに深化し、社会全体を閉じ込める手段となるわけです。教育や情報の制限を通じて、支配は自発的に受け入れられ、抑圧が持続することになります。
6. 結論
ボエティウスの「自発的隷従論」の視点を通じて見ると、権力者に寄生する少数者がいかにして抑圧を維持し、長期的に継続させるかが理解できます。支配者と少数者は、社会の多数派の無知や無意識に乗じて支配体制を強化し、その結果、抑圧が自発的かつ持続的なものとなります。
1. 全体構成
本書は大きく5部構成(+序論・結論)で、古代から20世紀までの「滿洲(満洲)」地域をめぐる勢力と、その中で生まれた「満洲国」――20世紀の民族・国家発明――を一貫したストーリーとして描き出します。
第五部:滿洲國の成立とナショナル・アイデンティティの発明
2. 主要テーマ
満洲は、東アジア大陸と朝鮮半島/遼東半島の接点に位置する「低地」=外来勢力の侵入・征服が常態化した空間。そこを舞台にさまざまな遊牧・騎馬民族が王朝を興し、漢民族中心史観のタブーを破壊してきた。
高句麗→契丹(遼)→女真(金)→満洲(清)という、本書の最重要ラインをたどりながら、「遊牧文明」の政治構造と漢文化の摂取・活用の戦略を分析。
1932年に日本が擁立した傀儡政権「滿洲國」は、清帝国の「满洲支配」を近代的国家として再パッケージしたもの。人口構成に乏しい満洲人を「国家の主役」とすることで、ナショナル・アイデンティティを人工的に発明したプロジェクトとして読み解く。
教育・宣伝・儀式(皇帝崇拝、民族衣装)・歴史教科書の改編などを通じ、他地域・他民族を排除し「満洲人」を想像上の共同体として形成するプロセスを詳細に追跡。
3. 各章の論点
序論 満洲を地理的に定義し、「窪地」としての脆弱性と、逆に「征服の空間」としての魅力を提示。
第一部(高句麗→契丹) 高句麗の辺境国家性を論じ、契丹(遼)による五代十国期の北方統一王朝成立過程を、モンゴル草原勢力との関係から分析。
第二部(女真→金) 女真人が「女真語・契丹文」を駆使し、漢文化と遊牧文明をハイブリッド化して金朝を建設する政治戦略を解剖。
第三部(清帝国) 満洲人(女真系)の支配エリートが、科挙や儒教を吸収しつつ「満洲旗制度」で特権階級を維持。清の多民族統合メカニズム。
第四部(近代の再定義) 日露戦争後、清帝国が「満洲」を失い始める中で、列強による分割的支配と漢民族的ナショナリズムの台頭を並列で検証。
第五部(滿洲國) 満洲国の建国イデオロギー(皇帝溥儀の再起用、五族協和)、憲法制定、教育制度、国家祭儀など「民族発明」の実践面を詳細に描写。
結論 「満洲」という地域・イデオロギー・民族カテゴリーが東アジア秩序に果たした役割を総括し、「諸夏主義」の視座へ橋渡し。
「中国=漢民族国家」という前提を覆し、満洲を起点に東アジア史を再構築することで、脱中華・多文明圏論の理論的骨格を補強。
ナショナル・アイデンティティ研究への貢献
「満洲人」という少数民族的主体がいかにして国民国家の主体と見なされたか、「民族発明」のプロセスを具体的に示し、人類学的・歴史学的に示唆を与える。
内モンゴル・チベット・ウイグルなど「非漢族地域」のナショナル・ムーブメントに対する理論的バックボーンを提供するほか、地域分権・多元連合の可能性を歴史的事例を通じて描く。
《中國窪地》が「満洲国」建国プロジェクトを単なる「日本の傀儡政権」として批判するだけでなく、そこに内在する「民族発明」の構造を解明し、東アジアのナショナル・ヒストリーを俯瞰する視座を与える重要著作です。