はてなキーワード: 言葉とは
誰もが恐れおののくS先生の演習を、先輩は軽々とこなしていた。みなテキストに注釈を付けるのがやっとで、それも不十分だと厳しく指摘されるのに、先輩が担当すると一回一回が論文になるような内容だった。先輩は時にはS先生の論に真っ向から反対するコメントすらした。
大学院に行こうと決めたときから、先輩はなにかにつけ私をかまってくれた。私が落ち込んでいるときも単に暇なときも、よく飲みに連れて行ってくれた。先輩は酔うと大学院に進学するために心ならずも故郷に捨ててきた恋人の話をした。その人と私はどうやらどこか似ているようだった。カウンターでウイスキーを飲みながら先輩はいつも苦しそうに「今どうしてるかなあ。幸せに暮らしてるかなあ」と言うのだった。「すっかり忘れて楽しくやってるよ」と私が言うと、先輩は据わった目で私を見て「ひどいヤツ」と言い、それから「そうかなあ、そうかなあ」といつまでもぶつぶつ言っているのだった。
就職が決まったとき先輩は学部生の女の子にもらったと嬉しそうに紙袋をブラブラさせていた。私も何かお祝いを用意しておいたらよかったと思った。梅田の紀伊国屋前で別れ際、そうだ、これがお祝いと先輩の頬にキスをした。笑いながら手を振ってしばらく歩いて振り返ったら、人混みの中で背の高い先輩が頬を抑えて小学生の男の子みたいに呆然とつったっていた。
喪主のおつれあいによると、激務という言葉がぴったりの働き方だった。論文なんか書けない状況だった。なのに学会で会ったとき、ぜんぜん論文書いてないですね、先輩あんなに論文書かない研究者を馬鹿にしていたのにかっこわるいというようなことを言ってしまった。このまま何も書かないで先輩が研究者でなくなってしまうんじゃないかと寂しかった。ごめんなさい。先輩はメチャメチャかっこよかった。本当に、メチャメチャかっこよかったよ。
「貸倒引当金の損金算入」なんて言葉を聞くと、だいたいの人は眠くなる。
けれど、これが実は奨学金という制度の“本音”を照らすキーワードでもある。
ざっくり言えば、「貸したお金が返ってこなさそうな分を、あらかじめ経費として認める」仕組みだ。
そして、これを税金の計算に反映できるかどうかが、国の性格を決める。
たとえば、あなたが会社を経営していて1000万円もうけたとする。
でも、あなたが「このうち100万円は、貸したけど回収できなそう」と言って、
その100万円を経費にできる(=損金に算入できる)とどうなるか。
国に払う税金が30万円減る。
つまり、国が“貸倒リスクの3割”を実質的に負担したということになる。
損金算入とは、国家が企業の失敗の一部を税で肩代わりする制度なのだ。
これを知らずに「貸倒引当金なんて難しい話」と思っている人は多い。
だがここにこそ、**「どんな失敗を国が共に背負うか」**という社会哲学がある。
日本では原則として、実際に回収不能にならなければ損金にはできない。
これらは「法定繰入率」というルールで、あらかじめ貸倒分を税務上の費用として認められている。
つまり、銀行が融資で焦げついても、その痛みはすでに税で少し吸収されている。
一方、**奨学金(JASSO)**のような「教育を支援する貸付」はこの枠外だ。
貸した金が返らなければ、本当に国の損失になる。
だからこそ、制度は「破産させない」「逃がさない」という設計に偏る。
これが、表向き“やさしい”奨学金制度の裏にある、硬い現実だ。
アメリカでは考え方が違う。
学生ローンを含む貸付債権は、束ねられて**証券化(SLABS)**され、投資家の手に渡る。
アメリカ政府もそれを前提にしている。
議会予算局(CBO)や教育省は、あらかじめ「将来どのくらい焦げ付くか」をモデル化し、予算に織り込む。
「学生が破産した=想定外の失敗」ではなく、「予定通りの割合」なのだ。
だからこそ、延滞者に課される**回収手数料(25%上乗せ)**も、「罰」ではなく「市場の回収コスト」として処理される。
日本学生支援機構(JASSO)の奨学金は、貸与終了から7か月後に返済が始まる。
この不思議な“間”の意味を考えたことがあるだろうか?なぜ4月から請求しないのか?
引越し、就職、給与口座の整備——確かに数か月の猶予は理にかなっている。
だが、もう少し冷静に見ると、別の合理が見えてくる。絶対に借り逃げさせない強い意思
この時期に返済請求を受ければ、破産手続きで裁判所から「支払不能」が認められやすい。書類上は収入ゼロ、もしくは雇用不安定の人間に借金の取り立てをしているのだから。
つまり、裁判所は破産免責を認定しない。「返せるでしょ?」となる。
このタイミングで返済義務を発動させれば、制度としては極めて理想的に“逃げ道”を塞げる。
JASSOはそこまで公には言わないが、債権保全の観点では非常に計算された設計だ。
(ちなみに借金があっても債権者から返済の請求が無ければ裁判所は自己破産の手続きも受理されない。返す義務が具体化していないのだから訴えの利益が無いのだ)
20代前半の7年なんて“クレカが持てないだけ”で済む——そう考える若者がゼロとは言い切れない。
JASSOの7か月ルールは、そんな“逃げのタイミング”を制度的に潰す仕組みでもある。
こうして見えてくるのは、
日本では奨学金は「教育支援」よりも「回収可能性」に重心を置いた制度になっているということ。
なぜなら、貸倒を損金にできない限り、貸す側のリスクは全額自己責任だからだ。
だから破産しても倫理的非難は少なく、「数字の範囲で終わる」。
つまり——
日本では**「道徳」が返済を支え**、アメリカでは**「市場」が返済を支える**。
奨学金は、「教育機会を広げたい」と「回収したい」の間で揺れている。
その揺れを見える化しないまま「返せ」と言えば、制度は道徳主義的に硬直する。
もし本当に“支援”を名乗るなら、返済開始の柔軟化や所得連動の自動適用といった再設計が必要だ。
「貸す側が損を想定できる国」と、「借りる側が破産を許されない国」では、若者の挑戦の角度も変わってくる。
ならば、前借りの回収はその人の立ち上がり方に合わせていいはずだ。
その構造を知れば、奨学金という“やさしい顔をした金融装置”が、
ChatGPTに書いてもらいました。10分
うれしいのかと思ったけどそうでもない
やる気があるって言われるたびに仕事が増える
それを見て上司がほほえむ
「助かるよ」って言う
でも助かってるのは誰だ
自分じゃない
やる気って便利な言葉だなと思う
疲れてるけど「元気だね」って言われる
もう元気じゃないけど元気だねって言われる
そう言われると元気なふりをする
元気なふりをするからまた元気だと思われる
永遠に続く
やる気のある若者って何だろうな
やる気があるって言葉の裏側には
やる気のない大人が
やる気のある若者を探してる
やる気のある若者が
やる気を失うまでがワンセット
そういう社会なのかもしれない
最近趣味で二次創作をはじめた。妄想が止まらず、小説はほぼ書いたことがないけど、とりあえず書ききった。
それをchatGPTに食べてもらった。
感想を言ってっていうと、褒めてくれる。モチベーションが続く。
どこをどのように直すと、完成度が上がるの?って聞いた。そしたら視点のブレを指摘してくれた。なるほどー。
言葉が繰り返されてるのにくどく感じないのはなぜ?って聞いたら、◯◯という手法を使ってるんだよ!って教えてくれた。
書いては読ませ、自分の使った手法やら物語の構造の解析やらしてもらって。
手法の名称や構成の解析結果をもとに、自分が何を書きたかったのかを改めて整理して、書き直して、また読んでもらって感想聞いて、モチベーション維持して。
一人称一元視点でしか書けなかったのが、三人称多視点に挑戦するまでに至っている。(書けるとは言ってない)
AIに話を書いてもらうと、たしかに綺麗な日本語が並んでるんだけと、コレジャナイ感。
お題とかシチュエーション20個くらいくれって頼むと、無限に出してくれるので、そっからピンとくるやつで、文章の練習ができたりとか。それを校正してもらうのも楽しい。へぇ!ってなる。
私は趣味で、自分の妄想を読みたいだけなので、AIを使うことに全く抵抗はない。
誤字脱字誤用チェックに、GeminiとchatGPTに見せてる(この文章はもちろんそんなことしてない)。あとWordにも一度持っていく。
なんか、昔の漫画はベタフラッシュとか手描きだったけど、今は素材いっぱいあるよね。でも私は漫画を描けない。
AIがあっても、完成まで持っていけるかどうかは使う人次第な所あると感じている。
話がそれるけど、創作が自分にもたらす影響を観察するのが面白くて。いろんな人が気軽に創作できる世の中ってとても良いと思うのです。そういう恩恵を私はAIから受けました。
dorawiiより
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俺も新人の頃はそう思ってた。
俺は、感謝されたい。
正確に言うと、“誰かに必要とされてる”って実感がないと、自分を保てない。
暴れる患者に怒鳴られ、
やっとゆっくりできたのが朝の5時。
あの地獄みたいな夜が少し報われる。
それを“承認欲求”って切り捨てられるの、
正直、しんどい。
俺たちは人間だ。
昔から子どもが苦手で産まないって言っていたのに、いざ婦人科系の病気になった時“産まない”と“産めない”はこんなにも違うのかと絶望したのを思い出す題名で、思わず手に取りました。
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「子供が苦手だから」とか「痛いから」とか理由つけて産みたくないって思ってる人は本当は産みたい人だよね。 私は子供産まないことに理由付けが必要だと思ったことはないしずっと「産めない」状態になりたくて仕方なかった。同じ「産まない」女でも感覚が根本的に違うんだよね。
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「産まないだろうな」と思ってたのがいきなり「産めない」に変わった時の自分の心境って、自分でもツッコミ入れたくなるくらい真逆の感情が生まれるんですよね 私もこの本探して読んでみよ〜
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ほんまにこれ 私が子供産んでも不幸の再生産だから産まない、と思ってたけど たとえ準備万端でも自分の体では安全に産めない可能性高いって分かった時は衝撃的だったし泣いた
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女性にしか分からない感情を三単語で見事に表現してる。全て重い。産めないは特に。
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痛くて苦しいから産まない って思ってるけど痛いのと苦しいのが精神的に拒否反応でるから産めない側だなとも思ってる ほんとにショック死する可能性あるから子供欲しい欲しくない関係なく産めない
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子どもの好き嫌いや苦手意識と産む産まないは別物だと思う。子どもはいつまでも子どもではいない。自分の子どもは子どもという生き物ではないのだから。 人の気持ちは移ろうもの。 いざそうしたいと思う時が来ても選択肢がないのと望めばできるのさは大きい。 人の心と体は複雑だ。
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本当かなあ 全く産みたくないから健康に害ないなら産めない体になっても困らないと思ってた
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前から産まないって決めてて、時々生理がしんどすぎる時に手術で取ってもいいかって思うけど、産めない身体になると何か失った気がするかなと考え直すことが何度かある 失礼な発言になるかもしれないけど、自分の思考は間違ってないって思えた
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自分のキャリアを考える時に、今結婚にも子供にも興味ないけど、本気で今のまま向かうってことは少なくとも出産の選択肢を捨てる覚悟がないといけないって思ったら明日の自分の気分も分からないのに、そんな決意できなくて泣いたことある
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これどういう思考なんだろうね 深層心理は産みたかったって訳ではなさそうなのに 人間って自分の事ですらよく分かってないんだなっていう不思議な気持ち
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最後の可能性を蔑ろにして周りばかりが騒いでる感。 嫌気がさす。
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こんな本あるんだね 探してみようかなぁ 友達や周りに比べて子供に執着とかない不育症だけど、流産への感情とは別に産めないってなんかわからない自信を失うよね 毎月ちゃんと生理来てる意味はなんなんだろう…
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どの選択も等しく女性の人生に深く関わるし、どの選択も幸不幸の背景がある こういった悩みがわかる人が増えるといいね
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「産めない」には、感情的な理由と社会的な理由が混在しているのが「産まない」時の状況なんだけど、病気による身体的な理由が降りかかって「産めない」になったらと思うと、自己選択や自己実現の権利と選択肢が「奪われた」感覚になるんだろうなとは思う。「違う」んだろうなぁ・・・
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「意思」って権利が行使できる状態じゃないと持てないものなんだなと気付かされるタイトルの本。凄く内容が気になる
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私、「産まない」と決めていたのをやはり婦人科系の病気で「今後子供産めない可能性がある」と伝えられて「産む」を選んだ人です。 ※そして産後に病気が悪化し全摘出しましたが産んだ子は日々成長中です
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本当にそう。産むつもりなくてもいざ産めなくなると絶望になる。産まないと産めない全然違った。産まないと思ってても、産めなくなってみると街で突然赤ちゃんが泣いてる声とかで急に涙出てびっくりする。不思議。みなさんにはそんな思いしてほしくないので検診受けてね!(そんで私は全然元気やで)
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私は「産めない」なんですが、 「産みたい(と考える事すら)」すっ飛ばして 「産めない」を知って(病気→子宮奇形ですねー言われたw)、幸せ者だったんだなと。
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今自発的に「産まない」選択肢を取ってるけど(IUD入れてる)、これも婦人科の関連関わるものだからもしかしたら産めないのでは?と思う時はかなりある。子供欲しい願望は今のところないけど、でも妊娠適齢期だからこそ気になるのもあるし、妊娠にはリミットもあるからこそ心がざわつく
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姪甥は可愛いけど、私も子供苦手で、 子供産む産まないの選択肢はなるべくなら産みたくないと思ってしまってたけど、 そろそろ産めないかもの年齢になってきて、今わからなくなってる
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最近揺れてる心情にこのタイトル刺さる。 ただ身体の理由で産めないかも、と思うと私は少しほっとした… ちゃんと私は最大限頑張った、という理由ができたからなのかなあ
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私もそうなることを恐れてる😭子供はいらないと思ってるけどいざ子供を産むような年になってでも子供を産めないって分かったら絶望するんだろうなあ
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私も子供産みたくないとずっと思ってたのに、病院で「もし今後妊娠を望むのなら〜」という先生の説明に「ないです」と食い気味に即答したくせになんか泣きそうになったもんな 心の中で思ってるのと、言葉にするのでは重みが全然違った
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人それぞれなんだなー。 わたし絶対絶対絶対産みたくない!って思ってたからいざ産めなくなっても「これで!完っっっ全っっっに!解放された!!!」って小躍りするぐらい嬉しかったよ。
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選ぶ、選ばない、選べない 選ばないことを選択して、まあ後悔しないだろうと思い生きてきたけど、いざ今後は物理的に選べないですよってなった時にちょっとだけ考えちゃったな(年齢は年齢だからもう仕方の無い事だけど)
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私も難病になった時、「産まない」から「産めない」になった。だからこそ、踏ん切りがついた。産めないなりに産んだ人、これから産む人のことは応援したい。子供は苦手だけど、身近な子供に何かあったらすっ飛んで守る。
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産めるけど産まない 産めないから産まない 結果的に一緒でも、だいぶ違う🥺
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産まなかったこと 産めなかったこと それぞれの想いがある 私は産まない選択をした 理由は人には言わないし、言えない ただ 産まない、産めないことを 何も知らない人が色々言うのは 本当に無神経だと思う 産めない、産まない それぞれの理由がある 人に言えないことは 言えない理由もあるんです
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これは読みたい。 子を絶対欲しかったわけではなかったし若い頃から「自分は産ま(産め)ないんだろうな」と薄ら思ってたけど「もしかして産めるかも」となった後にやっぱダメだった、からの絶対産めない状態になって「産まない」と「産めない」は別物なのを思ってはズドンと沈む日もあるのです。
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まさか産めなくなるなんて?でした。 不意打ちで感情が追いつかず、奈落の底に落とされたような気持ち
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産まない選択肢があったのに、産めない体になるとは思わなかったと未婚の友達が言うてたな…
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ほんと、多分産むことはないだろうな〜と生きてきたけど、実際産めないとなると、産まないと産めないじゃあ全然別物すぎると思い知らされる。 産める可能性がある女性は、その可能性を大切にした方がよいと思う。
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雲泥の差だよねぇ
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あ、女に産まれるとシンプルにこの3選択を決めたり、決められたりしなきゃいけない時が来るんだよなぁ。
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分かる。 私も妊孕性こそ残しつつ手術はしたものの、状態が悪ければとるって言われてたから、“産まない”と“産めない”は全然違うことを感じたよ。絶対的に超えられない壁のようなものを感じるよね。
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「できる」と「できるけどしない」と「できない」は全部違うよ何事も。
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私も子供苦手で欲しくなかった でもなぜか筋腫が見つかったときモヤっとした 現状まだ「産めない」じゃなくて「リスクを背負えば産める」だとは思うけど、正直なところそこまでの熱意は持てない ただ、もっと年齢を重ねて筋腫も大きくなって本物の「産めない」になった自分は何を思うんだろうか
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自分に選択権がある、というのが大事なんだな。選択して子宮摘出するのと、病気で子宮摘出するのだとだいぶ意味違うもんね…
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これは全然違うよな…全て子供を持たないと結果になるんだけど、全然違うよ
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自分の意思で選択できる状態と、自分の意思関係なくその選択肢を取り上げられるのは全くの別物だよね。
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血中濃度の問題で妊娠出産NGで結婚ドクターストップの私に『今は産まない人増えてるし!』って言った母は産めないを理解してない。 選んで産まないのとドクターストップで産めないのは全然違う。 結婚して子ども3人産んだら『もういい』言えるんだよ。
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産めない人にとって 産まないと同義として扱われたらそりゃつらいよな…
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まさにこれだ!!!この本買おうかな!私も子宮全摘という選択肢を30そこそこで突きつけられた時、結婚もしてなければ子どもも好きじゃなかったけど、選択肢を失うことに絶望に近い気持ちになった。やっぱり他の人も同じ気持ちになるんだなあ
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娘は障害や持病、強い薬の常時服用もあって妊娠出産は絶望的。毎月の生理が重くて大変だから、子宮内膜をレーザーで焼き切って生理が来なくなる処置をお願いしようか、と思いついたその瞬間、私の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。合理的な処置なのに、私の本能はNOと言ったのだ。
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あー 厳しい その立場にならないと 一生わからないと思うし 怖くて読めない
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当たり前に完全体だと思ってた身体に重大な機能不全が見つかったら悲しいよね。本人の意思でするかしないかとは、また別次元の話。
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本当にこれなんだよね。産める環境にあって産まない選択をするのともう産めないって一生分かって選択するのって全然違うのよね。子供いらないって思ってる女性でもいざ産めないってなったら絶望だと思う。
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私も子供苦手で欲しいとは思ってなかったけど、婦人科の病気で、産めない、となった時の絶望は半端なもんじゃなかった。辛かった、よね。
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産めない一択の人もいたり‥選択肢があるから羨ましいとは人に対して思った事はない。 自分vs自分で血だらけの喧嘩しても解決できなくて生産性もない女は刺し合うしか存在価値がないと思ってた。 妊活頑張ってる人を心底応援したいし 何より 貴女らしく生きて #ロキタンスキー #先天性膣欠損 #子宮移植
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あたしは産む歳でもないけど、周りに子宮取ったりしてる人もいるし、あたし婦人系疾患もってるし、ちょっと興味ある。
・
うちは、いわゆる「政治の話」を食卓でするような家庭ではない。
なんとなく、夫が保守的で自民党を支持しているんだろうな、というのは知っていた。ニュースを見てたまに「景気対策が…」とか「防衛費が…」とか言うことはあっても、私(どちらかといえばリベラル寄り)と議論になるようなことは、お互い無意識に避けてきた気がする。
もちろん、私がジェンダー平等の問題や「ガラスの天井」について思うところがあっても、それを夫に熱く語ったことはない。どうせ「ふーん」で終わるか、面倒くさそうにされるのがオチだと思っていたからだ。
そんな関係だったのだが。
先日、高市氏が総理大臣に就任した。 私は「初の女性総理か…」と感慨半分、政策への警戒半分、といった複雑な気持ちでニュースを見ていた。
一方、夫は。 特に賛成とも反対とも言わず、いつも通り淡々とニュースを眺めているように見えた。彼が彼女の支持者なのかどうかも、私は知らない。
異変が起きたのは、その数日後だ。 ネットニュースやSNSで、彼女に対する凄まじい言葉が飛び交うようになった。
もちろん、政策への真っ当な批判はあった。 それとは別に、目を引いたのは「男に媚びた」「女のくせに」「名誉男性」といった、彼女の性別や振る舞いに対する、お世辞にも「批評」とは言えないような罵詈雑言だった。
(うわぁ…酷いな…)
特に、そうした言葉の一部が「リベラル」や「フェミニズム」を掲げるアカウントから発信されていることに、私は複雑な気持ちを抱えていた。
その夜、リビングでスマホを見ていた夫が、珍しく私に話しかけてきた。
「なあ、これ見た?」
夫が私に見せてきたのは、そうした罵詈雑言がまとめられたネット記事だった。
「…うん、見てるよ。酷いよね」
「いや、なんというか…。政策を叩くなら分かるんだよ。でも、『男に媚びた』とか『女のくせに』みたいなのは、ちょっと違うだろ」
私は驚いた。 夫がこういう「ジェンダー絡み」の話題に、自ら言及してきたのは初めてだったからだ。
夫:「この人(高市氏)が実力あるかどうかは人によるんだろうけど、一応トップに立ったわけじゃん」
私:「…うん」
夫:「なのに、叩いてる理由が『女のくせに』とか『男みたい』とか、そういうのばっかりなのって、おかしくないか? しかも、そういうのを言ってるのが、普段『男女平等』とか言ってる側(リベラル層)なんだろ?」
夫は、政治的に「正しい」ことを言おうとしているわけではなかった。 ただ、彼が持つ(おそらくは非常にシンプルな)「実力主義」や「フェアネス」の感覚からして、目の前で起きていることが「アンフェアだ」と感じたようだった。
実力で評価されるべき(と彼は思っている)なのに、実力以外の部分(=性別)で、しかも「平等を訴える側」から攻撃されている。
このねじれが、彼にはどうにも理解しがたく、気持ち悪く映ったらしい。
夫は続けてこう言った。
「こういうのを見るとさ…もしかして今までも、女の人ってだけで正当に評価されてこなかったことって、あったのかなって思うよ」
私は、一瞬耳を疑った。 あの「個人の努力」が口癖だった夫が、構造的な性差別の存在を、ほんの少し、示唆したのだ。
もちろん、これで夫がフェミニストになったわけでも、リベラルに転向したわけでも断じてない。明日になればまた「景気が…」と言っているだろう。
でも、彼が「実力さえあればいい」と信じて疑わなかった世界に、「あれ?」という小さなノイズが走ったのは確かだった。
「これじゃあ、フェアじゃないよな」
ウチは自家製麺です!
逆に自家製以外の麺ってあるのかな
自家製じゃない麺って一体何の事を指してるんだろ
自家製ってだけで高級感があって食べに行ってるよ
難しい問題だ
ある幅をもって暗黙裡に許可もするし
ハア~(クソデカ溜息)
お前許可を何だと思ってるの?
禁止されていることに対し権利を持つ者にお願いして出してもらえるのが許可
暗黙の時点でそれは許可でも何でもねえの
わかる?わかんねえよな
もうね、言葉に対する感度が低すぎるわ
「君たちは、笑いながら“壊されている”んだよ!」
かつて“戦うこと”の意味を知った青年、カミーユ・ビダンが、任天堂を真っ向から批判した。
「画面の中で誰も怒らない。誰も、苦しまない。そこにあるのは“快適さ”だけ――だがそれは、魂を抜かれた快適さだ」
彼の言葉は鋭い。だが、その指摘は痛いほど的を射ている。
いまや任天堂は「家族の笑顔の象徴」ではない。むしろ、「感情を均質化する巨大システム」だ。
人間が怒り、悩み、失敗を経て成長する――そんな“生の実感”を、彼らは次々と削ぎ落としていった。
「ポケモンを見てみろ。勝っても負けても、誰も本気で泣かない。感情の振れ幅を、“商品”として最適化してしまった。あれはもう教育じゃない、調教だ」
ビダンは語気を強めた。
彼の目に映る任天堂とは、「消費者を穏やかに“管理”する帝国」である。
“安全な遊び”という名のもとに、怒りや悲しみといった人間の核を削除し、“従順な幸福”を植えつける。
「人間を子どものままにしておくのが、彼らの戦略なんだよ。大人になるとは、感じること、苦しむこと、そして立ち上がることだ。だけど任天堂の世界では、永遠にリセットできる。――それは、生きることをやめることだ」
彼の言葉に笑う者もいるだろう。だが、見て見ぬふりをしてはいけない。
無理矢理勧めてくる人って「偏見」「誤解」「無理解」みたいな、お前に問題があるせいで良さが分かってないんだという言葉選びで感じの悪いことを言う人が多いので普通にやりたくない。北風と太陽の北風だよそれ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B1%E5%8F%AF
許可(きょか)とは、行政法学上、本来誰でも享受できる個人の自由を、公共の福祉の観点から一旦禁止しておき、
個別の申請に基づいて特定の場合に解除する行政行為である。禁止の解除であると言われる。
「個別の申請に基づいて特定の場合に解除する行政行為である。」とあるように
そこで「許容」について調べると
https://kotobank.jp/word/%E8%A8%B1%E5%AE%B9-479984
許容(読み)キョヨウ
きょ‐よう【許容】
という意味だが
助けてほしかった。散らかった1Kにひとりで、頭の中で言葉が渦巻いていた。どんどん狂気に吞まれていく自分を、理性的な自分が止められずに見ている。
午前2時だ。友達?留年した私以外はみんな社会人だ。彼氏?夜勤だ。母親?母親とは半絶縁中だ。祖母?老体に鞭を打つな。
気が付けばTwitterのタイムラインは随分鈍行になっていて、インターネットすら私を見捨てるのかと引き攣った笑みが浮かんだ。
ふと思い立って、キッチンに向かう。包丁入れのある扉を開けて、三徳包丁や果物ナイフが収納されているのをただ眺めた。手に取ることはできなかった。ただ、眺めながら泣いた。私に自傷癖はない。手も足も綺麗そのもの。痛いのがイヤなワガママ人間なのだ。
前にも後ろにも進めなくて、果物ナイフを手に取ってしまった。咄嗟に理性が働いて、キッチンのクッションフロアにそれを突き立てた。死んでしまう。今夜を超えられなかったら。
滲んだ視界でいのちの電話の番号を検索する。国のもの、市区町村のもの、民間のもの。とにかく誰かに助けてほしかった。
女性のナレーションと共に、電話が切れた。わかった、つながればどこでもいい。
別の番号をタップする。呼び出し音が続く。
お願い、頼むから助けてくれ。せめて、ひとこと電話に出てくれれば。
救われなかった。最後の理性を、誰も受け取ってくれなかった。さっきより孤独な感覚が脳を支配した。
泣いていた。泣いている自分が嫌でもっと泣いた。情けない自分が嫌でずっと泣いた。
検索エンジンを彷徨い続けて、どうしても耐えられなかったら119番してもいいという書き込みを見た。本当に病気の人のリソースを裂きたいわけじゃなかった。だけど、私だって死にたくなくて、生きたかった。
白い床に、果物ナイフが突き立ててある。
――――
作者注と蛇足
これは約1~2年前の日記をサルベージした際に思い出した、人生最悪の夜の話である。
私は躁鬱、正式名称で双極性障害というやつと4年くらい付き合っている。
めっちゃハイな時と、ほぼうつ病状態の時が交互にやってくるなかなか厄介な精神病だ。
今はさすがにここまでひどくない。この文章をアウトプットできているのが何よりの証拠だ。書いていて胸は痛めつけられたが、涙は出てこなかった。
安心してほしい。
2025年10月30日、「恋×シンアイ彼女」は発売から10周年を迎えた。
でも、私にとってこの日は“お祝い”ではない。
むしろ、信頼していた作家への失望をはっきりと刻んだ、痛みの記念日だ。
けれど、蓋を開けてみれば――ヒロインは主人公の前から三度も姿を消す。
ユーザーの心を弄ぶような展開で、まるで“恋愛”というテーマを使った詐欺のようだった。
私は、この物語を手掛けたシナリオライター新島夕を、どうしても許すことができなかった。
2009年の夏、友人から「ナツユメナギサがすごい」と聞き、何気なくプレイした。
その世界観は、CLANNADや村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』さえも凌駕していたように感じた。
あれを体験した瞬間、私は新島夕という作家に未来を託したいと思った。
音楽のセンス、台詞の一つひとつ、そして桜が最後に消えるという切なさ。
それらすべてが、美しさと哀しさのバランスを保ちながら胸に深く刺さった。
今でも、あの作品のラストシーンを思い出すと、胸の奥が少し痛む。
当時、彼の名前はあまり表に出ていなかったけれど、演技面で佐本二厘を起用する感性にも強く共感していた。
「この方こそ、業界を牽引していく存在になる」と本気で思っていた。
『魔女こいにっき』をはじめ、彼が関わった作品には、常に確かな“芯”があった。
少なくとも彼の書くシナリオに、大きな失望を覚えたことは一度もなかった。
だからこそ――『恋×シンアイ彼女』をプレイしたとき、私は言葉を失った。
彼の担当したメインヒロインは、アイドル活動を理由に三度も主人公の前から姿を消す。
その展開に、何度も心が折れそうになった。
あの頃の新島夕が描いていた“喪失の美しさ”は、もはやどこにもなかった。
残っていたのは、ユーザーの気持ちを踏みにじるような空虚さだけだった。
最初は、「きっと制作側の意向で自由に書けなかったのだろう」と思っていた。
むしろ、私は勝手にプロデューサーを責めて、自分を納得させようとしていた。
でも、その後のインタビューを見て、すべてが崩れ落ちた。
新島夕本人は、ヒロインの失踪を「天啓」や「千年王国」などと語り、外注でありながらプロデューサーを“クン”付けで呼び、もともとは王道ラブコメ展開であった物語を、ヒロインが三度失踪し芸能界へと消える胸糞話へと変えるように強要したことを、堂々と語っていた。
その軽薄な言葉の数々が、これまで彼を信じてきた自分への裏切りのように感じた。
あの瞬間、心のどこかで「もう戻れない」と悟った。
――私が信じていたシナリオライターは、こんな人間だったのか。
ユーザーの感情を軽んじ、期待を裏切ることを“芸術”と呼ぶ人だったのか。
私にとって「恋×シンアイ彼女」の十周年は、感謝でも懐古でもない。
それは、かつての憧れが音を立てて崩れ落ちた日を思い出すための、痛みの記念日だ。