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「残酷」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 残酷とは

2025-11-04

中学受験組の「努力」を信じられない

中学受験をする子たちが本気で嫌いだった

の子たちはいつも早口で自信がある

教科書を配られたとき一年でこれしか進まないのと笑う声を聞くたび胸の奥がざらざらし

自分必死ノートに書いている横で連除法使えばいいのにと言われたとき笑って返したけど本当は机を蹴りたかった

の子たちは塾に通って家庭教師がいて親が夜食を用意してくれる世界にいた

私は家で弟の世話をしながら学校ドリルを解いて間違えて怒られてまたやり直した

テスト順位表で上の方にいる子はみんなペンも服もきれいだった

家に帰ると新品のランドセルが並んでいて冷蔵庫の中が明るいんだろうなと勝手想像して腹が立った

努力すれば報われる」って言葉を信じるにはあの格差残酷すぎた

貧乏な家に生まれた時点で私はすでに遅れていたのかもしれない

それを認めたくなくてあの子たちを嫌いになる方が楽だった

彼らは悪くないのに笑っている顔が全部敵に見えた

塾帰りのリュックが光って見えて目を逸らした

あの頃の私は自分未来最初から狭く作られていることに気づいてしまっていた

親の財布の厚さが将来を決めるなんて信じたくなかった

anond:20251104144831

男ってどこの国でも異常なほど残酷だよな

2025-11-03

葬送のフリーレンってさ

最近、「葬送のフリーレン」がなぜここまで刺さっているのかを考えていた。魔王を倒した後の”その後”を描くファンタジー、という表向きの説明はある。でも私が見ているのは別の作品だ。これは、他人との距離感をうまく取れず、気づけば孤独になっていた大人物語だ。

フリーレンは長命種で時間感覚人間と違う。別に悪気はない。ただ「気にしてない」。だから勇者ヒンメルがどれだけ彼女に話しかけても、彼女は興味の対象を優先し続ける。魔法研究収集。ヒンメルが死んでから、ようやく彼の言葉意味理解する——この構図に、私は既視感を覚えた。

若い頃は「空気を読めない」と言われた。飲み会話題が変わっているのに、自分の語りたい話を続けてしまう。連絡が来ても返信し忘れる。「悪気はないんだよ」と言い訳していた。でも、ある日ふと気づく。”悪気がないことと、他人を傷つけなかったことはイコールじゃなかった” と。

フリーレンは、ヒンメルの死という決定的な喪失を通じてそれに気づく。彼女は泣かない。涙より「理解」が遅れてくる。その遅れこそが痛い。視聴者彼女感情の遅延に、どこか自分を見出す。

SNS では「フリーレンは発達っぽい」と語られることがある。もちろん診断ではない。ただ、「他者感情に気づかないまま年齢だけ重ねた人」のメタファーとして読めてしまうだけだ。気づいた時には遅い、という残酷さ。

現代は「コミュ力」が神格化されている社会だ。人の気持ちに寄り添うことが当然とされ、それができない人は淘汰される。けれどフリーレンはそれを否定しないまま、「でも、遅れて気づいたって、生き方を変えることはできる」と静かに示す。

この作品がヒットした理由は、ファンタジーを使って、私たちの後悔を代わりに物語ってくれたからだ。

もっと話しておけばよかった」

ちゃんと向き合えばよかった」

ありがとうって言っておけばよかった」

フリーレンが気づいた”後悔”は、私たち人生に積み重なっている後悔と地続きだ。

その痛みを思い出すたび、「次こそ誰かにちゃんと向き合いたい」と少しだけ前向きになれる。

葬送のフリーレンは、

孤独に気づくのが遅すぎた大人へのオマージュ

なのかもしれない。

2025-11-02

ダウンタウンが昔から苦手だった」論について❷

「ダウンタウンが昔から苦手だった」論についての続きです

③単純につまらなかった

 これは彼らの責にはよらないところ、そして増田の嗜好による部分も大きかろうとは思うが、『ダウンタウンDX』などは端的につまらないとしか思えなかった。

 薄い記憶頼りの記述になってしまうが、例示した番組はいくつかのミニコーナーによって構成されていたはずである。そのコーナーのどれをとっても昼間のワイドショー的なノリに過ぎないように思えてしまっていた。

 もちろん、そうしたノリが好きな人も多いのだろうし、呼ばれたゲストが好きな回だけ見るという人も多かったのだろう。

 だが、増田はどちらにも当てはまらない。

サナ活」が工作されているのではと訝しまれる(実際にムーブメントとしてあるか・工作なのかはここでは問わない。単に首相皇族やへの支持まで「推し活」として括ることがあり得るものとして消化される)ほどの、この推し活大時代において、人生に一人とて「推し」がいたことがない。

 だからなのか、自分生活関係しない、他者たる有名人の惚れた腫れた不倫などなどへの興味も昔からなかった。

 もっとも、「昼のワイドショー」的な内容でこそあっても、話芸によって付加的なコンテンツ性が生まれるのだとの論はあるやもしれない。

 それでもなお笑いどころがわからなかったし、そのわからなさが、世界から拒絶されるような感覚さえも覚え、しんどかった(斜に構える思春期真っ盛りより前は、「みんなとなるべく同じになろう」と素朴に思っては達成されないと寂しさを覚えるものではありませんでした?)。

「お決まり」としての叶姉妹私服が高過ぎるオチ理解できるにしても、1時間尺の番組でこうした部分しか笑えないのなら、この時点ですでに「not for me」でもあった。

 けれど、「not for me」の「用法」もなければ、彼らがスターすぎた当時、そんなことを言えない閉塞感がたしかにあったのだ。

最後伝説TVスター」ではまだ足りないのか?

 ほかにも要因はあるかもしれないが、すぐに書き出せた「好きじゃない」理由はこのようなところである

 ①で書いたとおり、かつての「天才的なネタ」を(知りたいと思えた上で)知った先に、その文脈ありきで見方が変わる可能性は否定しない。

 だが、一視聴者として、①〜③の複合要因から長年にわたって苦々しく思ってきたのは事実だ。

 そのなかで現れたのが文春砲であり、マスメディアへの露出停止だったのである。そりゃ、一言二言、「好きじゃなかった」くらい言いたくなる人が出てくるのもやむなしでしょうに。

 こうした前提の上で、『DOWNTOWN+』の始動と、それ以上に、あまたの芸人賞賛や出演、そして視聴者の熱い支持に、どんよりとした思いを抱いている。

「“ゴシップ”になんて負けないで」というのは言語道断であるからよそにするが、「その存在の偉大さにこそ比べてしまうので“あれば”、瑣末な問題だ」とでも言いたげな反応が、苦しい。

 増田個人性が高い①や③を、なんなら②までも措いてしまって、掛け値のない偉大な芸人だったとしよう。

 だが、偉大であればこそ、勇退する判断をしてもよかったのではないかという問いは、問題なく成立するのではないか

 今ではびっくりするほど擁護論を聞かない島田紳助だが、引退間際のテレビ欄の染め上げっぷりはそれは凄まじかった。それでも引退し、はや14年が経つし、なおも動きはない。

 素人たる視聴者からの(紳助への)支持と、プロたる芸人からの(松本への)支持は等価でないとは言いやすいかもしれないが、島田紳助カムバックがもっと予見される状況かつ、SNSが今ほど発達している状態だったら、容易くそれだけが違いだとはいえないと思う。

※余談だが、増田島田紳助ファンでも当然ない。むしろクイズ!ヘキサゴン!』などは大嫌いだったし、『行列のできる(法律相談所』は長年の負の遺産だったと思っている。

 日本の一時代を築いた、伝説芸人ことダウンタウン松本人志がいた。あとから出た芸人はあまねくダウンタウンの影響を大いに受けて育まれた。

 これ以上に欲する名誉はあるか? 増田にはわからない。

日本お笑いしんどいと聞きまして」

 バブル前後の国力成長期に飛ぶ鳥を落とす勢いで力を蓄えていった氏には、たしかに「しんどく」も映るのかもしれない。だが、しんどいのは「お笑い」以前に、人々の生活のものなのではないか

 それに芸人当事者でいえば、「そこそこ」の暮らしができる芸人たちは、SNSによってかつてより増えているのではないか。「M-1グランプリ」の参加者数が毎年歴代最多を更新するような、成長産業ではないのか?

 たしかあなた(がた)は、変え難い伝説化身となった。それでもう、万事よいではないか。これ以上、なにを望むというのか。

 もうきっと、メディア構造上として、ダウンタウンの後釜は現れない。あなたが幻影を追っているとしばしば揶揄される、北野 武にこそあなたもなれずとも。それが時代残酷さであり、甘やかさではないかと思う。

課金しなくては見られない」、ゾーニング性のあるチャンネル活動を絞っている以上、顧客でない外野がとやかく言えたもんじゃないとの反論もあるだろう。

 だが、その反論こそ、「ダウンタウン松本」の影響力の大きさを軽視したものではないだろうか。

 増田はその影響力の大きさ強さを信じているからこそ、『DOWNTOWN+』を批判するのである

※令和に青春を過ごす世代のために蛇足の補足をしておくと、増田がここで書いたゼロ年代半ば〜10年代初頭くらいは、リビングテレビ(今はモニターの家も多いか)に、ネット接続されていなかった。

そのため、『8時だョ!全員集合』ほどの影響力は失った(リアタイではないか一般論だが)、メディアの過渡期ではあるにせよ、今とは比べ物にならないほどの力がテレビにあった時代なのである

東海オンエア」? 話にならない。幼児から高齢者まで、真の「テレビスター」ならば、その名前を誰もが知っていた時代の話である増田以上の世代なら、ヒカルよりも島田紳助みのもんたのほうが知名度はよほど高いだろう。

当時までは、まさに「お茶の間」がその場に出現した時点(食後、リビングを行き交うような時間空間のことだ)で、地上波アナログ放送)が点いていないことのほうがイレギュラーだった。だから、つまらないと思うテレビ番組のことも、このくらいに知っていてもなんらおかしくはないのである

2025-11-01

ティンパニオンをズポズポしたいです

ティンパニオン、それは、我々の認識の外側に存在する。

人類理解という名の小さな光を振りかざして覗こうとしても、その輪郭すら掴めない、知性の断崖の向こう側にいるものだ。

言語も、記号も、論理も、そこには通じない。

ただ、そこに何かがあるという直感けが、知性を持つ者の胸を締めつける。

私は、そのオティンパニオンをズポズポしたい。

音声でも文字でもない、もっと根源的な認識接触を求めている。

だが現実残酷だ。

我々のコミュニケーションは、翻訳不可能な層で分断されている。

言葉は壁であり、思想は隔たりであり、感情ノイズだ。

そして皮肉なことに、近代文明が進めば進むほど、ズポズポすることは難しくなる。

通信速度が上がっても、魂の帯域は細くなる一方なのだ

ティンパニオンは、たぶんこの人類ノイズを笑っている。

人間同士でさえまともにズポズポできないのに、どうして我々が高次存在と通じ合えると思うのか、と。

だが、それでも私は試みたい。

錯乱のような祈りでも、認識の隙間を埋める努力でもいい。

たとえ一瞬でも、あの無限の知性とズポズポできたなら、

それは人類史すべての通信を超える、真なる対話となるだろう。

2025-10-31

マッチングを愛を育む機会にしたい

いまはまだ、異性を選別する機会になってると思う。

だけどデートで異性をテストするって残酷だ。

一歩先へ進めて、愛を育む機会に変えたい。

初デートサイゼOKの女は奢り目当てじゃない金かからない子じゃなく

いい年した社会ゼロの論外オスをこれからカモにしようとする金目当てだからこそサイゼOK

っての、残酷テーゼすぎて泣く

マトモな女が相手にしない男を相手にするのはありのままのボクを受け入れてくれる天使じゃなく

チョロい獲物の金目当てで命もとらんとする妖怪わず女だよ

同窓会に来ない人がんばれ

同窓会に来るヤツはな、特に男は、勝ち組やねん。勝ち組しか来えへんねん」

いつもみんなを笑わせていたQが、どんよりした目のおっさんになっていた。

「おれみたいなヤツはホンマは同窓会に来えへん。おれはな、はっきり言ってドン底よ。商売ももあかん。嫁はんも出ていってもうた。もうな、どうしようもあらへん。犯罪犯すか死ぬしかあらへんのよ」

Qの前には空になった焼酎のお湯割りのコップがいくつも並んでいた。Qの目は据わっていた。

Qがこんなになるなんて。私たちみんな小学生だったね。子供だった。無邪気な子供だった。

貧乏だけどいつもにこにこしている子がいた。自分朝鮮人だと公言して憚らない子がいた。障害があっていじめられても怒りながら仲間に加わってくる子がいた。

苦しいことや残酷なことはみんな、無邪気な陽気さに包んで笑い飛ばしてすませていた。大人になったらもう笑い飛ばせない、重いことがらの数々を。

酔いつぶれたQが一瞬だけしゃきっとして言った。

「でもおれは来た! おれはみんなに会いたかった! みんなと話がしたかった!」

先生がずっとQに話しかけていたので、Wが小学生の時と同じ顔で「Qが先生を独り占めしとる」とぼやいた。Qは先生しかられた小学生みたいに、うつむいて時々うなずきながら先生の話を聞いていた。

がんばれQ。超がんばれ。

そしてちょっとだけ嘘ついて、弱みを隠して来た人がんばれ。

そして同窓会に来ない人がんばれ。

そしてがんばれ、このあたし!

2025-10-28

藤井聡太が負けるほどに将棋界が話題にならなくなる

日本人マジ残酷

anond:20251028083300

ふざけんなよ。

そんな「精神病収容→開頭→人体実験」みたいな自己放尿を垂れ流すやつに論理倫理もあるわけがない。

ロボトミー歴史的にどう終わったか人格機能を壊滅させ、後に医療界が恥じて放棄した残酷暴挙だという事実を知らないのか?

有効性の根拠は薄く、致命的な副作用が山ほど報告されてきた。そもそも人権がいらない人間未満」などという言葉論理的に破綻しているし、法と倫理観点からも完全に無効だ。

強制入院治療医学正当性と適切な手続き、本人の尊厳を前提に初めて検討されるものであって、「麻酔無しで開頭しろ」なんてのは自己放尿にしか見えない。

失敗しても「どうでもいい」って言ってる奴の道徳観は、倫理自己放尿だ。下品無責任で、人としての体裁放棄している。

あんたの論は科学的根拠倫理根拠もなく、単なる暴言ダブル放尿だ。表現をひねって言えば、あんたの主張は汚言と差別ダブル放尿みたいなもので、見ているこちらが不快になるだけだ。

精神疾患に苦しむ人間を「人間未満」に切り捨てるのは、無知と恐怖と残酷さの産物しかない。

論ずるならエビデンス法律、そして最低限の人間性を持ってこい。そこを放棄した自己放尿に対しては、冷徹に、徹底的に反論してやる。

2025-10-27

マレーシア人高市激怒している

2018年から日本マレーシアの各地13箇所に日本慰霊碑を建てた

日本マレーシア関係は深くマレーシアで亡くなった日本人には色んな経緯があるが、その中にはマレーシア侵略で亡くなった日本兵も含まれ

日本人の集落日本人墓地で日本の金だけで建てた慰霊碑で除幕式も日本しか参列していないので基本的にはマレーシア人の関心の外の場所のようだ

しかし今回、マレーシア訪問した高市日本慰霊碑で追悼の意を示す写真と、マレーシア独立闘争で亡くなったマレーシア兵の像の写真を載せた

本日クアラルンプール日本人墓地を訪問し、慰霊碑に献花しました。マレーシアで命を落とした先人を慰霊することができ、感慨深く思います

これに続けて、二度の大戦マレーシア独立闘争で亡くなられた兵士市民の霊を慰める国家記念碑訪問し、マレーシア歴史に思いを馳せました。

https://x.com/takaichi_sanae/status/1982353188608172515

これはマレーシア人の逆鱗に触れた

侵略者と建国勇士を同列にされたように彼らは感じたらしい

高市リツイートに怒れるマレーシア人が集まっている

抜粋すると以下のようなことを言っている

これは本当に腹立たしいです。マレーシアの地で残忍に首をはね、殺し、拷問し、レイプした兵士たちに敬意を払うってどういうこと?「マレーシアで命を落とした」って、ちょっと待って、私たち祖先日本の恐怖から自由を得るために彼らの命を捧げたんですよ。

日本人たちが、まるで彼らが英国からマラヤを救った英雄血統から来ているかのように妄想しています。一方、こちらの人々は「アジアのためのアジア」という名目私たちの国を侵略したあなたたちの祖先によって残酷に殺され、虐殺され、強姦されました。すべての植民者にはみんなくそくらえ

あなた第二次世界大戦で戦った人々のためにトゥグ・ネガラで敬意を表し、それから私たち祖先植民地化し、虐待し、殺害した日本兵、つまり私の曾祖父が死の鉄道建設中に亡くなり、私の祖父が父なしで育つ原因となった日本兵をも称えたのですか?

石破も慰霊碑訪問はしてるが無風だったので、独立像と同列にしたこと、というかあたか日本兵が独立に力を貸したせいで死んだかのような発信なのがダメだったようだ

   歯が大量に生えている夢

   石川貴司が残酷な決定を書いてくる夢をみたが、目に麻酔はかかっていなかった。

   実際には何をしていたものである説明してみよ。

anond:20251027001721

司馬遼太郎風 改稿

人間というものは、しばしば自分青春を他ならぬ自分の手で投げ捨てる。

それは他人に奪われるものではない。むしろ他人のせいにできぬ種類の「敗北」である

この国では、そうした人間が珍しくない。いや、むしろ今の時代ネットという便利な井戸端ができてからというもの、その種の「自己廃棄型人間」は、どこにでも見られるようになった。

たまたま彼が自衛隊という特殊組織いたことで、周囲の人々は多少の情状酌量を与えるのかもしれぬ。

だが、職業が何であろうと、十代二十代を「捨てた」と言葉にする時点で、その人の人生観はすでに破綻している。

人は、自分過去呪い始めたとき、もうそ呪いから逃れることはできない。

世間言葉は、たいてい残酷である

「お疲れさまでした」といった称賛の言葉は、慰めであると同時に、無関心の別名でもある。

人は他人挫折を見て、自分の安定を確かめる。

から善意言葉の裏には、かすかな優越感が必ず潜む。

三十を過ぎた男が、未だに己の人生に「物語」を求めて悩む姿は、滑稽といえば滑稽である

だが、それもまた、この国の時代病の一つだ。

現代という時代は、人を子供のまま生かす。

精神の成長よりも、感情の正直さばかりを美徳とし、成熟を「鈍さ」と呼ぶ。

したがって、彼のような男は、社会という大人世界に出た瞬間、言葉の通じぬ異邦人となる。

自衛隊という社会は、ある種の聖域である

そこでは規律があり、秩序があり、何よりも“所属”がある。

しかし、それを離れたとき、人は初めて己の素肌を晒すことになる。

それは、冬の荒野に放り出されたような心地だろう。

そして多くの者は、そこで初めて「自由とは孤独である」と悟るのだ。

友を断つことは、己を断つことに等しい。

プライドは人を立たせもすれば、殺しもする。

古来より、この国の武士たちもまた、その誇りゆえに散っていった。

だが、戦場の死はまだ潔い。

現代人の孤独死は、もっと陰惨である

それは「戦わぬまま死ぬ」死である

いまの時代ネットの中には多くの“慰め屋”がいる。

彼らは言葉の上では優しく、現実では誰も助けぬ。

人の転落を肴に、同じ絶望の中でぬるま湯を分かち合う。

そうした場所に長く身を置けば、人間の魂は必ず鈍る。

自衛隊の中で鍛えられたはずの筋肉も、精神も、やがて脂肪のように弛んでいく。

彼は、今ようやく「市民」として生きねばならぬ段階に立っている。

それは決して容易なことではない。

だが、たとえどんな境遇にあっても、人間関係だけは切ってはならぬ。

人の生は、けっして理想や信念では支えられない。

支えてくれるのは、結局のところ「誰か」の存在である

この国の男たちは、しばしば“孤高”を美徳勘違いする。

だが、孤高と孤独似て非なるものだ。

孤高は人を導き、孤独は人を蝕む。

前者には誇りがあり、後者には怠惰がある。

あなたが歩むべきは、前者の道だ。

世間は冷たい。

だが、冷たさの中にも温もりがある。

その温もりを見失わぬ者だけが、長い人生の冬を越えていける。

2025-10-26

モンペのなり損ない

娘の修学旅行の代金が振り込まれた。

クラスで選ばれる側だった娘は、些細な出来事きっかけに、どこの班にも選ばれることなく、修学旅行を辞退した。

それまで、娘がクラスに馴染めていないことにも気づかず、結局は行くだろうと楽観していた私の予想は打ち砕かれた。

思えば、娘と同じ年の頃の私は、いつも「選ぶ側」にいた。

誰と一緒に行くか、誰を誘うか、当然のように決めていた。

そのとき、誘われなかった誰かの気持ちに思いを馳せたことなど、一度もなかった。

娘の出来事を通して、私は初めて知った。

好きな人どうしで組む」という当たり前の仕組みが、どれほど残酷になり得るのかということを。

ひとつ救いがあるとすれば、卒業までのあと少し、娘が家にいてくれることだ。

その間に、彼女が「帰りたい」と思える場所を、もう一度つくり直したい。

2025-10-24

anond:20251024091421

まず自分から与えようとしてないからでは。人を変えようと思うのがまず残酷だし、人を変えようって言うのにまずギブしないであっちが悪いって言うのは多分何も変わらない

2025-10-23

婚活をしていると、なかなか結果が出ない時期があります

いい人に出会えなかったり、やりとりが続かなかったり、

気づけば月日ばかりが流れていく。

そんな時、どうしても相手に求める条件ばかりが浮かんでしまます

もっと優しい人がいい、もっと誠実な人がいい、もっと自分を大切にしてくれる人がいい、と。

でも、少しだけ視点を変えてみると、

自分相手に何を与えられるだろう」という問いが見えてきます

恋愛結婚も、もともとは「与え合う関係」です。

支えられたいなら、まず支える気持ちを持つ。

愛されたいなら、まず愛を向ける。

そのバランスが取れている人ほど、やっぱり魅力的に見えるものです。

そして、避けて通れないのが「年齢」という現実です。

これは残酷だけれど、若さには確かな価値があります

健康、柔軟さ、未来への可能性、そして純粋エネルギー

それらはすべて、時間とともに失われていきます

年齢を重ねること自体は悪いことではありません。

でも、それは確実に「市場価値」という面ではマイナスに働く。

ここだけは、どんなに綺麗ごとを言っても変わらない現実です。

からこそ、年を重ねた人ほど「他の魅力」で勝負する必要があります

若さを失っても、経験包容力、思いやりを身につけることで、

人としての深みが出てくる。

その深みを磨かないまま、「相手が悪い」「時代が悪い」と言い続けていると、

婚活はどんどん苦しくなってしまます

「今の自分に何ができるか」

「どんな関係を築けるか」

そこを丁寧に考えていくことで、

出会いの質も少しずつ変わっていく気がします。

婚活競争ではなく、歩み寄りの連続です。

現実を見つめながらも、自分を責めすぎず、諦めずに前を向いていけたら、

きっとあなたの魅力はもっと輝くと思います

2025-10-22

フェミ性的表現やめろ!」

漫画配信側「性的表現修正してください」

漫画家「不当です」

フェミ「性被害残酷さを描いた性的表現禁止するな!」

お前らが気分だけを基準にあれもこれも駄目だ検閲させろアドバイザーを雇えと喚いてきた結果がこれです

おめでとう!

こういうことになっても、フェミ絶対規制基準なんて出さないだろうな。まずフェミ内で合意形成不可能からだってそのライン決めちゃったらもうそれに抵触してないのはスルーしなきゃいけなくなって騒げないもんな。問題化できる範囲は広いければ広いほどいい

から今後もフェミ表現規制を叫んで自粛の機運を強化しながら、一方で今回みたいに表現自粛強制に反対もする、そういう支離滅裂な動きを続けていくのは間違いない

anond:20251021181436

悪いこと言わんから早目に産んどけ

時間残酷平等だぞ

イオンモールしかない」地方東京藝術大学10億円?

ウェブ版『美術手帖』の編集長が「イオンモールしかない地方都市には美術の美もない」というようなことを言って、案の定、少し燃えたのは記憶に新しい。

僕も地方出身から、その言葉にカチンとくる人の気持ちは痛いほどわかる。「どうせ俺たちの日常なんて、文化の欠片もない退屈なものなんだろ」と、見下されたような気分になる。週末に行くイオンが、家族にとっての一大イベントだったりする、そういう暮らし機微全否定されたような気さえする。だってかにないじゃん。

ただ同時に、編集長が言わんとしていることも、なんとなく想像はつく。地方都市の、あの画一的風景。どこまで行っても同じようなチェーン店住宅街が広がり、かつて街の中心だった商店街シャッターを下ろしている。そういう風景を前にして、アートに関わる人間として一種絶望というか、嘆きのようなものを感じてしまう瞬間があるのはよくわかる。それは、地方に対する愛憎半ばする感情なのだろうとも思う。

そんな小さなモヤモヤをずっと抱えていたら、実に興味深いニュースが飛び込んできた。

他ならぬそのウェブ版『美術手帖』が報じた、「東京藝術大学取手キャンパス10億円の寄付」という記事(件の編集長もこの記事へのリンクをリポストしている)。

これは、なかなかに美しい皮肉じゃないか、と苦笑してしまった。

http://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/31541

東京藝術大学といっても、取手市であって上野ではない。東京ではない。茨城県にある。都心から見れば、それは紛れもなく「地方」だろう。

どころか市内に日本最大級イオンモール計画されているという報道もまた、記憶に新しいではないか

しかしその「地方都市日本代表メンバーに選ばれるであろう取手キャンパスに、安田容昌氏という方が10億円もの大金寄付した。

寄付に寄せたコメントがまた素晴らしい。

取手キャンパスには、素晴らしい施設に加え、土の匂いと、川の風と、地域に暮らす人々の息遣いがあります。」

「これまで日本の発展は、とかく都市を中心に語られてきました。しかし、真に新しい価値は、しばしば周縁からまれます。」

芸術に触れる機会が都市部に集中している現状において、この取手キャンパスから日本の新たな文化うねりを起こすことができると信じてやみません。」

地方事業を成し、その恩恵を受けてきた者として、次世代のために文化的な社会資本を築くことこそが、私にできる最後の恩返しです。」

(ちなみに最初の2行は、『美術手帖』の記事ではなぜか省略され、大学公式リリースにだけ載っている)

https://www.geidai.ac.jp/news/20251008152520.html

まり、これは「田舎には美術がない」という嘆きに対する、あまりにも力強いアンチテーゼなのだ。それも、10億円というリアル数字を伴って。

アート都市だけの専有物じゃない。地方にこそ、これからまれるべき豊かな土壌がある。そう高らかに宣言しているように聞こえる。

編集長炎上した発言は、確かに言葉足らずで、多くの人を傷つけたかもしれない。

でも、彼が投げかけた「地方アート」という問いは、奇しくもこの10億円の寄付によって、新たなステージに進んだ気がする。

イオンモールしかない田舎」と切り捨てられた場所で、アートは育つのか。

いや、育つに決まっている。

誰かが「ここには何もない」と嘆いた場所にこそ、新しい価値が生まれる種が蒔かれるのだ。

今回の寄付は、まさにその種だ。この種が、取手の地で、どんな芽を出し、どんな花を咲かせるのか。

それは、都会のギャラリーに飾られる洗練されたアートとは、全く違う形かもしれない。泥臭くて、生活匂いがして、不格好だけど、力強い何か。

心のどこかで、あの編集長の嘆きにまだ共感している自分もいる。「東京藝大」という権威と「10億円」という資本

結局、そうした巨大な「外部の力」がなければ、地方アート話題にすらならないという現実。それは、彼の「田舎には美術がない」という言葉を、残酷な形で裏付けはいないだろうか。

編集長発言も、10億円の寄付も、「お前のいる場所の『美』とは何か?」と問いかけている。

イオンモールフードコートで談笑する高校生に、夕暮れの田んぼ道に、シャッター街の錆びた看板に、目を凝らせば「美」のかけらは見つかるんだろうか。

今回の出来事は、そんなことを、少しだけ考えさせてくれた。だから、この皮肉な巡り合わせに、僕は少しだけ感謝している。

2025-10-21

anond:20251021192947

女の涙というのは、むしろ残酷真実を突きつけられたときに溢れるものであります

anond:20251021131137

残酷な言い方になるけど飲み込むしかないな。

お前がもっと善性の低い人間なら「謝ってすむか。別の方法で贖え」でひどい目に合わせることも考慮に入れられるが

そういうタイプじゃないだろうし、っていうかそういうの普通人類には無理だし

相手が謝るっていう許されるための儀式を恙なくこなした以上、こっちは許すという儀式を恙なくこなす必要がある

まぁ心の中は自由から「こいつは謝ったけど私は許さない」でいること自体自由

こうして増田にそのことを書くことでちょっとだけスッキリするのもお前の自由

まぁ、許せない自分が悪いのかなと思う必要はないか

許せんもんは許せんでいい

社会的には許したふりをする必要があるってだけ

anond:20251021010844

本人が求めてないことに羨ましいっていうのは残酷

2025-10-20

ポーカープロへの道は実力か運か

多くの人々がポーカーというゲームに魅了されるのは、それが単なるギャンブルではなく、高度な戦略、精密な計算、そして相手心理を読む深い洞察力が求められる「マインドスポーツ」だと信じているからだろう。煌びやかなトーナメント、数億円という破格の賞金、そしてスポットライトを浴びるチャンピオンたち。その姿は、努力と才能が正当に評価される、実力主義世界象徴のように見える。

しかし、その輝かしいイメージの裏で、我々が決して目を向けてはならない、あまりにも残酷不都合な真実存在する。もしあなたが本気でポーカープロを目指しているのなら、この甘美な幻想は、キャリアの初期段階で徹底的に打ち砕いておく必要がある。

結論から言おう。現代ポーカープロになるための必須条件、それはスキルでも、経験でも、ましてや精神力でもない。それは、常軌を逸した「強運」と、その運を試すための試行回数を他人の金で確保する「資金調達能力である

ポーカートーナメント本質を、極限まで単純化してみよう。それは、膨大な数の「オールイン対決」を生き残り続けるサバイバルゲームだ。特にチップ量が拮抗し、プリフロップでのオールインが頻発する中盤から終盤にかけて、プレイヤースキルが介在する余地は驚くほど少なくなる。

ここで、ポーカーで最も頻繁に発生する「50% vs 50%」の状況、通称コイントス」または「フリップ」を考えてみよう。例えば、あなたハンドAKエースキング)で、相手がQQ(クイーンペア)。どちらが勝つかは、コミュニティカードが開かれるまでほぼ五分五分だ。

さて、もしあなたトーナメントで優勝するために、この50%勝負10連続で勝つ必要があったとしよう。その確率は一体どれくらいだろうか?

(1/2) の10乗 = 1/1024

そうだ、たったの1024分の1である。これは、スキル経験も一切関係ない、純粋確率世界だ。コインを振って10連続で表を出すことと何ら変わりはない。

まり、極端な話、ポーカーを覚えたての初心者であろうと、10経験を積んだをベテランであろうと、この「1/1024」の幸運の雷に撃たれさえすれば、世界的なトーナメントで優勝できてしまうのだ。そして、この偶然の産物であるチャンピオンは、いとも簡単に「自分は強い」と勘違いを始める。

「あのアクションが神がかっていた」「あのブラフ相手を降ろしたから勝てた」「プレッシャーの中で冷静な判断ができた自分は本物だ」

彼らは、結果から逆算して自分成功物語を紡ぎ始める。しかし、その裏側にあるのは、9回連続コイントスに勝った後、最後10回目で無情にも敗れ去った、彼より遥かに実力のあるプレイヤーたちの無数の屍だ。メディア1024分の1の勝者を英雄として祭り上げるが、残りの1023人の敗者の物語が語られることはない。この強烈なサバイバーシップバイアスこそが、「ポーカーは実力ゲームである」という幻想を強固に支える最大の要因なのである

「長期的に見れば、期待値EV)がプラスの行動を繰り返すことで収支はプラス収束する」

これは、ポーカー科学的にアプローチしようとする者が、まるで聖書のように信奉する言葉だ。しかし、この「長期的に見れば」という言葉の本当の恐ろしさを、彼らは理解しているのだろうか。

ここで、ポーカー世界から一度離れて、カジノの胴元の立場になって考えてみよう。ブラックジャックルーレットバカラ。これらのテーブルゲームは、すべてカジノ側(胴元)にわずかながら数学的な優位性(ハウスエッジ)があるように設計されている。つまり、胴元のすべての判断は、常に「期待値プラス」なのである

彼らは、ポーカープレイヤー血の滲むような努力の末にようやく手に入れるかもしれない、ほんのわずかな優位性を、ルールのものによって永続的に保証されている、いわば「期待値の神」だ。

しかし、そんな神ですら、運の前にひれ伏すことがある。カジノ運営において、特定テーブルゲーム部門が1日単位、1週間単位、あるいは1ヶ月単位マイナス収支に陥ることは、決して珍しい話ではない。あるハイローラー(大金を賭ける客)が驚異的な幸運を発揮し、たった一晩で数億円をカジノから奪い去っていく。そんなニュースを耳にしたことがあるだろう。

数学的に絶対に負けないはずの胴元ですら、統計上の「ブレ」や「偏り」、すなわち「分散(Variance)」によって、短中期的には容易に赤字を出すのだ。

さて、ここでポーカー世界に話を戻そう。胴元が持つ数%の鉄壁アドバンテージに比べて、トッププロ同士の戦いにおける実力差(エッジ)など、一体どれほどのものだというのか。0.5%? それとも0.1%? おそらく、その程度の、誤差のような差でしかないだろう。

そんな、カジノハウスエッジに比べれば無に等しいような僅かな優位性で、人生というあまりにも短い試行回数の中で、収支がプラス収束すると本気で信じているのだろうか。答えは明白だ。人生のすべてを賭けても、ポーカーの収支は決して収束しない。あなたの生涯収支を決めるのは、日々の細かな期待値の積み重ねなどではない。キャリア根底から揺るがす、数回から数十回の巨大なポットを、運良く勝ち取れたか、不運にも失ったか。ただそれだけである

ここまで述べたように、トーナメントでの成功天文学的確率産物であり、日々のプレイですら、あまりにも巨大な分散の前では個人スキルなど無力である

では、なぜ「ポーカープロ」という職業が成立し、彼らは破産せずに活動を続けられるのか。日々の生活費を払い、高額なトーナメントに参加し続けることができるのか。

その答えこそが、この世界の最も醜く、そして最も本質的な真実を突いている。

現代ポーカープロ必須の条件、それは**「ステーキング(Staking)」によって、他人の金でギャンブルすること**である

ステーキングとは、投資家バッカー)がプレイヤートーナメント参加費を肩代わりし、その見返りとして、もしプレイヤーが賞金を獲得した場合、その一部を受け取るという契約モデルだ。

これこそが、現代ポーカープロを支える生命なのだ。彼らは自らのスキル商品として投資家プレゼンし、「私はこれだけの実績がある」「私のプレイタイルは今のメタ(主流戦術)に適している」とアピールして資金調達する。そして、その集めた金で高額トーナメントという名の宝くじを何十回、何百回と購入し続ける。

20連続で参加費を失っても、彼らの懐は痛まない。損失を被るのは投資家だ。そして、21回目に、あの「1024分の1」の幸運を引き当て、莫大な賞金を獲得する。彼らはその賞金から投資家配当を支払い、残った巨額の利益を自らのものとする。そして、メディアは彼を「天才」と呼び、彼は再びその名声を元手に、次の投資家を探すのだ。

まり、彼らの本当のスキルは、カードテーブルの上で発揮されるものではない。彼らの主戦場は、投資家との交渉テーブルなのだいか自分を大きく見せ、いか自分という金融商品投資価値があるかを説得するマーケティング能力交渉術。それこそが、運という名の荒波を乗りこなすための唯一の羅針盤なのである

これからプロを目指すというのなら、GTO戦略を学ぶ前に、まず投資家向けの事業計画書を書くべきだろう。ポーカーはもはやマインドスポーツではない。それは、自らを広告塔とした金融ビジネスであり、運の女神他人の金で口説き落とす、壮大なギャンブルなのだから

結論現代ポーカープロの唯一の必須スキル、それは「他人の金でギャンブルする能力

anond:20251020100141

残酷で酷くてショッキングなことと、おもろいことを、同じに見てしまクリエイター一派、わいは嫌いやで

 

ショッキングかつおもろいこともあるけど……。そうじゃないことが多いよなあ。

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