はてなキーワード: 三谷とは
オールドメディアによる誉め殺しの罠
安倍政権時代の自民党は、多くの国民の支持を集めていた。だが、その影には「オールドメディア」と呼ばれる古い報道機関の思惑が蠢いていた。
オールドメディアは昔から自民党が嫌いだった。理由は単純。自民党の強さが、自分たちの影響力を削ぐからだ。彼らは正義の報道を装いながら、何かと自民党を批判し、歪んだ情報を流すことで人々を誘導しようとしていた。
そして時代は動いた。自民党内から、「左翼石破政権」が誕生する。
左翼石破政権は、理想を語りながらも現実の対応に追われ、そもそも実力も能力も無いこの政権は、失策を繰り返した。外交、経済、社会政策——どれもが空回りし、混乱を深めていった。
だが奇妙なことに、オールドメディアは石破政権を一切批判しなかった。むしろ、やたらと褒めた。
「石破首相の英断!」「国民の声を聞くリーダー」「過去にない透明性!」
こうした見出しが、新聞やテレビを賑わせた。だが、実際には支持率は下がり、国民の不満は高まっていた。
——これは“誉め殺し”だ。
オールドメディアは、自民党の支持層に違和感と失望を与えるために、あえて石破政権を持ち上げ、党全体への信頼を揺るがそうとしていたのだ。
「批判するのではなく、あえて過剰に褒めることで、自民党の本来の姿を歪め、支持層を遠ざける——オールドメディアの最後の抵抗だ」と。
オールドメディアによる誉め殺しの罠
安倍政権時代の自民党は、多くの国民の支持を集めていた。だが、その影には「オールドメディア」と呼ばれる古い報道機関の思惑が蠢いていた。
オールドメディアは昔から自民党が嫌いだった。理由は単純。自民党の強さが、自分たちの影響力を削ぐからだ。彼らは正義の報道を装いながら、何かと自民党を批判し、歪んだ情報を流すことで人々を誘導しようとしていた。
そして時代は動いた。自民党内から、「左翼石破政権」が誕生する。
左翼石破政権は、理想を語りながらも現実の対応に追われ、そもそも実力も能力も無いこの政権は、失策を繰り返した。外交、経済、社会政策——どれもが空回りし、混乱を深めていった。
だが奇妙なことに、オールドメディアは石破政権を一切批判しなかった。むしろ、やたらと褒めた。
「石破首相の英断!」「国民の声を聞くリーダー」「過去にない透明性!」
こうした見出しが、新聞やテレビを賑わせた。だが、実際には支持率は下がり、国民の不満は高まっていた。
——これは“誉め殺し”だ。
オールドメディアは、自民党の支持層に違和感と失望を与えるために、あえて石破政権を持ち上げ、党全体への信頼を揺るがそうとしていたのだ。
「批判するのではなく、あえて過剰に褒めることで、自民党の本来の姿を歪め、支持層を遠ざける——オールドメディアの最後の抵抗だ」と。
のっけから申し訳ないのだが、自分は「古事記」を池澤夏樹訳で読んでいない。というか、この池澤夏樹の日本文学全集で読んだ本はほとんどない。しかし、池澤夏樹にはちょっと悪いのだが、リストとして便利なのでダシに使わせてもらった。
自分が最初に「古事記」に触れたのは神代だけを扱った子供向けの講談社青い鳥文庫経由でだ。次に読んだのが確か大学生の頃になる。文芸春秋社の三浦佑之が現代語訳したもので、古老が昔話をする形式で翻訳していた。現代人にはわかりづらいところを語りで補う、初心者に親切なものだった。
さて、内容だが、神話だけでなく、それ以降の歴史時代の記述も面白い。ヤマトタケル物語だけでなく、おそらく戦前は教えられていたであろう神功皇后の朝鮮半島への進軍を知っておくと、昔の人がどんな世界観を持っていたか想像しやすい。権力者の書いた歴史書を鵜呑みにするのは危険だが、歴史の一次資料に(翻刻・翻訳されたものとはいえ)触れるのは非常に楽しい。「学校で習う歴史の出典がこれか!」という素直な驚きがある。
もちろん神話としても面白く、考えてみれば今の皇室は天の住民と海の住民の両方の血を引いているという属性てんこ盛りである。他にも、イザナギノミコトとイザナミノミコトが夫婦生活をする際に「凸を凹に入れて子供を作りませんか?」「それは楽しそうですね」というくだりが何となく好きだ。性に罪悪感がないのがいい。もちろん、最初に生まれた子供ヒルコの描写は、今の感覚では身体障害者差別なんだけれども、後にそれが恵比寿様だということになって崇拝されるようになったのが、何となく流されたヒルコが救われた感じがして、結構好きなエピソードなのだ。捨てられた存在に新しい場所を用意してあげた後世の人の優しさみたいでね。
面白かったので「日本書紀」も確か講談社学術文庫か何かで読んだ。傍論としてさまざまな説を併記しているのが、物語ではなく歴史書の体裁をとっている「日本書紀」の特徴を端的に示していて面白かった。もちろん、これだけでは日本の神話は理解できない。中世の神仏習合や近代の国学、陰陽道などの展開を追わねばなるまい。しかし、その一歩を踏み出せたのはやはりうれしい。
ところで、「記紀」の記述を合わせて池澤夏樹は「ワカタケル」を書いたようだけれど、個人的にはピンとこなかった。「記紀」の文字に書かれたことや考古学的成果の内容とは矛盾しないが、むしろ史実から離れすぎないようにしたため、想像力が少し現実に縛られている気がしたのである。あとは現代中国語の「上に政策あれば下に対策あり」って言葉が引用されていたのに違和感があった。お分かりのように、僕は面倒くさい読者なのである。
「万葉集」は全然読んだことがない。というのも、巻数が膨大なためだ。僕は完璧主義なところがあり、読むならきちんと最初から最後まで読むべきだと感じてしまう。それに詩を読むのなら、一つ一つの詩をきちんと味わって理解したいのである。そうなると膨大な時間がかかり、そこまで詩に興味がない自分としては手が伸びない。ただし、自分にフォークナーを薦めてくれた友人は、「美酒をがぶ飲みするように、次から次へと詩を読んでいくのも贅沢でいいものだよ」とは言っていた。僕の場合、深く刺さった詩は、小説の中のぴったりした場面で引用されたときに出会っているケースがほとんどだ。やはり詩が多すぎると言葉の海に溺れてしまう。
「百人一首」は田辺聖子の解説で読んだ。それぞれの和歌や作者の背景を丁寧に、肩の凝らない文体で説明してくれているので、今でも時々手に取っている。王朝の人物史としても面白かった。田辺聖子とは評価する場所が違うところもたくさんあるけれど、脱線が楽しい。ちなみに、初めて百人一首に出会った小学校高学年のときには、もちろん恋の歌にばかり心が動かされたのである。「しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」。たぶん自分の感傷マゾというか、言い出せない思いをウジウジ、グツグツと自分の中で煮詰めて煮凝りにしてしまう傾向は、この時からあったのだろう。
ところで、王朝文学は世界的に見て女性作家が多かった時期だと聞いたことがあるのだが、調べてみると女性の句は二十一だった。半分くらいだと思っていたのだが、これは女性の句が心に残ることが多かったための錯覚だろう。
「新々百人一首」は未読だ。こうして記事を書こうとしていた時に調べたのだけれど、王朝の歌を二百種に絞って紹介してくれているらしいので、これはぜひ読みたい。昔ほど完璧さにこだわらなくなったし、こういうベスト盤みたいにピックアップしてくれると、きっと散文を好む自分も楽しめることだろう。丸谷才一はジョイスの翻訳で知ったのだけれど、文章のリズムが合ったから今から読むのが楽しみだ。
これらの本はすべて別の訳者で読んだのだけれど、こうして並んでいる訳者にそれぞれ馴染みがあるので、彼らがどのような翻訳をしたのか、ちょっと読みたくなってきた。ちょっと前までは「古典は原文で読んでこそ意味がある」という原理主義的なところがあったのだが、「源氏物語」や「太平記」が長すぎるあまり、開き直って現代語訳で読んでしまったため、最近はそこまで原文にはこだわっていない。今ではいい翻訳がたくさんあるので、普通に現代語訳でストーリーを味わってから、原文を楽しめばいい。このラインアップでは、個々の作家に対しても言いたいことがあるのだが、今回は省こう。
「竹取物語」は、幼いころに聞いた物語の原典を知る楽しみがあった。一番シンプルにされた絵本のバージョンだと、五人の貴公子の物語が省かれてることもあるし。そういう意味では、「御伽草子」なんかもちょっと読みたくなってきたな。
「伊勢物語」は短編集で、古典の授業で東下りを扱ったので前から気になっていた。ただのモテる男の話を読んだって楽しくないかもしれないが、一つ一つがごく短いのでそこまで嫌味ではないし、うまくいかななった恋物語もある。それに、古語で読むから現代日本語で読むのと違ってワンクッションある。僕は感傷マゾだったから、結局は恋の物語が読みたかったのだ。
だが、書かれているのは恋愛遍歴だけではない。「老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしく君かな」「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もといのる人の子のため」。ほんとそれな。無理な願いだとわかっていても、大切な人には永遠に生きていてほしい。これらの歌に出会えたのは幸いだった。
なお、これを読んだ後に祖父を亡くしている。ほんとに、人間がいつまでも生きられないのは寂しいことである。なお、これも阿部俊子訳の講談社学術文庫で読んでいる。
他に当時刺さった歌を日記から書き写しておく。「思ふこといはでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ」(そんな寂しいこと言わないで……)「心をぞわりなきものと思ひぬるかつ見る人や恋しかるらむ」(それな)。たくさんあるのですべては書き写さない。
「堤中納言物語」は「虫愛づる姫君」で有名だけれども、例えば娘ではなくその祖母を連れ出してしまう話だとか、二人の男が誤った相手と契ってしまうとか、慌てて白粉ではなく墨でメイクしてしまう話とか、奇妙な話も含まれている。あとは手に入れることなど到底できないもので作った「ほしいものリスト」である「よしなしごと」とか。どうも物語に統一感がなく、どういう意図で編纂されたのかはよくわからなかった。これは笠間文庫で読んでいる。
「土佐日記」は小学生時代に塾の先生が「男のくせに女の文章で書いたのが紀貫之って変な奴」って紹介していたのでそんな印象がずっと続いていたし(子供にインパクトを与えて覚えさせるためなのと、当時は平成初期なのでこういう言い方をしていたのである)、文学史的にもそういう評価をする面もあるのだが、今は亡き子供の思い出を語る悲しい話なのである。道中の描写も素敵だし、ラストの「この原稿は捨ててしまおう」というくだりが、例え虚構であってもとっても好き。どうも僕は、一人の人間が読者を意識して書いたテキストであるという臭いが好きらしい。だからメタフィクションも好き。これは角川日本古典文庫で読んだ。図書館で借りたボロボロになった古い本だった。三谷榮一訳註。
「更級日記」はかつての文学少女が「源氏物語」をはじめとする文学への憧れを綴っているが、ラストのあたりで「自分の人生はいったい何だったんだろう」と回顧するので、僕みたいな作家になりそこなった文学少年崩れが、感傷的になりたいときなんかにオススメだ。内容をすっかり忘れているのだが、そこばかりが強く印象に残っている。
そして、「物語なんぞにうつつを抜かすんじゃなかった」的なくだりがある癖に、内容が技巧に富んでいるのだが、それはただの未練というよりも、そうした技巧で妄念を鎮めようとしたのやもしれないし、それもまたパフォーマンスかもしれない。小説家になりそこなった僕にはグッサリと深く刺さっている。よく「更級日記」は文学少女の物語だと言われているが、文学少女崩れの物語でもあるのだ。実際、興味深いことに「更級日記」では結婚、子供の誕生、両親の死という重い事柄が、ほとんど触れられていないのである。
それにしても、文学少年や文学少女はとても欲深い。彼らは現世で得られないものを書物の中から得ようとするからだ。そして、創作に手を出すのは、自分の持っていないものを魔術のように作り出そうとする更に深い欲がある人々だ。そして、僕はその欲望を愛していた。
ああ、そうだ。ここまで書いて気づいたのだが、恋だけでない、生きていてふと感じる寂しさを和歌にした作品が、僕はとても好きなのだ。
こういうのは個人のブログでやったほうがいいんじゃないかと思わないでもないのだが、辺境のブログでやってもあまり読者は集まらない。個人のブログを読んでもらうためには、ある程度自分をコンテンツ化する必要がある。言い換えるならば、一定の頻度で、ある程度の品質の記事を、独自色を伴って、継続的に生産し続けなければならない。なかなかできることではない。それに、この動画全盛期の時代に、どれほど文字を読む人がいるだろうか? また、首尾一貫したキャラで書き続けるのも面倒である。
一方、はてな匿名ダイアリーでは、文字を読むのが好きな人が集まっている。また、内容が有益であったり面白かったりすると、きちんと読んでもらえる。虚飾と権威主義真っ盛りの時代にあって、「誰が言ったかではなく、何を言ったか」だけで評価されるという意味では、非常に居心地がいい。もちろん殺伐としているし、暴言も多いが、それを補って余りある素晴らしい点である。有益なまとめを書いたときは褒められ、的外れなことを言えば叩かれ、面白くなければ無視される。残酷だが、内容だけで毎回勝負するのは、文章を書くのが好きな人にとっては鍛錬の場になる。
なお、時折こうして個人的なボヤキを書く。あまりにも古典文学の紹介という話題から逸れ過ぎて、イケメン・モテ男に関する個人的な愚痴になってしまい、読者を笑わせるよりは暗鬱な気分にさせるであろう箇所はこれでもかなり削った。かろうじて残したのは文学に関係する箇所のみだ。
恨みつらみを向けている人や、気に食わない人はたくさんいるのだが、作家以外は実名では論じるつもりはない。名前を出して作品を批判することはあるが、その人の行いに直接何か言いたくなった時はぼかしている。己の負の感情を直視したい一方で、人にネガティブなものをぶつけるのは美しくない。だからせめて、こういう妙な義理を通したいのである。
それでも長い。気に入らなければ読み飛ばしてほしい。ここに書きたいのは古典文学の紹介であり、せめて日常感じていることであり、怨念の垂れ流しではない。ただし前回のように時折脱線しては管を巻くつもりだ。
続く。
引用元:第50回衆議院議員総選挙の候補者に向けて実施した表現の自由についてのアンケート結果
設問(1-a):
設問(1-b):
山田太郎氏の「推し」候補なのですが、スタンスはともかく手抜きな回答で残念。
設問(1-a):
設問(1-b):
日本は、子どもポルノの世界発信基地と言われるほど、諸外国から非難を浴びている。子どもを、大人の性や暴力のはけ口として扱うことは絶対に許されません。性被害、暴力を誘発する商産業は根絶すべき。
設問(2-a):
設問(2-b):
表現の自由は守られるべきです。しかし人権侵害を犯してまで、その自由が守られるとは考えません。特に、無抵抗、声を上げることが困難な子どもや女性を対象物とする差別、人権侵害は許されない。
立憲のフェミニズムに由来する表現規制派最右翼という回答だったので、ピックアップしました。「児童ポルノ」ではなく「子どもポルノ」を使っていますので、筋金入りだと思われます。
設問(1-a):
設問(1-b):
性的・暴力等の表現の対象となるキャラクターは架空のものであり、被害者が実在するわけではない。色々なものに縛られない自由な発想こそが日本のコンテンツ制作の強みである。これを規制する動きをすべきではない。
実在児童の被害者が存在しないことを明言しており、評価できます。
設問(1-a):
どちらともいえない、答えない
設問(1-b):
自民党の候補者が青少年の健全育成を名目とした表現規制に反対するのは珍しいです。この方は旧統一教会とは昵懇のようなので、尚のこと。もっとも反対しているのは「過度な」規制ですが。
設問(1-a):
どちらともいえない、答えない
設問(1-b):
表現の自由は尊重されるべきです。一方で必要最小限度の制限を受けるべきとも考えます。特に、児童の性的搾取や虐待につながる表現については、社会全体で厳しく対処していく必要があります。
設問(2-a):
クレジットカード会社の決済制約, ポリコレの言葉狩り等
設問(2-b):
特定の表現に対する決済を制限することは、表現の自由を不当に制限する可能性がある。行き過ぎたポリコレは、言葉狩りや表現規制につながり、多様な意見や表現を封じ込めてしまう可能性がある。
設問(1-a):
どちらともいえない、答えない
設問(1-b):
表現の自由は守られるべき権利であり、多様な表現があること自体は素晴らしいことですが、他人の名誉を傷つける表現、多くの人を不快にしてしまう表現が、深刻な事態を招いていることも、また事実であるため。
設問(2-a):
クレジットカード会社の決済制約
設問(2-b):
一民間企業が個人に対し表現の規制を行っている可能性があるため。クレカはもはや決済インフラであり、現金では合法的に売買可能な取引をカード決済時のみ恣意的な規制をすることは認めるべきではないと考えるため。
設問(1-a):
設問(1-b):
設問(2-a):
クレジットカード会社の決済制約
設問(2-b):
設問(1-a):
設問(1-b):
暴力的、過激な性的表現は犯罪行為を助長、正当化させることにも繋がり、暴力行為や性犯罪を駆り立てるきっかけにもなりかねず、児童を守るためにも法令で規制するべきでる。
設問(2-a):
設問(2-b):
ポリコレやジェンダー平等を基にした創作規定は、差別の防止を目指す一方で、特定の視点や価値観の強制により、表現の自由を妨げる可能性がある。
設問(1-a):
どちらともいえない、答えない
設問(1-b):
社会は子どもを守る責任があり、児童を性的に描写することは厳重に規制すべき。同等の作品の存在で、暴力や性的搾取が許容される文化が形成される可能性があり、規制を強化すべき。
設問(2-a):
設問(2-b):
法規制を(半ば)肯定しつつ、ポリコレやジェンダー平等のような概念棒での表現の自由の制約を懸念しているのは珍しい気がします。
設問(1-a):
どちらともいえない、答えない
設問(1-b):
表現の自由は憲法の保障される基本的人権であり、それを国家が制限する検閲が行われてはいけない。性的・暴力的表現について、現行以上の規制を導入する際は、表現の自由を侵さないか慎重な議論が必要である。
設問(2-a):
設問(2-b):
表現の自由は憲法の保障される基本的人権であり、他者の権利と衝突する場合等を除き、国家がそれを制限することがあってはならない。規制を行う場合は、個別に規制の必要性・相当性を慎重に検討すべきである。
設問(1-a):
どちらともいえない、答えない
設問(1-b):
表現の自由は憲法の保障される基本的人権であり、それを国家が制限する検閲が行われてはいけません。性的・暴力的表現について、現行以上の規制を導入する際は、表現の自由を毀損しないか慎重な議論が必要です。
設問(2-a):
設問(2-b):
表現の自由は憲法の保障される基本的人権であり、他者の権利と衝突する場合を除き、国家がそれを制限することがあってはなりません。規制を行う場合は、個別に規制の必要性・相当性を慎重に検討すべきです。
社民党はこのお二方を除き、設問1-aで法規制を肯定していました(計4名)。投稿後に気が付きましたが、ほぼ同内容ですね。
設問(1-a):
どちらともいえない、答えない
名前に見覚えがある方もいるかもしれませんが、『雀魂』の『咲』コラボの広告を炎上させようと頑張っていた人です。
設問(1-a):
設問(1-b):
表現の自由は守られるべきです。公権力による表現規制が入ることで、クリエイターの自由な創作意欲が抑制されることがあってはなりません。当事者を交えて、著作権法に限らず幅広く政策を議論する必要があります。
設問1-aで「法令で規制するべきではない」を選んでいる、唯一の党首です。
設問(1-a):
どちらともいえない、答えない
設問(1-b):
表現の自由、プライバシーを守りながら、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会 にしていく必要があります。そのために自主的な取り組みを促進していくことが大事だと思います。
設問(1-a):
設問(1-b):
表現規制反対派としては古参ですが、立憲の性交同意年齢の引き上げに関する議論のいざこざで議員辞職された方。
設問(1-a):
どちらともいえない、答えない
設問(1-b):
設問(2-a):
回答を控えます
設問(2-b):
設問(3):
その後に頼朝の身を案ずるあまり現夫の江間次郎をアゴで使ってるのを見て、
八重にこの先どういう役回りを担わせようと知ているのかピンときた。
八重が義時と再婚して嫡男である泰時を産んだという説を推しているらしいので、
だからこそ最初からガッキーはいつも2番めにクレジットされている。
八重は義時にとって叔母にあたるが、叔母上ではなく八重さんと呼ばせて、
八重と義時が血縁であることをなるべく視聴者に意識させないように配慮しているのも、
一方で、泰時が頼朝のお気に入りだったことは史実上よく知られており、
泰時は歴史上では知勇兼備の完全無欠の名将名執権として知られており、
執権職のときに歴史で必ず習う御成敗式目を制定したのも泰時だ。
父の伊東祐親を失った八重は、頼朝による庇護を希望するものの、
政子の目が恐ろしい頼朝は八重の世話を義時に押し付け、二人は外面的には夫婦となる。
しかし、義時を見下している八重は(そもそも叔母であるから)義時に指一本触れさせない一方、
しかし頼朝死後、忌まわしい記憶を払拭したい義時は泰時と改名させる。
そして成長するに連れ頼朝譲りの名将の片鱗を現す泰時に悩まされるのだ。
そんな流れになるのではなかろうか。