はてなキーワード: 万葉集とは
平成の上皇陛下のことを思うたびに、陛下が国民に寄せる思いの深さに涙してしまうような、俺はそういう人間なのだが、大正天皇について調べ物をしていた時にふと上皇陛下の優しさに通じるものを見つけたのでメモしておきたい。
調べ物と言っても、俺がやっていたのは歴史上のネタエピソードを探し集めて読んでいたというだけで、いや、白状するが、俺は大正天皇が暗愚であることを示すものを暇つぶしにネットで読んでいた。Wikipediaにもある有名な「詔勅クルクル望遠鏡事件」みたいなのが他にないか探していたのである。
そこで出会ったのが、大正天皇が日露戦争の際に詠んだとされる一首の歌である。
日露戦争の戦利品を前にして、当時は皇太子だった大正天皇がこの歌を詠んだとされている。俺はこれを目にして、頭をブン殴られたかのようなショックを受けた。
ここにあるのは、兵士たちに対する深い感謝と尊敬の想いと、戦いを通じて失われたものに対する悲しみとのアンビバレンツな感情である。戦争の当事国の皇太子としての立場もある。率直さと優しさと苦しさとが伝わってくるのである。万葉集には額田王や天智天皇をはじめとした皇族による素朴な歌が多く残されているが、それらに匹敵すると個人的に考える。
大正天皇は平成の上皇の祖父にあたる。過去と歴史を常に意識せざるを得ない皇族にあって、平成の上皇は大正天皇について多くのことを考えられてきたのではないかと思う。そして、そうした思いを馳せる材料の一つに上述の歌があり、それを通じて上皇陛下の人となりに少なからず影響を与えているのではないかと思う。
上皇陛下のことを想うたびに、俺の目に浮かぶのは、震災後の避難所を作業服姿で訪れて、膝をついて避難者に寄り添う姿だ。戦争後の戦利品を前にして、その裏にある名もない多くの兵士たちの命に対して声を上げる大正天皇の姿との間に俺は共通点を見出すのである。
百人一首が嫌いだ、と会社から帰りの電車で「ちはやふる」の新テレビシリーズの吊り広告を見ながら思った。
私は百人一首が嫌いだ。中学や高校の時間に学んだ短歌はむしろ好きだった。
しかし、あの、百首の歌を暗記して冒頭の数文字に基づいてカードを奪い合うあの百人一首というのはともかく下品だ。あれは古典に親しむ教養の反対の存在であり、反射神経だけを競う実にアタマの悪いものだと思っている。
また覚える対象が、藤原定家が選んだ百首の短歌、というのもよくない。特定の歌人が選んだものを盲目的に覚え尽くすという所業自体、実に権威的であり、この点でもアタマが悪いと思うのである。
私はもっと短歌をしみじみと楽しみたい。その楽しみの中に百人一首のようなゲーム性が入るのは構わないが、ゲーム性が目的と化してしまった今の百人一首には別れを告げたい。そんなふうに考えて、和歌を使った新しいかるたを考えてみたいと思った。
対象とする歌は、定家が選んだ百人一首から外れて、古代から近現代にいたる各種の名作を選びたい。結果として百人一首から60ぐらいは入ってくるだろうとは思う。百人一首は万葉集の詠み人知らず系が入ってないのが以前から不満があった。例えば、「 防人に行くは誰が背と問ふ人を見るがともしさ物思ひもせず」とか。万葉集で百人一首にないものでは額田王も欲しい。「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」とか。
近現代だと啄木とか入れたい。「たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽(かろ)きに泣きて/三歩あゆまず」とか。そんな感じでたぶん300ぐらいの有名どころの短歌を選べるのではないか。
下の句を見せられて何かをするという、百人一首の大枠は残してもいいかと思う。例えば300首の中からランダムに5枚選んで、上の句が何かを2人でニヤニヤと当てあう、みたいな酒の肴的な楽しみ方ができればいい。「ほうほう、これは確か高校の国語で習った歌で、子規が病床で何々がどうたらな話でしたよね」みたいなトークのネタにするような楽しみ方である。案外、最初に百人一首をかるたにした人も、今のような脳筋反射神経ゲームにする気はなくて、そういうのんびりした楽しみ方を想定してたんじゃないかなとも思った。
今回まるっとハイさんから、Neuoの新作RapidExpress -Heaven- 2gをいただきました★
厳重にガムテープとビニールテープでぐるぐる巻に包装されている小包には「超安全野菜」と表示があって、こういうところでセキュリティがしっかりしてるまるっとハイさんは毎回信頼できるなと既に(´∀`∩)↑age↑
化粧箱を曹操の使っていた槍でおもむろに引き裂くと、中には上質な万葉集の紙で包まれたジョイント
火を付ける前に鼻を近づけると
💫すでにキックが喉を貫く感じ🌟🌟
もう既に今までの野菜とは違うオーガニック感に期待更に(´∀`∩)↑age↑
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溶けました😂😂😂😂
吸った途端にもう脳天に鳩が500匹襲いかかったような平和な浮遊感😪
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印刷物の「縦の列」を指すようになり、
この増田では、コラムの語源と起源を軸に、その社会的役割と現代における展開を考察する。
コラムの語源は、古代ローマ建築を支えた石柱「columna」に由来する。
紙面の縦方向の区画を「column」と呼ぶ慣習を生み出した。
日本で「コラム」が外来語として定着したのは明治期以降とされる。
1874年創刊の『郵便報知新聞』が初めて縦組みの短評欄を導入し、
当初は「雑報」と呼ばれていたが、
興味深いことに、
戦前の新聞では「円柱」の原義を意識した「柱記事」という表現も併用されていたが、
戦後GHQの指導で横組みが普及する過程で「コラム」が優勢となった。
1751年3月11日、
イギリスの『ロンドン・アドバイザリー・リテラリー・ガゼット』が紙面右端の縦長スペースに批評記事を連載開始した。
これが「コラム」と呼ばれる契機となり、
当時の記事は縦12cm×横4cmのスペースに収められ、
この形式が人気を博し、
1777年には初の有料コラムニストが登場するまでに発展した。
年間人気コラムランキングが出版されるほど社会的影響力を持った。
朝日新聞「天声人語」の執筆陣には芥川賞作家の井上靖や開高健ら文学者が名を連ねた。
この時期の特徴は、
800字前後の制約の中で比喩と時事批評を融合させる文体の確立にある。
インターネットの普及により、
コラム文体の最大の特徴は、文字数制約(新聞で400-800字、ウェブで1500字前後)の中で最大限の表現効果を追求することにある。
この制約が比喩の多用を促し、「経済の体温計」(日経新聞)のような定型表現を生み出した。
「具体例(30%)→データ提示(25%)→比喩(20%)→結論(25%)」
①擬人法(「円が踊る」)、
2000年代以降は、
といった読者参加型の手法が増加している。
特にYahoo!ニュースのコラムでは、
本文冒頭に読者アンケートを組み込む「インタラクティブ型」が2018年から導入されている。
公式報道では扱えない市井の声を拾い上げる機能を果たしてきた。
実際に地方自治体の政策変更につながった事例が複数報告されている。
近年では、毎日新聞「発言」欄が東日本大震災後の被災地ルポを継続的に掲載し、
コラムは教養主義から大衆文化への橋渡し役としても重要な役割を担ってきた。
2010年代には、
産経新聞「産経抄」が日本の伝統工芸職人を紹介するシリーズを展開、
2023年、
朝日新聞社はAIコラム生成システム「COLUMN-BOT」を試験導入し、
感情分析アルゴリズムを組み込んだ「共感型AI」の開発が進められている。
一方で、
2024年の読売文学賞では初めてAI生成作品がノミネートされる事態が発生した。
読者の閲覧履歴に基づくパーソナライズド・コラムが一般化している。
ユーザーの位置情報・検索履歴・心拍数データ(ウェアラブル端末連動)を分析し、
これに伴い、
職能の変容が進んでいる。
その形態は変化し続けているが、
今後の課題は、
AIとの協働の中でいかに人間らしい洞察を深化させられるかにある。
次世代の「知の柱」としてどのような発展を遂げるか、
以下、池澤夏樹の文学全集には出ていないが、重要な物や自分が読んだものについて書く。
川村裕子・訳注で読んだ。著者は藤原道綱母で、夫である藤原兼家に対して激しい執着が描かれている。当時の僕は報われない愛情を扱ったフィクションにどっぷりとハマっていたので、かなり共感的に読んだ。男性が通ってくるのを待たされる側だった女性の立場が見えて、あちこちに通う相手がいる光源氏に対しては「お前、お前お前お前!」以外の感想しか出てこなくなる。というか、藤原兼家みたいに、手紙やLINEはそこそこまめなくせに、会いに来ない言い訳もやたら細やかで、会ったときも会ったときで真面目な話をせずこちらをからかうばかりという男性、結構いるよな。モテる奴ってこんなのばっかってイメージがある(偏見)。
こういう時に面白いのは別の人の感想で、田辺聖子は先に書いた百人一首の本で、道綱母は夫を愛しているくせに、何をされても怒るかわいげのない女なのだと言っている。確かにせっかく通って来たのに寒空の下待たせちゃうんだけれど、つれない人に対してはそれくらいしてやりたくならないか。
田辺聖子と考えが違って面白かったのは、「儒教道徳は男女の色気のあるやり取りも批判して世の中をつまらなくする」って発言だ。「春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ」の解説で述べていたことだ。コンプライアスに厳しい時代の子である自分としては首をかしげるが、彼女にそういわせたのは、おそらく彼女の青春と重なった第二次世界大戦の空気だろう。
後半は道綱のなかなかうまくいかない恋路が出てくる。
余談だが、平安時代の著名人は大抵何らかの親戚関係がある。だから因縁話は大抵どこかとつながっているし、それなら言い出せない思いが積もり積もって怨霊や生霊の類が出てもおかしくない気持ちになってくる。
話を戻すと、どうしてモテたり権力を持った人ってどんどん嫌な奴になっていくのだろう。これは推測だが、人間が何か行動をしたとき、多少なりとも権力、少なくとも力を行使するのが理由だろう。力を行使して何かがうまく行くのは喜ばしいが、そのたびに堕落ポイントが蓄積される気がする。つまり、政治家であれ社会活動家であれ、世の中を良くしたという実感が少しずつ慢心に繋がっていく。かつては理想に燃えて清廉に悪を糾弾していた人が、どんどん人の話を聞かない・フィードバックを受け付けない傲慢な人になっていく。まっとうな批判を受けても、自分が正しいから叩かれるのだと思い込んでいく。そうやって晩節を汚していく。具体例がたくさん浮かぶと思う。
なので、自分が一番偉いわけじゃない、権力も何もなくて謙虚にならざるを得ないコミュニティに所属しないと、どんどんダメになっていくのではあるまいか。趣味も含めたコミュニティがたくさんないとおかしくなる。
人の話を聞かないことをテーマにしているのがカズオ・イシグロで、読むたびに嫌な気持ちになる。これは褒め言葉である。
元カレの弟(帥宮敦道親王)からアプローチされて、「手枕の袖」というフレーズで和歌を交換してイチャイチャして、遂に宮廷に迎えられるんだけど、巻末に帥宮挽歌群を持ってくるこの構成よ。悲しい。近藤みゆき訳注。
注釈者の解釈の精度と深さがすごいので、やっぱり自分は文学を研究することなど到底できまいと思わされた。どの節で和泉式部の感情がどう深まったかなどといった、字面を追ってしか読めない自分にはとても気づかないポイントが多数ある。所詮、自分は楽しむことが主である素人である。生活の種には到底できまい。
あまりにも気に入ったため、メモをした和歌が膨大である。いつか深い悲しみに沈んだときに読み返したら、喪失の痛みにグサグサに刺されながらも慰められるだろう。和歌集は読んでいて面白いのだろうが、短い解説文で背景が説明されているよりも、こういう物語の中に和歌が含まれているほうが、著者と長く付き合ってきた分だけ、心に来るものがある。古典は知を刺激する部分と情緒を刺激する部分があるが、これはかなり後者に寄っている。
やはり文学が好きだが、近頃はあまり読みたいとは思わないのである。久しぶりに三島由紀夫を手に取ってパラパラとめくっていたら、感情を揺さぶられて過ぎてしんどくなってきた。これは好きすぎで苦しいということなのかもわからない。好きすぎて近づけないとこじらせ文学オタクになってしまっているのか。三島由紀夫のことは、近頃は文章が人工的過ぎると思って遠ざけていたのだが、やっぱりこの人、マッチョな肉体の中の繊細な精神がいつもピリピリしているよ。好きだけれど、読み返したくない。でも、生きているうちに「豊饒の海」を読みたい。
ところで、僕はどうも女性の手による日記文学が好きらしい。ドナルド・キーンは日本人の日記好きを注目すべき事項だとしていたが、僕もその例に漏れない。日記を読み返すのは自己愛だが、いがらしみきおもぼのぼのの人生相談で「世界で一番面白い本は自分の日記」という趣旨のことを言っている。実際、何が自分に刺さったかを振り返ると、将来傷ついたときにどこに戻ればいいのかが見えてくる。
思うのだが、本を読む男性が文学少女に憧れるのにも、自己愛という側面がある。もちろん、同じ趣味を持っている人に親しみを持つのは当たり前だけれども、陽キャのような押しつけがましさがないと勝手に期待してしまうのだ。そういう風に、実際に相手がどんな人かを見ようともせずに、活字が好きだという相手の属性ばかり見ている。挙句の果てにそんな相手と深い理解に達し、イチャイチャしまくることに憧れる。そういう人間の恋がうまくいかないのは、今になって振り返ってみれば、残念ながら当然であろう(それでもうまくいく恋愛があるという指摘は無視する。認めないぞ、そんなものは)。だから、本は読むけれど優しくないタイプの女性に片想いをして、勝手に傷ついてきたことが何度もある。以下、自分の片想い歴や、彼女たちからされた非常に失礼な仕打ちを延々と書いたが、阿呆らしいのですべて削除した。客観的に見れば、当時の僕も結構痛い奴だったんだろう。わかっているが、恨みの気持ちはゼロにはならない。
やれやれ。こうしたひがみっぽい、すべて主語が「自分」になっている感覚をすべて卒業してしまいたい。こういうわかったような口のきき方も気に食わない。だからこうして、匿名でしか書けないような感情をあえて言語化し、脳内から叩き出す。こんな青臭い感情を二度と思い出さなくてもいいように、放流してしまう。
困ったことに、他人に批判的なことを書いている時にはやたらと楽しかった。悪口は依存性のある娯楽だとよくわかる。なので、この悪癖にハマらないよう、かなりの部分を削った。リクエストがあったら出すかもしれないが、原則としてお蔵入りにするつもりだ。そう、恨みつらみなんていくらでも反芻できる。やめよう、やめよう。
実際、これでもまだ意地悪な記述が多い文章だ。すっきりするけれど、かっこ悪いのでそうそう頻繁にやるべきことじゃない。
確かに、見苦しい愚痴をこうして捨ててしまうのが増田の使い方の一つではあるのはわかる。すべて吐き出せば身軽になれる。だから、こうして好きなことと嫌いなことをないまぜにした混乱した文章を書いてしまった。ひがみも怒りもドロドロした感情も、一度文章にすれば冷静になって振り返れる。
なんてみっともない文章だろうと思うのだけれど、書いていてこれは私小説の真似事なのだとわかった。かつて書いていた小説は、過去を変形して書き直し、つらい出来事に直接向き合わないようにするための緩衝材にしていた。あるいは、こういう恋がしたいという、ただの感傷マゾだった。だが、ここで過去を直接吐き出してしまえば、自分の感情と筆をコントロールできるようになり、新しく真っ当な小説が書けるのではないか。そんな夢想に浸りたくなる。
実際、今は過去の出来事よりも、今は自分の中の荒々しい本能や暴力衝動をどう扱うかに関心が移りつつある。あるいは、欲望や執着についてだ。読みたい本もこういうテーマの物に近づいている。混乱していた十代と二十代から、三十代を終えそうになって、好みが変化しているのが明白だ。今こそ、良いものが書けるときではないか。
最終選考の電話がかかってきたのに、そして編集者と話ができたのに、結局は小説家として芽が出なかった悔しさは、ときどき自分をこんな夢想の中に閉じ込める。だから、発作的にこういう長文を書きたくなる。
だが、若い頃は創作によって自分の感情を整理できたのは確かだけれど、ある時点で、僕はこのまま創作を続けてもどこにもたどり着けないのではないかという疑いにさいなまれるようになった。それよりは、虚構で変形されない事実を直視したほうがいい。事実を日記に断片的に書くことでさえ、ひがみ根性を薄れさせてくれる。小説に限らず、何かを言語化して分析するって本当に救済なんだ。
「結構読んできたな」と思いながらも、まだまだ読んでいない作品もかなり多い。大学時代から少ない年でも年に一冊か二冊くらいのペースで古文を読んできたので、そのペースなら生きているうちにもうちょっと読めるだろう。直近で気になっているのは(「カンタベリー物語」のように海外文学は別として)、池澤夏樹のリストにあったもの、神話物語、歴史書、それから江戸時代の物語だ。
まず、他のところでも述べた通り、「宇治拾遺物語」「発心集」「日本霊異記」がある。特に「日本霊異記」はKADOKAWAが現代語訳を出している。それから、神話物語でいえば「風土記」がある。これも角川ソフィア文庫で出ているので読みたい。
歴史ものでは「大鏡」「栄華物語」がある。それから「吾妻鏡」も気になっている。この並びからは大河ドラマを想起するだろうが、あまり関係はない。とはいえ、自分は「ニンジャスレイヤー」が流行っているときにもまず「ニューロマンサー」に手を伸ばすような人間なのである。ただし、めっちゃ長い。
あとは「東海道中膝栗毛」。パラパラとめくったら、原文でもギリギリ読めそうな、しかし読むのには時間がかかりそうな、近い時代であるが故の厄介な文体であった。そう、なんでもいいので月に十冊は必ず読むという漠然とした目標など放棄して、精読したほうが良い読書ライフが送れるのだが、手を出すかどうか迷ってしまう。というか、これも含めて、原文で読むか現代語訳で読むかは迷う。なるべく原文に当たりたいのだが、池澤夏樹の日本文学全集の現代語訳が訳者の個性も含めて面白かったのと、意地を張って原文にこだわって、中身を浅くしか読めなかったら嫌なのとで、迷っているのである。
「好色一代男」「春色梅児誉美」もそのうち。寛大な気分のときになら、色男の生涯につきあってやっても良い。他の近松門左衛門とかも。
あとは、時間をかけて和歌を楽しむ。「万葉集」とか「新々百人一首」とか。
読書ログをたどりなおすと、自分がその時に何を感じていたのかを想起できる。読んだときの喜びも、読んだ当時感じていた閉塞感も、どちらも生々しく想起してしまった。だから、卒業したはずの怨念に対して、こんなに愚痴ってしまっている。
同時に、自分の感受性がゆっくりと時間をかけて変化してきたのもよくわかった。一つの強迫観念に凝り固まっている時には、何を読んでも同じ感想を持ってしまうのだろうけれど、十年かけていろんな本を読んでいくと、自分に起きた変化が見えてくる。これからも古典を読み続けるだろうし、さらに十年経ったらどんな感想を持つかが楽しみだ。
そして、自分にどんな変化が起きたか、いつかこれらの本を読み返して、確かめてみたい。
確かに、かつて読んだときほど心惹かれなくなってしまうことも多いだろう。現にあらすじを振り返っただけで、「なんでそんなにハマったんだ?」と感じるものあった。これは寂しいことだが、既に興味を失った作品があるということは、自分が変化したことを意味する。むしろ、生きていくにつれて成長していくのなら、興味がなくなる物が出てくるのが当然だ。この寂しさは歓迎すべきものだ。実際に、ある作品に心惹かれていた理由が、既に卒業してしまった不安だとしたら、当の作品が色あせて見えてしまうのも無理はない。個人的な収穫は、叶わぬ恋の歌だけでなく、生きているが故の寂しさを歌った歌に好みが移り変わってきたとわかったことだ。
叶わない片想いをするだけが人生ではない。ただ生きていること、目の前の相手に耳を傾けて敬意を払うこと、それが文学以上に自分を幸せにしてくれる。
そして、僕を大切にしてくれる人のことだけを考えて暮らしていきたいのである。これは創作よりも遥かに尊く、最も創造的なことだ。
以上。
のっけから申し訳ないのだが、自分は「古事記」を池澤夏樹訳で読んでいない。というか、この池澤夏樹の日本文学全集で読んだ本はほとんどない。しかし、池澤夏樹にはちょっと悪いのだが、リストとして便利なのでダシに使わせてもらった。
自分が最初に「古事記」に触れたのは神代だけを扱った子供向けの講談社青い鳥文庫経由でだ。次に読んだのが確か大学生の頃になる。文芸春秋社の三浦佑之が現代語訳したもので、古老が昔話をする形式で翻訳していた。現代人にはわかりづらいところを語りで補う、初心者に親切なものだった。
さて、内容だが、神話だけでなく、それ以降の歴史時代の記述も面白い。ヤマトタケル物語だけでなく、おそらく戦前は教えられていたであろう神功皇后の朝鮮半島への進軍を知っておくと、昔の人がどんな世界観を持っていたか想像しやすい。権力者の書いた歴史書を鵜呑みにするのは危険だが、歴史の一次資料に(翻刻・翻訳されたものとはいえ)触れるのは非常に楽しい。「学校で習う歴史の出典がこれか!」という素直な驚きがある。
もちろん神話としても面白く、考えてみれば今の皇室は天の住民と海の住民の両方の血を引いているという属性てんこ盛りである。他にも、イザナギノミコトとイザナミノミコトが夫婦生活をする際に「凸を凹に入れて子供を作りませんか?」「それは楽しそうですね」というくだりが何となく好きだ。性に罪悪感がないのがいい。もちろん、最初に生まれた子供ヒルコの描写は、今の感覚では身体障害者差別なんだけれども、後にそれが恵比寿様だということになって崇拝されるようになったのが、何となく流されたヒルコが救われた感じがして、結構好きなエピソードなのだ。捨てられた存在に新しい場所を用意してあげた後世の人の優しさみたいでね。
面白かったので「日本書紀」も確か講談社学術文庫か何かで読んだ。傍論としてさまざまな説を併記しているのが、物語ではなく歴史書の体裁をとっている「日本書紀」の特徴を端的に示していて面白かった。もちろん、これだけでは日本の神話は理解できない。中世の神仏習合や近代の国学、陰陽道などの展開を追わねばなるまい。しかし、その一歩を踏み出せたのはやはりうれしい。
ところで、「記紀」の記述を合わせて池澤夏樹は「ワカタケル」を書いたようだけれど、個人的にはピンとこなかった。「記紀」の文字に書かれたことや考古学的成果の内容とは矛盾しないが、むしろ史実から離れすぎないようにしたため、想像力が少し現実に縛られている気がしたのである。あとは現代中国語の「上に政策あれば下に対策あり」って言葉が引用されていたのに違和感があった。お分かりのように、僕は面倒くさい読者なのである。
「万葉集」は全然読んだことがない。というのも、巻数が膨大なためだ。僕は完璧主義なところがあり、読むならきちんと最初から最後まで読むべきだと感じてしまう。それに詩を読むのなら、一つ一つの詩をきちんと味わって理解したいのである。そうなると膨大な時間がかかり、そこまで詩に興味がない自分としては手が伸びない。ただし、自分にフォークナーを薦めてくれた友人は、「美酒をがぶ飲みするように、次から次へと詩を読んでいくのも贅沢でいいものだよ」とは言っていた。僕の場合、深く刺さった詩は、小説の中のぴったりした場面で引用されたときに出会っているケースがほとんどだ。やはり詩が多すぎると言葉の海に溺れてしまう。
「百人一首」は田辺聖子の解説で読んだ。それぞれの和歌や作者の背景を丁寧に、肩の凝らない文体で説明してくれているので、今でも時々手に取っている。王朝の人物史としても面白かった。田辺聖子とは評価する場所が違うところもたくさんあるけれど、脱線が楽しい。ちなみに、初めて百人一首に出会った小学校高学年のときには、もちろん恋の歌にばかり心が動かされたのである。「しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」。たぶん自分の感傷マゾというか、言い出せない思いをウジウジ、グツグツと自分の中で煮詰めて煮凝りにしてしまう傾向は、この時からあったのだろう。
ところで、王朝文学は世界的に見て女性作家が多かった時期だと聞いたことがあるのだが、調べてみると女性の句は二十一だった。半分くらいだと思っていたのだが、これは女性の句が心に残ることが多かったための錯覚だろう。
「新々百人一首」は未読だ。こうして記事を書こうとしていた時に調べたのだけれど、王朝の歌を二百種に絞って紹介してくれているらしいので、これはぜひ読みたい。昔ほど完璧さにこだわらなくなったし、こういうベスト盤みたいにピックアップしてくれると、きっと散文を好む自分も楽しめることだろう。丸谷才一はジョイスの翻訳で知ったのだけれど、文章のリズムが合ったから今から読むのが楽しみだ。
これらの本はすべて別の訳者で読んだのだけれど、こうして並んでいる訳者にそれぞれ馴染みがあるので、彼らがどのような翻訳をしたのか、ちょっと読みたくなってきた。ちょっと前までは「古典は原文で読んでこそ意味がある」という原理主義的なところがあったのだが、「源氏物語」や「太平記」が長すぎるあまり、開き直って現代語訳で読んでしまったため、最近はそこまで原文にはこだわっていない。今ではいい翻訳がたくさんあるので、普通に現代語訳でストーリーを味わってから、原文を楽しめばいい。このラインアップでは、個々の作家に対しても言いたいことがあるのだが、今回は省こう。
「竹取物語」は、幼いころに聞いた物語の原典を知る楽しみがあった。一番シンプルにされた絵本のバージョンだと、五人の貴公子の物語が省かれてることもあるし。そういう意味では、「御伽草子」なんかもちょっと読みたくなってきたな。
「伊勢物語」は短編集で、古典の授業で東下りを扱ったので前から気になっていた。ただのモテる男の話を読んだって楽しくないかもしれないが、一つ一つがごく短いのでそこまで嫌味ではないし、うまくいかななった恋物語もある。それに、古語で読むから現代日本語で読むのと違ってワンクッションある。僕は感傷マゾだったから、結局は恋の物語が読みたかったのだ。
だが、書かれているのは恋愛遍歴だけではない。「老いぬればさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしく君かな」「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もといのる人の子のため」。ほんとそれな。無理な願いだとわかっていても、大切な人には永遠に生きていてほしい。これらの歌に出会えたのは幸いだった。
なお、これを読んだ後に祖父を亡くしている。ほんとに、人間がいつまでも生きられないのは寂しいことである。なお、これも阿部俊子訳の講談社学術文庫で読んでいる。
他に当時刺さった歌を日記から書き写しておく。「思ふこといはでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ」(そんな寂しいこと言わないで……)「心をぞわりなきものと思ひぬるかつ見る人や恋しかるらむ」(それな)。たくさんあるのですべては書き写さない。
「堤中納言物語」は「虫愛づる姫君」で有名だけれども、例えば娘ではなくその祖母を連れ出してしまう話だとか、二人の男が誤った相手と契ってしまうとか、慌てて白粉ではなく墨でメイクしてしまう話とか、奇妙な話も含まれている。あとは手に入れることなど到底できないもので作った「ほしいものリスト」である「よしなしごと」とか。どうも物語に統一感がなく、どういう意図で編纂されたのかはよくわからなかった。これは笠間文庫で読んでいる。
「土佐日記」は小学生時代に塾の先生が「男のくせに女の文章で書いたのが紀貫之って変な奴」って紹介していたのでそんな印象がずっと続いていたし(子供にインパクトを与えて覚えさせるためなのと、当時は平成初期なのでこういう言い方をしていたのである)、文学史的にもそういう評価をする面もあるのだが、今は亡き子供の思い出を語る悲しい話なのである。道中の描写も素敵だし、ラストの「この原稿は捨ててしまおう」というくだりが、例え虚構であってもとっても好き。どうも僕は、一人の人間が読者を意識して書いたテキストであるという臭いが好きらしい。だからメタフィクションも好き。これは角川日本古典文庫で読んだ。図書館で借りたボロボロになった古い本だった。三谷榮一訳註。
「更級日記」はかつての文学少女が「源氏物語」をはじめとする文学への憧れを綴っているが、ラストのあたりで「自分の人生はいったい何だったんだろう」と回顧するので、僕みたいな作家になりそこなった文学少年崩れが、感傷的になりたいときなんかにオススメだ。内容をすっかり忘れているのだが、そこばかりが強く印象に残っている。
そして、「物語なんぞにうつつを抜かすんじゃなかった」的なくだりがある癖に、内容が技巧に富んでいるのだが、それはただの未練というよりも、そうした技巧で妄念を鎮めようとしたのやもしれないし、それもまたパフォーマンスかもしれない。小説家になりそこなった僕にはグッサリと深く刺さっている。よく「更級日記」は文学少女の物語だと言われているが、文学少女崩れの物語でもあるのだ。実際、興味深いことに「更級日記」では結婚、子供の誕生、両親の死という重い事柄が、ほとんど触れられていないのである。
それにしても、文学少年や文学少女はとても欲深い。彼らは現世で得られないものを書物の中から得ようとするからだ。そして、創作に手を出すのは、自分の持っていないものを魔術のように作り出そうとする更に深い欲がある人々だ。そして、僕はその欲望を愛していた。
ああ、そうだ。ここまで書いて気づいたのだが、恋だけでない、生きていてふと感じる寂しさを和歌にした作品が、僕はとても好きなのだ。
こういうのは個人のブログでやったほうがいいんじゃないかと思わないでもないのだが、辺境のブログでやってもあまり読者は集まらない。個人のブログを読んでもらうためには、ある程度自分をコンテンツ化する必要がある。言い換えるならば、一定の頻度で、ある程度の品質の記事を、独自色を伴って、継続的に生産し続けなければならない。なかなかできることではない。それに、この動画全盛期の時代に、どれほど文字を読む人がいるだろうか? また、首尾一貫したキャラで書き続けるのも面倒である。
一方、はてな匿名ダイアリーでは、文字を読むのが好きな人が集まっている。また、内容が有益であったり面白かったりすると、きちんと読んでもらえる。虚飾と権威主義真っ盛りの時代にあって、「誰が言ったかではなく、何を言ったか」だけで評価されるという意味では、非常に居心地がいい。もちろん殺伐としているし、暴言も多いが、それを補って余りある素晴らしい点である。有益なまとめを書いたときは褒められ、的外れなことを言えば叩かれ、面白くなければ無視される。残酷だが、内容だけで毎回勝負するのは、文章を書くのが好きな人にとっては鍛錬の場になる。
なお、時折こうして個人的なボヤキを書く。あまりにも古典文学の紹介という話題から逸れ過ぎて、イケメン・モテ男に関する個人的な愚痴になってしまい、読者を笑わせるよりは暗鬱な気分にさせるであろう箇所はこれでもかなり削った。かろうじて残したのは文学に関係する箇所のみだ。
恨みつらみを向けている人や、気に食わない人はたくさんいるのだが、作家以外は実名では論じるつもりはない。名前を出して作品を批判することはあるが、その人の行いに直接何か言いたくなった時はぼかしている。己の負の感情を直視したい一方で、人にネガティブなものをぶつけるのは美しくない。だからせめて、こういう妙な義理を通したいのである。
それでも長い。気に入らなければ読み飛ばしてほしい。ここに書きたいのは古典文学の紹介であり、せめて日常感じていることであり、怨念の垂れ流しではない。ただし前回のように時折脱線しては管を巻くつもりだ。
続く。
冬の朝、風冷たく、目覚むるもまどろみたし思いにて布団にくるまりたり。されど腹の鳴る声に負けて、ついに起き上がり、家を出でぬ。コンビニへと向かい、温かき肉まんと、甘き缶コーヒーを買い求めたり。これぞ、冬の日の小さき幸せなり。
日は進みて、友とともに電車に乗り、夢の国、ディズニーランドへと参りたり。入るやいなや、華やかなる飾り付け、そして聖夜の音楽、心を踊らせぬものなし。ミッキーの姿を見つけ、手を振りたり。子どもたちの笑顔、これまた尊く美しきかな。
昼餉には、チュロスを手に取り、歩きつつ頬張りたり。甘さ広がりて、寒き風も気にならず。アトラクションに乗らむと列に並ぶも、その待ち時間さえ楽しきものと化し、友と語らい、笑い合いぬ。
日暮れには、城に灯るイルミネーション、眩しき光を放つ。パレードの煌めきは夢の如く、現世の憂いを忘れさせぬ。打ち上がる花火は夜空を彩りて、歓声は天地を震わせたり。
かくして、帰路につく頃には足も疲れぬれど、心は満ち足りたり。電車に揺られつつ、今日の日の思い出を胸に刻みぬ。これより風呂に入り、体を温め、心地よき眠りにつかむとす。
斯く語り綴りて、ここに筆を置くなり。
秋の風情を感じて、周りの人に感心されるような上品な表現を使うには、季語や文学的な言い回しを取り入れると効果的です。以下にいくつかの例を挙げます:
「もみじの赤が一段と鮮やかで、まるで自然が描く絵画のようです。」
夕暮れ
「秋の夕暮れは、一日の終わりに穏やかな詩情を添えてくれます。」
「日が短くなるにつれ、夕焼けの色がいっそう深くなりましたね。」
秋の風
「そよぐ秋風に金木犀の香りが混じり、季節の移ろいを感じます。」
「秋の夜長、虫の音に耳を傾けていると、故郷の景色が胸に浮かびます。」
「静かな秋の気配に、心の奥深くが優しく揺さぶられる気がします。」
移ろい
「この葉が落ちる様子に、時の儚さと美しさを感じざるを得ません。」
「移りゆく季節の中で、ふと立ち止まる時間が大切だと思います。」
「『秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる』ですね。」
「まるで松尾芭蕉の『寂しさや岩にしみ入る蝉の声』が聞こえてきそうです。」
「月が優しく微笑んでいるようで、秋の夜がいっそう幻想的に感じます。」
気が付いたら匂いがしなくなっていた。
確実に老化がすすんでいる。いつの間にか50歳になっていた。
10代の頃、部屋のゴミ箱から放たれる使用済みのティッシュのあの強烈な匂いは今はもうしない。
先日、興味本位で自分の男の匂いを試しに嗅いでみたときのことだ。
今月初めのGWに、妻と二人、新緑の山のふもとの温泉に出かけた。
青空のもと、山々は一斉に咲いたシイノキの花の淡黄色で見事に彩られていた。
シイノキは5~6月頃に穂状の花を咲かせる。
極相林となったシイノキの開花は圧巻だ。山の色を塗りたての油絵の絵具のように大胆に変えてしまう。
そんな新緑の美しさに気が付いたのは、つい最近のことだ。
どうして今までこの美しさを知らなかったのだろう。風が気持ちいい。
若い頃放っていた青々しい匂いが、つーんと頭の先のほうでよみがえる。
ひょっとすると、だからこそ、新緑の生命力がより強く感じられるのかもしれない。
冷静な言い方をすれば、新緑の美しさのなかに、自分自身の老いを鏡のように見つめさせられているのだ。
そういえばシイノキを詠んだ万葉集の歌があったような気がした。
検索したら、こんな歌だった。
家にあれば笥(け)にもる飯(いい)を草まくら旅にしあれば椎の葉にもる
小さな椎の葉しかなくとも旅の途中だ、しょうがない、という状況。
状況に応じて満足しなければならないという人生の不変の真実が垣間見られる。
検索ついでに目に入った芥川龍之介は、この歌を次のように評していた。
やれやれ、わかるのだが、ますます年相応の生き方を考えなければいけないと説教された気分だ。
いまよりもっと年を取って、生活のダウンサイジングを真剣に考えないといけないときがくるだろう。
さかしら【賢しら】
① 利口ぶること。いかにもわかっているというふうに振る舞うこと。また,そのさま。「―を言う」「―をする」「―な顔つき」
② 自分の考えで行動すること。「大君の遣はさなくに―に行きし荒雄ら沖に袖振る」〈万葉集•3860〉
昭和の笑点のネタなんか知らねーよ。ガキのころの一時期を除いてはほぼ見てないからなw
まったくオリジナルで、笑点のネタに採用されるくらいの「ちょっと面白いコト」考えついたんだから、大したもんだろww
---追記'240527---
NHKのEテレで「夏井いつきのよみ旅!」という番組をやっている。これは、TVバラエティの口の悪い添削でおなじみ?の俳人夏井いつきと、元ホストのホストクラブ経営者・ローランドさんがあちこち旅をしながら俳句をなんか色々する番組らしい。番宣しか見てないから、どんな番組か説明しようとして急に文章がぼんやりしたが。
なぜ番組を見ないかといえば、どちらの出演者も好きじゃないからなのだが、特にローランドさんが本当にこう、TV出るのかーそれも公共放送の教育チャンネルに出すのかー、という思いだ。このいろんなことがあったご時世に。「俺の店では売掛やらないよ」とブログで宣言したことで男を上げたみたいに言う人もいたが、やらない宣言したということは、やってたんじゃん、って思う。まぁ過去のこと言ったところで詮無いんでしょうけど。
ローランドさん個人や彼のやっている店が「悪いホスト(クラブ)」かどうか、ということは私には知る由はないが、ある種の象徴として「TVに出ている元ホストの有名人」だ。
なんだかなー、「社会に許されてんなぁー!」って思う。
歌舞伎町やホスト界隈ではなぜか短歌や俳句を作る勢力があって、数年前にバズった「ホスト万葉集」や「アウトロー俳句」と、作品になっているものもあるのだが、ローランドさんは、なんか松本人志の痛いエッセイみたいな感じの本は出しているけど、詩(短歌や俳句)はしたためてはいない。のになぜか「俳人と旅する番組」の出演者に収まっている。
つまり「象徴としてのホスト」としてブッキングされてるんだろうと思うのだが、つまり「象徴としてのホスト」は、Eテレで番組持ってる程度には社会に許されてんのなぁ~~。
夏井いつきもせっかくホストを連れて旅に出たいっていうなら、「象徴としてのホストタレント」じゃなくて、アウトロー俳句まわりのホストの人とかを連れて旅をすればいいのに。アウトロー俳句相当いいものなのにな。まぁ夏井いつきがホストと旅したがっているわけじゃないとは思うが。
まぁ鮮度の高いホストだと、さすがにTVサイズじゃないんだろうけど、でもなーなんかなー。
頂き女子のマニュアルらしきものが流出して、ホストを頂点とした「水商売のタコ部屋構造・弱肉強食生態系モデル」みたいなものを多くの人が想像しながら、頂き女子を罵倒したり(まぁ仕方がない面はあるだって犯罪容疑者だもの)、頂き女子にカモられたおぢを馬鹿にしたり(かわいそう)、うっかりキャバクラ行って「頂きそうなキャバ嬢トーク」を目の当たりにしたうっかりしたおっさんを馬鹿にしたり(かわいそう)している。
なんていうか、ホストに貢いでた」キャバ嬢や、キャバ嬢に貢いでたおっさんたちは「社会に許されてない~~」という感じである。キャバ嬢は、そして頂かれたおぢたちは、Eテレでお金出してもらって旅とかしてない。
まぁ個別にいえばローランドさんは悪いことはしてない(表面上。でも売掛はやってただろう?とやっぱり思う)から当然、許される許されないということではない。
一方で頂き女子は容疑者だし、だまされたおぢ達は凄くかわいそうだけど根底には下心があるだろうから100%の同情は生まれにくいというのはあるだろう。でもローランドさんはたぶん売掛さんざんやってたんじゃねーの?と思うんだよな。
まぁ、そうはいいつつ、ローランドさんについてはあんまり知ってることがないから今検索してみたけど、別の源氏名だったけど女を金で見たくないから源氏名を変えたとあって、まぁそういうことなんだろう(売掛さんざんやってたんじゃねーか、というか)
でもその辺は明らかにせず、良い感じにウォッシュしてTV番組に出ていると、いつの間にか社会的に許されてるポジションにいたりする。なんだかね。なんだかなー。
全然話は変わるが、実は、キャバ嬢にハマったおぢを3人ほど知っていて、ハマるところから破滅するところまで身近で観察したことがある。昔の職場にいたのだ。辞めてよかったあの会社笑。
正確に言えば、ハマった3人のうち2人は社会的信用がかなり棄損され、1人はハマりかけてたが「はしかが治った」感じで収まった。
社会的信用の棄損、というのは要するに「妻と別居」「離婚」「左遷」「弁済」である。まぁ今でも元気に暮らしているような話は風の噂で入ってくるが、別居の人は、別居したまま10数年、なぜか離婚せず結構な金額の妻子の生活費を振り込みされられ続けているらしい。自業自得とはいえお気の毒である。
さて、ハマったおぢ3人に共通しているのは…、と考えて特に外的には大きな共通点がないのだった。
お金はそれなりに(キャバクラ通えるぐらいには)あり、3人とも結婚して子供もいた。未婚だからカモられおぢということではないように思う(まぁ結婚してたって孤独ってこともあるからねぇ)。あと「断れないタイプ」のような弱者男性らしさもなかったと思う。3人のうちの一人は私が別の会社のオッサンからセクハラターゲットにされたときに助けてくれた人だったし、別の人は会社の宴会や懇親会でも人気のムードメーカーのような明るい人だった。見た目も別にごく普通。
色々ほんと色々あって左遷されることが決まった人に、何でハマっちゃったんですか?と聞いたら「だってあんなきれいな子が俺の話で笑ってくれるんだよ!」と言われて、あーダメだこれは…と思った思い出。強いてあげれば3人の共通点は「若くてかわいい女の子がとにかく大好き」なところだったかも。
ハマりかけてたけど治った人は、その職場において三人目だったわけだが、周囲が全力でもう、止めたよね。
「医学部に行くお金をキャバで稼いでると言っていた、いい子なんだまじめな子なんだよ、親御さんが女が医者になるなんて生意気だと反対していて学費出してくれないって言うんだ」と、割と目が据わった表情で会社の忘年会で言われて、同じ卓に座っていた全員が目を合わせて「…第三の被害者が」という感じになった。それはキャバ嬢や風俗嬢の常套句だよと第二の犠牲者の人が言って、私たちもスマホで色々検索したりして「ほら手口なんだよ」とかさんざん皆で説得したけど駄目で、結局2次会の後に、第二の犠牲者の人とそのキャバクラに行ってた。
そして第二の犠牲者の人(離婚済)がそのキャバ嬢にハマって、第三の人は「まんまとハマった第二の人の様子」を見て己を客観視できたらしく、その日でキャバクラ通いをすっぱりやめたみたいだった。
要するに、別に「かわいそうな弱者男性」だけがターゲットなわけでもなく、そして「下心はいろんな危機管理レーダーを簡単に狂わせる」んだよね。まぁ気持ちの暴走はどうしようもないのかもしれないけどさ。
まぁ、貢ぐおぢは社会的弱者のGiverだ、というのは、当てはまってない被害者も結構多いんじゃねーかなとは思うんですよね、だって下心があるからお金を貢ぐわけで、別に純粋な気持ちでお金出してないわけじゃん。ヤラセてもらえるかも、俺は彼女にとって特別だから、と思うから貢ぐわけでしょうし。
「なにかそういうデータがあるんですか?」
「ぺこーらに告白しようと思ってる」
「5000兆円欲しい」
背景のストーリーを把握し、イメージを共有し、その上で表現としてしっくり来たことが評価され、バズり、シェイクスピア語録みたいになる。
そういう類の文化だ。
はっきり言って気持ち悪い。
アニメやドラマの名台詞ランキングとか、漫画の名シーン投票とか、そういうのも大差がない。
FLASH黄金時代を過大評価してネットが活かした文化の最先端だったのだと憤るインターネット老人welcom to undergroundを見せられているようで共感性羞恥すぎる。
よく分からんけどなんか長年評価されているし若造は知らなそうだからこれ褒めてたら人生のベテラン感出るやんみたいはすけべ心の見え隠れがエグいということだよ。
キモいんだよな。
元々は子供のナニを珍宝(めずらしい宝物)に準えて例えたのが起源
わかっている範囲では江戸時代に平賀源内が書き記した滑稽本である痿陰隠逸伝にて
稚(いとけなき)を指似(しじ)といひ又珍宝と呼、形備りて其名を魔羅と改め、
子供のナニのことを「指似」もしくは「珍宝」と呼んで
との記載がある
なので江戸時代にはすでに子供のナニのことを珍宝と呼んでいたことがわかっている
この章では他にも
万葉集に角(つの)の布具礼(ふくれ)と詠めるも、疑ふらくはこの物ならんか。漢にては勢(せい)といひ、またキュウといひ、チョウといひ陰茎といひ玉茎といひ、肉具と呼び、中霊(ちゅうれい)と命(なづ)け、俗話にてはキイハといひ、紅毛(おらんだ)にては呂留(りょる)といふ。
ナニの言い換えを子細に記しており、源内がナニに傾倒していたことが伺える