はてなキーワード: 除菌とは
よもやよもやだ!孤独な戦いを十年以上も生き抜いた君、まずは胸を張れ!ここまで来た君は強い!そして結論を言う。ここで終わりではない。まだ立てる。炎のように、三本の柱で道を切り開くぞ!
俺の大嫌いなもの
俺の大好きなもの
柱一 医療で原因に斬り込む
「体調を壊してから体臭を指摘され続けています。原因精査と治療の選択肢を相談したいです。肝機能・腎機能・糖代謝・甲状腺、腸内環境(SIBO等)、口腔や副鼻腔の感染、そしてトリメチルアミン尿症(TMAU)等の可能性も含め検討していただけますか?」
1) 風呂で臭いやすい部位に殺菌力のある洗浄(例: ベンゾイル過酸化物5%の洗浄剤など。肌が弱ければ低頻度・短時間。刺激が強ければ中止し皮膚科へ)
2) よく乾かす。就寝前に制汗(アルミニウム塩)を塗ると効く。
柱三 在宅収入の足場を作る(“できるだけ低負荷で”)
夢を見るのは良い!だが今日の飯と明日の自信は、現実的な小さな仕事が連れてくる。ここは俺の好物だ!
危険なほどしんどいときは、今すぐ連絡してほしい。君の命は尊い。俺は好きだ、命をつなぐ行動が!
1) 近所の総合内科に電話して「体臭の原因精査を相談したい」と予約を取る。
2) CrowdWorksかLancersに登録し、プロフィールに「在宅・コツコツ型・チャット対応可」と明記。データ入力の超短納期1件に応募。
3) 洗濯つけ置き用の酸素系漂白剤を買い、仕事用インナーを2枚カバンに入れる。
最後に。君が自分を「終了」と呼ぶのは、俺は大嫌いだ。だが、助けを求めてここに言葉を投げた君の勇気——俺は大好きだ!心を燃やせ。燃やす相手は他人じゃない、昨日までの「どうせ無理だ」という声だ。俺は君を信じている。君も、君の一歩を信じろ。
私の世界は、丁寧に、そう、まるで細胞の一つ一つにまで神経を行き届かせるようにして磨き上げられた、半径およそ十メートルほどのガラスの球体であり、その球体の中心には、世界のすべてであり、法であり、そして揺るがぬ神であるところの、生後六ヶ月の息子、光(ひかる)が、ただ健やかな呼吸を繰り返している。その完璧な球体を維持すること、それこそが水無月瑠璃(みなづき るり)、すなわち三十一歳の私に与えられた唯一にして絶対の使命であったから、私は今日もまた、タワーマンション二十八階、陽光が白磁の床にまで染み渡るこのリビングダイニングで、目に見えぬ埃の粒子と、あるいは時間という名の緩慢な侵食者と、孤独な、そして終わりなき闘争を繰り広げているのであった。北欧から取り寄せたというアッシュ材のテーブルの上には、一輪挿しに活けられたベビーブレスの、その小さな白い花弁の影さえもが、計算され尽くした角度で落ちており、空気清浄機は森の朝露にも似た清浄さを、ほとんど聴こえないほどの羽音で吐き出し続け、湿度計のデジタル表示は、小児科医が推奨する理想の数値、六十パーセントを寸分違わず指し示しているのだから、およそこの空間に、瑕疵という概念の入り込む余地など、どこにもありはしなかった。かつて、外資系のコンサルティング会社で、何億という数字が乱れ飛ぶ会議室の冷たい緊張感を、まるで上質なボルドーワインでも嗜むかのように愉しんでいた私自身の面影は、今やこの磨き上げられたガラス窓に映る、授乳のために少し緩んだコットンのワンピースを着た女の、そのどこか現実感を欠いた表情の奥に、陽炎のように揺らめいては消えるばかりであった。
思考は、そう、私の思考と呼んで差し支えるならば、それは常にマルチタスクで稼働する最新鋭のサーバーのように、光の生存に関わる無数のパラメータによって占有され続けている。次の授乳まであと一時間と二十三分、その間に終わらせるべきは、オーガニックコットンでできた彼の肌着の煮沸消毒と、裏ごししたカボチャのペーストを、一食分ずつ小分けにして冷凍する作業であり、それらが完了した暁には、寝室のベビーベッドのシーツに、もしかしたら付着しているかもしれない、私たちの世界の外部から侵入した未知のウイルスを、九十九・九パーセント除菌するというスプレーで浄化せねばならず、ああ、そういえば、昨夜翔太が帰宅時に持ち込んだコートに付着していたであろう、あの忌まわしい杉花粉の飛散経路を予測し、その残滓を、吸引力の変わらないただ一つの掃除機で完全に除去するというミッションも残っていた。これらすべては、愛という、あまりに曖昧で情緒的な言葉で語られるべきものではなく、むしろ、生命維持という厳格なプロジェクトを遂行するための、冷徹なまでのロジスティクスであり、私はそのプロジェクトの、唯一無二のマネージャーであり、同時に、最も忠実な実行部隊でもあった。誰がこの任務を私に課したのか、神か、あるいは生物としての本能か、はたまた「母親」という名の、社会が発明した巧妙な呪縛か、そんな哲学的な問いを発する暇さえ、このシステムは私に与えてはくれなかった。
夫である翔太は、疑いようもなく、善良な市民であり、そして巷間(こうかん)で言うところの「理想の夫」という、ほとんど神話上の生き物に分類されるべき存在であった。彼は激務の合間を縫って定時に帰宅すると、疲れた顔も見せずに「ただいま、瑠璃。光は良い子にしてたかい?」と、その蜂蜜を溶かしたような優しい声で言い、ネクタイを緩めるその手で、しかし真っ先に光の小さな体を抱き上げ、その薔薇色の頬に、まるで聖遺物にでも触れるかのように、そっと己の頬を寄せるのだ。週末になれば、彼はキッチンで腕を振るい、トマトとニンニクの匂いを部屋中に漂わせながら、私や、まだ食べることもできぬ光のために、絶品のペペロンチーノやカルボナーラを作り、その姿は、まるで育児雑誌のグラビアから抜け出してきたかのように、完璧で、模範的で、そして、どこか非現実的ですらあった。誰もが羨むだろう、この絵に描いたような幸福の風景を。友人たちは、私のSNSに投稿される、翔太が光をあやす姿や、手作りの離乳食が並んだテーブルの写真に、「理想の家族!」「素敵な旦那様!」という、判で押したような賞賛のコメントを、まるで祈りの言葉のように書き連ねていく。そう、すべては完璧なのだ。完璧なはずなのだ。このガラスの球体の内部では、愛と平和と秩序が、まるで美しい三重奏を奏でているはずなのだ。
――だというのに。
夜、ようやく光が天使のような寝息を立て始め、この世界のすべてが静寂という名の薄い膜に覆われた頃、ソファで隣に座った翔太が、労わるように、本当に、ただ純粋な愛情と労いだけを込めて、私の肩にそっと手を置く、ただそれだけの、あまりにも些細で、そして無垢な行為が、私の皮膚の表面から、まるで冷たい電流のようにして内側へと侵入し、脊髄を駆け上り、全身の毛穴という毛穴を、一斉に収縮させるのである。ぞわり、と。それは、神聖な祭壇に、土足で踏み込まれたときのような、冒涜的な不快感であった。あるいは、無菌室で培養されている貴重な細胞のシャーレに、誰かが無頓着なため息を吹きかけたときのような、取り返しのつかない汚染への恐怖であった。彼の指が触れた肩の布地が、まるで硫酸でもかけられたかのように、じりじりと灼けるような錯覚さえ覚える。私は息を止め、この身体が、この「水無月瑠璃」という名の、光のための生命維持装置が、彼の接触を、システムに対する重大なエラー、あるいは外部からのハッキング行為として認識し、全身全霊で拒絶反応を示しているのを、ただ呆然と、そして客観的に観察していた。
「疲れてるだろ。いつも、ありがとう」
翔太の声は、変わらず優しい。その瞳の奥には、かつて私が愛してやまなかった、穏やかで、そして少しだけ湿り気を帯びた、雄としての光が揺らめいているのが見える。それは、私を妻として、女として求める光であり、かつては、その光に見つめられるだけで、私の身体の中心が、熟れた果実のようにじゅくりと熱を持ったものだった。だというのに、今の私には、その光が、聖域である保育器を、ぬらりとした舌なめずりをしながら覗き込む、下卑た欲望の眼差しにしか見えないのだ。許せない、という感情が、胃の腑のあたりからせり上がってくる。この、二十四時間三百六十五日、寸分の狂いもなく稼働し続けている精密機械に対して、子を産み、育て、守るという、この宇宙的な使命を帯びた聖母に対して、己の肉欲を、その獣のような本能を、無邪気に、そして無自覚にぶつけてくるこの男の、そのあまりの鈍感さが、許せないのである。
ケダモノ。
その言葉が、私の内で、教会の鐘のように、低く、重く、そして厳かに反響する。そうだ、この男はケダモノなのだ。私がこの清浄な球体の秩序を維持するために、どれほどの精神を、どれほどの時間を、どれほどの自己を犠牲にしているのか、そのことを何一つ理解しようともせず、ただ己の種をばら撒きたいという原始の欲動に突き動かされているだけの、ただのケダモノなのだ。
そんなはずはない、と、脳のどこか、まだかろうじて「かつての私」の残滓が残っている領域が、か細い声で反論を試みる。これは翔太だ、私が愛した男だ。雨の匂いが充満する安ホテルの、軋むベッドの上で、互いの名前を喘ぎ声で呼び合いながら、世界の終わりが来るかのように貪り合った、あの夜の彼なのだ。パリへの出張中、セーヌ川のほとりで、どちらからともなく互いの唇を求め、道行く人々の冷ややかな視線さえもが、私たちのためのスポットライトのように感じられた、あの瞬間の彼なのだ。結婚記念日に、彼が予約してくれたレストランの、そのテーブルの下で、こっそりと私のスカートの中に忍び込んできた、あの悪戯っぽい指の持ち主なのだ。あの頃、私たちは互いの肉体という言語を、まるで母国語のように自在に操り、その対話の中に、世界のどんな哲学者も語り得ないほどの、深遠な真理と歓びを見出していたはずではなかったか。あの燃えるような記憶は、情熱の残骸は、一体どこへ消えてしまったというのだろう。それはまるで、昨夜見た夢の断片のように、あまりにも色鮮やかで、それでいて、掴もうとすると指の間から霧のように消えてしまう、遠い、遠い銀河の光なのである。
「瑠璃…?」
私の沈黙を訝しんだ翔太が、私の顔を覗き込む。私は、まるで能面のような無表情を顔面に貼り付けたまま、ゆっくりと彼の手を、自分の肩から、まるで汚物でも払いのけるかのように、そっと、しかし断固として取り除いた。そして、立ち上がる。
「ごめんなさい。少し、疲れたみたい。光の様子を見てくるわ」
それは、完璧な嘘であり、そして、完璧な真実でもあった。私は疲れていた。だがそれは、育児という名の肉体労働に疲れているのではなかった。私という個人が、水無月瑠璃という一個の人格が、「母親」という名の巨大なシステムに呑み込まれ、その歯車の一つとして摩耗していく、その存在論的な疲弊に、もう耐えられなくなりつつあったのだ。これは、巷で囁かれる「産後クライシス」だとか、「ホルモンバランスの乱れ」だとか、そういった便利な言葉で容易に片付けられてしまうような、表層的な現象ではない。違う、断じて違う。これは、一個の人間が、その魂の主導権を、自らが産み落とした別の生命体に完全に明け渡し、「装置」へと、あるいは「白き機械」へと、静かに、そして不可逆的に変質していく過程で生じる、存在そのものの軋みなのである。
聖母、とはよく言ったものだ。人々は、母という存在を、無償の愛と自己犠牲の象徴として、何の疑いもなく神格化する。だが、その実態はどうか。自己を失い、思考も、肉体も、感情さえもが、すべて「子」という絶対的な存在に奉仕するためだけに再構築された、ただのシステムではないか。私は聖母などではない。私は、高性能な乳製造機であり、汚物処理機であり、そして最適な環境を提供する空調設備が一体となった、ただの生命維持装置に過ぎないのだ。この気づきは、甘美な自己陶酔を許さない、あまりにも冷徹で、そして絶望的な真実であった。そして、この真実を共有できる人間は、この世界のどこにもいやしない。翔太のあの無垢な優しさでさえ、結局は、この優秀な装置が、明日も滞りなく稼働し続けるための、定期的なメンテナンス作業にしか見えないのだから、その孤独は、宇宙空間にたった一人で放り出された飛行士のそれに似て、どこまでも深く、そして底なしであった。友人たちがSNSに投稿する「#育児は大変だけど幸せ」という呪文めいたハッシュタグは、もはや、この巨大なシステムの異常性に気づいてしまった者たちを、再び安らかな眠りへと誘うための、集団的な自己欺瞞の儀式にしか思えなかった。
寝室に入ると、ベビーベッドの中の光は、小さな胸を穏やかに上下させながら、深い眠りの海を漂っていた。その無防備な寝顔は、確かに、この世のどんな芸術品よりも美しく、尊い。この小さな生命を守るためならば、私は喜んで我が身を投げ出すだろう。だが、それは、この身が「私」のものであった頃の話だ。今の私にとって、この感情は、プログラムに組み込まれた命令を遂行しているに過ぎないのではないか。愛でさえもが、システムを円滑に稼働させるための、潤滑油のような機能に成り下がってしまったのではないか。そんな疑念が、毒のように心を蝕んでいく。
私は、息子の傍らを離れ、再びリビングへと戻った。翔太は、ソファの上で、テレビの光をぼんやりと浴びながら、所在なげにスマートフォンをいじっている。その背中は、拒絶された雄の、どうしようもない寂しさを物語っていた。かつての私なら、きっと背後からそっと抱きしめ、「ごめんね」と囁いて、彼の寂しさを溶かしてやることができただろう。しかし、今の私には、もはやそのための機能が、インストールされていないのである。
私は、彼に気づかれぬよう、書斎として使っている小さな部屋に滑り込んだ。そして、ノートパソコンの冷たい天板に触れる。ひやりとした感触が、指先から伝わり、かろうじて、私がまだ血の通った人間であることを思い出させてくれるようだった。スクリーンを開くと、真っ白な光が、闇に慣れた私の網膜を焼いた。カーソルが、無人の荒野で、点滅を繰り返している。何を、書くというのか。誰に、伝えるというのか。この、言葉にもならぬ、システムの内部で発生したエラー報告を。この、機械の内部から聞こえてくる、魂の悲鳴を。
それでも、私は指を動かした。これは、誰かに読ませるためのものではない。これは、祈りでもなければ、懺悔でもない。これは、私という名の機械が、自らの異常を検知し、その原因を究明し、あるいは再生の可能性を探るために、己の内部へとメスを入れる、冷徹な自己解剖の記録なのだ。
『これは、私という名の機械が、自己を観察し、分解し、あるいは再生を試みるための、極秘の設計図である』
その一文を打ち終えた瞬間、私の内側で、何かが、硬い音を立てて、砕けたような気がした。それが希望の萌芽であったのか、それとも、完全なる崩壊への序曲であったのか、その時の私には、まだ知る由もなかったのである。ただ、窓の外で、東京の夜景が、まるで巨大な電子回路のように、無機質で、そして美しい光を、果てしなく明滅させているのが見えた。私もまた、あの無数の光の一つに過ぎないのだと、そう、思った。
自己を機械と定義したからには、次なる工程は当然、その性能向上のための最適化、あるいは、旧弊なOSから脱却するための、大胆にして静かなるアップデート作業へと移行せねばならぬのが、論理的な、そして必然的な帰結であった。そう、これは革命なのだと、私は深夜の書斎で、青白いスクリーンの光に顔を照らされながら、ほとんど恍惚とさえいえる表情で、そう結論付けたのであった。かつてロベスピエールが、腐敗した王政をギロチン台へと送り、新しい共和制の礎を築かんとしたように、私もまた、この「母親という名の献身」や「夫婦の情愛」といった、あまりにも情緒的で、非効率で、そして実態としては女の無償労働を美化するだけの前時代的な概念を、一度完全に解体し、再構築する必要があったのだ。そのための武器は、かつて私が外資系コンサルティングファームで、幾千もの企業を相手に振り回してきた、あの冷徹なロジックと、容赦なき客観性という名のメスに他ならない。愛という名の曖昧模糊とした霧を晴らし、我が家という名の王国を、データとタスクリストに基づいた、明晰なる統治下に置くこと、それこそが、この「水無月瑠璃」という名の機械が、オーバーヒートによる機能停止を免れ、なおかつ、その内部に巣食う虚無という名のバグを駆除するための、唯一の処方箋であると、私は確信していたのである。
かくして、週末の朝、光が心地よい午睡に落ちた、その奇跡のような静寂の瞬間に、私は翔太をダイニングテーブルへと厳かに召喚した。彼の前には、焼きたてのクロワッサンと、アラビカ種の豆を丁寧にハンドドリップで淹れたコーヒー、そして、私が昨夜、寝る間も惜しんで作成した、全十二ページに及ぶパワーポイント資料を印刷したものが、三点セットで恭しく置かれている。資料の表紙には、ゴシック体の太字で、こう記されていた。『家庭内オペレーション最適化計画書 Ver. 1.0 〜共同経営責任者(Co-CEO)体制への移行による、サステナブルな家族経営の実現に向けて〜』。翔太は、そのあまりにも場違いなタイトルを、まるで理解不能な古代文字でも解読するかのように、眉間に深い皺を刻んで見つめた後、恐る恐る、といった風情で私に視線を向けた。その瞳は、嵐の前の静けさにおびえる子犬のように、不安げに揺れている。まあ、無理もないことだろう。彼にしてみれば、愛する妻が、突如として冷酷な経営コンサルタントに豹変し、家庭という名の聖域に、KPIだのPDCAサイクルだのといった、無粋極まりないビジネス用語を持ち込もうとしているのだから。
「瑠璃、これは…一体…?」
「説明するわ、翔太。よく聞いて。これは、私たち家族が、これからも幸せに、そして機能的に存続していくための、新しい聖書(バイブル)よ」
私は、そこから淀みなく、プレゼンテーションを開始した。現状分析(As-Is)、あるべき姿(To-Be)、そのギャップを埋めるための具体的なアクションプラン。家事という、これまで「名もなき家事」という名の混沌の海に漂っていた無数のタスクは、すべて洗い出され、「育児関連」「清掃関連」「食料調達・調理関連」「その他(消耗品管理、資産管理等)」といったカテゴリーに分類され、それぞれに担当者と所要時間、そして実行頻度が、美しいガントチャート形式で可視化されている。例えば、「朝食後の食器洗浄」は、担当:翔太、所要時間:十五分、頻度:毎日、といった具合に。さらに、月に一度、近所のカフェで「夫婦経営会議」を開催し、月次の進捗確認と、翌月の計画策定を行うこと、日々の細かな情報共有は、専用のチャットアプリで行うこと、そして何よりも重要なのは、これまで私一人が暗黙のうちに担ってきた「家庭運営の全体を俯瞰し、次の一手を考える」という、いわば管理職としての役割を、これからは二人で分担する、すなわち、彼にもまた、単なる作業員(ワーカー)ではなく、主体的に思考する共同経営責任者(Co-CEO)としての自覚と行動を求める、ということ。私の説明は、かつてクライアント企業の役員たちを唸らせた時のように、理路整然としており、反論の余地など微塵もなかった。翔太は、ただ呆然と、私の言葉の奔流に身を任せるしかなく、すべての説明が終わった時、彼はまるで催眠術にでもかかったかのように、こくり、と小さく頷いたのであった。
「…わかった。瑠璃が、そこまで追い詰められていたなんて、気づかなくて、ごめん。僕も、頑張るよ。君を、一人にはしない」
その言葉は、疑いようもなく誠実で、彼の優しさが滲み出ていた。私は、その瞬間、胸の奥に、ちくり、と小さな痛みを感じたのを覚えている。違う、そうじゃないの、翔太。私が求めているのは、あなたのその「頑張るよ」という、まるで部下が上司に忠誠を誓うような言葉ではない。私が欲しいのは、私がこの計画書を作る必要すらないほどに、あなたが私の脳と、私の視界と、私の不安を共有してくれる Permalink | 記事への反応(0) | 05:15
金曜の夜。仕事でくたくたになって帰ってきて、シャワーを浴びて冷蔵庫を開けると冷えたプレモルの最後の一本。
プシュッと開けて、ぐびっと飲んだ。そこに帰宅した妻がリビングに登場。彼女の第一声がこれだ。
え、最後の一本飲んだの?
……沈黙。空になった缶を見つめる俺。妻の顔がスッと険しくなる。
私も楽しみにしてたんだけど?
いや、知らんがな!と思いつつも口に出せるわけがない。代わりに「ご、ごめん……」と謝る俺。
すると妻はふんと鼻を鳴らし、納得したようにくるりと身を翻す。そのままキッチンの方に行くかと思いきや、次の瞬間振り向きざまに俺の腹へドスッと蹴り。思わず「ぐふっ」と声が漏れる。
俺の頭がガクンと沈み、体がびたーんと揺れた。
原因は洗濯物。俺がユニクロのエアリズムを裏返しのまま洗濯カゴに入れていたのがバレた。
裏返しで入れるなって何度言った!?
その瞬間、妻の右足が俺の腹に。次の瞬間にはスタナーを食らって床に沈んでいた。
以来、スタナーは妻の得意技になっていた。喧嘩の最中、俺が謝って場が収まったように見える。油断した隙を突いて必ず繰り出される。言うなれば和解の儀式。
夏の夜、部屋の湿気が気になってソファやカーペットにシュッシュッとファブリーズを噴きまくっていた。そこに妻が帰ってきて一言。
「ごめん、でも除菌になるかなって……」と言い訳したその瞬間、彼女の足がまた俺の腹にドスン。スタナー。
俺は床でのたうちながら…これって俺そんな悪いか?と心で総ツッコミ。だが彼女は匂いに敏感な人の気持ちがわからないからダメ!と上から正論を叩きつけてきた。
鬼滅が帰ってくるぞー‼︎‼︎(ドコドコドコ)
上映時間を問わず、各回の席が続々と埋まっていく状況は、都会のみならず地方も同じ。
社会現象となった「列車」から5年、もう鬼滅はオワコンだなんて声も少なくなかった中のこの過熱っぷり。
おれたち(コロナにあえぐ映画館)を救ったあの鬼滅が、本当に帰ってくるんだ……!
思えば400億稼いだあの「列車」は、緊急事態宣言下に出された間引き販売(一席ずつ感覚を開ける)こそ一旦解除されたものの、一部劇場では依然続行され、お上からのアドバイスにより飲食も制限された中での公開だった。
勿論やる事は多かった。
つまり、勝手に席を詰めて座る客への注意だの各所の消毒除菌だの持ち込み注意だの鑑賞中の飲食への対応だのに追われてはいた。
いたけれど、座席販売が100%ではなかったりドリンクのみでフード系の提供が不要だったりというプラス面もあった。(ここはプラスと言わせて欲しい)
フード系の持ち込みがない、これがマジでありがたい。
撒き散らかされたポップコーン、踏まれて粉々になったポップコーン、シートにへばりついたポップコーン、ドリンクとない混ぜになってカーペットに染み込んだポップコーン、お子様のゲロとなって噴射されたポップコーン、それらが一体となってスタッフに襲いかかって来る、映画館とはそういう場所なのである。
ドリンクだけなら手に負える。
拭けばいい。拭けばいいだけなんだ。
鬼滅がすぐそこまで近づいている。
スタッフがいない。
スタッフが足りない。
上に訴えても補充されない。
もうここ数年間、ずっとそうなのである。
あの頃鬼を滅していたベテランスタッフ達は、5年間の間に散り散りになってしまった。
人数も知識も経験値も、何もかもが足りていない中おれたちは無限城を迎える。
お盆を含め長くなるであろうこの戦いは、初週の三連休で終わるかもしれない。(現場崩壊と言う意味で)
と言う訳でみんなへおねがい。
もしもポップコーン買おうかなーと思ってくれるなら、1時間前に来て買って欲しい。
映画の時間に間に合うか不安だったら、近くのスタッフに「本編開始時刻」を聞いて欲しい。
それを踏まえて売店の列が間に合いそうになかったら、遠慮なくポップコーンを諦めて欲しい。
お気遣いサンキュー、でもポップコーンより映画を優先してくれて構わない、むしろして欲しい。
ポップコーンはともかく、ドリンクやその他フード系を1時間も前に買っておけない?
それはもう、そうなんだけど、もうほんとそうなので、そうなんだよねー。
今回の「城」は長丁場になるので、ドリンクは天敵かも知れないとだけ言わせて欲しい。
気持ちは同じだ。
忙しいだろうけど熱中症にならないよう水分をとって、座れそうなタイミングがあったら座って休憩しよう。
朝は必ず来る。
この長い夜(夏休み)をみんなで乗り越えよう。
用意するもの
・水少量
買うの恥ずかしかったら工作に使うんです〜みたいな顔でセルフレジにいけばいい。
やり方は簡単。
普段カラスの行水してる人は、人間の風呂の長さを意識する。手がふやける直前がベスト。ふやけても問題はない。
甘皮のある爪を用意する。足でも手でも可。
③ ウッドスティックに一瞬水を含ませて、斜めカットになった方を爪に優しく当てる。
擦る。
擦る。
爪の横の溝にも湿ったウッドスティックを差し込んで垢を掻き出す。
爪の裏の汚れもついでに掻き出す。足臭いやつは特に念入りにする。
ぼろっぼろ甘皮出てくるので、払う。もう一回こする。
④ すべての爪に行っていく。初めて甘皮処理をする人は大変なことになっているので、手と足別日でもいいかも(甘皮が乾いてしまうので)
※ニッパーなどがあるなら取り切れなかった甘皮を切ってしまおう。何もないなら、初心者は危険なのでやりすぎないこと。
⑤ コットンで拭く。乾いたコットンでも、アルコール除菌含ませても、化粧水でも、好きにして。
⑥ネイルオイルを爪の周りにしっかり塗る。ニベア等クリームならパックするつもりで。
これで爪でかくなるし、清潔感爆上がりするし、臭いもちょっとよくなったりする。
別に毎週毎月しろとは言わないが、一度もやったことが無い人は角栓押し出しや耳かき動画レベルの心地よさがあると思うので、この快感を味わってほしい。
男女比較したらどうあがいてもホルモンや身体構造的に男のほうが臭くなりやすいのは事実なんだから「女だって臭い!男が臭いなんて差別!」って騒ぐ間に臭さ対策をちょっとでも試してみればそれだけで一歩抜きん出られるのに何をそんなに抵抗したがるんだろ
「男女比較したら男のほうがホルモンや体の構造的に力が強くなりやすい、運動能力が高い」ってのと一緒だよ
素直に風呂入った時に殺菌成分入りの石鹸類で肘裏膝裏耳裏などの凹み部分をしっかり洗うとか、洗濯は酸素系漂白剤を追加し、洗ったらすぐ天日に干すか乾燥機、たまにオスバン浸け置きで徹底除菌するとかの些細なことの積み重ねでめちゃくちゃ変わるぞ
さすがに30年も生きてると色んな方法駆使して普通の日は周りに迷惑かからない程度に臭いを抑える方法は習得してるわけよ
ただ、今日みたいな、急に湿気増えてちょっと気温上がった日は想定外に臭うこともある
体調悪かったりすると思ってるより臭い抑えられなかったり風吹いた時に臭いしてるなってわかる時もある
仕事中は手離せないから昼休憩とかで必死に臭い消すんだけど、やっぱり自分でもわかるじゃん あ、今臭いしてるなって
(気づかないふりしてくれる人もいるけど、正直増田はあからさまにされる方がやっぱ気のせいじゃない!今臭ってる!ってわかるから助かる 悲しくはなるけど)
でも普段めちゃくちゃ気を遣ってる(臭いは比較的抑えられてるはず)のに、今日みたいな想定外の日のせいで「あの人臭いエチケットしてない」とか「あの人ワキガだよ」とか言われてたらどうしようって不安がある
あと急遽臭い消したい時コンビニに汗拭きシートあるの助かるけど、大体香り付きだから時間が経つと臭いが混ざってトンデモになるのでできれば無臭も置いておいてほしい
ワキガの臭い無理な人ほんとごめんって思いながら夏は生きてる…
正直好きで遺伝してるわけじゃないのになんで謝らなきゃならないんだろうって思う
人の集まるところ行きたくない
昨日大阪メトロ谷町線に乗った後目が充血して痛くて眼科行ったけど
診断してもらったらウイルス性だった。去年と同じだ。
去年も天しば公園内の美術館に行った帰り大阪メトロ谷町線に乗って帰宅した後目が異様に痒くなって翌日充血してて眼科に行ったら同じくウイルス性の結膜炎だった。
いつもちゃんと手指を消毒してたのにつり革握る時は手袋してたのに何でかなと思ったけど
エスカレーターは名古屋とか埼玉では両側を手摺りを持つことが条例で義務付けられてるらしいけど大阪ではやってるのかな?
常に他の乗客が片側、大阪だと右側に乗って左側を空けた状態である。
昔自分も片側に乗ってたら後ろからキャリーバッグ持ったジジイに突き飛ばされるような感じでどつかれて怪我したのよね。
それ以来両側の手摺りを持つ事にしてたんだけど普通は除菌してる思うやろ
してないんだろうな。だからその時も手摺りを素手で触ったのこの時だけだったから間違いなく手摺りを素手で触ったのが原因でウイルス性の結膜炎になったんだろ
別に大阪メトロに責任取れとは言わんけど片側通行にずーっとしてるから、全然止めもしないから結膜炎になったんだ、もしかしたら別の所を怪我してたかもしれないしたまたま2回とも同じ病気に罹患してたからな
外国人観光客多いからマナーとかエチケットを守らない大阪人に加えてだからそもそも除菌常にしないと行けなかったのに怠った自分にも責任がない事はないけど
両側の手摺りを持つようにルールを定めない、もしくは片側通行に何ら罰則を付けたり禁止にしなかった大阪メトロ側の責任は重いよ
個人がどうこうの問題じゃない、大阪メトロの衛生面での怠慢が何度もこの問題を引き起こしてる事実にいい加減恥じるべきだね
でないとまたウイルス性の結膜炎に罹患するだろ!手摺りが汚いせいで不用意に触って罹患するだろ!大阪メトロは病原菌をまき散らすな。ちゃんと毎日毎時消毒しろ!それかエスカレーターの片側通行を禁止しろ。ほんま頼むで!
私たちは日常的に「清潔であること」を当然の価値として受け入れている。しかし、その「清潔」は本当に普遍的で客観的な概念だろうか?また、清潔をめぐる価値観や制度はどのように形成され、誰にとっての利益になり、誰を排除してきたのだろうか?
こうした問いに向き合うのが、「清潔論(Cleanliness Studies)」という比較的新しい学問領域である。
清潔論は、文化人類学、衛生学、都市社会学、ジェンダー研究、精神分析などの知見を横断的に統合し、「清潔」という概念の歴史性・構築性を検討する学際的分野である。特に21世紀初頭のパンデミック(COVID-19)を契機に、「衛生」が公共空間の秩序や身体管理の手段として再定義されたことが、清潔論の形成に大きな影響を与えた。
初期の清潔論は、ミシェル・フーコーの生権力論やメアリー・ダグラスの「汚れとは場違いなものである」という視点に影響を受けつつ、現代的な社会実践へと接続されていった。
清潔論が注目するのは、清潔/不潔の区分が単なる衛生上の問題ではなく、社会的・政治的な境界線として機能している点である。たとえば、近代都市の公衆浴場の設計、学校教育における手洗い指導、家庭内での掃除の役割分担──これらはすべて、清潔が「正しい市民」の条件として機能している証左である。
こうした現象は、「清潔線引き(cleanlining)」と呼ばれる。これは、誰が清潔で、誰が不潔かを暗黙に定義することで、社会の内外を分ける行為である。
近年、特にSNSや就職活動、恋愛市場などで頻繁に語られるのが「清潔感がある人」への評価である。だが、この「清潔感」は極めて主観的で、実際の衛生状態とはしばしば無関係である。
清潔論では、こうした現象を「視覚的衛生性(visual hygiene)」と名付けている。これは、身だしなみ・服装・香り・体型・肌質など、外見に現れる清潔イメージの集合体であり、文化的・階級的バイアスを含んでいる。
たとえば、同じ髪型や服装でも、社会的背景や人種、性別によって「だらしない」と見なされるか「洗練されている」と見なされるかは異なる。視覚的衛生性は、単なる個人の努力ではなく、社会的に構築された規範と審美である。
さらに、「清潔感がない」とされることは、恋愛や就労の機会の剥奪につながる。これは、「清潔感資本(cleanliness capital)」という新たな資本形態として分析されている。清潔感を備えた身体や外見は、現代社会における市場価値を決定づけるファクターであり、その配分には明確な不平等が存在する。
現代社会では、抗菌・除菌・無臭化といった商品があふれ、「自分自身の不潔さ」への恐怖を煽るマーケティングが常態化している。これにより、清潔の基準は過剰化し、「過剰清潔主義(hyperhygienism)」とも呼ばれる状態が蔓延している。
過剰清潔主義は、アレルギーや免疫機能の問題だけでなく、精神的な強迫観念や、他者への「不潔レッテル貼り(dirty-tagging)」といった社会的排除を生み出す。こうした病理的な清潔観は、現代の都市生活における新たなリスクとも言える。
清潔論は、「汚れを落とす」という単純な行為の背後にある、権力と規範の構造を照射する。私たちはどのように清潔を欲望し、どのようにそれを他者に要求し、また拒絶してきたのか。それを問うことは、すなわち私たちが「どのように他者と共に生きるか」を問うことに他ならない。
歯軋りがすごく歯医者で就寝用マウスピースを作ってもらったのだが、装着すると2時間ほどでムズムズと歯に違和感がある。マウスピースは慣れないうちは違和感があるらしいが、そんなレベルではなく明らかに歯に良くない感じのムズムズがする。
それを解決した話をする。
歯の定期クリーニングに通ってる時に、奥歯が痛いと相談した。1人目の先生は、治療後の奥歯に菌が入ってるからだと、消毒を提案した。消毒というと聞こえは良いが、治療した歯を一度開いて傷口を消毒し、また閉じるらしく、痛々しい治療内容だった。怖くて一時保留にした。
2人目の先生に相談すると、歯軋りのせいではないか、と言われた。右の奥歯が痛くて、左の奥歯もそこそこ痛かったのだが、両方の奥歯が痛い時は歯ぎしりの可能性が高い、とのことだ。
そこでマウスピースを作ってもらい、経過を見ることにした。すごい、マウスピースをして寝ると痛みが治った。原因は歯ぎしりだったのだ。1人目の先生を信じなくてよかった。
しかし、問題が発生した。就寝用マウスピースをつけて寝ると、最初の数日は良かったのだが、途中から歯がむずむずするのだ。
2時間ぐらいでムズムズが最高潮に達し、外すとなんとなく歯がグラグラ動くような気がする。明らかに歯に良くない何かがある。
調べても「慣れるまでは違和感がある可能性がある」程度の内容しか出てこない。そんなレベルじゃあない。
ちなみにこのムズムズ、1週間ほど放置するとムズムズしなくなる。だからたまに装着するだけにした。しかし、歯ぎしりのせいで、たまの装着では間に合わなくなる。
ムズムズの原因は菌ではないか,と思い始めた。
恥ずかしながら、マウスピースの洗浄に使っていたコップを毎回洗浄していなかったのだ。そのせいで菌が残り、ムズムズにつながったのではないだろうか?
効果があったかはイマイチ分からないが、コップは毎回洗剤で洗浄するようにした。(まあ当たり前だが。)
コップの洗浄だけではまだムズムズがあったため、菌を完全に滅するために紫外線除菌装置を買った。3000円ほどだった。
効果は多少はあったかもしれないが、しかしまだムズムズする時がある。今ではもう使っていない。場所を取るだけのゴミとなっている。
実はそれまで入れ歯用の洗浄剤を使っていた。Amazonで大量に購入してしまったもので、6セットも買ってしまったのでずっと使っていた。それを就寝用マウスピース専用の洗浄剤に変えた。効果はあまりよく分からないが、専用のものを使った方が良いらしい。
いまいちこれまでの方法で解決しなかったので、落ち着いて歯に装着したマウスピースを手で触ってみた。なんとなく歯茎に刺さってる気がした。
マウスピースをハサミでジョギジョギ切り、歯茎に刺さらないようにした。試行錯誤を重ねながら、かなり大規模に切った。
歯茎に刺さらなくなり、ムズムズがほぼなくなった。そう、マウスピースが歯茎にささり、歯がむずむずしていたのだ。
ほぼムズムズすることもなくなったのだが、時々ムズムズすることがあった。そこで試行錯誤をした結果、マウスピースに水分が残っている状態で装着するとムズムズしやすいことがわかった。
洗浄後と使用前によく水切りするようにすると、ムズムズしなくなった。
今までの対策でほぼムズムズはなくなったが、それでもムズムズすることはある。そんな時は完全に装着せず、咥えるだけにしていた。ちなみにこれが可能なのは、スポーツ用マウスピースで使われるゴム製のマウスピースだからかもしれない。普通の就寝用マウスピースは固いので、うまく咥えるだけに出来ないかもしれない。
歯がむずむずする人の助けになればと思う。