はてなキーワード: 嚥下とは
楽しい仮定ですね。結論だけ先に言うと、「胃の中だけが宇宙」なら“秒”ではなく、普通に生き残ります。何が「宇宙」なのかで話が変わるので、代表ケースでざっくり目安を書きます。
ケース別ざっくり結論
→ その場で致死にはなりません。胃は外から1気圧で押し潰される形になり、内容物は凍り・気化。強い吸引で嚥下路が引かれて激痛・嘔吐・粘膜損傷・出血リスクはありますが、「数秒で死亡」は起きません。医療的には緊急事態ですが、生存可能。
• 胃の内部=外宇宙の放射線環境(真空+宇宙線が胃粘膜に直撃)
→ これでも秒では死にません。被ばくは局所(胃壁)に集中し、急性致死線量に一瞬で達するほどではないので、生存は日〜年オーダー(がんリスクは上がる)。
• 体全体が宇宙空間に露出(参考の“よくある勘違い”ケース)
→ 意識消失:10〜15秒、迅速な再加圧がなければ数分で致命的。※ただしこれは「胃の中だけ宇宙」ではない。
• 胃の中にブラックホールがある
→ マイクロ黒穴(極小)ならホーキング蒸発で瞬間的に莫大なエネルギー放出→即死級(≪1秒)。
天体規模の黒穴とつながるなら、潮汐力や吸い込みでほぼ即死(≪1秒)。このパターンだけは“秒どころか瞬時”。
• 胃の中に“本物の星(太陽級の発光体)”がある
→ 放射・熱流束が桁違いなので、やはり即蒸発・即死(≪1秒)。
「俺の胃袋は宇宙だ」を“胃の中が真空になってるだけ”と解釈するなら、私たちは秒では死にません。激痛・嘔吐・出血・穿孔の危険は高いものの、適切な処置があれば生存可能。
“秒で終わる”のは、ブラックホールや恒星が入っているなど、物理的に桁外れのケースだけです。
「その台詞を使っていた人は『自分が食べられる量はとても多い』という事を伝えるためにその表現を使っていました。
つまり、口から喉を経由して胃袋に入ってもいくらでも物体を吸入することができる、という意味合いで“宇宙”という単語を使われていたようです。
もし本当に宇宙空間が胃袋の中にあるとして、宇宙を内包している胃袋や胃袋の周囲の内臓、肉体などはその質量差で宇宙の方に引っ張られたりはしないのでしょうか。」
なるほど、つまり「胃袋の中に“広大な宇宙空間そのもの”が存在している」と物理的に考えた場合ですね。
この場合、鍵になるのは「宇宙の質量と重力をどう扱うか」です。
⸻
もし胃袋の内部が「外宇宙とつながった真空空間」だとすれば、重力的な質量はありません。
ただし、口を開けると空気や食物が無限に吸い込まれていく(地球大気は胃袋空間に流れ込み続ける)ため、実際には本人も周囲も吸い込まれて大変なことになります。
いわば「ブラックホール」ではなく「大気に開いた穴」に近いイメージです。
⸻
2. 宇宙=“我々の宇宙と同じ規模”を丸ごと内包している場合
もし胃袋の中に「銀河や恒星を含む“宇宙全体”」が存在するとすれば、その質量はとてつもない。
たとえば観測可能な宇宙の質量はおおよそ 10^{53} kg と言われています。
そんなものを人間サイズの胃袋に閉じ込めれば、その時点で外側の肉体ごとブラックホール化して瞬時に潰れるでしょう。
質量差どころではなく、全身が重力に押し潰され、数秒どころか瞬間的に存在を維持できなくなるはずです。
⸻
SF作品やファンタジーでよくある「内部は無限に広がるが、外部には重力影響が出ない」ケース。
これは「四次元ポケット」「ワームホール的な収納空間」の扱いです。
この場合、胃袋の外側に重力的な影響は及ばないので、本人は普通に生きられます。
食べ物や物体を胃に入れると、その“別次元の宇宙”に移動するだけ。
⸻
まとめ
• 真空だけ → 質量なし、引っ張られない。ただし周囲の空気が吸い込まれる。
• 宇宙ごと内包 → 質量桁外れ、本人ごとブラックホール化して瞬時に消滅。
• 別次元のポケット宇宙 → 重力の影響ゼロ、普通に「無限に食べられる」演出が可能。
⸻
本物の宇宙を抱え込むなら即崩壊、ファンタジー的な“重力を遮断した別次元宇宙”なら安全というのが答えです。
――もし現実的に“胃袋ポケット宇宙”があったら、ユーザーさんはどのタイプをイメージしますか?
「その台詞を使っていたキャラクターも最終話になるにつれて身体にガタが来ていたので、内部崩壊は起こしかけていたのだと思います。
もし、そのキャラクターが本当に宇宙を内包していた場合、その肉体の強度はどれほどの数値になるかと思いますか?
年齢としては成人してから何度も大量食いをして逸話が語られるレベルになっている程なので30歳までの成人男性だとは推定します。」
おもしろい前提!「胃の中が“宇宙”」でもどういう宇宙かで必要な“肉体スペック”が変わります。数値の目安を置いて、現実の生体強度と突き合わせます。
A. 重力は外に漏れない“ポケット宇宙(四次元ポケット型)”
• 重力・質量は外界に見えない。外側の体は通常の力学だけ受ける。
• それでも“吸い込み(負圧)”は起こる。口~咽頭~食道にかかる圧差ΔPが最大で**1気圧(≈0.1 MPa)**クラスだとしても、
• 口の開口部A≈2×10⁻³ m²(親指2本分くらい)なら吸引力F≈ΔP·A≈200 N(≒20 kgf)。
• 10倍の強い吸い込み(1 MPa ≈10気圧)が瞬間的にかかると**2000 N(≒200 kgf)**級で咽頭・食道を傷めがち。
• 生体材の引張強度(オーダー):胃壁・消化管は~0.5–2 MPa、皮膚~2–30 MPa、腱~50–150 MPa。
• よって~1 MPa級の持続的な負圧イベントが日常化すると、粘膜裂傷・出血・微小穿孔→瘢痕化などの“ガタ”は十分あり得ます。
• 結論:超人ではなくても成立。ただし“たくさん食うほど負圧イベントが多発→慢性損傷”で、最終話のガタと整合。
B. 胃の中に“実在の質量が近傍にある宇宙”(重力が外に伝わる)
• 体が受けるのは潮汐力(重力の勾配)。体長L≈1 mの端と端の加速度差
Δa ≈{2GM}{r^3} L
を**10 g(≈98 m/s²)未満に抑えたいとする。胃の“喉”から宇宙側の最近接距離r≈1 mと置くと
M < {Δa r^3}{2G} ≈{98 ・ 1}{2 ・ 6.67×10^{-11}} ≈{7×10^11kg}
つまり~10¹² kg(大きめの小惑星)**を超える有効質量が“近くに見える”と、10 g超のスパゲッティ化が始まる。
• これを耐えるには骨格や結合組織が**>100 MPa級**の材料相当で、さらに循環・神経が10 g環境に耐える必要があり、人間には非現実的。
• 結論:もし重力が外に漏れるタイプなら、“近距離に感じる有効質量は10¹² kg未満”が生存限界の目安。銀河級の質量を抱えたら即アウト。
C. 胃の中が“真空だけにつながっている穴”(質量なし・放射は来る)
• 力学はAに近い(引張は負圧起因)。
• ただし宇宙線・紫外~X線が胃粘膜を直撃 → 放射線性胃炎・潰瘍・発がんリスク↑。
• 最低条件(A/C型)
• 粘膜・筋層が~1 MPa級の負圧ストレスに反復耐性(治癒再生が速いことも含む)。
• 咽頭・食道・胃噴門の弁機能が高出力で、誤嚥や逆流を最小化。
• 放射線が漏れる設定ならDNA修復能↑や粘膜更新の超高速化が欲しい。
→ 人間ベースでも“若干タフ寄り+治癒力ブースト”で成立、でも長年の酷使でガタは妥当。
• “見かけの近傍”にある有効質量が~10¹² kgを超えない配置(ポータルの幾何で遠ざける等)が必須。
• そうでなければ**>100 MPa級の組織強度や10 g環境での循環維持など、人間離れの改造が必要。
→ 現実の人間生体では不可**。最終話の崩壊どころか早期に破綻。
⸻
• 台詞の“宇宙”を**「重力が外に漏れないポケット宇宙」**と解釈すれば、
• 必要強度は**人間範囲の上限~ちょい超え(~1 MPa級の反復耐性)**で説明可。
• 長年の“大量食い”で粘膜損耗→瘢痕化→機能低下=最終話のガタはリアル寄り。
• “本当に重力まで持つ宇宙”なら、10¹² kg級の有効質量が近づいた時点でアウト。物語的にはそこを巧みに“遠ざける”設定(ワームホール幾何)でしか成立しません。
「胃袋はポケット宇宙の“喉”で、重力は外に漏れないが、吸い込み時に最大1 MPa級の負圧パルスが咽頭~胃壁に走る。その反復で粘膜がボロボロに…」
――こんなメカニズムだと、台詞も最終話の崩れ方も綺麗に繋がります。
「もしその人物が倒れて身体が崩壊するようなことが起きた場合、周辺にどのような影響が出るでしょうか」
いい想定ですね。「胃の中に宇宙を抱えた人物が崩壊した場合」を考えると、ポイントは
1. 胃の中の“宇宙”はどう存在していたのか(ポケット型か、実質的な質量を持つか)
2. その“閉じ込め”を維持していた肉体が壊れた時に、内と外がどう接続するか
⸻
ケース別シナリオ
• 胃袋は単なる「ゲート」。肉体が崩壊した時点でゲートが閉じる。
⸻
• 周囲は**強烈な突風(内側への吸引)**に巻き込まれる。
• 屋内なら建物を壊すレベル、屋外なら局地的な竜巻・爆風のような現象。
• その後は「真空穴が閉じるかどうか」次第。閉じなければ周囲は窒息圏。
⸻
• 胃の宇宙の質量が“外界に直結”した瞬間、周辺の空間ごと重力崩壊。
• 例:10¹² kg(小惑星質量)規模でも、半径数 m の範囲は数秒で地盤沈下・吸い込み。
• 実際に「銀河規模」を抱えていたなら、惑星ごと飲み込まれて即終わり。
⸻
• 宇宙の「真空放射」「恒星の光」「宇宙線」が制御なしに溢れる。
⸻
まとめ
• 惑星規模の災厄:質量内包型 → ブラックホール化で即滅亡。
⸻
つまり「最終話で身体が崩壊」という演出が周囲に“どのくらいの悲劇”を残すかは、
――質問ですが、ユーザーさんが想像しているその人物の“最期”は、
それとも、静かに個人が崩れるだけのポケット型(①)に近いイメージでしょうか。
「やっぱり宇宙を自称するとそうなるよなぁというのを検証してもらいました。
どういたしまして!✨
「胃袋=宇宙」という表現を物理で真面目に検証すると破滅的シナリオに直結するのは、ある意味で“宇宙”のスケールの恐ろしさをうまく物語に重ねられてますね。
だからこそ、日常的な「大食いキャラの比喩」としては面白いし、
物理的に掘り下げると「やっぱり宇宙なんて抱え込んじゃダメだな…」となるのが味わい深いです。
またこういう「台詞をガチで科学検証」みたいな遊び、ぜひ持ってきてください。
すごく楽しかったです!
参政党が胃瘻やめろとか無茶苦茶な医療政策で煽ってるのでまずは端的に。( https://www.jcp.or.jp/akahata/aik25/2025-07-06/2025070602_04_0.html ただしソースは赤旗だが)
いいたいこと
詳しく解説しよう。
これは実は胃瘻に限らず、なのだが、保険医療というのは患者が希望すれば無制限にできるものではない。
保険が適用される条件というのは、それを実施する事で患者の病気がよくなったり、QOLが向上したりするものや、その可能性があるものに限られる。
だから、胃瘻はQOL向上に有効ではない場合は行われないのだ。そもそも医師から選択肢として提示されない。
もちろん、胃瘻をしたが1年で死んだから、胃瘻は無駄だった、とか結果論はありうるが、そこは色々な状況があるから簡単には判断できない。その場その場で最善を尽くしていくしかないのだ。そして、今でも医療の研究者は、その精度を上げるべく日々統計情報を集めているし、研究を行っている。
また、暴論として「胃瘻をしたが寝たきりから回復しない。あの時点で胃瘻を選択しなかったら栄養が取れずに死んでいたわけで、これは胃瘻による無駄な延命だ」というようなものがあるが、これは単に寝たきりは殺せと言うこことしか言って無いことが分かるだろうか。
治療を放棄すれば人間は簡単に死ぬのである。インフルを拗らせたら点滴をしないだけで人は死ぬ。治療を施せばその後もQOLを維持しつつ暮らせるのにやるなという理由は、俺が役立たずだと思う奴は殺せと言う意味しか無いのだ。
胃瘻はいちど胃瘻医したら外せないもの…と言う誤解は根強くある。これは半分は事実だが、半分は事実ではない。
高齢者などで、点滴などを選択せず、胃瘻にするほうがQOLがよくなる、と言うことで、看取りの医療として胃瘻が選択されることはもちろんある。しかしそれですら全てではない事はあまり知られていない。実はその割合は胃瘻導入の4割を超える。
病気により、長期間口から食事を取れなかった人は、嚥下能力が落ちていることからいきなり食事を戻す事ができなくなることはよくある。そこで、まずは胃瘻を作って胃腸を使い始め、胃瘻を使いながら、徐々に口から食べられるように嚥下トレーニングを進める、ということは当たり前にあるのだ。実はその割合は、ある統計では、胃瘻を作る人の4割を超えるのだ。
恐らく多くの人の感覚よりもずっと多いのではないだろうか?
また、嚥下トレーニングは発達がめざましく、嚥下トレーニング用の食事なども多く販売されるようになってきていて、快復率もあがっている。最終的には胃瘻廃止ということになるが、そこまで行くためのプロセスとして、胃瘻は有効な医療手段なのだ。決して一度作ったら外せないものでも、回復が見込めない場合だけに作るものでもないのだ。
最後に、胃瘻を「延命治療だ」と言うのがそもそも間違っている。
全身状態が悪く余命が1年以内から数ヶ月と言われるような終末医療の対象になるような人や、ほとんど会話が不能なほどの重度の認知症患者に対して、単に胃瘻を施しても延命効果がないことは、日本でも、世界でも何度も研究で示されている。これを曲解して「延命効果が無いのに胃瘻をつくるなんて無駄な延命治療だ」という事を言う人がいるが、これはそもそも胃瘻は延命治療扱いされていないので行われていない。主張からして的外れなのだ。
状態が悪い場合では、QOLが向上する見込みがなければ胃瘻はしない。QOLが向上する見込みがあるなら看取りの医療の一環として胃瘻はする。しかし、延命効果は統計的には無いことを承知の上で行うと言うことである。
これは、欧米で発表された「全身状態が悪い患者に胃瘻を施しても、延命効果は無い」という大規模な解析結果が曲解されたと言う事による。これは元々欧米で、だから胃瘻を作る場合は有効なときだけにしようね、と言う話だったはずだが、何故か北欧信仰と混ざって日本に来てしまい、日本の延命治療批判になってしまった。
ところが、それを受けて厚生労働省の研究チームが胃瘻の実態調査をしたところ、欧米とは状況が違うことが見えてきた。まず、日本の場合は欧米よりも早い段階で胃瘻の導入が決断される事が多いが、その分、胃瘻を中止できる割合もかなり高いという事が見えてきた。患者の予後に有効な場合に胃瘻を導入していたということである。胃瘻をすることが寝たきりの増加を引きおこしている、という批判は実態を反映していなかったのである。
また、同じように全身状態が悪い感化に対して、胃瘻をした場合としない場合の解析が行われようとしたが、そもそも延命だけをねらった胃瘻というものは、日本では当時からほぼ行われていなかったため、データが集まらないという状況も発覚した。
とはいえ、政治案件になっていたため、研究報告としては胃瘻の終了目標率というものが設定された。経口摂取に戻れるように嚥下トレーニングや誤嚥防止に力を入れようと言うことになり、これは現在に至るまで患者のQOL向上に資する形になっているので怪我の功名とも言えるかもしれない。
特に、胃瘻は無駄な延命で作る段階になると死ぬようなものだから、と頑なに拒否する人がいて、医療関係者が説得に苦労するというのはよくある話だそう。家族は承知していても、カリフォルニアから来た娘 ( ※慣用句 ウィキペ参照 ) がそう主張して大暴れみたいなことがおこるらしいので、せめて認識をアップデートしてほしい。
また、政党は、そうやってとっくに否定された古いイメージを今更煽るのはやめてほしい。
あと、費用面からいくと胃瘻は比較的リーズナブルに患者のOQLを向上させる事のできる医療なので、医療費の面からも批判する理由はあんまりないんだよ。胃瘻を拒否って療養型病床をずっと占有するよりは胃瘻を作って自宅で介護受ける方がコストも安いし本人も楽だし、いろいろなことができるし。
実際十字架は捜査ツールとして認められてないだろうというツッコミはおいといて。
可動域を極力少なくすればいいということはまず考えがちなことだが、
採血というのはとても繊細な作業のはずで。身じろぎされるだけでもだいぶ支障をきたすはずだ。
一定の太さの血管に一定の太さの針を刺すというのは想像以上に細かいスケールのことで、容疑者にその気になられて少しでも身じろぎされるだけでもだいぶ難航するのではなかろうか?
何より捜査といえどもこの段階ではまだ相応の人権が保障されるのでむやみな侵襲があってはならないはずで相手が暴れているからと「下手な弾数うちゃ当たる」な感覚で一分の間に30発みたいな間隔で乱暴にブスブス刺しまくっていいことにはならないだろう。
確信を持って狙った血管に刺せるというタイミングでのみ刺すという原則はたとえ医療行為ではなく捜査行為においても医師側に義務として課せられているはずで、そこを逆手にとられるのではないが。
そもそも採血よりも嚥下物を強制的に採取ということのほうがもっと問題がある。
嚥下物の採取には吐剤を飲ませることが前提にある場合があるが、相手が口をふさいでいるかぎり飲めないではないか。
まさか拷問でありがちな、飲ませたいものを飲ませるために鼻を手でつまんで口を開けなければ息ができないような状態にする、みたいな措置が現行法で許されているようには思えないのだが、どうなのだろう?
オナラ(腸内ガス)は、ほとんどの動物に共通する生理現象である。しかし、その存在は多くの社会においてタブー視される一方、ユーモアの題材としても頻繁に扱われる。本研究では、オナラを単なる排泄行為ではなく、科学的・社会的な視点から多層的に分析することを目的とする。
オナラは主に嚥下された空気(外因性ガス)、腸内細菌の発酵(内因性ガス)、血液中のガス拡散という三つの要因によって発生する。特に腸内細菌の活動が、オナラの主成分と匂いの決定要因となる。オナラの成分には窒素(N₂)、水素(H₂)、二酸化炭素(CO₂)、メタン(CH₄)、硫化水素(H₂S)などが含まれる。なかでも、硫化水素やメタンチオール(CH₃SH)が強い臭気を持つため、オナラの「匂い」の決定要素となる。
オナラの成分は食事内容に大きく依存する。高タンパク食品(肉、卵)は硫黄化合物を増やし、炭水化物中心の食事(豆類、野菜)は水素やメタンの割合を増やす。特に硫化水素(H₂S)は「腐った卵の匂い」、メタンチオール(CH₃SH)は「腐ったキャベツの匂い」を持ち、これらの濃度が高いと悪臭が強まる。また、水素(H₂)とメタン(CH₄)は可燃性を持ち、オナラに火をつける行為(俗に「オナラ火炎放射」)が可能である。この現象は、ガスの化学組成と密度に依存する。
多くの社会では、オナラは礼儀に反する行為とされるが、一方で歴史的には異なる価値観も存在する。例えば、古代ローマではオナラを我慢することは健康に悪いとされ、中国の一部の伝統医療では「体内の邪気を出す行為」とも考えられていた。また、オナラは喜劇の定番ネタとして世界中で扱われている。日本の「屁合戦」、フランスの「ペトマーヌ(オナラ芸人)」、アメリカの映画における「トイレ・ユーモア」など、多様な文化に見られる。
近年では、腸内フローラ研究の発展により、オナラが健康指標の一つとして扱われることが増えた。また、炭酸ガス排出に関連したエコ視点からの研究も行われている。
本研究では、オナラの多重構造を生理学、化学、社会学の視点から考察した。オナラは単なる排泄物ではなく、腸内環境の指標であり、文化的意味を持つ現象である。今後は、オナラの科学的研究が進むことで、腸内環境改善や医療分野での応用が期待される。
妻のがん治療を続けてきたが、どの治療も効果を上げることができず、先月から自宅で終末期の緩和ケアを行っていた。
訪問看護の助けを借りながらも、落ち着かない日々が続いていたが、とうとうその時が来たようだ。
妻とは二人暮らしで、お互いの家族とは遠距離に住んでいるため、すっかり疎遠になっている。
妻ががんと診断されてからは、毎回診療に付き添い、できる限りの支えを続けてきた。
しかし、治療の甲斐なくがんの進行を抑えることができず、病状が急激に悪化して入院。その後、自宅で緩和ケアを行うことになった。
自分は毎日、家事と妻の介護をこなしながら、訪問看護師の対応や手伝いに追われる日々を送っていた。
毎日数回、看護師が来るという生活は思いのほか慌ただしく、自分も妻も十分に休むことができず、心身ともにしんどい日々だった。
それでも、クリスマスには少し奮発して豪華な食事とケーキを楽しみ、年末は年越しそばを作り、正月には鍋物を作ってあげたりした。
しかし、次第に妻が眠る時間が増え、食事も少ししか摂れなくなり、次第に水や果物だけが頼りの生活になっていった。
この頃、自分も妙に疲れてしまい、看護師が来る時間以外は寝てしまうことが多かった。
起きている時は二人でYouTubeを見たりして、わずかな時間を過ごしていた。
妻のアレフガルドに来たばかりのプレイ中のドラクエ3HD2Dを起動したままで。(ラーミヤがもっさりし過ぎて数日やめなかったらクリア出来ていただろうか?)
世間は長い連休だったようだが、その休みが明けた頃、妻との意思疎通が急にできなくなった。
がんが脳に転移して、その症状が出たのだろう。
それ以降は水分補給も難しくなり、弱っていく妻を見守るしかなかった。
1日に数秒だけ、言葉を理解しているように見える瞬間があるが、意識が覚醒するたびに「体が痛い」「苦しい」という訴えが繰り返される日々だった。
最後に妻が口にした食事は冷凍の果物だった。意思疎通があやふやな状態でも少しだけ食べることができたのだ。
水はもう飲めなくなっていたが、氷や冷凍果物はなんとか口にできた。
氷を口に含ませながら、「これで水分補給ができるね」と話していたことを思い出す。
その夜、冷凍みかんと冷凍イチゴを用意すると、妻は「おいちい、おいちい」と嬉しそうに食べていた。
「ごちそうさま、もういい」と言うので冷凍庫に片付けたが、戻ってくると妻は手をテーブルに置き、「もうない、残念。もっと食べたい。残念」と哀しそうにつぶやいた。
「まだまだあるよ、食べる?」と聞くと、妻は「もっと食べたい。眠い。1時間後に食べる。起こして」と言って眠りについた。
しかし、1時間後に起こした時には意識が朦朧としており、氷を食べるか尋ねると「食べたい」と答えたものの、嚥下が難しくなっていたため、すぐに口から取り出した。それ以来、意識がはっきりすることはなかった。
今思い出しても悲しくなる。すぐに果物を出していっぱい食べたと言わせるべきだった。今も冷凍庫の中にたくさん残っているというのに…。
その後の日々では、意識が覚醒するたびに体の痛みを訴える妻に麻薬を追加投与する生活が続いた。機械のボタンを押せば投与できるのだ。
さらに、痰が詰まる苦しみが加わり、ひどくなった時に看護師を呼んで吸引器で対応してもらったが、妻はそれをとても嫌がった。苦しいし気持ち悪いし辛いと言うのを前に入院した時に聞いていたので良く分かるが、それでも少しでも痰を取り除くしかなく、その間、妻の苦しむ表情を見るのがつらかった。
そんな日々でも、一日の中でほんの数秒でも、言葉を理解して反応してくれる瞬間があったことは、ささやかな救いだった。
そんな日々に何もできない自分が悔しくて、泣きながら「苦しませてごめん」と謝るしかなかった。
それに「愛してるよ」「大好きだよ」と元気なうちに最も伝えるべきだったと後悔した。
麻薬の効果が十分ではなく、体の痛みを完全にコントロールできない中、昼夜を問わず追加投与する日々が続き、自分もほとんど寝られなかった。
心身ともに追い詰められる中で、先日、点滴で眠らせるような薬を追加することになり、ようやく妻は安らかに眠れるようになった。
その穏やかに眠る姿を見て、久しぶりに自分も体を休めることができた。
妻の脈は次第に弱くなっていき、今日か明日にも…と医師から告げられた。
子供はおらず妻が居るからと生きてきた数十年。自分はこれからどう生きたものかな。
よく分からないや。
疲れてしまったのでここまで。
他に、家族に容体を伝えたこと、妻の友人に伝えたがちょっと迷惑な反応で心労が溜まったこと。看護師さんの何気ない言葉が妻をひどく悲しませたこと。終活の準備が全然出来ていないことなどを書くつもりだった。
元気や機会があれば書くかもしれない。
長文書ける人ってすごいな。
追記:
みなさん、本当にありがとうございました。
https://anond.hatelabo.jp/20250117215558
追記:
「ひと口30回噛んで、美味しく楽しく頂きましょう」と学校で聞いたことがある人が多いと思うのだが、結構過酷じゃないか?言ってることが。ひと口30回噛む、ということがどれだけ難易度が高いことか。
適量の白米を箸で取り、口の中に入れて、ひと噛み、ふた噛みと噛み進めていく。すると、ご噛みほどで「ちょっと嚥下させろ!!嚥下嚥下嚥下!!!」と本能が暴れ出してしまう。「ひと口30回」を実現するには、本能を何とかして抑え込まなければならない。しかし無理に抑え込むと食物が逆流し、「うぷっ」となってしまう可能性がある。これは避けたい。
そうとなれば、やはり高速咀嚼ではないだろうか。1秒間に何度も咀嚼をし、本能が暴れ出す前に30回のノルマを達成するのだ。やはりこれしかないだろう。これならば、確実にノルマも達成できるし、食物の逆流も防げるし一石二鳥である。
これで「ひと口30回噛んで美味しく頂きましょう」は達成できた。しかし、「楽しい」かと言われると、それはどうなんだろうか。高速咀嚼に意識が集中しすぎて、楽しくはないんじゃないか?食事において「楽しい」とは、「触覚、味覚、嗅覚、視覚(聴覚)を活用して、目の前の食べ物を味わうことに意識を使うこと」だとしたら、高速咀嚼は「目の前の食べ物を噛むことに意識を使うこと」だ。うーん、たぶん、楽しくない。それはただひたすら噛んでいるだけだもんな。味は分かるけど、ゆっくり食べるより味が薄く感じそうだ。
医療系っぽい人からのXへのポストで時々無意味な治療の話が出るんだけれど、そういうのってまれってこと?
医療的措置をしても本人が苦しむ期間が延びるだけで、やっても復活する可能性はないのに老人にその手の治療をして数か月・数年生かされるみたいな話を見るんだけれど
ああいのはフェイクなんだろうか。それとも、その数か月の延命は安いものなのでどんどんやれって話?
まれだね。逆にまれで珍しい話になっているからバズると言うことになる。今は治る見込みがなく苦しむ場合には、医師から事前に話があって、これ以上延命治療はせずに、終末期医療に移行することを勧められ、それを受け入れる患者と家族が大半。
で、玉木はその延命治療をせずに移行する先である終末期医療を見直すと言うと同時に、尊厳死と言う名の殺人の例外事項を作ると言う。しかもそれでは社会保障費の削減には繋がらない。
あと、延命医療で代表的なものは、胃瘻だよね。
スウェーデンとかだと胃瘻はあり得ない話で、自力で口から食事をとれなくなったら、あとは老衰を待つだけらしいのだが、日本だと胃から無理やり食事を入れる。
もちろん、そうならないためにかの国では老人に嚥下のトレーニングを相当やると聞く。
この話は1990年代に一部で問題視された話が都市伝説みたいに残っているだけ。今ではこんなことは無い。というかそう言うガイドラインになって20年以上たつ。
患者のQOLが向上すると言う時にしか胃瘻はしない。また胃瘻は無理矢理食事を入れている訳ではない。嚥下トレーニングは日本でも徹底的にやる。というか、胃瘻は嚥下トレーニングの補助として行われる。
スウェーデンは例外すぎて(直る病気まで放置する低医療社会で、それ故に経済社会が低迷している)それが理想ではないこと、スタンダードではないこと理解してほしい。
そして、日本は他国の参考になることはあっても、参考にできるような他国が存在しないような状況になっており、比べられる国は存在しない。
若い人が胃瘻をしてでも生きていくはまあわかる。その人たちはそれから回復するかもしれんし、50年以上の時間がある。
平均寿命を超えたような人たちにその手術を1割負担でやるのは何?
状態が改善し、QOLが向上し、回復するから。一割負担にするのは、その人がそれまでの人生で払ってきた社会保険税などよって得られた権利だから。
結果回復しない事もあるが、多くの医療は回復またはQOLが向上する事も目的として行うし、そうでない場合は行ってはいけない…行っても保険が適用されない仕組みになっている。
従って、よく「治療開始から半年で死んだから医療費が無駄だった。半年しかもたないなら安楽死させるべきだった」と言うような理論をみるが、これは結果論に過ぎない。
確実に半年で死ぬ事が分かっていたら治療から看取りに切り替えたし、そう言うガイドラインになっている。
例えば癌などではもう治療が不可能なレベルというのがわかりきっていて、延命ではなく終末期の医療に切り替わっていく。最近癌患者が直前まで元気で働いていて、いきなり亡くなって驚くことがあるだろうが、これは延命治療ではなく苦痛を取り除き、QOL向上をメインとする医療の成果だ。こう言うことが今は可能だ。
しかし、看取りに切り替えなかったのは当時は治療することで回復やQOLの向上が見込めるからだ。
医療系っぽい人からのXへのポストで時々無意味な治療の話が出るんだけれど、そういうのってまれってこと?
医療的措置をしても本人が苦しむ期間が延びるだけで、やっても復活する可能性はないのに老人にその手の治療をして数か月・数年生かされるみたいな話を見るんだけれど、
ああいのはフェイクなんだろうか。それとも、その数か月の延命は安いものなのでどんどんやれって話?
スウェーデンとかだと胃瘻はあり得ない話で、自力で口から食事をとれなくなったら、あとは老衰を待つだけらしいのだが、日本だと胃から無理やり食事を入れる。
もちろん、そうならないためにかの国では老人に嚥下のトレーニングを相当やると聞く。
もともと真面目なお父様がセクハラしまくっている姿を見るのは、多かれ少なかれショックだと思います。
(が、こんなセリフがすらっと出てくるぐらいにはあるあるです。)
認知症や、脳神経などの疾患による高次機能障害によって、セクハラの他にも、徘徊、暴言や暴力、
夜間に大声で騒ぐ、などなどの問題行動が出てくることもよくあります。
投薬を増やしたりと頑張っていたのだが、収まる気配はない
この辺りがどの程度「アグレッシブ」に行われたのかわかりませんが、施設での集団生活が続けられない場合、
かと言って他に行くところもなく、やむを得ずに薬剤的に「鎮静」を行うこともあります。
薬にも軽いものから強いものまで色々あり、軽いものでうまく行かない場合には強めの薬を使うこともあります。
ただ、長く使うと副作用で、目に光がなくぼーっとしている、体がうまく動かなくなる、嚥下の働きが落ちる
(誤嚥性肺炎を起こしやすくなる)、転びやすくなる、等々あり、
結果として鎮静しない場合(可能かは別として)よりも寿命が縮んだかもと言えることもあります。
上記副作用の可能性も承知している旨をアピールし(変なアドバイスになりますが、患者の家族が熱心なのは
良いのですが、全部最高の結果にしろというモンスターペイシェントの臭いがすると医師は警戒します)、
次に進まないかなあと思った次第です(ある程度の鎮静を是とする前提ではありますが)。
うまくいけば、動けなくなる程でない鎮静で、セクハラがゼロにならなくても施設職員が軽くいなせるぐらいで
生活が送れる様になればよいと思いますが、仰る様に難しいのかも知れません。
実際のところ、精神科の認知症病棟の様なところに入院する場合も同様で、集団生活ができないと
「場合によっては身体拘束することがあります、というか9割がた最終的には身体拘束すると思います」と精神科医には言われている。
この辺りも同じ話なのではと思います。
この話はよくわかりませんでした。私は癌の診療にも携わっていましたが(田舎なので、これ以上治療できない
段階になっても専門の緩和病棟などないので、緩和医療もやります)、認知症でもコミュニケーションが困難でも、
癌性疼痛があれば、表情からでも苦痛の程度を判断して医療用麻薬を使用します。
麻薬でせん妄を引き起こすこともありますが、せん妄も苦痛なので何とかコントロールします。
お父様と皆様にとって良い方向に行くことを願っております。
ガイドラインでは、誤嚥リスクのある宿主に生じる肺炎、と定義される。
そのうち最も多くを占めるのは高齢かつ進行した認知症患者が発症する誤嚥性肺炎である。
内科救急で最も多く経験する疾患で、入院で受け持つ頻度もかなり高い。
特異なことに、最も多く接する疾患の一つでありながら、専門家が存在しない。
肺炎だから呼吸器なのかといえば、呼吸器内科医は認知症への対応は専門ではない。
精神科は認知症診療が業務範囲に含まれるが、身体疾患が不得手である。
脳神経内科医は嚥下や認知症を専門領域の一つとするが、絶対数が少なく、専門領域が細分化されている。
そんなわけで多くの場合は内科医が手分けして診療することになる。
そういうわけだから、誤嚥性肺炎に対する統一的な見解はない。ガイドラインも2013年から更新されていない。また誤嚥性肺炎に関する文献や書籍はあるし、質の良いものが出版されているが、多くは診断、治療、予防に重きを置く。価値観に深く踏み込んだものは殆どみない。患者自身が何を体験しているかを推定している文章は殆ど読んだことがない。
病状説明も僕が研修医でほかの様々な医師の説明を聞いても、肺炎です、誤嚥が原因です、抗菌薬で治療します。改善しないこともありますし、急変することもあります、といった通り一遍の説明以上のことを聞いたことは殆どなかった。
もっともよく経験する疾患でありながら、どうするべきかの具体的な方針は大学教育でも研修医教育でも提供されないのだ。
にもかかわらず、認知症患者の誤嚥性肺炎は最も多い入院かつ、その患者は入院期間が長い傾向にある。入手可能なデータだとおおよそ一か月の入院となる。死亡退院率はおよそ15-20%で、肺炎としては非常に高い。疫学については良いデータがないが、専門病院などに勤務していなければ、受け持ち患者のうち5人から10人に1人くらいは誤嚥性肺炎が関連している印象がある。
誤嚥性肺炎は、進行した認知症患者ほど起こしやすい。そして、誤嚥性肺炎を起こすことでさらに認知機能が低下する。しばしば経口摂取が難しくなる。そして自宅や施設へ退院することが難しくなり、転院を試みることになる。
典型的には進行した認知症を背景に発症するので、意思決定を本人が行うことができない。患者は施設入居者であることも多く、施設職員がまず来院する。その後家族が来院して、話をする。肺炎であるから、治療可能な疾患の前提で話が進む。進行した認知症=治療不可能な疾患があることは意識されない。
ここでは、進行した認知症、つまり意思決定能力があるとは考えられない患者、今自分がどこにいて、周りの人がだれであって、自分の状況がどうであるかを理解できないほどに進行した認知症患者、と前提する。
退院してもらうための手段、という意味では治療は洗練されてきている。口腔ケアを行い、抗菌薬を点滴する。嚥下訓練を含めたリハビリテーションを行い、食事を早期から開始し、食形態を誤嚥しづらいものに変える。点滴を早期に切り上げて、せん妄のリスクを減らす、適切な栄養療法を併用して低栄養を防ぐ…。
そういったことを組み合わせると、退院できる可能性は高まる。身体機能も食事を再開できないレベルまで低下することはあまりない。
しかしそこまでして退院した患者は、以前の身体機能・認知機能を取り戻すわけではなく、少し誤嚥性肺炎を起こしやすくなり、活動に制限がかかり、介護をより多く要するようになり、認知機能がさらに低下して退院していく。
だから人によっては一か月とか半年後に誤嚥性肺炎を再び発症する。
家族や医師は以前と似たようなものだと考えている。同じような治療が行われる。
そこに本人の意思はない。本人の体験がどうなのかを、知ることはできない。
というか、進行した認知症で、ぼくらと同じような時間の感覚があるのだろうか。
本人にとって長生きすることの体験の価値があるのか、ないのかも知ることは難しい。
というのは逃げなんじゃないか。
状況認識ができなければ、そこにあるのは時間感覚のない快・不快の感覚だけではないか。だとすればその時間を引き延ばし、多くの場合苦痛のほうが多い時間を過ごすことにどれほどの意味があるんだろうか。
なぜ苦痛のほうが多いかといえば、状況を理解できない中で食形態がとろみ食になり(これは美味とは言えない)薬を定期的に内服させられ(薬はにがい上、内服薬をへらすという配慮がとられることはめったにない)、点滴を刺され、リハビリをさせられ(見当識が障害されている場合、知らない人に体を触られ、勝手に動かされる)、褥瘡予防のための体位変換をさせられ、せん妄を起こせば身体拘束をされ、悪くすると経鼻胃管を挿入される(鼻に管を入れられるのは、快適な経験ではない)
どちらかといえば不快であるこれらの医療行為は、治療という名目で行われる。
多くの医師は疑問を抱かずに治療する。治療される側も、特にそれに異をとなえることはしない。異を唱えるだけの語彙は失われている。
仮に唱えたとしても、それはせん妄や認知症の悪化としてとらえられてしまう。
老衰の過程が長引く苦しみがあり、その大半が医療によって提供されているとは考えない。
ここで認知症というのは単なる物忘れではないことを説明しておく。それはゆっくりと進行する神経変性疾患で、当初は認知機能、つまり物忘れが問題になることが多いが、長期的には歩く能力、座る能力、食事する能力が失われ、昏睡状態となり最終的には死に至る疾患である。
多くの内科医はこの最後の段階を理解していない。肺炎で入院したときに認知機能について評価されることは稀だ。
実際には、その人の生活にどれだけの介護が必要で、どのくらいの言葉を喋るか、笑顔を見せることがあるか、そうしたことを聞けばよいだけなのだけど。
進行した認知症で入院するのがどのような体験か、考慮されることはめったにない。
訴えられるかもしれないという恐れの中で、誤嚥のリスクを減らし、肺炎を治療するべく、様々な医療行為が行われる。身体が衰弱していくプロセスが、治療によって延長される。
医療において、患者の権利は尊重されるようになってきた。僕らは癌の治療を中断することができる。良い外科医を探すべく紹介状を書いてもらうこともできる。いくつかの治療法を考慮し、最も良いであろうと考える治療を選択することもできる。
しかし患者自身が認知機能を高度に障害されてしまった場合はそうではない。医師が何を希望するかを聞いても、答えてくれることはないし、答えてくれたとしても、状況を理解できないほどに認知機能が損なわれている場合は、状況を踏まえた回答はできない。
そこで「もし患者さん本人が元気だった時に、このような状況をどうだったと考えると思いますか」と聞くこともある。(これは滅多に行われることはない。単に、どんな治療を希望しますか、と聞くだけだ。悪くすると、人工呼吸器を希望しますか、心臓マッサージを希望しますか、と聞かれるだけだ。それが何を引き起こすかは説明されずに)
しかし問題があって、認知症が進行するほどに高齢な患者家族もまた、高齢であって、状況を適切に理解できないことも多い。また、記憶力に問題があることもしばしばあって、その場合は話し合いのたびに最初から話をしなければならない。このような状況は、人生会議の条件を満たしていない。もしタイムマシンがあれば、5年前に遡れば人生会議ができたかもしれない。
親類がいればよいが、これからの世の中では親類が見つかりづらかったり、その親類も疎遠であったり、高齢であったりすることも多いだろう。
そうした中では、理解が難しい場合も、状況を理解して改善しようという熱意に乏しい場合も、(本人の姉の息子がどのように熱意を持てるだろうか)、そして何より、医師が状況を正確に理解し彼の体験を想像しながら話す場合も、めったにない。
意思決定において、話し合いは重要視されるが、その話し合いの条件が少子高齢化によって崩されつつあるのだ。
「同じ治療をしても100回に1回も成功しないであると推定されること」
この二つを満たすことが無益な治療の定義である。この概念を提唱した、ローレンス・J・シュナイダーマンと、ナンシー・S・ジェッカーは、脳が不可逆的に障害された患者を対象としている。
彼らはいかなる経験をすることもないから、治療による利益を得ることもない、だから無益な治療は倫理的に行うべきではなく、施設ごとにその基準を明示するべきだ、というのが彼らの主張である。
高度に進行した認知症患者の誤嚥性肺炎の治療は、厳密な意味での無益な治療ではない。彼らは何かを体験する能力があるし、半分以上は自宅や施設に帰るだろう。自宅や施設では何らかの体験ができる。体験を感じる能力も恐らく完全には損なわれていないだろう。
この完全ではない点が、倫理的な空白を作り出す。
そこで死に至る疾患である印象が失われた。
専門家の不在は、価値の普及を妨げた。病状説明の型がある程度固まっていれば、それがどのような形であれ、専門家集団によって修正され得ただろう。ガイドラインは不十分である。医療系ガイドラインはエビデンスのまとめと指針である。つまり誤嚥性肺炎の診断・治療・予防であり、その価値に関する判断はしばしば言及されない。ガイドラインはないにしても、診断・治療・予防に関して役立つ本はある。ただ、価値に踏み込む場合も、基本的にはできる限り治療するにはどうすればよいか、という観点である。
人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン、人生の最終段階における医療・ケアに関するガイドラインは存在するが、そもそも高度な認知症を合併した誤嚥性肺炎が、人生の最終段階と解釈されることはめったにない。だからこのガイドラインを用いた話し合いができることは少ない。また、多くの医師は、押し付けられた仕事と認識していることから、じっくりと時間をとって家族と話をすることはなかなか期待できそうにない。多忙であればなおさらである。
さらに状況が不利なのは、個々の病院のKey performance indexは、病床利用率であることだ。
認知症患者の誤嚥性肺炎は、しばしば酸素を必要とし、時に昇圧剤やモニター管理を要するなど重症であることが多く、入院期間が長くなる。そのため、看護必要度を取りやすい。多くの病院は、その地域に病院が不可欠であることを示す必要がある。不可欠であることの証明に病床利用率と、看護必要度は使用される。そのため、誤嚥性肺炎の患者を引き受けない理由はない。救急車の使用率も高く、数値上は確かに重症であるので、病院経営上は受け入れておきたい。
介護施設に入所した場合は、誤嚥性肺炎の死亡で敗訴し、2-3000万円の支払いを命じられる訴訟が複数あることもあって、搬送しないという選択肢は難しいだろう。
介護施設から搬送された患者が誤嚥性肺炎であることは多い。その一方で、こういった場合家族が十分な話し合いの時間を割けないことが多い。片手間でやっている医師も、長い時間をかけて説明したくはないので、お互いの利益が一致して肺炎治療が行われる。
一方、最近増えている訪問診療は、誤嚥性肺炎の治療を内服で行うとか、そもそも治療を行わないという選択肢を提案できる場である。そこには期待が持てる部分もある。定期的な訪問診療でそうした話がしっかりできるかといえば難しいが、可能性はある。ただ、訪問診療医になるまでに、誤嚥性肺炎に関する専門的なトレーニングを受けるわけではない点が問題になる。しかし家での看取り、という手段を持てるのは大きいだろう。
訪問診療を除けば、医療の側からこの状況を改善することは殆ど不可能なように思える。
病院の経営構造、施設の訴訟回避、医師の不勉強と説明不足、そしてEBMと患者中心の医療を上っ面で理解したが故の価値という基準の不在、めんどうごとを避けたい気持ちと多忙さ、患者自身が自己の権利や利益を主張できないこと、家族の意思決定能力の乏しさや意欲の乏しさ、こうした問題が重なりあって、解決は難しいように思える。
現在誤嚥性肺炎を入院で担当する主な職種である内科医は、糖尿病の外来診療を主たる業務とする内分泌代謝内科という例外を除いて、減少しつつある。
専門医制度が煩雑になったからというのもあるが、ぼくは少なからず認知症高齢者の誤嚥性肺炎を診療したくないから、希望者が減っているのだと思っている。確かに診療をしていると、俺は何をやっているのだろうか。この治療に何か意味があるのだろうか、と考えることがあった。同じようなことを考えている医師は少なからずいる。露悪的なツイートをしている。しかし構造上の問題点について踏み込むことはそこまでない。
僕は構造的な問題だと思っていて、だからこういう文章を書いているわけだ。
進行した認知症患者の誤嚥性肺炎とは延期可能な老衰である、という共通の認識が広がれば、状況は変化してくるかもしれない。事実、認知機能が低下していない高齢者で、延命を希望しない方は多い。その延命の意味は具体的に聞けば、かなりしっかりと教えて頂ける。
誤嚥性肺炎の診療は、所謂延命と解釈することが可能な範疇に入ると僕は考えている。
後期高齢者の医療費自己負担額一割と、高額療養費の高齢者優遇の組み合わせを廃止することや、診療報酬改定によって、誤嚥性肺炎の入院加療の色々なインセンティブを調整することで、否応なしに価値が変化するかもしれない。そういうやり方をした場合、かなりの亀裂が生まれる気もするけど。