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「原稿料」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 原稿料とは

2025-10-27

anond:20251026230023

いやざっと見てきたけど、今のフリック入力小川氏でまちがいないんじゃないの。

先行技術文献、フリックではあっても全部「今の」フリックではない。

小川氏にしろ他にしろ、公開公報時点の特許請求範囲第一項はひろめにかいてあるけど、

おそらくひらがな限定×十字方向限定にすることで入力認識速度を格段にあげて定着させたんじゃないかな。

特許公報のほうまでちゃんとよんで比較した?包袋取り寄せもしたほうがいいね

まあオレは金とれるレベル仕事を、わざわざ労力かけて、ブクマとひきかえにする行為なんぞやらんけどさ。

ヤフーの栗なんとか潔なんとかさんが原稿料にするんだろうしな

2025-10-24

単行本表紙絵の原稿料は無し

殺すぞって言わないからお前ら漫画家は舐められるんだよ。

2025-10-16

原作作画が分かれてる漫画家って

原作病気になって話書けなくなったら作画の人元気なのに漫画描けなくて収入無くなってかわいそう

作画病気になったら原作バンバン話書いてその分原稿料もらえるからまだマシ

両方同時に病気になるのは同棲でもしてる?

2025-10-04

ぼざろ脚本家騒動から予想する、江口寿史騒動に対するブクマカ(X民)の発言

脚本家

   「叩くのはどうかと思うけど、プロデューサーは起用しづらくなるだろうね」 (本音キャンセルされろ!)

江口に https://togetter.com/li/2610923

   「叩くのはどうかと思うけど、広告代理店発注しづらくなるだろうね」  (本音:ちゃっちゃと描いたイラストで多額の原稿料と名声を手に入れやがって、妬ましいから酷いめにあえばいいのに)

ネタです

2025-09-13

生成AI使う人はイラストレーターに嫌われるが、逆もあるかもしれない

なろう小説で生成AI使って挿絵を描く人は、イラストレーターから総スカンをくらいデビューできないとかそういう話を見かけた。

しかに、ラノベが主要コンテンツである出版社イラストレーターが偉くなってそうなるだろう。

だが、大手出版社3社。

自分自身の絵柄と似た絵が機械的に生み出されることに無頓着な人。

AI推進の政治家

そして最後に作者が亡くなっているとはいえ、当時の倫理観技術についての先見性のものであるが強火の生成AI推進みたいな内容が含まれてる漫画

劇中で無許可(劇外だとアニメ化の際、手塚プロ制作スタッフ根回し済み)で機械的手塚先生漫画家の絵柄や作風分析し、田中圭一先生が描いたみたいな漫画原稿料無料で作り出す話。

テレビに出てきた歌手の声紋を無断でコピーする道具を利用する話。

普段から不法侵入や鶏みたいな道具で漫画の無断コピーも音沙汰はないから当然と言えば当然な気もするが。

声真似生成AI問題になってる中、無断声コピー道具で体中に油をぶちまけながら炎の中全力疾走したような感じなのに燃えなかったのはどうかと思ったよ。

出版社の主要の屋台骨がこんなんだから大手出版3社が生成AI推進派なのは納得。

田中圭一先生が描いたみたいな漫画を無断で作り出す内容が含まれアニメアニメ屋台骨みたいになってるテレビ局も特撮側で利用寄りになったし生成AI推進側だろう。

イラスト描いてたり、漫画描いてたりする人が名義を晒して、反AIとしてあまりにも過激発言してたら、この出版社テレビから干されないのだろうか

2025-09-09

何故漫画のサブスクはないのか現役編集者解説する

「上位体験を用意できないから」と、「すぐに読めてしまうから」。

利権」はほぼほぼないというか、別に金になるならなんでもいい。書店とか取次とか出版社からしたら知ったことではない。

ピッコマだろうがKindleだろうが金になるならなんでもいい。

本題に入る。

「上位体験」の話。これは収益モデルの話になる。

映画アニメというものは金の回収手段映画館での上映、グッズや関連ゲームを売るなどの回収が図れるので。

音楽ライブなんかわかりやすいが、高単価の回収が可能

実質Tシャツ売りになってる人とかね。

(俺の知り合いの歌手はサブスクのせいで死んでいるが)

からサブスクができる。漫画はグッズまで売れるのはごく一部なのと、商品相性があるので。

そういう意味でいうと、アクスタがやたらと売れるきらら漫画…などというような、高単価収益回収モデルが作れるならサブスク可能

エロのkomifoについて。あれはまたちょっと事情が別。

エロはクッソ割られるので、じゃあサブスクにした方がマシ」という理念の元行われた。

ちなみに、配信閲覧に応じて作家さんたちに金が入るとか俺が知る限りはない。

その分一律で原稿料上がってたな、当時は。今は知らん。もしかしたらシステムできたかもね。

過去作を広告運営配信すりゃいいのに」みたいなのは赤松先生マンガ図書館Zがやっている。だが、まあ連チャンパパ以外はあまり儲かってるという話は聞かない。

そもそも過去作の著作権管理は意外とめんどくさい。(自動更新できるとはいえ1年で切れるのが普通

大体そういう事情があり、サブスクはやらないというかできていない。

「すぐに読めてしまうから」という話。

収益モデルについては色々あるのだが、

例えばアニメ業界は割と繋がりがあるが、制作時に独占配信権だけで製作費回収できる、という話も大分聞く。

要はサブスク会社がそのくらいの金を出すのであれば漫画サブスク可能なのだが。

が、滞在時間映像コンテンツに比べ短くなりがちなので、広告など含めてもあまり収益はでない。

よって製作費を回収できない。

映画は一作90分〜アニメでも1話25分〜滞在時間を作れるので、漫画はそういう意味でも不利。

もちろん、ウシジマくんや絶望先生ドラゴンボール、バキみたいな作品で読む時間は違うことは前提の上で。それでもまあ短いね漫画滞在時間は。

Amazonは以前より漫画サブスクを始めようとしているし、現在進行系でしている。

Amazonマンガだ。新部署もできたらしい。

だが、未だにその滞在時間収益モデル構造解決できていないようだ。

一言で言うと、作家さんにも、出版社にもサブスクメリットが現状ない。他業界と比べて。

商品性質の話で、業界構造が硬直しているからとかではあまりない。

2025-08-21

漫画家ってみんな漫画だけ描いて生活してるのかと漠然と思ってたけど

別の仕事持ってるって人も多いんだね

漫画雑誌に載せる原稿料単行本印税だけで暮らせるのかなあと心配だったからよかった

2025-08-06

合丼来来(あいどんらいき)伝・9<完>

ここまで書いてきた「合丼来来伝」ですが、今回で最終回になります

挿絵担当した絵描きに度々不満やもやもやを抱かせる結果を出し、
時には、絵描きに対して不義理と言わざるを得ない行為を行いながら
合丼来来の同人活動はその後も数年間続いていた。

偶に絵が性癖に刺さる人が居るのか、ある絵描き挿絵を描いている時だけ
極端に大きく売れることはあった。
だが、基本的には相変わらず作品は合丼来来が思っているほど売れることはなく、
合丼来来は「俺の作品の売れ行きが悪いのはアンチのせいだ
俺の作品の売れ行きが悪いのは絵に魅力が無いからだだ」と、
合丼来来のTwitterアカウント(二つあったが、どちらも2022年に凍結)でぼやいていた。

2017年、合丼来来は作品の売れ行きが芳しくない状況を打開しようと考えたのか、
それまでは1カ月に1作の新作販売だったペースを、2週間に1作の新作販売へと
販売ペースを上げた


合丼来来が新作販売のペースを1カ月に1作から、2週間に1作に変えた頃に
togetterのまとめで「絵描きへの依頼の相場」に関する話のまとめ作成されたことがあり、
そのまとめのコメント欄で合丼来来が暴れたことがあった。

DLsiteコミュニティサイトDLチャンネル」開設

時は少し遡って2016年10月DLsite創業20周年記念イベントを開催し、その場で
DLチャンネル」というDLsiteユーザーコミュニティサイトを開設することを発表した。
DLsiteユーザー雑談等をするための掲示板や、
おすすめ作品を紹介する記事自由作成することのできるコミュニティサイト
だ。

DLsite作品販売していた合丼来来は、このコミュニティサイトが開設された初期から
DLチャンネル雑談掲示板に書き込んだり「自分作品を紹介する記事」や、
絵描き原稿料を値上げ交渉してくることを批判する記事を書く等していた。
中には、「「合丼来来にインタビューした記事」を書いた猛者もいた。

そうした中、ついに事件は起きた。

合丼来来、DLsiteから強制退会させられる

2021年12月合丼来来がDLsiteから強制退会させられる事件が起きた。
事の流れは

というものだった。
この対応に腹を立てた合丼来来は2022年1月DLsite運営会社に対して訴訟を起こし、
合丼来来(あいどんらいき)伝・1」にある3本のニュース記事になったという話だ。

<注1>
合丼来来(あいどんらいき)伝・1」で紹介したニュース記事及び、こちらの動画での解説によると
DLsite側が訴訟に際して提出した証拠を見た所、修正が薄いではなく、無修正と言っても過言ではなかった」だそうです。

DLsiteと合丼来来の訴訟最中に…

DLsiteと合丼来来の訴訟が始まってしばらくした頃、
合丼来来のTwitterアカウントが(2つ存在したが両方とも)、Twitter規約に反するとして凍結
された。

そして、彼は(インターネットから)姿を消した

そして、合丼来来はTwitterに戻ってくることもなく、
2025年8月現在、彼はインターネットから姿を消している。

その後の合丼来来

その後の合丼来来がどうなったか、ここまで「合丼来来伝」を書いてきた私は知らない。
しかしたら、もう、彼がインターネット上に現れることは無いのかも知れない。

ただ、“こういう人物過去インターネット上には存在していた”ということを
記しておきたいと思い、私は「合丼来来伝」を書いた。

ここまでお読み頂きありがとうございます

ここまでお読み頂きありがとうございます
オチと言えるオチの無い物語ですが、
“こういう人物過去インターネット上には存在していた”
という話を残しておきたいと思い、今回書きました。
彼がその後どうなったかは、私は知りません

しかしたら、新しい名前活動しているかも知れない、
しかしたら、インターネットを完全に離れたかも知れない、
インターネット上であろうとなかろうと
「彼が新たに誰かに迷惑をかけている」ということが無ければ別に良いと私は思います

最後に、この言葉でこの物語を締めたいと思います
こういう人物は、まだ日本にいるのです、多分」。

「合丼来来伝」まとめ

【完結済】 「合丼来来伝」

2025-08-05

合丼来来(あいどんらいき)伝・8

ネットwatch板の民からwatchされ、「ベビールックポータル」のメンバーから距離を取られることになった合丼来来は、
場所他人と関わるための新たな場所として「DL同人観測所」のオフ会を選んだ。

ベビールックポータル」のメンバーから距離を取られる前は、
ベビールックポータル」のメンバーも合丼来来に協力的で、合丼来来は販売する小説挿絵
ベビールックポータル」のメンバーに紹介してもらう等していた。

だが、合丼来来は「ベビールックポータル」のメンバーに紹介してもらった挿絵担当に対して

等があったそうだ。

ベビールックポータル」のメンバーと疎遠になったことで、合丼来来は小説挿絵を描いてくれる人を
自分で探して挿絵を依頼しなければならなくなった。

合丼来来が自分小説挿絵を描いてくれる人を探さなければならなくなってから時折
「ゆざいちょ=合丼来来watchスレ」に合丼来来に絵を依頼されたという人が現れるようになった。

スレに現れた絵描き

  • 依頼の内容が怪しかったので検索したらスレを見付けた、依頼は断った

というパターン

  • 依頼を引き受けたけれど、元々の依頼に差分の追加や修正等が頻繁に求められ、
    結果的原稿料の割に合わない依頼になった

というパターンがあった。

こうした絵描きの反応に気付いていないのか、
合丼来来が販売している作品は、最初挿絵が基本絵8枚、差分込み24枚ぐらいの「小説挿絵」だったもの
最盛期には基本絵8枚、差分130枚の「絵に文章が付いた作品」(CG集)に変化していった。

合丼来来の作品基本絵8枚、差分130枚の「絵に文章が付いた作品」になった頃に
依頼メールの内容を公開した人が居たそうだが、そのメールの内容は

枚数は基本8枚(カラー1枚+グレースケール7枚 か カラー8枚)
差分パターンを色々(ポーズは変更なし、背景・服装・表情違い、アイテムの有無など、レイヤーの切り替えで収まる程度、ひととおり全パターンを作って各シーン毎に合わせて量産する感じ)

期間はおおよそ2ヶ月で済む程度、予算は7万円の予定です。

というもので、結果的差分は100枚近く描くことになったそうだが、差分込みで7万円前後の支払いしかなかったそうだ。

そうした中で事件は起きた。

「合丼来来伝」まとめ

【完結済】 「合丼来来伝」

2025-07-28

合丼来来(あいどんらいき)伝・6

※今回の「合丼来来(あいどんらいき)伝・6」で話すことは、「合丼来来(あいどんらいき)伝・5」の裏側で起きていた出来事です。

ゆざいちょの新天地「BabyLook Portal - おむつ情報サイトベビールックポータル

アフィリエイトブロガーのゆざいちょ」が「条令改正反対運動に参加するゆざいちょ」となり、更に「Twitterスパマーゆざいちょ」へと進化していたのと同時期の話。
2008年から、「BabyLook Portal - おむつ情報サイトベビールックポータル」というニッチ性癖(オムツ・おもらし性癖)の人達の集まるサイトチャットに、
元々そのチャットにいたメンバーからの紹介される形で「合丼来来(あいどんらいき)」という名前人物が出没するようになっていた。

最初チャットに現れた頃こそ丁寧な口調と低姿勢言葉遣いだった彼は、チャットに現れる様になってから1年と少しが過ぎた2010年頃には、
チャットで周囲の人が引いている事にも気付かず「条令に賛成する奴は表現の自由の敵だ」のような政治的発言もするようになっていた。

この「合丼来来(あいどんらいき)」という人物の正体が「ゆざいちょであることに気付いている者は、2010年まで一人も居なかった。
活動を開始した時期がmixi騒動の直後であることから過去の素性を隠して活動するために、過去活動範囲と重ならない範囲で別名義を名乗り始めたのだろうと推察される。

なお、備考として述べておくが、mixi時代にゆざいちょとリアル付き合いのあったグループmixi騒動後、ゆざいちょと絶縁した(ゆざいちょを自分達のグループから追放した)と聞いている。

ベビールックポータルメンバーから聞いた話

ここからは、ある人物ベビールックポータルメンバーから受け取った時系列メモをそのまま書き写す。

2009年
2010年

これが、ベビールックポータルメンバー視点から見た、合丼来来の動き関連の流れだそうだ。

<注1>
ブログで書かれた作品紹介記事には、ブログの開設から年を経るほどに「紹介している作品を購入して読んでいれば間違えるはずのない間違い」が増えていき、
記事で紹介された商業作家の中に「訂正を求めたものの聞き入れてもらえなかった」と後に証言した作家もいる。
また、「紹介している作品を購入して読んでいれば間違えるはずのない間違い」が増えていくことから
次第にベビールックポータルメンバー内でも、本人がいないところで
「合丼来来は作品紹介記事を書くのに、サンプル部分や無料部分とサムネイルだけに目を通して記事を書いている」
という評価が出るようになる。

<注2>
編集長は、合丼来来には「書くペースは速いよね」と、「自分で書いた作品自分で読み直して推敲する癖を付けて欲しい」をオブラートに何重にも包んで言っていた。
しかし、合丼来来は、それが何重ものオブラートに包まれ言葉だと気付かず「編集長から、書くのが早いと誉められた」と、
その裏にある意味を全く考えず称賛の言葉として受け取っていた。
掲載された小説を読み返していれば、本人が出した原稿掲載されている内容が違う事に直ぐに気付けるぐらいに修正がされていたので、
読んだ上で「自分小説クオリティ商業レベルに達してないと気付いて落ち込む」か「勝手修正されていることにキレる」かのどちらかの反応が
生じることを周囲(ベビールックポータルメンバー)は期待し、どちらかの反応が生じた場合編集長が半分近く修正している」という事実を明かして、
本人に自覚向上心を植え付けたいという意図での「自分で書いたものを後から読み返した方が良いよ」
だった。

「ゆざいちょ=合丼来来」が判明

こうした流れがある中で、「合丼来来(あいどんらいき)伝・5」で書いた通り「ゆざいちょ=合丼来来」という事実が判明し、
合丼来来は「ベビールックポータル」のメンバーから干される(距離を置かれる)ようになる。

「合丼来来伝」まとめ

【完結済】 「合丼来来伝」

2025-07-08

anond:20250708050680

 玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。

 私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。

 此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。

 その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活ことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合からから、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。

 これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。

 十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。

女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流作家では、田村俊子水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。

「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたもの活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものからお金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。

anond:20250708050680

 玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。

 私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。

 此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。

 その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活ことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合からから、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。

 これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。

 十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。

女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流作家では、田村俊子水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。

「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたもの活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものからお金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。

anond:20250708050680

 玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。

 私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。

 此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。

 その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活ことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合からから、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。

 これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。

 十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。

女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流作家では、田村俊子水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。

「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたもの活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものからお金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。

anond:20250708050680

 玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。

 私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。

 此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。

 その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活ことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合からから、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。

 これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。

 十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。

女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流作家では、田村俊子水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。

「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたもの活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものからお金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。

anond:20250708050680

 玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。

 私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。

 此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。

 その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活ことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合からから、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。

 これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。

 十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。

女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流作家では、田村俊子水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。

「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたもの活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものからお金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。

2025-06-17

深田萌絵騒動で分からなくなったんだが

原稿料印税って別モンじゃないのか?

俺さ、てっきり

原稿料は書いたら発生する手間賃みたいなもんで

印税は売上から支払われるものから

もしも著作が売れなかったらゼロ

というのも自然だなぁ

と思ってたのよ

けど五月書房新車深田萌絵の争いでは

深田は「印税を五月書房新車に盗られた!!!」って言っててさ

まだ出版してないのに印税も何もなくねえ?

と思ったんだが

これ俺の勘違いだったということかな?

2025-05-06

anond:20250506145237

バーぴぃちぴっとなんていう揉める気満々のLO専用ネームな時点でお察しだろ

あ、エロ漫画は急に書く気力なくなって一旦引退らしいよ

原稿料安すぎたのかもね

2025-05-01

漫画原作を書くことになった

ゴールデンウィークから、ずっとやりたかった漫画原作を書いてる。

もちろん商業出版ではなく、同人誌

自費出版というやつだから、1部しか作らない。

作画してくれる漫画家さんも見つかった。

pixivリクエスト機能で見つけた。

16ページの読み切り

大好きな能力バトルもの

少年漫画が好きだからジャンプっぽいのにした。

キャラクターデザイン代とネーム制作費と表紙デザイン代と原稿料で15万くらいかかるけど、満足してる。

完成するのは1ヶ月後。

漫画作ってみたかったからめちゃくちゃ嬉しい。

毎日がつまらない人は漫画原作書いてみることをオススメしたい。

キャラクターとか世界観とかセリフとか考えてると毎日が楽しくなる。

絵が好みの漫画家さんだから、どんなのができるか考えるだけでワクワクする。

幸せだ。

2025-04-28

anond:20250428112941

別のトラバにも関連すること書いたんだけど、連載を前提とした続きもの原稿料って実際連載が開始されたときにはじめてもらえるの?

それとも描いて提出した時点でもらえるの?

出版社はいつ連載の枠が空いても大丈夫なように常に一本以上連載作品ストックを確保しておきたいと願うはずだけど、

いつ連載してくれる=原稿料がもらえる、かもわからないのに出版社ストックほしいからって出版社側の理由でわざわざ労力的に読み切りよりも断然重い続きものを描いてくれるものなのか?

anond:20250428111930

ざっくり考えて

かな

実際は作家原稿料バランスなんかも考慮するんだろうけど

描く方も連載の可能性あるなら猫ぐらいなんぼでも飼うって人はいそう

2025-04-18

ネギまに立ちバックは絶対ない」とか抜かすクソエアプがライターやるな

https://omocoro.jp/kiji/485015/

存在しない記憶ネギま花火」を追え!より引用

ネギまって立ちバックある?

—— どっちも絶対ないよ






許せない……。

とんでもないクソエアプがいたもんだ。

こんな奴にライターを名乗らせていることに対して、雇い主は謝罪会見の一つでもすべきでは?

結論から言おう。

広義の「ネギま!」には立ちバックが存在する。

もちろん同人誌のことではない。

自民党議員赤松健先生漫画家時代講談社から原稿料を貰いながら描いた作品の中に立ちバックが出てきている。

ちゃんとしたネギま!ファンなら今更説明するまでもないだろうが、ここでいう広義の「ネギま!」が指しているのは「UQ HOLDER!魔法先生ネギま!2〜」のことである

UQ HOLDER!には立ちバックがある。

これは紛れもない事実だ。

嘘だと思うなら赤松健先生に聞いてみるといい。

「どのヒロインかは忘れたけど、描いた気はする」ぐらいは言ってくれるだろう。

俺としてはぜひどのヒロインとの行為だったのか覚えていてもらいたいのだが、表現の自由を守ることに忙しい彼に自作の全てをきちんと覚えていることを求めるのは酷かも知れないからそこは諦める。

しかしたら君は「UQホルダーはネギまではないよね?」と反論するかも知れない。

俺はそれに3つの反論をしたい。

まず、「UQ HOLDER!魔法先生ネギま!2〜」というタイトルからネギま!の正式な続編であることは明らかであるし、続編において立ちバックがあるなら前作にあってもおかしくないと考えるのが普通ではないだろうか?

そもそもUQ HOLDER!」を「UQホルダー」と呼ぶような奴にネギま!を語る資格はない。

ましてや、「ネギま!」のことを「ネギま」と呼ぶような奴には。

そもそも、俺が最も問題だと思っているのはネギま!のことをネギまと呼んでいることだ。

ライターを名乗る人間としてあるまじき怠慢である

他社の創作物への致命的な敬意不足だ。

サザエさんドラえもんコマ引用表記さえ使わずに引っ張ってきて政治批判をするような輩と同じレベルだ。

こんな輩はどうせAI止まを「エーアイ」と読むだろうし、花右京メイド隊を「かきょういん」と読むだろう。

言葉綴り糊口を凌ぐ職業人として必要最低限の注意深ささえも欠落していると言って叱るべきである

謝れ。

俺に謝らなくていい。

赤松健先生に謝れ。

国会議員だぞ。

2025-04-14

anond:20250414210526

単行本の表紙に原稿料くれないのむかつく的なやつとか

2025-02-24

anond:20250224210846

自営ですら他でこれこれこんくらいの原稿料で描くことなりましたってかもう描いてますっていったら一撃で4000円くらい単価上がったからな

2025-02-14

お前らって漫画の表紙に原稿料が出ないことで出版社一方的に叩いてたのもう忘れてそうだよな

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