はてなキーワード: 牧歌とは
小田急線が丘のふもとを走り、その向こうに新宿の摩天楼が霞む。春や秋の宵には、武蔵野台地のはてに東京の灯がちらちらと瞬き、湾岸の明滅と重なって、まるで大きな銀河のように見える。あの夜、彼はそこに立っていた。
「この光を見ろよ。世界を照らすんだ」
彼は烈しい声でそう言った。社会に侮られたと感じる魂の奥底から、どこか英雄の夢を引きずり出そうとするように。
やがて彼は、その烈しさを収めきれず、ウクライナへ渡った。
南ウクライナの大地は、春になれば黒々としたチョルノーゼム(黒土)の平原が続き、空はどこまでも広い。その平原に彼の姿はあった。SASの教官から授けられたと信じたナイフを携え、自衛隊で扱った軽機関銃を構え、そしてアニメや小説に見た幻影を己の背にまとっていた。
「ベルくんみたいだろ」
と笑いながら刃を振るう姿を、彼は動画にして送ってきた。その映像のなかの表情は、秋葉原の雑多な軍用品店で玩具の銃を抱えていたときの無邪気さと、なんら変わらなかった。
ロシア軍の砲撃は、彼の信じた「死に戻り」を許さず、ナイフも、機関銃も、ただ鉄と火薬の奔流のなかに呑み込んだ。ニュースには「抵抗なく制圧」とだけ、冷たく記されている。
思えば――この平和な日本のなかで、烈しい魂はしばしば行き場を失う。多摩丘陵の一角で夜景を前に語った夢は、黒土の大地で炎となり、そして燃え尽きた。
彼は誤ったのか。あるいは私たちが誤っていたのか。
その答えを私は持たない。ただ、あの夜、丘の上から見た東京の光が、いまも私の胸の奥に残っている。世界を照らす灯だと信じた彼の言葉とともに。
地名を列挙しただけのようであるが、そこにはひとりの若者の軌跡が、まるで風土と歴史に導かれるようにして刻まれている。
生田は、小田急線で新宿や国会議事堂といった政治と経済の中枢に三十分もあれば届く近さにありながら、背後には江ノ島の白砂、さらに箱根の峻嶺をひかえる。
この「都会と牧歌の結節点」ともいえる地で、彼は夢想したのである――己が「ロシアを倒し世界を救う電光超人グリッドマン」に変じる姿を。
坂東武者がここから都をにらみ、時に反抗し、時に吸収されながら歴史をつくっていった。
その風土が彼にとっての原風景となったのは、偶然ではあるまい。
彼は、東京の光の海を遠望しながら、そこに「なろう小説」の主人公的栄光――極上の美少女たちに慕われ、社会を見返す人生逆転の物語――を幻視した。
同時に背後には、古き自然と神秘を湛える箱根の山がそびえている。
権力と牧歌、文明と自然、未来と過去。その境目に立たされるのは、若者の魂をして、しばしば極端な夢想へと駆り立てるものである。
だが、夢想の果てに彼が選んだのは、ウクライナという「現代史のただなか」であった。
そこで彼は、自衛隊で鍛えた技能も、地下格闘技のジムで培った肉体も、また国内の戦闘スクールで学んだ秘術も発揮できぬまま、砲弾の一撃に倒れた。
近代軍隊というものは、個の技を圧倒する巨大なシステムである。
その前に人間は、藁束が風に刈りとられるように消えていく。
彼は「槍の勇者のやり直し」を夢み、「盾の勇者の成り上がり」を志し、グリッドマンとして悪のロシアを討つと信じた。
彼が嫌った官僚主義そのものの鉄鎖の網にかかり、物語の主人公ではなく、歴史の一頁にすら記されぬ無名兵として死んだのである。
人はしばしば「なぜ彼はそこまで零落したのか」と問う。
だが問う者自身もまた、会社という装置にすり減らされ、生活に押し潰されているではないか。
墜ちていく彼を笑うことは、結局は自らを嘲うことに等しい。
彼は、大人になることを拒んだ。
夢や野心を手放し、現実に折り合いをつけることを「成熟」と呼ぶならば、彼は永遠に子どものままでいたいと望んだのである。
私は友人として思う。
彼は夢に殉じて死んだのではない。
feat 司馬遼太郎
多摩の生田、その高台に立つとき、人は時代の狭間に立つ。眼下には東京の光が、無数の星屑のように瞬く。新宿のビル群が夜を切り裂き、国会議事堂の重々しい影が、権力の中心を静かに物語る。小田急線は、この丘からわずか三十分で日本の心臓部へと人を運ぶ。一方、背を向けると、相模湾の潮騒が寄せ、片瀬江ノ島の風光が柔らかく誘い、箱根の山々が清冽な大気を湛えてそびえる。この地は、都会と田園、権力と牧歌、過去と未来が交錯する一瞬の結節点であった。まるで、人の運命が歴史の奔流に翻弄されるように、生田の丘は静かにその姿を晒している。
彼――かつて私が友と呼び、共に少年の夢を語り合った男――にとって、この生田の風景は魂の故郷だった。昭和の残響が漂う住宅街、どこか懐かしく穏やかな家々の連なり。高台から眺める東京の光は、彼が少年の日に心奪われた「なろう小説の主人公」のような輝かしい人生を映し出す鏡だった。レムやエミリア、ウマ娘に愛され、逆境を跳ね返し、オープンカーで美少女を乗せて江ノ島の海沿いを疾走する自分。彼はそんな幻を追い、信じた。だが、歴史は無情である。東京の光は彼を招かず、箱根の清浄な山々も彼を癒さなかった。人の夢は、時代という大河の流れに抗う術を持たない。
彼はかつて自衛隊に身を置き、特殊戦闘の技を磨いた男だった。戦場の風を肌で知り、鉄と火薬の匂いの中で生きる術を学んだ。だが、隊を離れた後の人生は、まるで戦国の落武者が故郷を失うように、坂道を転がる石の如く零落れていった。南ウクライナの戦野で、彼は「悪のロシア」を倒す「電光超人グリッドマン」になる夢を見た。自衛隊で鍛えた技、国内の戦闘スクールで学んだ奥義を手に、盾の勇者の如く成り上がろうとした。だが、戦場の現実は、物語の甘美な約束を裏切る。戦車と戦闘機の鉄の嵐が吹き荒れ、彼は誰が放ったかも知れぬ砲弾に倒れた。藁束のように、儚く、無惨に。
彼の死を伝え聞いた私は、ロシア語のニュースと、彼の母から漏れ聞く断片的な話を繋ぎ合わせ、彼の足跡をたどった。自衛隊のどの部隊にいたのか、その輪郭がかすかに浮かぶ。だが、なぜ彼がそこまで墜ちていったのか。その問いは、まるで戦国末期の武士が時代の奔流に飲み込まれる姿を思わせる。歴史は、個人の夢を冷たく見下ろすものだ。
誰が彼を笑えようか。夢を追い、挫折に苛まれた彼と、社畜として日々すり減る私。その差は、歴史のページに記されぬ一瞬の差に過ぎない。彼は、少年の心を捨てきれなかった男だった。アニメの美少女に愛され、なろう小説の英雄のように無双し、人生を逆転させる――そんな夢を、燻りながらも捨てきれなかった。生田配水池の高台に立ち、東京の灯を眺めながら、彼はかつて私に語った。「ウクライナでロシアを倒し、サムライとして立つ」と。あの光の中心、高級住宅街に住む美少女たちを手に入れるのだと。それは、戦国の若武者が天下取りを夢見たような、幕末の若者が洋装の文明を前に刀を握りしめたような、純粋で危うい野心だった。
大人になること、それは夢を諦め、野心を折り畳むことだったのかもしれない。彼はそれを拒んだ。少年の心を抱えたまま、齢を重ねた彼は、うまくいかぬ人生と、彼を嘲笑う社会に怒りと悲しみを募らせた。その生の感情は、まるで戦国の世に生きた男たちが、己の無力を嘆きながらも刀を握った姿を思わせる。誰がそれを否定できようか。私にはできなかった。
彼は南ウクライナの地で、命を燃やし尽くして死んだ。友として、私はそう信じたい。生田の丘に立ち、東京の光と箱根の山々を眺めるたび、彼の夢と挫折が胸に去来する。あの風景は、彼の魂を映す鏡だった。だが、鏡は冷たく、ただ現実を映すのみである。歴史は、人の夢を飲み込み、ただ風の音だけを残す。
彼はなぜ、都会と自然、過去と現在の狭間で踏みとどまれなかったのか。その答えは、ウクライナの戦野に散り、箱根の山風に消えた。人の命は、時代という大河に浮かぶ一葉の舟に過ぎない。生田の丘に立つ私は、ただその舟の行方を思い、静かに目を閉じる。風が吹き、江ノ島の潮騒が遠く響く。歴史は、ただ黙して進む。