皆さんご存じの通り、先の参議院選挙は与党の負け(戦後初めて衆参両院で少数与党に転落)、野党の勝ち(中でも国民民主党、参政党の躍進)という結果が出ました。
私が投じた選挙区票と比例代表票はどちらも、今回においては(珍しく)投じた側の勝利に役立ったのでそれは良かったと思います。
しかしながら、その後の石破総理大臣の続投宣言は正直いただけませんでした。
過去に安倍総理や麻生総理が選挙で敗北したときに退陣を促した言動と不一致なこと。これがまず不快でした。
さらには仮定の話である「震災」をダシにした正当化も、かつて震災の被害を受けた人間としては眉をひそめるものがありました。
衆議院選、都議会選、そして今回の参議院選と、三度連続で大きな選挙で敗北したのに、結果を出せなかった責任を感じてなさそうな態度も癇にさわりました。(負けたのは石破のせいじゃないと言う人もいますが、少なくとも衆議院選では解散総選挙をやると決めてやった以上、総理に責任はないということはありえません)
そして、石破続投について取り上げたこの記事で、人気を集めているコメントを見て残念な思いになりました。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.fnn.jp/articles/-/904442
大まかに言えば、「高市(や他の人間)が取って代わるよりは石破のほうがマシなので仕方ない」というところでしょうか。
私とて高市早苗にはかなり問題があると思います。(特に取り巻きの質は、議員、民間人ともにろくでもない人格の持ち主ばかりと言っても過言ではないでしょう)
他に政治家として任せられそうな人材がいないという意見にも、一理はあると思います。(そんなことを言い出せば、極端な話、国会議事堂に隕石でも落ちて衆参両院の議員が全滅したら日本が為す術なく国家崩壊するに任せると言ってるような変な話だとも思いますが)
ですが、だから石破続投は仕方ないんだと言っていいのでしょうか。「仕方ない」のではなく「私が不愉快になるような葛藤から逃げたい」という自分の気持ちを甘やかすためだけの思考放棄ではないでしょうか。
一度、「石破」とか「高市」とか「野田」「神谷」とか、あるいは「自民党」とか「立憲民主党」とか「参政党」「れいわ新撰組」とかなんだとかいった固有名詞を脇に置いて考えてほしいのです。
「○○はXXよりマシだ、だから○○は選挙で負けたとしても、責任も取らず政権の座に居座っていいんだ」
「XX党が権力を握ったら日本はより悪くなる。だから選挙で○○党が半分以上の票が取れなくても何も変わらなくていいんだ」
こんなレトリックがまかり通るなら、民主主義国家の国民である私やあなたやその他の人は何のために投票所に行くのしょうか?
普段は政治に対する見識の薄いかもしれない人たちが、それでも投票日に腰を上げ、私やあなたに不利益や不愉快をもたらす候補や政党の名前を一枚の投票用紙に書いて中身の見えない投票箱に入れる。その行為は「○○よりマシだから」蔑ろにしていいものなのですか?
選挙で負けるという民意が示されても政治家がその苦しい現実から目をそらす。これが政治不信の種をまく行為でなくて何だというのでしょうか? それとも私やあなたにとって好ましい政治家に限ってはそれが「仕方ない」と許容される特権がいつの間にか与えられたのですか?
少し想像力が飛躍するかも知れませんが、「プーチンが辞めると、さらにろくでもない奴が来る」「習近平が~」「ネタニヤフが~」と、今回の石破総理の続投擁護は、地続きなのではないですか?
Xで目に入った『アフリカのとある国では、選挙で選ばれたリーダーが100歳まで権力維持を目指している』という馬鹿馬鹿しさが、未来の日本のイメージの一例としてまさしく今この瞬間、現実味を帯びてしまったのではないですか?
なるほど石破総理は、大方の人間が好ましく感じる『良識』を持っているのかも知れません。ですが、今後現れる可能性のある、民主主義国家の手続きで選ばれた「ろくでもない指導者」が、選挙に負けるという民意を示されたときに石破続投という前例を悪用しない保証がどこにあるのですか? もしそうなったときに人々は有効で正当な対抗手段を持ち合わせているでしょうか? それとも「制度上は何の問題もない」といういかにも政治家めいた物言いで等閑視されるのですか?
皆さんは、上記に書いたことなどとっくの昔に考慮済みで「スリーアウトなんて野球じゃないんだから」「隠れ高市ファン」「現実離れした綺麗事を弄んで衆愚を正当化」そんな風に私を笑われるでしょうか?
三度も敗北という民意を示された石破総理は退陣されるべきだと私は強く思います。仮にその先にあるものが失政だろうと混乱だろうと停滞だろうとです。それは石破アンチを喜ばせるためではない。石破の政策や人格の善し悪しの問題を超え、一人一人が政治に責任を持つ小さな王様であるという、民主主義国家が私やあなたや他の人にもたらしてきた利益を守りたいため、こう言うのです。