敗戦後の「浮浪児」白眼視 生活保護バッシングに重なる怖さ
記者コラム・多事奏論 編集委員・清川卓史
この10年、第2次世界大戦で親を奪われ、戦争孤児となった方々を取材してきた。印象に残るのは、身を寄せた親戚や養父母らにひどい仕打ちを受けた、という痛切な証言が多かったことだ。
やさしかったはずの親戚の態度が一変する。「泥棒猫」「失せろ」とののしられる。「親と一緒に死んでくれていたら」といった陰口を耳にしたという人もいた。決して特殊な事例ではなく、戦争孤児の多くが直面した現実だった。
極度の窮乏期。親戚らがとくに冷酷だったわけではなく、誰もが内に秘める人間の真実があらわになったのだと思う。
親戚らとの人間関係もあり、戦争孤児たちは戦後長く口を閉ざした。真実を語れば「お世話になったのに」「そんなことがあるはずがない」と世間に批判される。ある当事者はそう言っていた。
耐えきれず、7歳で親戚宅を出て、幼い弟と東京・上野駅の地下道で寝起きした女性の経験も聞いた。こうした路上の戦争孤児たちは「浮浪児」と呼ばれた。
救援に奔走した民間施設もあったが、公的保護施策は圧倒的に不足し、凍死、餓死する子が相次いだ。「国はおにぎり一つ、くれなかった」。15歳で地下道生活を余儀なくされた女性は語っていた。
一方で、「拾うか、もらうか、盗むか」の修羅を生き抜いた孤児たちがいた。戦争で親を失った被害者であるはずの彼らは、次第に白眼視されていく。治安を脅かす存在として、行政による「狩り込み」の対象となった。
1948年に閣議決定された「浮浪児根絶緊急対策要綱」では、子どもの「犯罪性」「逃走性」などが強調され、その資質や周囲の「安価な同情」に浮浪生活の原因があるかのような記述が目立つ。
メディアも同様で、当時の朝日新聞記事は、「浮浪児」を、つんでも生い茂る「根無し草」にたとえた。官民一体の「浮浪児バッシング」とも言える状況が生じていた。
なぜ子どもたちは「浮浪児」になったのか。責めを負うべきなのは無謀な戦争で国民生活を大破局に追い込んだ者たちだったはずだ。不十分な孤児支援も含め、巨大な国の責任はあいまいになり、子どもたち個人に転嫁されていった。
怖いような気持ちになるのは…
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