先日まで奈良地裁で、安倍晋三元首相銃撃による殺人罪などに問われた山上徹也被告の公判が行われていました。報道を徴するに、銃撃による殺害自体はもちろん非難されるべきものではあるけれども、母親の旧統一教会信仰によって家庭や自分の人生が崩壊させられてしまったという背景については同情的な見かたが通底しているように感じられました。
公判で被告の生い立ちに焦点が当てられていることについて、「弁護士ドットコムニュース」のこちらの記事では、裁判で山上被告が起訴内容を認めているため、どのような事情を汲んで量刑を決めるべきかに審理が集中しており、「(被告の)これまでの人生を、殺人罪の法定刑の幅の中で、『動機』としてどこまで考慮できるのかが問題となっている」からだと解説されています。なるほど。
山上被告とはまったく違う境遇ではありますが、私も幼い頃から母親の影響でとある新興宗教に引きずり込まれ、その宗教の価値観に強い影響を受けながら大学生までの時期を過ごしたので、とても関心を持って裁判の推移を見つめています。そして、公判の報道に接するたび、こうした親による子供への影響は虐待に等しいと感じざるを得ません。
私も、一時は母親を恨んだことがありました。その信仰が、母親自身にとってはやむにやまれぬ、ある種の心の救いでもあったことを否定はできないにしても、別の人格である子どもまで(しかも子どもがまだ自立的・自律的な思考ができない段階で)巻き添えにするのは、やはり間違っていたと思うのです。母親が亡くなってしまった今はもう、恨む気持ちはまったくありませんが。
進化生物学者のリチャード・ドーキンス氏は『神は妄想であるーー宗教との決別』でこう述べています。
私たちの社会は、非宗教的な領域を含めて、小さな子供を親の宗教に教化し、親の宗教的ラベルーー「カトリック教徒の子供」「プロテスタントの子供」「ユダヤ教徒の子供」「イスラム教徒の子供」等々ーーを貼りつけるのが、当たり前の正しいことだという途方もない考えを受け入れてきたーーもっとも、それと同様の他のラベルはそうではなく、保守主義の子供、リベラルな子供、民主主義的な子供といった表現をするのは許されない。ここでお願いするが、このことについてのあなたの意識を高め、そういうことが起こっているのを聞きつけたときにはつねに、大きな声で不平を言ってほしい。子供は、キリスト教徒の子供でもイスラム教徒の子供でもなく、キリスト教徒の親をもつ子供、イスラム教徒の親をもつ子供にすぎないのだ。ついでながら、この「〜教徒の子供」という呼び方は、子供たち自身の意識高揚のためのすばらしいお守りになるだろう。自分が「イスラム教徒の親をもつ子供」だといわれた子供はただちに、宗教とは、大人になって物事を自分で決められるようになったときに自分で選べるーーあるいは拒絶できるーーものだと気づくだろうからだ。(499ページ)
ただし、これはよく誤解されるそうですが、ドーキンス氏は神を否定しているからといって、すべての宗教的事物をなくしてしまえとまでは言っていません。批判しているのは神の存在と、そこから派生する原理主義や宗教教育などで、宗教が背景にある芸術や文化まで批判しているわけではないのです。
私など、それこそ原理主義的な口吻でつい、クリスマスもハロウィンも茶番だ、葬式も戒名も墓も法事も全部いらない、お守りも御札も初詣もやめちゃえ……などと極端に走ってしまいそうになります(実際にはしていませんが)が、それよりもはるかに抑制の効いた批判であるわけです。
実際、同書には、私たちの(というよりドーキンス氏の暮らす西欧社会の人々の、ですか)暮らしには聖書に由来する成句や詩句や常套句などが聖書に由来するものが多い旨、言及されています。さらに「アラビア語やヒンドゥー語話者に『コーラン』や『バガヴァド・ギータ』が彼らの文学的遺産の完全な評価のためには不可欠なのだろう」、あるいは「ワーグナーは、北欧神話の神々についてよく知っていない限り、評価することができない」などとも。
つまりは、宗教的な教養が文学や芸術を理解するうえで不可欠であるということを、じゅうぶんに認めているわけです。そのうえでこうも言っています。
これ以上くだくだと解説するのはやめよう。少なくとも、私の古い読者であればこの程度で、無神論的な世界観が、聖書およびその他の聖典を教育から切り離すことを正当化する根拠を与えるものではないと十分に納得してもらえるほどには、おそらく言葉を尽くしてきたはずだ。そしてもちろん、私たちは、たとえばユダヤ主義や英国国教会の信条、あるいはイスラムの文化的・文学的伝統に対して感情的な忠誠心をもちつづけることができるし、歴史的にそうした伝統とともに歩んできた超自然的な信念を信じることなしに、結婚式や葬式のような宗教的儀礼に参加することさえできる。かけがえのない文化的遺産との絆を失うことなしに、神への信仰を放棄することはできるのだ。(506ページ)
どんな宗教であれ、その宗教の敬虔な信徒であればあるほど、親の信仰と子どもは切り離して考えるべきというこうした主張には首肯しがたいでしょうし、逆に、親は子どもの「幸せ」を祈ればこそ、自分の信仰を子どもにも受け入れさせるのだと言うでしょう。私の母親もまたそうだったのだと思います。
それでも私は、「宗教とは、大人になって物事を自分で決められるようになったときに自分で選べるーーあるいは拒絶できるーーものだ」というドーキンス氏の主張に同意するものです。いわゆる「宗教二世」の問題において、親から子への影響は虐待に等しいと考えるゆえんです。
https://www.irasutoya.com/2016/02/blog-post_48.html
▲「いらすとや」さんって、本当にいろいろなイラストがありますね。