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インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

子どもへの虐待と宗教

先日まで奈良地裁で、安倍晋三元首相銃撃による殺人罪などに問われた山上徹也被告の公判が行われていました。報道を徴するに、銃撃による殺害自体はもちろん非難されるべきものではあるけれども、母親の旧統一教会信仰によって家庭や自分の人生が崩壊させられてしまったという背景については同情的な見かたが通底しているように感じられました。

公判で被告の生い立ちに焦点が当てられていることについて、「弁護士ドットコムニュース」のこちらの記事では、裁判で山上被告が起訴内容を認めているため、どのような事情を汲んで量刑を決めるべきかに審理が集中しており、「(被告の)これまでの人生を、殺人罪の法定刑の幅の中で、『動機』としてどこまで考慮できるのかが問題となっている」からだと解説されています。なるほど。

www.bengo4.com

山上被告とはまったく違う境遇ではありますが、私も幼い頃から母親の影響でとある新興宗教に引きずり込まれ、その宗教の価値観に強い影響を受けながら大学生までの時期を過ごしたので、とても関心を持って裁判の推移を見つめています。そして、公判の報道に接するたび、こうした親による子供への影響は虐待に等しいと感じざるを得ません。

私も、一時は母親を恨んだことがありました。その信仰が、母親自身にとってはやむにやまれぬ、ある種の心の救いでもあったことを否定はできないにしても、別の人格である子どもまで(しかも子どもがまだ自立的・自律的な思考ができない段階で)巻き添えにするのは、やはり間違っていたと思うのです。母親が亡くなってしまった今はもう、恨む気持ちはまったくありませんが。

qianchong.hatenablog.com

進化生物学者リチャード・ドーキンス氏は『神は妄想であるーー宗教との決別』でこう述べています。

私たちの社会は、非宗教的な領域を含めて、小さな子供を親の宗教に教化し、親の宗教的ラベルーー「カトリック教徒の子供」「プロテスタントの子供」「ユダヤ教徒の子供」「イスラム教徒の子供」等々ーーを貼りつけるのが、当たり前の正しいことだという途方もない考えを受け入れてきたーーもっとも、それと同様の他のラベルはそうではなく、保守主義の子供、リベラルな子供、民主主義的な子供といった表現をするのは許されない。ここでお願いするが、このことについてのあなたの意識を高め、そういうことが起こっているのを聞きつけたときにはつねに、大きな声で不平を言ってほしい。子供は、キリスト教徒の子供でもイスラム教徒の子供でもなく、キリスト教徒の親をもつ子供、イスラム教徒の親をもつ子供にすぎないのだ。ついでながら、この「〜教徒の子供」という呼び方は、子供たち自身の意識高揚のためのすばらしいお守りになるだろう。自分が「イスラム教徒の親をもつ子供」だといわれた子供はただちに、宗教とは、大人になって物事を自分で決められるようになったときに自分で選べるーーあるいは拒絶できるーーものだと気づくだろうからだ。(499ページ)

ただし、これはよく誤解されるそうですが、ドーキンス氏は神を否定しているからといって、すべての宗教的事物をなくしてしまえとまでは言っていません。批判しているのは神の存在と、そこから派生する原理主義や宗教教育などで、宗教が背景にある芸術や文化まで批判しているわけではないのです。

私など、それこそ原理主義的な口吻でつい、クリスマスもハロウィンも茶番だ、葬式も戒名も墓も法事も全部いらない、お守りも御札も初詣もやめちゃえ……などと極端に走ってしまいそうになります(実際にはしていませんが)が、それよりもはるかに抑制の効いた批判であるわけです。

実際、同書には、私たちの(というよりドーキンス氏の暮らす西欧社会の人々の、ですか)暮らしには聖書に由来する成句や詩句や常套句などが聖書に由来するものが多い旨、言及されています。さらに「アラビア語ヒンドゥー語話者に『コーラン』や『バガヴァド・ギータ』が彼らの文学的遺産の完全な評価のためには不可欠なのだろう」、あるいは「ワーグナーは、北欧神話の神々についてよく知っていない限り、評価することができない」などとも。

つまりは、宗教的な教養が文学や芸術を理解するうえで不可欠であるということを、じゅうぶんに認めているわけです。そのうえでこうも言っています。

これ以上くだくだと解説するのはやめよう。少なくとも、私の古い読者であればこの程度で、無神論的な世界観が、聖書およびその他の聖典を教育から切り離すことを正当化する根拠を与えるものではないと十分に納得してもらえるほどには、おそらく言葉を尽くしてきたはずだ。そしてもちろん、私たちは、たとえばユダヤ主義や英国国教会の信条、あるいはイスラムの文化的・文学的伝統に対して感情的な忠誠心をもちつづけることができるし、歴史的にそうした伝統とともに歩んできた超自然的な信念を信じることなしに、結婚式や葬式のような宗教的儀礼に参加することさえできる。かけがえのない文化的遺産との絆を失うことなしに、神への信仰を放棄することはできるのだ。(506ページ)

どんな宗教であれ、その宗教の敬虔な信徒であればあるほど、親の信仰と子どもは切り離して考えるべきというこうした主張には首肯しがたいでしょうし、逆に、親は子どもの「幸せ」を祈ればこそ、自分の信仰を子どもにも受け入れさせるのだと言うでしょう。私の母親もまたそうだったのだと思います。

それでも私は、「宗教とは、大人になって物事を自分で決められるようになったときに自分で選べるーーあるいは拒絶できるーーものだ」というドーキンス氏の主張に同意するものです。いわゆる「宗教二世」の問題において、親から子への影響は虐待に等しいと考えるゆえんです。


https://www.irasutoya.com/2016/02/blog-post_48.html
▲「いらすとや」さんって、本当にいろいろなイラストがありますね。

アスリートに学ぶ外国語学習法

スポーツ雑誌『Number(ナンバー)』の最新12月25日号、特集が「アスリートに学ぶ外国語学習法。」だったので、図書館で思わず手に取りました。巻頭からおよそ60ページ以上にわたる、とても力の入った特集です。


Sports Graphic Number 1133号

登場するのは、まずはメジャーリーグの山本由伸氏や大谷翔平氏などで、言語も英語だけかと思いきや、卓球の石川佳純氏(中国語)、サッカーの大久保嘉人氏(スペイン語)、さらには大相撲の安青錦新太氏(日本語)などなど盛りだくさんです。取材対象選手によって、単語、文法、会話、興味、環境などさまざまなキーポイントがテーマになっていて、それぞれの選手がアドバイスする語学力上達のコツも載っています。

記事を通読して感じたのは、やっぱり語学に安直な道はないんだなという、あたりまえのことがらでした。みなさん語り方はそれぞれ違うけれど、結局は地道に(ある意味泥臭く)コツコツとやるしかないとおっしゃっています。あと、行間から読み取れる、多くの方に共通している考え方のひとつは、自分にとって居心地の良い快適な空間(コンフォートゾーン)を意識的に抜け出すことが必要という点です。

恥をかくのが大切とか、間違いを恐れないとか、語学に関してはよくそういうことが言われます。これもやっぱりコンフォートゾーンから抜け出すということですよね。記事の中で特に私が首肯したのは、ラグビー日本代表のチーム通訳者をされている佐藤秀典氏のアドバイスでした。「内向的な性格であっても、外向的な自分を演じろ」。

そう、畢竟、外語を話すというのは、もう一人の自分を演じるようなものじゃないかしらと私は思っています。演じるのは恥ずかしい。でもその恥ずかしさを乗り越える(コンフォートゾーンから抜け出す)意志みたいなものが必要なんじゃないかと。語学が「読み・書き」だけでいいのであれば、その限りではありませんが。記事にはこうありました。

今や人工知能の発展によって、テキストの翻訳は一瞬にして完結する。しかし、人と人とのリアルなコミュニケーションでAIを介してしまうと、お互いの気持ちまでは通わせられない。ましてや、異国の地でゼロから信頼関係を築くのは至難の業だ。
だからこそ、自分の熱量を乗せた言葉を自らの口で発することが重要なのだ。たどたどしくとも、文法や発音が間違っていようとも、自分で話そうとする姿勢が相手の心に届くこともある。(49ページ)

いえ、もちろん熱量や気合いだけですべてのコミュニケーションが成立するわけはなく、正しい文法や発音を追求することだってとても大切です。ただ、その前に、自分の居心地の良いコンフォートゾーンから抜け出す勇気が必要なんじゃないかと、コンフォートゾーンをなかなか抜け出してくださらない学生さんに接するたび、思います。

qianchong.hatenablog.com

勇気だ、熱量だなんて……暑苦しい? たしかにねえ。でも語学って、けっこう暑苦しい(そして泥臭い)営みなんじゃないかと個人的には思っています。学生さんにそう言っても、ウケはすこぶる悪いですけど。

今年の単語「怒りの餌」

ここのところしばらく、スマートフォンになるべく依存しないような生活習慣を意識的に養おうとしています。まったく使わないとか、フィーチャーフォン(いわゆる「ガラケー」)やダムフォンに乗り換えてしまうとかいうほどには徹底していませんが、とりあえずのべつ幕なしにスマホに手を伸ばすのはやめようと思って。

具体的には、スマホからの通知を最小限にしたうえで、音楽を聴かない、動画を視聴しない、写真を撮らない、電子書籍を読まないようにしています。老眼が亢進しているのでブラウザでの検索も億劫になりましたし。そんなわけでスマホは、腕時計の代わりに時間を見るのと通勤定期(モバイルPASMO)と、それに決済端末(各種Pay)としての利用のみにほぼ落ち着きました。

通勤電車で手持ち無沙汰になり、ついスマホに手が伸びそうになることはありますが、それを抑えて紙の本を読んだり、あるいはいっそ何もしないで空想にふけるようにしたのです。瞑想とかマインドフルネスなどとはほど遠いですが、それでもこの頃ようやく、スマホの禁断症状がやわらいできたのを実感できるようになりました。これもひとえにSNSをすべてやめてしまったというのが大きかったと思っています。

けさの新聞に「レイジ・ベイト(rage bait)」という言葉が載っていました。オックスフォード大学出版局が毎年選んでいる「今年の単語」、その2025年版がこの言葉だそうです。



「怒りの餌」。そうそう、SNSに浸っていたころは、まさにこの餌というか罠につられていました。なんでこの世の中はこうなんだろう、コイツは何を言っているんだ、全然わかっちゃいないじゃないか……アクセスすればするほど、怒りがどんどん増幅されていくのです。いまにして思えば、そもそもSNSのタイムラインは、エコーチェンバーとフィルターバブルで歪められていて、世の中の実態とはかけ離れている可能性が高いというのにね。

記事にもあるように、2024年の「今年の単語」は「ブレインロット(brain rot:脳の腐敗)」だったそうです。検索してみたら、オックスフォード大学のこのページが見つかりました。

Our experts noticed that ‘brain rot’ gained new prominence this year as a term used to capture concerns about the impact of consuming excessive amounts of low-quality online content, especially on social media.
専門家たちは、低品質なオンラインコンテンツ、特にソーシャルメディア上のコンテンツを過剰摂取することの影響に対する懸念を表す言葉として、「ブレイン・ロット(脳の腐敗)」が今年新たに注目を集めたことに気づきました。

corp.oup.com
折しもオーストラリアでは今月10日から、16歳未満のSNS利用を禁止する法律が施行されます。その実効性については疑問の声もあり、世論の賛否も分かれているそうですが、英語圏で選ばれた「今年の単語」が2年連続でネットコンテンツの害に関するものだったという話に接して、宜なるかなと思いました。法律施行後の動向にも注目したいと思っています。

それにしても……選考団体や文化背景が違うので一概には語れませんが、こうしてみると日本の「新語・流行語大賞」はちょっと浅薄な気がします。社会の現状や課題への認識、あるいは現代という時代への洞察の差がずいぶん大きいという感慨を抱かざるを得ません。


https://www.irasutoya.com/2020/08/blog-post_744.html

東京都立多摩図書館で『ボンボンものがたり』を読む

子どものころに読んで、いまでも折に触れて思い出す本があります。それは絵本だったり童話だったり、あるいは図鑑やマンガや科学読み物だったりするのですが、私にとっていちばん印象深いのは、永井明氏の『ボンボンものがたり:チビの一生』です。


ボンボンものがたり:チビの一生

1969年に初版が発行されているこの児童文学は、アジア・太平洋戦争の時期を時代背景として、一匹の野良犬・チビと、それにかかわる人々の群像を描いた物語です。私はこの本を、小学校の低学年だったころに移動図書館で借りて読んで、強い印象を受けました。

基本的には救いのない、悲しいストーリーだったと記憶していますが、それでもなぜか暖かいものが心に残る不思議な読後感を与えてくれたのです。だからこそ、今にいたっても思い出すわけで、もういちど読みたいものだと思って古本屋さんやネットオークションなどをずいぶん探しましたが、見つけることはできませんでした。

とはいえ、実はこの本、国立国会図書館のデジタルコレクションに入っていて、NDL search(国立国会図書館サーチ)で探せば全文を読むことができます。ですから、もういちど読みたいという夢はすでにかなえられているわけです。ただ、個人的に本は、特にこういう思い出に残っているような本は、紙のページをめくる手触りや本の厚みや重さなどを感じながら読みたいのです。

NDL search では、国立国会図書館以外でこの本を所蔵している全国の図書館を探すこともできます。私の住んでいる場所から一番近いーーとはいえ一時間以上かかりますがーーのは東京都の国分寺市にある東京都立多摩図書館なので、いつか読みに行きたいものだと思っていました。

そんな折、何がきっかけだったのか、つい最近にもうひとつ子供の頃に読んで深い印象に残っている物語を思い出しました。こちらはタイトルも忘れてしまったのですが、一種のSF小説で、雑誌か何か(たぶん学研の『科学と学習』だったと思います)に載っていた短い物語でした。地球が軌道を外れて太陽にどんどん近づき、暑さが極限に達したと思いきや、目が覚めると実は地球が太陽から遠ざかりつつあったという。

いわゆる「夢オチ」で、物語としてはそんなに深みはないんですけど、その寒暖の(暖寒か)逆転が鮮やかで、なぜかよく覚えているのです。アメリカが舞台で、主人公の女性が絵描きだったーーくらいしか手がかりがなかったのですが、ネットを検索してみたらすぐに見つかりました。ロッド・サーリング氏の『真夜中の太陽』でした。

ロッド・サーリング氏はアメリカの有名なTVシリーズトワイライト・ゾーン』の脚本家だったそうで、この『真夜中の太陽』は氏ご自身によるノベライズ作品集『ミステリーゾーン』中の一作としてけっこう有名だったみたい。だから検索ですぐに見つかったんですね。たしかに、あの物語はトワイライト・ゾーンっぽい(日本でいえば『世にも奇妙な物語』的な)プロットでした。

これももう一度読んでみたいなと思って探してみたら、この物語が入っている短編集『恐怖と怪奇名作集 2 』もまた、東京都立多摩図書館に蔵書があることが分かりました。これはもう、行くしかありますまい。都立図書館は個人貸出をしていないので、館内で読む必要があります。それでこの週末に行ってきました。館内の端末で検索して貸出要請をかけることしばし。手渡されたのがこの二冊。おおお。

図書館の隣にある公園の林が見える、窓際のソファで二冊を読みました。二冊とも読みながら、「そうそう、こういう話だった」とか「そうそう、こんなエピソードもあった」と次々に記憶がよみがえってきましたが、逆に「こんなシーンがあったのか」とか「こんな登場人物がいたのか」とすっかり忘れていた部分もありました。

『ボンボンものがたり』は、チビの飼い主となったカトリックのフランス人神父が準主人公ともいうべき存在で、「ボンボン」はこの神父がチビをほめるときのフランス語“bon”に由来します。それもあってか、この童話にはキリスト教の価値観が強く反映されているようです。

奥付けの前に作者・永井明氏の略歴があって、そこには「1921年栃木県に生まれる。幼時小児マヒにかかり歩行不能となったため、肢体不自由施設柏学園で小学教育を受けた後は、殆ど独学で児童文学を勉強する」とありました。ほかの著書には『聖書の伝説』や『聖アウグスチヌス』といった書名が挙げられていましたから、永井氏ご自身もキリスト教徒だったのかもしれません。『ボンボンものがたり』に戦争や差別や偏見などについてのエピソードが巧みに織り込まれているのも、作者のこうした境遇が反映されていたのではないかと思います。

ただ、そういう宗教的な要素ばかりではなく、この作品にはチビの一人語り(一匹語り?)にある種の軽妙さがあって、どこか上質の落語を聞いているような人情味が溢れています。また芸術と理想のギャップが語られ、世論とマスコミの非情や戦争と権力者の横暴が暴かれ、大人の知恵がさり気なく盛り込まれてもいます。

この作品が刊行された1969年といえば、あの敗戦から二十数年しか経っていない時代です。戦争の記憶がまだ色濃く残っていた頃の児童文学であり、それが両親や祖父母などから実体験としての戦争の記憶を語られていた私のような世代の子どもに深い印象を残したのも当然かな、と読みながら思いました。

ほとんど半世紀ぶりにこうした物語を読み返して、とても豊かな気分にひたることができました。特に『ボンボンものがたり』は、長新太氏の挿絵がまた物語にとても深い陰影を与えているんですよね。私は長新太氏の絵の大ファンなので、その点でも本当にすばらしい読書の時間になりました。

それでも、読書をやめない理由

二週間ほど前のことですが、作家・吉川トリコ氏のコラムが新聞に載っていました。「SNSに時間を吸われて」焦っておられるとのこと。私もかつて同じような感じでSNSに耽溺していたので、とても共感を持って読みました。

吉川氏はコラムの最後を「まずはスマホをカチ割るべきなのかもしれない」と結んでおられます。同じような衝動に駆られたことは、私にもあります。でも結局は「カチ割る」ことはできず、かといって、いわゆるガラケーやダムフォンに乗り換えることもできず、すべてのSNSから「降りる」ことでようやく心の平静を取り戻したのでした。

先日、図書館で借りて読んだデヴィッド・L・ユーリン氏の『それでも、読書をやめない理由』には、こんな記述がありました。

人と人とをつなげるという名目のもとに、テクノロジーはわたしたちを引き離し、ついには自分自身からも引き離してしまう。ツイートしたい、メールしたい、ブログを更新したいという絶え間ない衝動によって、わたしたちはどうでもいい日常の出来事(『ランチには残り物を温めなおすつもり』etc)を共有し、自分たちは親密であるという幻想を抱くようになった。それによって、本質的なことが何かひとつでも明らかになるわけではないのに。(104ページ)


それでも、読書をやめない理由

そうなんですよね。SNSから降りようとする過程で、私は「アテンション・エコノミー(注意経済)」に関する書籍をあまた読み漁り(おそらく数十冊は下らないと思います)、巨大テック企業から無料で提供されるSNSをはじめとするテクノロジーが、いかに私たちのお金と時間を奪っていくかについて痛感することになりました。

それだけの書籍を経なければ、あのくだらない(と敢えて言いましょう)SNSから自分を引き剥がすことができなかったのか……と自らの意志の弱さがなんとも情けないです。しかし、上掲のコラムで吉川氏も呻吟なさっているように、それだけSNSは巧妙に・精巧に作り込まれていて、よほど用意周到な戦略を取らなければ「解脱」は容易なことではないのです。

でもいったん「解脱」できてしまうと、今度は「どうしてあんなもの(SNS)にそこまで執着していたんだろう」と、かつての自分が信じられないくらい。私はここで解脱だの執着だの宗教めいた語彙を使っていますが、実際のところSNSに実利を見出すのは、かのリチャード・ドーキンス氏が「妄想である」と喝破した神ないしは宗教を信じるのと同じようなものだと今にして思います。


神は妄想である ‐宗教との決別‐

いや、それ以上に害悪ですらあるとさえ思っています。SNSにおける発言の大部分は匿名で行われ、それも手伝ってか摩擦や対立や分断や誹謗中傷や罵詈雑言や流言飛語の温床になっていることは、ニュースサイトなどのコメント欄をちょっと覗いてみるだけでも明らかです。マスメディアも、報道やジャーナリズムに携わる者としての矜持があるのなら、SNSのコメントを流用する悪習(というか手抜き)はやめるべきだと思います。

SNSもその登場の当初は、マスメディアに独占されていた発信をひとりひとりの手に託せるようになった、誰もが手軽に情報を発信できるようになったことが世の中に対する最大の貢献だともてはやされたものでしたし、自分もそう実感していました。でも十数年を経た今は「良質な発信」が問われる時代になったのです。『それでも、読書をやめない理由』には、こんな記述もあります。

わたしはかねてから、匿名性こそインターネットが自らの首をしめるものだと考えてきた。それはわたしたちに、仕返しの心配も償いの心配もなく、他者へ唾を吐きかけることを許す。(141ページ)

SNSに耽溺していた頃の私は、それが他者とより豊かにつながるためのチャネルになるのではないかと考えていました(SNSの黎明期には、たしかにそんな側面もあったのです)。でも、いろいろと考えた末にすべてのSNSから降りた私は、ネットに耽溺することでいつのまにか手薄になっていた読書に戻ってくることになりました。
qianchong.hatenablog.com
SNSとともに、ニュースサイトや動画サイトからも意識的に距離を置くようになりました(このふたつは「すべて降りた」とは言えませんが、それでも費やす時間はかなり減りました)。そのぶん読書の時間を取り戻したわけですが、読書、それも良質な読書こそ「他者とより豊かにつながるためのチャネルになる」ことを再発見したような気がします。ふたたび『それでも、読書をやめない理由』の記述から。

本が内側から外側を照らし出すものであるのに対し、映像はその逆なのだ。言葉とは内的なものだ。わたしたちは、他者の記した言葉から、自分なりのイメージや映像やリアリティを創り出さなくてはならない。それこそが、言葉の力の源だ。つまり、真の意味で他者と相互作用的であるということが。(124ページ)

読者は本と一体化する(・・・・・・・・・・)。これは重要なーーおそらく、もっとも重要なーー指摘だ。カー*1は、読書とは心の状態や体験を描き出す方法、あるいは刻みこむ方法であると述べている。読書とは、それによって人生の認識にいたる、人生のひな形である、と。(129ページ)

私は2025年の今に至ってようやくこんなことを考えるようになったわけですが、驚くのはこの『それでも、読書をやめない理由』が書かれたのは2010年だという点です。2010年といえば、ちょうど私がTwitterのアカウントを作ってSNSへ急速にのめり込んで行った時期じゃないですか。この本のエピローグにはこう書かれています。

結局のところ、何かと注意が散漫になりがちなこの世界において、読書はひとつの抵抗の行為なのだ。(192ページ)

この15年間、私はいったい何をしていたんでしょうね。

*1:『ネット・バカ』の著者、ニコラス・G・カー氏のことです。 qianchong.hatenablog.com

高市早苗氏の話し方

内田樹氏がご自身のブログに、中国の『環球時報』から求められた寄稿の全文を公開されています。中国共産党の機関紙である同紙に日本人として寄稿することには「ベネフィットとリスクの両方がある」としながらも、ご自身の文章が「日中の緊張緩和に資する」というベネフィットがあるかもしれない一方で、「利用されたり罵倒されたり」してもリスクを負うのは自分ひとりだからという理由で応じられたとのこと。

blog.tatsuru.com

かなりな長文ですけれども、それだけに読み応えがあります*1。首肯した部分が多くてとても紹介しきれませんが、一点だけ。台湾問題に関して、今回高市首相が歴代政権の見解やアメリカの「曖昧戦略」をも飛び越えて「レッドラインを踏み越えた」と認識されている点について、その発言の理由を内田氏は「一つは資質問題であり、一つは政治的マヌーヴァーとしてだと私は思います」とお答えになっています。そして「資質問題というのは『軽率』ということです」とも。

軽率……たしかに、私は高市首相の発話を聞いていて、その軽さにいたたまれなくなることがあります。とはいえ「鹿」とか「戦艦」とか「そんなことより」とか「マウント取れる服」とか「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」といった数々の発言に対して揚げ足を取りたいわけでなく(まあどれも軽率のそしりは免れないと思うけれど)、高市氏の話し方のスタイルそのものに軽さ、もっとはっきり申し上げれば軽薄さを感じるのです*2

国会答弁や党首討論などにおける高市氏の話し方については、ペーパーに目を落とさず、できるだけ自分の言葉で話そうとするその姿勢を良しとする方もいて、それが高支持率の背景にあるのかもしれません。でも、フリーハンドで話されているからこそ、よけいにその人品骨柄みたいなものが、はしなくも伝わって来るということはあります。単なる好悪の問題と一笑に付されるかもしれませんが。

とまれ、高市首相におかれては、十分に睡眠をお取りになり、明晰な頭脳でもって軽率な発言を避けていただきたいものです。それだけのお立場なんですから。

qianchong.hatenablog.com

*1:内田氏は、「記事にするときは『内田の真意が伝わる』とあなたが判断できたら、いくら短くしても結構です」とお伝えした、と書かれており、それもあってか『環球時報』のウェブサイトに載っている記事はずいぶん削られてしまっています(日本神户女学院大学名誉教授内田树接受《环球时报》专访:高市应撤回错误言论并向中国道歉)。翻訳のご苦労もあるでしょうけれども、これは全文を読んでいただきたかったです。

*2:追記:私自身はSNSをすべて降りてしまったので気づかなかったのですが、Xのこういう投稿を教えていただきました。クリックすると続きが読めるようです。

歳を取ってからジタバタするのは逃れられない宿命なのかしら

元外交官で作家・評論家の佐藤優氏が、参議院議員鈴木宗男氏と一緒に主宰されている「東京大地塾」という勉強会があります。私はお二人のお考えすべてに共感するものではありませんが、マスメディアの報道とは違う切り口で国際情勢を語っておられるのに蒙を啓かれることが多くて、YouTubeチャンネルで配信される例会の模様はよく視聴しています。

www.youtube.com

直近の配信は日中関係が主題でした。高市首相がいわゆる「台湾有事」に関して「戦艦を使って武力の行使も伴うものであれば、これはどう考えても存立危機事態になりうるケースだ」と衆院予算委員会で答弁したことで日中関係が緊張していることについて、中国の猛反発の背景にある理路や日本が外交上取るべき手法について、いろいろと解説されています。


www.youtube.com

その内容については、いつものように「なるほど」と腑に落ちる点が多かったです(たとえばメンツを潰されて「激おこ」の習近平氏に対して、中国政府のさまざまな部署が忖度や追従から競うようにして強硬姿勢を見せる外交カードを切っているという点など)。ただ、動画の冒頭で紹介されていたご自身の新著『定年後の日本人は世界一の楽園を生きる』については、さっそく購入して読んだものの、ちょっと、いや、かなり意外な読後感が残りました。


定年後の日本人は世界一の楽園を生きる

佐藤優氏の著作は、これまでにもずいぶん拝読してきました。そのいずれもが重厚で確かな読後感をもたらしてくれたのですが、今回のこのご著書は、たいへん失礼ながら「まえがき」で「これまでの人生の集大成だと考えている」と書かれている割には、とても薄い内容だと感じました。

私も「定年後の日本人」のひとりですし、佐藤優氏とほぼ同じ世代の人間なので、それこそこの本が想定している読者層にぴったりだと思い、かなり楽しみにして読みました。でも内容的には、佐藤氏ご自身の状況にしか当てはまらないんじゃないだろうかという部分が多く、人生論としては噛み応えに欠けます。けっこう総花的というか、話が散漫な印象で、これは邪推ですが編集者の手腕も欠けているんじゃないかなあ。

ただ佐藤氏は上掲の動画で「この本が10万部を突破したんだけれども、これはどういうことかというと、やっぱりそれだけ不安感というものがいま、高いんだと思う」とおっしゃっていて、それはその通りだと思います。私を含めて定年前後の中高年齢者がとにかく不安にかられて、こうした「定年本」あるいは「定年後本」に飛びつくんですよね。かくいう私も、ここ5、6年ほどは、かなりな量のこうした本を読んできましたから。その意味では、もし書名を『定年後の日本人は世界一の楽園に生きる』としたのが編集者だとしたら、その手腕は見事だというべきなのかもしれません。

とまれ、皮肉や「disり」はこのくらいにしておきましょう。それに、もう一冊動画で紹介されていた佐藤優氏の新著『愛国の罠』、こちらはとても読み応えのある一冊でしたから。


愛国の罠

しかしなんですね、自分がこの年齢になって思うのは、加齢によってこんなにもいろいろな予想外のことが起きるのなら「先達のみなさん、もっと早く言ってよ」ということです。こういうある種の知見というものをあらかじめ知ることができていれば、こんなに慌てなかっただろうし不安にもならなかっただろうにと。

いや、そうじゃないですね。今から振り返れば、先達のみなさんはそういう知見を様々な著作の形で世に問うておられたのです。ただ問題は、若くて元気な頃は、そういう著作の数々に対して食指が動きにくいということで。そんな年寄りのぼやきや愚痴みたいなものなど読みたくないと思うでしょうから。ほんとうはぼやきや愚痴などではなく、深い哲理が蔵されている作品も多いんですけどね。

ということで、人は誰しも、その歳になってはじめて現実を知り、ジタバタするという宿命から逃れられないのかもしれません。もちろん中には早くからそういう知見に触れて未来の現実に想像力を働かせ、心の準備をされている聡明な方もいらっしゃるでしょうけど。

この仕事がお好きじゃないのかも

先日、とあるイタリアンピザのレストランに行きました。お店に入ると、スタッフ全員が“ボナセーラ(Bonaserà:こんばんは)”と唱和するようなタイプのカジュアルなお店です。

まず、若い男性の店員さんに「スプマンテをグラスで二つ」とお願いしました。このお店のメニューでは、グラスで提供されているスプマンテは「マルティーニ ブリュット」一種類しかないのです。ところがしばらくしてホールのチーフと思しき女性の店員さんがやってきて、「あの、申し訳ありませんが、ご注文をもう一度……」とおっしゃる。「スプマンテのグラスを二つです」と申し上げるも、「は?」と納得の行かないご様子。

それでメニューを指差そうと思って気づきました。メニューには「スパークリングワイン」と書いてあるんですね。だから「スプマンテ」と言われた店員さんたちは戸惑ってしまったというわけです。ごめんなさい、イタリア料理だからと気取って「スプマンテ」などと言った、スノッブな私が悪かったのです。

でも……あとからいろいろと考えてしまって、結局この日は食事をあまり楽しめませんでした。最初に注文を取りに来た若い男性の店員さんは、あのチーフに怒られたんだろうなとか、そのチーフもイタリア料理店で働いているのに「スプマンテ」をご存知なかったのかなとか、結局お二人ともこの仕事がそんなにお好きじゃないのかなとか。

qianchong.hatenablog.com

いや、もうほんとうに大きなお世話なんですけど、来店時に「ボナセーラ」とおっしゃるくらいなんですから、イタリアの料理や文化に対してもう一段興味をお持ちになれば、もっと楽しく働けるんじゃないかなあ。たぶんお二人ともアルバイトでしょうし、仕事にそこまでの情熱は求めてない? でも私は、けっこう大切なことだと思うんです。それに腰掛けで仕事をしていると、仕事のよきこ゚縁も巡ってこないものなんですよ。……うわあ、なんだか老害じみてきたので、このへんでやめておきます。

qianchong.hatenablog.com

✓と◯

最近、語学学習アプリDuolingoの仕様がちょこちょことアップデートされています。アプリが動作するたびに(たとえばプログレスバーが動くときなど)こまかい効果音が入るようになって、個人的にはちょっと騒がしいなあ……という印象なのですが、マイナーなところで興味深かったのは「✓」が「◯」になったことです。

Radioと呼ばれる、Duolingoのキャラクターたちがゲストと会話する形式のリスニングユニットで、正誤問題の選択ボタンが以前は「✓」と「✗」だったのが、いつのまにか「◯」と「✗」になっていました。正解なら「◯」が当たり前と思うかもしれませんが、それは私たちが日本の習慣に馴染んでいるからで、他の国では正解を「✓」としているところも多いんですよね。

Duolingoはアメリカの企業なので、最初はアメリカ式に正解を「✓」としていたのだと思います。実は中国も正解は「✓」で、だから私は、中国語を学び始めたばかりの頃、学校で中国人の先生が小テストなどで「✓」をつけてくれたのを「不正解なのかしら」と思ったことを覚えています。日本の習慣では、不正解が「✓」あるいは「/」だったりすることがありますよね。


https://www.irasutoya.com/2012/11/0.html

ネットで見つけたこちらのページでは、『ドラえもん』ののび太くんがテストで0点を取った画面を示して、中国の方が「全問正解なのになぜ0点なの?」という疑問を元に、このあたりの事情を解説されています。

sliptojapan.com

また、世界の正誤マーク事情についてとてもわかりやすく解説されているウェブサイトも見つけました。こちらも中国の方が書かれているようです。

bunkaru.jp

Duolingoがなぜ「✓」を「◯」に変えたのかは分かりません。日本人のユーザーが多いからかもしれませんし、もしかしたら日本語で英語など諸外語を学んでいるモードのときだけ日本人にもわかりやすい仕様にしている、ということなのかもしれません。

中国人とメンツ

高市早苗首相、就任一ヶ月あまりで早くも難題が持ち上がりましたね。何がって、中国の習近平国家主席と首脳会談した直後に、いわゆる「台湾有事」に関して「戦艦」(久しぶりに聞きました、この単語)という言葉も用いながら「存立危機事態」であると衆院予算委員会で答弁し、中国側の猛反発を招いたことです。

現在までのところ、中国政府は日本への渡航自粛や留学の慎重な検討など次々にカードを切っています。外務省の局長が急遽訪中して説明などと報道されていましたが、さらにこじれた場合、向こうにはレアアースの輸出規制や国境周辺での活動強化などまだまだ切ることができるカードが多いだけに、厄介だなあという印象です。

識者の方々は、今回の中国側の反応の背景にあるものとして、ポツダム宣言からサンフランシスコ講和条約日中共同声明などを踏まえてその「理路」を解説されています。それらを読みながらとても勉強になったのですが、個人的にはそれに加えて、もっと単純に習近平さんが「激おこ」だからなんだろうなとも思いました。だって中国人(というか華人:チャイニーズ全体の、とくに中高年以上のオジサン)とつきあう上でいちばん避けたほうがいい「メンツつぶし」をやっちゃったんだもの。

国と国との外交に「メンツ」など持ち込むなと日本の方は言うでしょうし、私も正直なところ同感なんですけど、でも、一部のチャイニーズ*1における「メンツ」は、とにかく途方もなく面倒くさくて厄介なしろもの(ある意味「奥深い」とも言えます)でして。なんなら、ご自身でも持てあますくらいに自分でもどうしようもなく、抜きがたく身についたメンタリティなのです。

私自身も仕事をする中でうっかり「メンツ御大切(おんたいせつ)」タイプチャイニーズの地雷を踏んでしまい、煮え湯を飲まされたことが何度もあります。このブログを読んでいる友人や知人も多いので、あまり具体的には書きたくないですが、とにかくこのメンツをつぶされるというのは、一部のチャイニーズ(しつこいけど、とくに中高年以上のオジサン)にとっては、もう本当に耐えがたいことでありまして。

はたから見ればなんでそんな些細なことで、と思えるようなことでも、何らかの理路でメンツ地雷に触れたとたん、もう取り返しがつかないくらいの災厄を招きます。失わされたメンツの前には恥も外聞も理性も理屈もすべて吹っ飛ぶ勢いで屈辱を感じるご様子で。これ、言語化するのが難しいんですけど、ほとんど生きている次元や世界線が違うんじゃないかと思えるくらいです。

なので今回の「激おこ案件」は、習近平さんがある程度までクールダウンされないと解決の兆しが見えてこないかもしれません。中国の、日中関係をハンドルしている優秀な官僚さんたちはけっこう頭を抱えているんじゃないでしょうか。長いつきあいの中で日本はチャイニーズのメンタリティを研究してこなかったのかって。なんでそんな初歩的なところでミスしてくれちゃうんだって。


https://www.irasutoya.com/2016/10/blog-post_955.html

高市首相は「ワークライフバランスを捨て」て「馬車馬のように」働くと初手から宣言したお方です。でも人の上に立つ方であれば、いろいろな仕事を優秀な部下に適切に割り振ることを考えていただきたい。そして自分はいつでも冷静沈着な手を打てるように、十分に睡眠をとり、常に明晰な頭脳を維持しておかなければ。これで本当に「有事」なんてことになったそのときに、寝ぼけ眼であれこれ判断してほしくありません。危なすぎます。

旅行や留学は今のところはまあ、基本的に「上に政策あれば下に対策あり」な方々なので、そんなに影響はないかもと個人的には踏んでいます。でも政府がさらに本腰を入れ出して、自分や自分の家族に危害が及ぶと判断したら逆にとても従順(面従腹背ではあっても)な方々なので、影響もそれなりに深刻になると思います。願わくはそうなる前に大人の対応をしてほしいものですが……高い支持率に浮かれている方も多いみたいですから、心配です。

*1:チャイニーズの名誉のために申し添えておきますが、こういう「メンツ」とは無縁な方ももちろんいらっしゃいます。ただ問題は、それが外からは見えず、しばらくつきあって「この人は大丈夫かな」と思っていても突然「メンツ御大切(おんたいせつ)」タイプであることが露わになることがあるという点です。

Amazonの置き配指示

クラウド封土」から抜け出すべく、Amazonをできるだけ利用しないようにしている私ですが、その理由のひとつにAmazonの配達システムの歪み、なかんずく、Amazonと提携しているデリバリープロバイダ(中小の運送会社や個人の配送業者)の問題がありました。特に再配達が度重なることによる長時間労働など労働環境の悪化や、それに伴う配達品質の低下などの問題です。

配達品質の低下とはつまり遅延や誤配、荷物の雑な取り扱い、あるいは自宅にいるのに置き配されたり宅配ボックスに入れられたり……といったようなことを指します。また「マンションの宅配ボックスを空のままキープ」という問題もかつて報じられていました。私自身も、荷物を勝手に「出品者へ返品」されてしまったことが何度かあります。

qianchong.hatenablog.com

でも再配達の増加による配送業者さんのご苦労もよくわかるので、あまり責める気にはなれないんですよね。しかも私が住んでいるアパートには宅配ボックスがないので、なおさら再配達の可能性が高まります。ヤマト運輸や佐川急便などだと確実に自宅で受け取れる時間を指定することもできるのですが、デリバリープロバイダ(配送業者「Amazon」と表示される)の場合は、置き配の指定と週末の配送可否設定しかできません。



しかもこの設定画面だと、宅配ボックスがなく建物の管理人もいない私のアパートのような場合、置き配指定のしようがありません。かといって土日に配送可としてしまうと、一日中家にいなければならず、これも不便です。それでなるべくAmazonを使わないようにしようと考えるようになったというわけです。

ところが、先日肋骨を折ってしまったので、胸を固定するサポーターを緊急で手に入れようと、やむなくAmazonを使いました。悲しいかな、肋骨が折れても仕事は休めないので、不在時に受け取れず再配達……の問題がまた浮上してしまったわけですが、ふと「配送指示」の一番下に「さらに配送指示を追加する」というリンクがあるのに気づきました。ここに「配送に関する指示」という欄があって、試しに「もし不在でしたら、集合ポストの上か下に置き配してくださってけっこうです。よろしくお願いいたします」と書き込んでみました。

そしたら、こんな感じで配達され、メールでお知らせが届きました。宛名側を裏にして置いてくださっているところには配送業者さんの配慮を感じます。

置き配は盗難の危険性もあるんですけど、うちの集合ポストは通りから少しだけ引っ込んでいるので、まあ大丈夫かなと。今後Amazonを利用するときは、この方法で行ってみようと思います。これなら、配達業者さんも自分も共にハッピーじゃない?

食品価格に一喜一憂しない

スーパーで卵や豆腐や牛乳などを買うときに、賞味期限を気にしますか? 私の周囲でこう尋ねると、ほとんどの方が気にするし、棚の奥に手を伸ばして賞味期限のより長いものを選ぶとおっしゃいます。また、「消費期限」と「賞味期限」の違いはよく分からないとも。とても聡明で理知的でふだんから尊敬申し上げている方でも、ことこの問題になるととたんに愚かになっちゃう。

愚かだなんて、とても無礼な言い方をしてしまいました。ごめんなさい。でも、私は必ず賞味期限のより短い食品から(たいてい棚の手前にあります)選んで買うようにしています。少しでも食品ロスを減らしたいからですし、自分だけ得をしようというその「さもしさ」にとても耐えられないからです。

ちなみに消費期限は安全に食べられる期限のこと、賞味期限はおいしく食べられるであろうと考えられる期限のことです。前者は期限が過ぎたら食べないほうがいいですが、後者は期限が過ぎても食べられなくなるわけではありません。というか、安全率を見込んで設定されているので、賞味期限を過ぎていてもたいていは食べられます。匂いを確かめるなどして自分で判断すればいいのです。

井出留美氏の『私たちは何を捨てているのか』によれば、日本では食品ロスのために失われている金額が年間4兆円にものぼるそうです。その一方で、日本の子どもの9人に1人は貧困状態にあり、十分な食事をとることができない子どもたちが数多く存在しています。そんなあまりにも理不尽な状況に胸が苦しくなります。その他にもこの本では、ゴミ政策や「令和の米騒動」など、食品をめぐる数多くの課題が解説されています。


私たちは何を捨てているのか

「令和の米騒動」においては、買い占めに走る消費者や備蓄米の購入に徹夜で並ぶ消費者、さらには高騰する米価格に不満を募らせる消費者など、さまざまな消費者の反応が報道されていました。主食であるだけに、特にお子さんのいらっしゃる家庭などでは喫緊の課題であろうこと十分に理解できます。でもマスコミが毎日毎日お米の価格を報じるのもなんとなくうんざりですし、正直に申し上げて私はちょっと騒ぎすぎではないかと思っていました。

そもそも米をはじめとするほとんどの農産物が、その生産の手間を考えればこれまであまりにも安価にすぎたのではないかと思います。それを私は、かつて田舎で農業(のまねごと)をしていた時に痛感しました。これだけ手間ひまをかけなければ生産できず、しかもそれがなくては生きていけないほど大切なものなのに、どうしてこんなに安く買い叩かれてしまうのかと。

私は、農産物(水産物や畜産物も)生産者のご苦労に報いるためにも、そして生産者を守るためにも、その価格に一喜一憂することはできるだけ控えたいと思います。言い換えれば、そのときどきの市場で決まった「言い値」でありがたく買う。そして、食品ロスを減らすために賞味期限の短いものから順番に買う(「てまえどり」という言葉があるみたいですね)のです。「おつとめ品」とか「見切り品」など値引きシールが貼られたものもよく利用します。


https://www.irasutoya.com/2018/08/blog-post_963.html

もちろん食品を含む物価の高騰は私たちの暮らしを直撃しますから、それを抑制するための政策を支持するための声を上げることも必要です。そして選挙の際の投票行動にもつなげるのです(実際のところ、もどかしいことこの上ないですが)。くわえて、格差や貧困をなくすための政策を積極的に支持し、寄付や支援も可能な限り行う。一消費者として私にできること、すべきことはこれくらいではないかと思っています。

本を売り、図書館を利用する

本棚を整理して、段ボール箱で2箱分、バリューブックスさんに買い取っていただきました。私はだいたい年に3~4回ほど買い取りをお願いしています。キャンペーンコードを利用して送料を無料にしていただくいっぽうで、査定額が10%アップになるという「ソクフリ」(査定後にすぐ買い取り金額が振り込まれるサービス)は利用していません*1

バリューブックスさんを信用していないわけではないけれど、言い値で買い取られてキャンセルができないというのは、やっぱりどこかに悪意の介在を疑ってしまうのです。ごめんなさい。とはいえ、実際のところ、バリューブックスさんの買い取り価格は市井の古本屋さんに比べても良心的だと感じています。今回の価格はこんな感じでした。

書名 定価(円) 買い取り価格(円)
神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡(紀伊国屋書店 3200 1379
創作者のための読書術 読む力と書く力を養う10のレッスン(フィルムアート社) 2970 1104
バベル オックスフォード翻訳家革命秘史・上(東京創元社 3300 982
バベル オックスフォード翻訳家革命秘史・下(東京創元社 2750 737
帰れない探偵(講談社 2035 719
ままならぬ顔・もどかしい身体 痛みと向き合う13話(東京大学出版会 2420 559
NEXUS 情報の人類史・上 人間のネットワーク(河出書房新社 2200 554
NEXUS 情報の人類史・下 AI革命(河出書房新社 2200 554
ことばの番人(集英社インターナショナル 1980 554
沈黙を破る「男子の性被害」の告発者たち(文芸春秋 1870 554
ソーンダーズ先生の小説教室 ロシア文学に学ぶ書くこと、読むこと、生きること(フィルムアート社) 3630 553
下山事件 真相解明(祥伝社 2090 493
遺伝子が語る免疫学夜話 自己を攻撃する体はなぜ生まれたか?(晶文社 1980 493
批評回帰宣言 安吾漱石、そして江藤淳ミネルヴァ書房 3080 479
1分で整ういつでもどこでもマインドフルネス(日本実業出版社 1760 395
原子爆弾新装改訂版 核分裂の発見から、マンハッタン計画、投下まで(ブルーバックス 1870 395
言葉をおぼえるしくみ 母語から外国語まで(ちくま学芸文庫 1650 395
質量はなぜ存在するのか「質量の謎」から始まる素粒子物理学入門(ブルーバックス 1320 334
さあ、本屋をはじめよう 町の書店の新しい可能性(Pヴァイン 2200 297
死すべき定め―死にゆく人に何ができるか(みすず書房 3080 297
道徳性の起源 ボノボが教えてくれること(紀伊國屋書店 2420 260
なぜ日本人は間違えたのか 真説・昭和100年と戦後80年(新潮新書 990 224
ユダヤ人の歴史 古代の興亡から離散、ホロコーストシオニズムまで(中公新書 1188 224
「書くこと」の哲学 ことばの再履修(講談社現代新書 1210 224
爆弾(講談社文庫) 1067 224
私はがんで死にたい(幻冬舎新書 1034 224
やし酒飲み(晶文社 1760 186
これからの本屋読本(NHK出版) 1980 174
しぶとい十人の本屋(朝日出版社 2310 174
悪文の構造 機能的な文章とは(ちくま学芸文庫 1210 170
町の本屋はいかにしてつぶれてきたか 知られざる戦後書店抗争史(平凡社新書 1320 170
明治維新という物語 政府が創る「国史」と地域の「記憶」(中公新書 1034 150
翻訳者の全技術(星海社新書) 1430 150
ニーチェはこう考えた(ちくまプリマー新書 780 149
少数言語としての手話(東京大学出版会 3190 100
ひみつのしつもん(ちくま文庫 792 100
もうひとつの昭和 NHK外国放送受信部の人びと(講談社 1800 100
実験の民主主義 トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ(中公新書 1100 100
文化系のための野球入門「野球部はクソ」を解剖する(光文社新書 1144 100
肉食の哲学(左右社) 2420 100
くそつまらない未来を変えられるかもしれない投資の話(タパブックス) 1267 50
ロシア文学の教室(文春新書) 1595 50
日本語からの祝福、日本語への祝福(朝日新聞出版) 1980 50
箱の中(講談社文庫) 957 50
ことばの白地図を歩く 翻訳と魔法のあいだ(創元社 1540 30
ニーチェ―すべてを思い切るために 力への意志(青灯社) 1100 30
男性の性暴力被害(集英社新書 1056 30
癒す心、治る力―自発的治癒とはなにか(角川文庫ソフィア) 1210 30
翻訳をジェンダーする(ちくまプリマー新書 990 30
翻訳教室―はじめの一歩(ちくま文庫 924 30
腰痛探検家(集英社文庫 715 30
頭を「からっぽ」にするレッスン 10分間瞑想でマインドフルに生きる(辰巳出版 1540 30
3.11―死に神に突き飛ばされる(岩波書店 1200 10
俳句世がたり(岩波新書 902 10
労働者階級の反乱 地べたから見た英国EU離脱光文社新書 902 10
数学する身体(新潮文庫 649 10
草枕新潮文庫 539 10
ニシハラさんのわかりにくい恋(はちみつコミックエッセイ) 1078 買取不可
ねにもつタイプ(ちくま文庫 682 買取不可
ノラや(中公文庫) 796 買取不可
みんなの現代アート―大衆に媚を売る方法、あるいはアートがアートであるために(フィルムアート社) 1980 買取不可
暗算力誰でも身につく!(PHP文庫) 792 買取不可
目の見えない人は世界をどう見ているのか(光文社新書 990 買取不可
隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働(文芸春秋 1368 買取不可


全部で64冊、買い取り価格は合計18744円でした。私は街の古本屋さんでも書籍を買い取っていただいたことが何度もありますが、上述したように、個人的な感覚からするとこの価格はそれほど悪くないんじゃないかと思っています。バリューブックスさんは他にも「チャリボン」という、本をお金に換えてNPONGOや大学の活動支援につなげるというサービスも行っていて、私も何度か利用しましたが、こちらもけっこういい寄付額になるんだなあという印象です。

買い取っていただいている書籍は、ほとんどが新品を購入したもので、ちょっと興味をもって今回の本を購入したときの金額(本の定価)を調べてみたら、合計で104516円でした*2。つまり今回のバリューブックスさんの買い取り価格は平均で定価の約18%だったということですね。古本屋さんに買い取ってもらったら二束三文で凹んだ……というご経験は誰しもおありでしょうけど、バリューブックスさんはまずまずかなと。

過去の履歴を調べてみたら、私はだいたい1年に200冊ほどバリューブックスさんに買い取ってもらい、直近の5年間ほどでは合計1013冊、買い取り価格は227425円になっていました。私は自宅が狭いこともあって本棚に長く置いておくことは少ないので、「買い取り価格が定価の約18%」という数字で単純計算すると、毎年約25万円あまりを書籍購入に費やしているということになります。

う~ん、これが多いのか少ないのかは分かりませんが、この先は収入も徐々に減っていくでしょうし、年金が入ってくるのはもうちょっと先になりますし、もうこれからは若い頃のように「書籍は身銭を切ってこそ身になる!」とか「書籍だけには金に糸目をつけぬ!」などと威勢の良いことばかり言っているわけにはいかなくなるかな、と思っています。

というわけで、今年から区立図書館をよく利用するようになりました。10年以上も前に一度利用登録をしたことがあるのですが、そのときは、読みたい本がすぐに見つからないし、見つかったと思ったら予約待ちでいつ読めるかわからないし、だったらAmazonで「ポチ」ったほうが早いわ……ってんで、結局ほとんど利用せずにいたのです。

ところが、今年大学の科目履修生になって、図書館や司書に関する科目をあれこれ学んでいるうちに、公共図書館のありかたに興味を持ち、再び利用登録をしてみました。書籍の検索や予約のサービスもずいぶん使いやすくなっていて*3、しかもうちの区は人口が多いからか蔵書数もけっこうな規模があって、たいがいの書籍は借りて読むことができます。

もちろん人気の書籍は予約待ちの人数もとんでもないことになっているのですが*4、それはそれで「じゃあ先にほかの本を読んで、予約の順番が回ってくるのを楽しみに待てばいいか」というような気持ちを持てるようになりました。なんというのか、もう若い頃のように、人と競うようにして本を読まなくたっていいじゃん、という気持ち。年老いたと言ってしまえばそれまでですけど。

公共図書館の歴史を学んでいて知ったのですが、戦後に公共図書館が発展してくる中で、出版社や作家などから「本が売れなくなるから困る」という苦情が出された時代もあったのだそうです。なるほど、たしかに私のように、新品の本を買うのは控えてできるだけ図書館を利用しようという人が増えれば増えるほど、出版産業は斜陽に拍車がかかるのかもしれません。だからまあ、これからもできるだけ書店に通って売り上げにも貢献したいとは思います。が、その頻度や金額はずいぶん減るだろうなあ。これまでたくさん買ったので、許してください。


https://www.irasutoya.com/2014/03/blog-post_4453.html

ところで、上掲したバリューブックスさんの買い取り価格表で、「買取不可」となって金額がつかなかった本が何冊かあります。毎回必ずこうやって何冊かが「買取不可」となるんですけど、なかにはとてもきれいで、出版時期も新しくて、けっこうメジャーな本も含まれていることがあって、それが以前からちょっと不思議でした。

それでも私は毎回買い取り金額をすぐに承諾していますけど、ひょっとするとリストの最初のほうではけっこうな高値を提示して「この価格なら悪くないんじゃないか」と思わせておいて、最後にいくつかを意図的に「買取不可」にして元を取っているなんてことは……いやいや、これは邪推ですよね、やっぱり。

*1:というか、まあ送料無料キャンペーンだって買い取り金額の査定でいくらでも回収できるわけですが。でもバリューブックスさんもご商売。それでいいのです。自分だけが得をしようとしてはいけないのです。

*2:いちいち全部調べるのは面倒だと思って、生成AIさんに「価格を調べてExcelファイルで出力してください」とお願いしたら、すぐに調べてくれました。でも、念のために確認してみたら、かなりテキトーで使えませんでしたが。

*3:というか、昔から使いやすかったのに、私が「食わず嫌い」していた可能性が大です。

*4:例えば、いま予約している村田沙耶香氏の『世界99』など、私の現時点での順位は402番(!)です。

メメント・ヴィータ

最初に藤原新也氏の本を読んだのは美大生の時でした。グラフィックデザインと写真が専攻の友人からおすすめされたのがきっかけだったと思います。『印度放浪』、『西蔵放浪』、『逍遥遊記』、『全東洋街道』、『東京漂流』あたりを渉猟し、「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」で有名になった『メメント・モリ』と、そのあとに出た『乳の海』あたりまでは読んだ記憶があります。

そのあと私は美術に興味を失って(というか己の才能のなさに打ちひしがれて)熊本県水俣市で農業の真似事みたいなことを始めたのですが、それ以降は藤原氏の作品とは縁遠くなってしまっていました。後年、中国に留学した際、新疆ウイグル自治区からパミール高原を超えてパキスタンフンザまで行ったときに、この後インドにも行きたいなと思って突然藤原氏の本を思い出しましたが、結局再読もせず、インドにも行けずじまいでした。むしろその頃は沢木耕太郎氏の『深夜特急』にハマっていたと思います。

数年前に世田谷美術館で写真展が開かれたときにも気になっていましたが、これにも足を運ばないまま。ところが最近になって区立図書館に最新刊の『メメントヴィータ』が配架されていたので、久しぶりに氏のご本を読みました。そして、かつて読んだ時にはまったく意識も予想もしていなかったところで、いろいろな「ご縁」(こちらからの勝手なご縁ですが)をこの本に感じました。


メメント・ヴィータ

この本はコロナ禍以降に藤原氏が始められたポッドキャストでの配信をもとに構成されていて、ご自身のルーツから、お仕事のことから、もちろん話題となり時にセンセーションを巻き起こした数々の写真作品のこと……種々のエピソードが語られています。氏は北九州の門司のご出身とのことで、まずはこれが、実家が小倉にある私が勝手にご縁を感じたひとつめ。

オウム真理教統一教会、ロシアや北朝鮮まで話が広がる、書名を冠した巻末の一章「メメントヴィータ」は圧巻でした。麻原彰晃水俣病の関連を疑った一連の推察はすでに2006年刊の『黄泉の犬』で披瀝されていたものらしい(私は上述したように未読でした)ですが、自分も水俣に住み一時期は水俣病に関わっていたことがあったので、それが勝手にご縁を感じたふたつめ。

それからこの本には現代時評とでも呼ぶべき様々な発言も収められていますが、その多くがいま現在の自分の考え方や感性にとても近くて共感した、というのが勝手にご縁を感じたみっつめ。『乳の海』以降、もっと氏の本を読み継いできていればよかったな。これから過去の作品も図書館で探して読もうと思っています。『メメントヴィータ』に収められている、時事批評にあたる文章のなかで、いいなと思って付箋を貼ったうちからいくつか。

ひょっとしたら十万個の「いいね」は一つのハグより弱いものかもしれないと思ったりします。ハグというのは単純に他者の愛という意味だけど、そういう愛情に巡り会えば、もしかすると十万個のいいねなんかは吹っ飛んでしまうかもしれないと、そんな風に思うわけです。(174ページ)

この項では、スマホにカメラが搭載され、それがSNSの「映える」写真を撮る目的で爆発的に使われるようになった時代を背景に「かつて写真を撮る行為は、他者を撮る、つまり目の前の世界との関係性を持つ行為だったわけですが、スマホ時代の写真からは突然、この他者が消えてしまうんです」とおっしゃっています。同感です。かつてSNSに耽溺していた(今はすべてやめました)自分もそうでしたが、写真を撮る行為はもはやSNSなどネットで自分をアピールするためと言い切れてしまうかもしれません。

生活がギリギリで崖っぷちに立っていると、人は保守化する傾向が生じる。よく若者が保守化しているというけれど、これは思想的な保守化じゃなくて、崖っぷちに立っているものだから変化が怖いんです。何か少しでも変化すると崖から落ちてしまうんじゃないかという恐れがあるから現状維持せざるを得ない、保身的な意味での保守化だと僕は思う。(179ページ)

これも同感です。最近若い世代の保守化がよく言挙げされますけど、お若い方々だけでなく、昨今の高市政権の支持率などを見ていても、これは貧困化の度合いが一定程度以上に上がってきたからじゃないかと。金銭的にもですけど、精神的にも。外国人排斥だって世界の現実を知りもせず、知ろうともせず、とにかくいまのこの小さな精神的テリトリーに引きこもっていたいという心性の現れのような気がします。

そのときに僕が思ったのは、このオリンピックっていうのは、風景を殺し、文化を殺し、人すら殺してしまうんだなということ。初めてそこで、オリンピックというものが別の意味で頭の中に入ってきたんですね。
(中略)
そういう意味では、あちこちの国でオリンピックを開くということは、その国の持っていた土着的な美しい風景だとか人の心だとかが、このわずか一ヶ月ほどのイベントのためにずたずたに壊されてしまうということでもあるんですね。オリンピックが世界を循環しながらどれだけ土着的な過去の文化を壊していったかを考えると、気の遠くなるような感じがします。(196ページ)

本当にねえ。私はかねてから近代五輪はもうその役割をとっくに終えているし、これ以上続けるのは害悪でしかないと言い続けてきましたが、藤原氏のこの項では、オリンピックのそのルーツにまでさかのぼって根源的な批判が展開されています。いやはや、恐れ入りました。

普通二輪免許を取ろうとしたら

普通二輪免許を取ろうと思い立ちました。かつて「中免」と呼びならわされていたやつです。学生時代、うちの大学はなぜかみなこぞってバイクの免許を取り、タバコを吸うのが流行していて、およそ30人ほどのクラスメートのうち、バイクに乗らずタバコも吸っていないのは数名しかいなかったように記憶しています。

私はそのどちらも苦手、というかはっきり「嫌い」でした。だってバイクは爆音がうるさいし、タバコは煙が耐えられないし。そんな私がこの歳になってからなぜ普通二輪免許を取ろうと思ったかというと、これがないと台湾でスクーターを借りられないからです。台湾の、それも地方都市ではスクーターに乗らないとかなり不便です。乗用車を借りるという手もありますが、機動性や駐車場を探す必要などの点で、やはりスクーターの利便性にはかないません。

私は日本の普通自動車免許を持っていて、台湾ではJAFが作ってくれる免許証の翻訳文(有料)があれば日本と同様に「原付(50㏄以下のバイク)」に乗ることができます。ただ最近の台湾で原付を探すのはかなり難しく、レンタルバイクはそのほとんどが125㏄以上の、日本でいうところの小型二輪以上の車種ばかりです。

実はここだけの話、かなり以前の台湾、それも田舎や離島などではこの辺のルールが緩くて、原付しか乗れない普通自動車免許でも125㏄のスクーターを借りることができてしまう、なんてこともありました。でも、もちろんそれは法律違反ですし、ましてや外国人が現地の法律をないがしろにして好き勝手をすることは許されません。現地のレンタルバイク屋さんにも迷惑がかかります。

それで普通二輪免許を取ろうと考えました。125㏄のスクーターでよいのなら、取得がいちばん簡単な「AT小型限定普通二輪免許」でじゅうぶんなのですが、中型のMT(クラッチ操作が必要なマニュアル車)普通二輪免許でも教習料金にそれほどの違いはありません。というわけで普通二輪免許取得を目指して教習所に通い始めたというわけです。


https://www.irasutoya.com/2013/05/blog-post_7246.html

教習所で二輪免許を取ろうとする際には、最初に「適性検査」があります。普通二輪だと400㏄の重いバイク(200㎏くらい)を倒した状態から立ち上げられるか、エンジンを切った状態でバイクを八の字に取りまわすことができるかをチェックされるのです。腰痛持ちの私としては初手から不安でしたが、これはまあ何とかパスできて、めでたく教習開始となりました。

ところが、教習の第一段階を順調に終了して、第二段階に進み、もうすぐ卒業検定という段階でやらかしてしまいました。たまたま雨の日に教習を受けていた際、急制動(急ブレーキ)の練習で派手に転倒して、さいわい頭も肩も手足も無事だったものの、肋骨を二本も折ってしまったのです。骨折は人生初の体験です。

しかも肋骨の骨折は基本的に放置して治るのを待つしかないんだそうで、湿布と鎮痛剤、それに胸を固定するためのバンドをもらっておしまい。全治一か月から二か月ほどだそうです。いまはもう行住坐臥すべてが「いてててて」の状態。もちろんこんな状態で教習を続けることは不可能なので、普通二輪免許もしばらくお預けになりました。年寄りの冷や水と言われるのもくやしいので、快復したら再び挑戦したいです。