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はてなキーワード: 藩士とは

2014-09-14

ノーベル賞受賞者の生まれ、育ち、血筋、親の出身、最終学歴データ

ノーベル賞出身関係

2011年までの日本ノーベル賞受賞者18人の出自

人物名 国内最終学歴 出身生育地

鈴木章 ─── 北海道大 ─ 北海道まれ北海道育ち

田中耕一 ── 東北大 ── 富山県まれ富山県育ち

南部陽一郎東京大 ── 東京都生まれ福井県育ち

小柴昌俊 ── 東京大 ── 愛知県まれ神奈川県東京都育ち(1歳から小4まで東京/中学から神奈川/高校東京)

小林誠 ─── 名古屋大 ─ 愛知県まれ愛知県育ち

益川敏英 ── 名古屋大 ─ 愛知県まれ愛知県育ち

利根川進 ── 京都大 ── 愛知県まれ富山県東京都育ち(小学校富山/中学から東京

白川英樹 ── 東工大 ── 東京都生まれ岐阜県育ち(小3から岐阜)

朝永振一郎京都大 ── 東京都生まれ京都府育ち(小学校から京都

湯川秀樹 ── 京都大 ── 東京都生まれ京都府育ち

下村脩 ─── 長崎大 ── 京都府まれ長崎県育ち(幼少期に長崎/中学でまた長崎)

福井謙一 ── 京都大 ── 奈良県まれ大阪府育ち

江崎玲於奈東京大 ── 大阪府まれ京都府育ち

川端康成 ── 東京大 ── 大阪府まれ大阪府育ち

野依良治 ── 京都大 ── 兵庫県まれ兵庫府育ち

佐藤栄作 ── 東京大 ── 山口県まれ山口県育ち

大江健三郎東京大 ── 愛媛県まれ愛媛県育ち

根岸英一 ── 東京大 ── 満州国まれ神奈川県育ち(小学校から神奈川

国内最終学歴

東京大7

京都大5

名古屋大2

北大東北大・東工大長崎大1

■生まれ

東京都愛知県4

大阪府2

北海道富山県兵庫県奈良県愛媛県山口県満州国1

■育ち

京都府3

東京都神奈川県富山県愛知県大阪府2

北海道福井県岐阜県長崎県兵庫県愛媛県山口県1

http://kamomenome.exblog.jp/14156659/(元ソースから間違いを修正

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湯川秀樹(出生地東京都)両親は和歌山県 ※中間子論は計算間違いであった

朝永振一郎(出生地東京都)親は長崎県埼玉県

江崎玲於奈(出生地大阪府)親は大阪府三重県 ※助手アイデアパクリ

福井謙一(出生地奈良県

利根川進(出生地愛知県)親は広島鳥取青森

白川英樹(出生地東京都)両親は岐阜県

野依良治(出生地兵庫県)親は長野県福岡県

小柴昌俊(出生地愛知県)両親は千葉県

田中耕一(出生地富山県

南部陽一郎(出生地東京都)親は福井県福島県

小林誠(出生地愛知県

益川敏英(出生地愛知県

下村脩(出生地京都府)両親は長崎県

根岸英一(出生地満州)親は東京都

鈴木章(出生地北海道)両親は山形県

山中伸弥(出生地大阪府)親は福井県兵庫県

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湯川秀樹和歌山田辺藩紀州藩

朝永振一郎(父・長崎大村藩、母・埼玉川越藩)

江崎玲於奈大阪)親は大阪三重

福井謙一奈良

利根川進愛知県出身)親は広島鳥取青森

白川英樹東京都出身)両親は岐阜県

野依良治(父・長野、母・福岡)父の仕事関係兵庫県で育つ

小柴昌俊(両親とも千葉)父が豊橋連隊所属のため豊橋まれ

田中耕一富山

南部陽一郎(父・福井、母・福島関東大震災に遭い福井移住

小林誠愛知

益川敏英愛知

下村脩京都)両親は長崎県 父が福知山連隊所属のため京都まれ

根岸英一満州)親は東京都本籍日本橋目黒根岸家に戦災で親戚が大勢つめかけたため神奈川移住

鈴木章(両親とも山形から北海道移住

山中伸弥大阪府出身)親は福井県兵庫県

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小柴昌俊

わたしは1926(大正15)年9月19日に、愛知県豊橋で生まれた。軍人だった父の

小柴俊男がそのころ豊橋陸軍第18連隊所属していたからだ。

小柴昌俊物理屋になりたかったんだよ』朝日新聞社

母親は、はやといって、千葉木更津農家の末娘だった。木更津高等女学校を出て、

父と結婚した。どういうなれそめで知り合ったのかは知らないが、父も千葉館山

まれから誰か紹介する人でもいたのだろう。

父は農家の三男に生まれて、中学に通うのも親せきの造り酒屋小僧代わりに働きながら

学費をだしてもらった。さらに進学する学資はないから、学資不要陸軍学校へ進んだらしい。

小柴昌俊私の履歴書 科学求道者日経ビジネス人文庫

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野依良治

祖父の塩川三四郎は1873年生まれ政治家を志して長野県から上京し、東京帝国大学法学部

卒業した。そして、渡辺千秋長野県出身)の次女・千夏と結婚した。

「野依」は母方の血筋で、福岡県東部築上郡吉冨町に行き着く。「立野屋」の屋号をもつ

庄屋で酒づくりをなりわいとする大地主であった。

野依良治私の履歴書 事実真実の敵なり』日本経済新聞社

祖父:塩川三四郎 長野

父:野依金城 上京

http://kingendaikeizu.net/gakusya/noyori.htm

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下村脩

>父の生家は長崎県雲仙市瑞穂町にあり代々庄屋を勤めた名家

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%9D%91%E8%84%A9

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朝永振一郎の父三十郎は、東京真宗大学在職中に旧川越藩士大枝美福の長女ひでと結婚している。

(『素粒子世界を拓く』京都大学学術出版会

朝永振一郎「なぜ京都にいながら東京弁使っているかっていいますと、おふくろが埼玉県まれで、

おやじ長崎まれで、中学の頃東京に出て、ずうっと東京にいた。そういうわけで、家庭では

東京弁を使っておりました」(『回想の朝永振一郎みすず書房

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南部陽一郎

私の父は仏壇屋の家業を継ぐのを拒み、文学者になろうと家をとびだした。東京で私が生まれた。

母は福島県出身だった。しかし私が2歳のときあの大震災に遭い、一家はやむなく福井に戻った。

(『ほがらかな探究 南部陽一郎福井新聞社

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利根川勉「私の親父は守三郎といいまして、福山藩(広島県)の貧乏侍の息子でした。ところが

同じ貧乏侍の利根川という叔父子供がなくて、岡本という家から養子に行きました。

家内の父方は弘前藩士青森県)の家系でした」(利根川進受賞時に父・勉氏へのインタビュー

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鈴木章

北大理学部受験した時、母は「落ちてくれ」と本気で祈っていた、と譲さんは明かす。

恩師は「章君を大学に進ませて」と勧めたが、家計に余裕がない。町で理髪店を営んだ

山形県出身の父の定輔さんは1946年に51歳で死去。長男鈴木さんは16歳だった。

(「タウンガイド札幌2010年10月11日)(母ナエも山形県出身

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2014-01-26

http://anond.hatelabo.jp/20140126222410

あと一言言っておくが近代以前は養子関係が入り乱れているかあんまきにすんなよ。

多分5代くらいは遡れるが、それ以前は上で書いている人がいる通り系図が無いと(系図が残るぐらいの家:豪農神官僧侶・下級藩士くらいじゃないと)難しいからな。

2009-02-13

書評: 中村彰彦・山内昌之黒船以降 政治家官僚の条件』(中公文庫

 あまりに面白いので休日に半日を費やして読了した。

単に幕末維新の歴史の知識だけなら、百科事典講釈師のような物知りも沢山いるが、この対談は人物評が現代的で、政治家として官僚としての力量を問う通信簿的な作業でもあり、ことごとくがリアリスティックなのである。

 しかも幕末維新を、本筋を外さないで不思議な逸話で溢れさせ、しかし歴史観の骨髄をしっかり守っている。

 経済視野から薩長会津を比較してみると、京都守護職を越前松平春嶽から押しつけられた会津松平容保は、財政的艱難辛苦に耐えなければならず、藩士1000名の京と駐留経費の捻出は並大抵ではなかった。京都島原遊郭で遊ぶカネがなく、だから会津武士京都人から嫌われ、薩長はすかれた。

なぜか。長州竹島経由で、薩摩沖縄を梃子に「密輸」をやっていて資金が潤沢、最新鋭の軍艦鉄砲も買えた。中村彰彦によれば加賀前田藩も日本海の北と密貿易を展開した銭屋五兵衛を黙認した形跡があるという。

密輸で設けた諸藩の志士らは、経費をちょろまかして島原で遊興もできた。

 本書で両人からコテンパンな酷評を受ける一つは御三家のなかでもイデオロギーの強い水戸藩、天下の副将軍勝手に僭称した水戸光圀は、伝説では「名君」だが、じつはとんでもない御仁だった。

水戸学が、やがて水戸藩を分裂させ、悲惨な内訌が天狗党の悲劇を生んだが、じつはその後も明治三年まで復讐劇が続き、難を逃れて群馬栃木あたりに逃げ、その末裔現在もいるという後日談も、なんだか、西南戦争に負けた西郷軍のうちの1500名ほどが台湾へ逃れ、現地民に同化したという歴史の裏面の話に通じる。

結局、水戸藩の“正義”の史観徳川幕府を毀した。

 

本書は、薩摩長州歴史意識政治構造科学天文学への心構え、軍事思想など似ているようで全く異なることを、これまた目から鱗のように別の視点からえぐり出している。

たとえば坂本龍馬が斡旋した薩長同盟の基軸の発想は公武合体の実現だった。

山内教授は「オーストリアハンガリー二重帝国」の例があるように、天皇を頂き、徳川薩長が二分するアイディア存在を告げる。

イギリスオールコックなどの歴史観世界の情勢から、倒幕に踏み切っていくプロセス西郷大久保坂本邪魔になったという闇の部分にも光を当てる。これは中村がまだ直木賞受賞前にかいた『龍馬伝説を追う』(世界文化社)にも詳しい。

また榎本武陽の「蝦夷共和国」構想も、じつはハプスブルグ家の「オーストリアハンガリー二重帝国」が発想にあった、と示唆する。

 脱線ながら、評者(宮崎)が鹿児島指宿の「伝承館」でみたパリ万博記録展示の或る部分に驚いた。パリ万博薩摩徳川幕府が出展した。薩摩焼など、パリジャンの度肝を抜いた。ともにそれぞれの勲章をつくった。

 薩摩は「薩摩琉球国」として勲章をだした。つまり独立国として、国際社会にアピールしていたわけである。

 もう一人、こっぴどく批判されているのは福沢諭吉だ。

福沢が欧米派遣のおりに経費を誤魔化して図書を買いあげたが、それは小学生程度の英語の本が多く、小栗上野介は「あの男の選択眼は節穴、語学能力はその程度だ」と評した逸話は有名だろう。

福沢は本来なら切腹ものだが、ばれて詮議にかかろうとしたとき徳川幕府が瓦解した。

他方では講釈やら近年の小説の裁き方や世評はともかくも、食えなくなった旧幕臣らの面倒をよくみた勝海舟と榎本武陽への評価が高い。

 

 さて表題も示唆する「黒船来航以後」の話であるが、アメリカロシア日本にとって最初の接触だったのは、幕末の混乱期における日本にとって僥倖であり、もし英仏のような『ならず者国家』が日本に先に乗り込んできたらどうなっていたか。

 シナにしかけたアヘン戦争のような略奪と、国内分裂は防げなかったのではないか。幕府フランス薩摩英国に頼ったが、本気で内戦にのめり込んでいったら、日本は良いように利用されたあげくに英仏の植民地化されていた恐れがあった。

 しかし幕末徳川幕府をさしおいて薩長が最新鋭の武器を大量に買えたのも、その先見性や薩英戦争、馬関戦争敗北の体験から軍事知識と実践があり、おりしも南北戦争が終わって大量の武器をもてあましたアメリカから大量に買い付ける。

 市場開拓を狙うドイツ人武器商人だったスネル兄弟は河井継之助長岡藩にガットリング銃を売りつけたが、会津に強力にテコ入れし、最後は榎本軍に従って函館戦争をともに戦った。

 ドイツはむろん、英仏米露の隙間を狙って日本での武器外交が主眼だった。

 しかし幕府敗戦により、スネルは代金を回収できず、兄はやがて会津武士団の食い詰め組を率いてカリフォルニアに移住したり、弟は御維新後、浅草落語を聞いていたとか。脱線する逸話もまた本質に付随した、人間の描写なのである。

 それにしても幕末維新を縦横に語る中村彰彦は歴史作家だから回天の内幕に詳しいのは当然にしても、なぜイスラム中世専門家である山内昌之が、ときに中村を唸らせるほど幕末日本精通しているのだろう。

 もう一つ不思議に思ってきたことがある。山内昌之教授は、『世界』と『諸君』の両方に論文を書く器用な論客でもあり、保守なのか旧左翼なのか、いまもよく分からないところがある。

 山内がいみじくも「後書き」に書いている。

国際会議で、オスマントルコ帝国解体過程やイスラム政治歴史と、日本近世近代との比較をよく問われる。国際的要請でもある。まして日本史を知らずして世界史を語れる筈があろうか、と。

 最後節あたりの日露戦争から大東亜戦争に至る山内の歴史講釈には、ちょっと首肯できない史観部分があるが、山内教授主観だから、その部分は聞かないことにする。

2008-08-04

イヤな流れを乗り切る自分メモ

イヤな流れというものはどうしてもありますよね。

私は下げ雰囲気、下げトレンドと言っちゃってますが、

原油高など悲壮感の漂うニュースばかり 目につきますよね。

消費マインドや活力までなえてしまいそうで、何ともかんとも。

でも、良いときもあれば悪いときもある。

それが普通なのかもしれません。そう思います。

先が見えない不安だからこそ、余計に不安になる。

でも、

先なんて誰にも見えないと思います。

そう、

本当は、明日はいつでも「明るい日」なのに、

それを見えにくくしているのは、私自身なのかも・・・。

以下、

そんな下げ雰囲気の中でも、明るく元気に過ごせるよう、

自分自身に投げる言葉

1.[耐える]現状のまずは半減を、覚悟

下げ雰囲気を変えるのは、とてつもなく大きな頑張りが必要だと思います。

大きな流れに逆らうには、私は、とってもとっても小さい存在

もっとガンバレ

そんな自分を責めるのはやめませんか。

生きていれば、続けていれば、いつか朝は来ます。

止まない雨はありません。

続けてさえいれば、次があります。でも、止めてしまったらそれで終わり。

今まで、応援してくれた方々にも申し訳ないです。

とりあえずは、現状の半分までを覚悟します。

経営であれば、収益が半分。

人生であれば、普通と最も凹んだときの真ん中くらい。

そこをイメージして、しばらくしのげるよう、

準備しましょう。

備えましょう。

体質を変えましょう。

でも、安心して下さい。

生き残るのは、大きな恐竜でも、頭の良い人でもありません。

環境に対応できる人なのです。

自分に出来ることを準備しましょう。

2.[変わる]戦略を見直そう

企業の場合です。

企業戦略というのは次の4つがあります。

1.リーダー業界のNo1、シェアなど影響力を持ち安定)

2.チャレンジャー(最新技術など、常に市場に挑戦)

3.フォロアー(ある程度成功したモデル踏襲

4.ニッチャー(大資本が狙いづらい狭い市場存在感)

環境が厳しくなってきた、というときに、おそらく・・・、

価格シビアお客様が増えてきた

・ライバルが増えてきた

・問い合わせや売上げ、アクセス数が減ってきた

などが多いかと。

でも、これって、自分自身がいつのまにか

フォロアー市場にいる

ということではありませんか?

フォロアー市場の特徴は「普及期に入り低価格競争」。

これって、上記に当てはまりません?

つまり、環境は常に変化していて、いつの間にかあなたの立ち位置がフォロアー市場になってしまっている、ということなのでは。

だとすると、今後とるべき手は、

・フォロアー市場で真っ向勝負

(同じように価格競争をしたり露出をしたり、より市場に望まれるよう自己変革をする)

・別な市場へ行けるよう自己変革

チャレンジャーニッチャーなど、新しい市場を切り開く。以前出来ていたなら、きっと今回もできる!自分を信じてがんばれ!)

競争が激しくなったというのは、お客様にとっては、実は良いこと。

ですから、その流れには逆らうべきではないと思うんです。

でも、収益が減っては持たないですから、早く新しい市場や商材を見つける。

これしかないと思います。

3.[笑顔]自分に厳しく周りには優しく

私の好きなことばに、

好境は友を作り、逆境は友を試す

という言葉があります。

逆境でこそ真の友がわかる、という言葉らしい。

でも、逆の立場になったときに、いつも私は

試されている

と考えるようにしています。

不況や逆境になったりすると、辛いのは、どんどんと仲間が離れていくことです。

そして、それは、心からまず離れ、そしてだんだんと離散につながると思います。

逆境の中では、やる気やモチベーションを維持するための、成功の共有がしづらくなります。

「負け」が続くと、だんだんと求心力も落ち、心も離れていきます。

そんなときだからこそ、笑顔で 明るく はねのけたい。

タレント新山千春さんが人気だそうです。

彼女も旦那さんが戦力外通告を受けるなど、逆境に見舞われているようですが、明るく前向きにがんばる姿は多くの方に共感を得ているそうです。ブログも人気だとか。

明けない夜はありません。夜でも周りを明るくする光りになれれば、そんな状況下でも少し良くなるかもしれません。

4.[鍛える]過去の自分や他人の力を借りる

よく「過去の成功にとらわれて失敗する」事例が取り上げられますが、私が申し上げたいのは、たしかに「過去の成功」ではありません。

過去アイデアや思い出です

自分自身の過去メールや、手帳過去ニュース、読んだ本のアンダーラインを引いたところ、スクラップ、HDD内の文書、過去決算書、友人からの言葉・・・。

未来を作り出すことは、おそらくとても大変だと思います。

でも、過去を振り返ることは、それと比較すれば容易だと思います。

「ああ、当時はこんなことを考えていたんだな」

「こんな事件が当時もあったんだ」

など、振り返って冷静に今に照らし合わせると、ふっと気持ちが楽になるときがあります。

それだけでもいいと思うんです。

少しでも閉塞感がイヤされて、前向きな気持ちになれれば。

笑顔や気持ちも、まずカタチから入っていいと思うんです。

気持ちが変われば好転することってありますよね。

あとは、やはり他人の力を借りることです。

私の好きな言葉に、

下手な考え休むに似たり

という言葉があります。

というか、下手なことをするくらいなら休んだ方がマシと、勝手に自分に言い訳しているだけなのかもしれませんが(笑)、それでも、自分1人でもんもんとしていると、たしかに考えが煮詰まり、まあ、打開策は見つからないことのほうが多いです。

セミナーを受ける

本を読む

TVを見る

意見交換する

下手に考えるより、教えを請う。

1人の力は本当にささやかなものだと思います。

静かに、謙虚に、誠実に。

で、

そうそう、

鍛えるためには、時間お金が必要だったりしますよね。

つまり、それをも折り込んで、じっくりと静かに堪え忍ぶことは覚悟しなくちゃいけないと(前述の半減に関連します)。なので辛い、でもそこがこらえどころかと。

5.[しのぐ]静かにチャンスを待つ

どんなに寒い冬でも、春はやってきます。

静かに冬をしのぎ、春に向けて備えます。

チャンスをしっかり伺います。

静かに。

しっかりと。

6.[結果論ですが]普段気をつけること??成功は下げ雰囲気への始まり

ちなみに、じつは、成功の中に下げ雰囲気の原因が潜んでいる

私はそう感じています。

あくまで、私個人の印象ですが、

米国の好景気>>個人消費が堅調>>住宅着工が良い>>でも実はそれが無理なローン>>サブプライム問題

新撰組池田屋事件で成功>>報償金の分配>>軋轢が生まれた>>ある藩士の死>>それをきっかけに政局が読めなくなる>>薩長同盟で流れが決定的に

下げトレンドを決定づける天王山とも言える事象が、じつは成功事例のすぐ近くにいる、と思うのは私だけでしょうか。

・・・・・・・・

と、まあ

メモがわりですが、思いついたことを書いてみました。

がんばれ自分。

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