今期のアニメ、「忍者と殺し屋のふたりぐらし」は、ある意味ではなかなか考えさせられる部分があった。
物語の中身がというよりは、「日常系のゆるさ+残酷表現の軽さ」というフォーマットについて。
90年代の日本の漫画、OVA、エロゲ、ビジュアル系音楽などでは、「残酷なもの」や「死」「身体の破壊」「痛み」が、感情の深みや世界の真実に触れる鍵としてしばしば使われていた。
代表的なところだと『新世紀エヴァンゲリオン』『ベルセルク』『イリヤの空、UFOの夏』『なるたる』みたいな作品群がそうで、暴力や死を通じて、個人の存在の意味や社会の矛盾、アイデンティティの不安定さを描こうとしていた。
この時代の「残酷さ」は、どこか内省的で痛覚を伴う「重さ」があったんだよね。読者や視聴者が、その痛みに付き合わされる感覚があった。
けれど、そこから2000年代〜2010年代にかけて、グロテスクな表現が大量に生産・消費されるようになってくると、残酷さ自体が徐々にジャンル化・演出化・エンタメ化していく流れが出てくる。
たとえば『ひぐらし』『未来日記』『Another』のようなホラー系、「リョナ」系表現、あるいは「サイコパス」「殺し屋女子」みたいなキャラジャンルが作られることで、残酷さが物語の核ではなく属性になっていった。
そこでは痛みや死の意味を考えることより、「このキャラ、殺しもするけどかわいいよね」みたいな消費が行われるようになった。
そう考えると、今の「日常+殺し」「かわいさ+死」といった表現は、90年代的な「痛みと意味の重み」から、2020年代的な「形式と可読性の軽さ」へ、残酷性の考え方がシフトした結果に思える。
今はキャラクターの可愛さを支える属性や、物語のテンポを支える道具として、残酷表現が道具として使われている。
90年代的な残酷表現と、00年代的な日常系の融合、結果としてのブラックユーモア的日常暴力作品。
ただこれはまだ表現の過渡期にあたるのかもしれない。
かつて痛みや死が「個人の真実」に通じていたように、これからは「社会の無感覚」や「生命倫理の再定義」といった文脈で、もう一度意味を持ちはじめるかもしれない。