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2025-06-27

今期のアニメ、「忍者殺し屋ふたりぐらし」は、ある意味ではなかなか考えさせられる部分があった。

物語の中身がというよりは、「日常系のゆるさ+残酷表現の軽さ」というフォーマットについて。

 

90年代日本漫画OVAエロゲビジュアル系音楽などでは、「残酷もの」や「死」「身体破壊」「痛み」が、感情の深みや世界真実に触れる鍵としてしばしば使われていた。

代表的なところだと『新世紀エヴァンゲリオン』『ベルセルク』『イリヤの空、UFOの夏』『なるたる』みたいな作品群がそうで、暴力や死を通じて、個人存在意味社会矛盾アイデンティティ不安定さを描こうとしていた。

この時代の「残酷さ」は、どこか内省的で痛覚を伴う「重さ」があったんだよね。読者や視聴者が、その痛みに付き合わされる感覚があった。

けれど、そこから2000年代2010年代にかけて、グロテスク表現が大量に生産・消費されるようになってくると、残酷自体が徐々にジャンル化・演出化・エンタメ化していく流れが出てくる。

たとえば『ひぐらし』『未来日記』『Another』のようなホラー系、「リョナ」系表現、あるいは「サイコパス」「殺し屋女子」みたいなキャラジャンルが作られることで、残酷さが物語の核ではなく属性になっていった。

そこでは痛みや死の意味を考えることより、「このキャラ、殺しもするけどかわいいよね」みたいな消費が行われるようになった。

 

そう考えると、今の「日常+殺し」「かわいさ+死」といった表現は、90年代的な「痛みと意味の重み」から2020年代的な「形式と可読性の軽さ」へ、残酷性の考え方がシフトした結果に思える。

今はキャラクターの可愛さを支える属性や、物語テンポを支える道具として、残酷表現が道具として使われている。

90年代的な残酷表現と、00年代的な日常系の融合、結果としてのブラックユーモア日常暴力作品

 

ただこれはまだ表現の過渡期にあたるのかもしれない。

かつて痛みや死が「個人真実」に通じていたように、これからは「社会の無感覚」や「生命倫理の再定義」といった文脈で、もう一度意味を持ちはじめるかもしれない。

そういう意味で「忍者殺し屋ふたりぐらし」の軽い残酷さは、分解再構築の可能性を秘めている。

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