宇野なずき氏の短歌「誰ひとりきみの代わりはいないけど上位互換が出回っている」がTwitterで出回ったことは(やや古い話だが)未だ記憶に残っている。
我々がいかに子供の頃、将棋や野球にいそしみ一瞬の間得意分野になったとして、藤井聡太や大谷翔平のような超一流の才能がすぐに目に入ってしまう。
もっと言うと、現代ではSNSを見ているだけで自分の「上位互換」がいくらでも見つかる。
こういう考え方に陥る前に自分が考えていることを挙げてみる。
たとえば野球で考えると、どれほど自分が大谷選手の足元にも及ばなかろうと、地元の草野球チームでエースとして活躍していれば、そのチームにとって自分はかけがえのない存在ということになる。
さらに言えば、エースでなくても九人以内に入っているのなら、既にそのチーム内で替えがきかない。
あるいはたとえば、野球がうまくて、なおかつチームの会計がちゃんとできる人間は、地域に他に一人もいない可能性だってある。
上記のように身の回りですら突出した存在になれなかったとしても、その場にいるだけで発揮される価値というものもある。
たとえば、街中で道に迷っている人に道を教える、困っている人に手を貸す、あるいは単に誰かの話を聞いてあげる。
これらは、自分以外のほかの誰でも容易にできることではある。
しかし、もしその瞬間にそこに自分しかいなければ、それは自分にしかできないことなのだ。
その瞬間に限り、自分はその人にとって「替えのきかない必要な人間」になるだろう。
そもそも、我々自分自身にとっての自分自身は、最初から「替え」など存在ない。
どんなに優れた才能を持つ大谷選手がいようとも、大谷選手は自分ではないのだ。
自分自身の意識で唯一コントロールできる自分自身という存在は、この文脈においてのみ、圧倒的に「かけがえのない」存在ということができる。
事実としては私は間違いなくこの世に存在するほかの誰かの下位互換だろう。だからなんだ、という話である。それで自分の生きる価値が低下することは微塵もない。
そ、知るか、関係ねえって感じ