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2025-06-15

上位互換がいようといまいと本来自分には関係ない話だ

宇野なずき氏の短歌「誰ひとりきみの代わりはいないけど上位互換が出回っている」がTwitterで出回ったことは(やや古い話だが)未だ記憶に残っている。

我々がいか子供の頃、将棋野球にいそしみ一瞬の間得意分野になったとして、藤井聡太大谷翔平のような超一流の才能がすぐに目に入ってしまう。

もっと言うと、現代ではSNSを見ているだけで自分の「上位互換」がいくらでも見つかる。

こういう考え方に陥る前に自分が考えていることを挙げてみる。

考え方1

たとえば野球で考えると、どれほど自分大谷選手の足元にも及ばなかろうと、地元草野球チームでエースとして活躍していれば、そのチームにとって自分はかけがえのない存在ということになる。

さらに言えば、エースでなくても九人以内に入っているのなら、既にそのチーム内で替えがきかない。

あるいはたとえば、野球がうまくて、なおかつチームの会計ちゃんとできる人間は、地域に他に一人もいない可能だってある。

考え方2

上記のように身の回りですら突出した存在になれなかったとしても、その場にいるだけで発揮される価値というものもある。

たとえば、街中で道に迷っている人に道を教える、困っている人に手を貸す、あるいは単に誰かの話を聞いてあげる。

これらは、自分以外のほかの誰でも容易にできることではある。

しかし、もしその瞬間にそこに自分しかいなければ、それは自分しかできないことなのだ。

その瞬間に限り、自分はその人にとって「替えのきかない必要人間」になるだろう。

考え方3

そもそも、我々自分自身にとっての自分自身は、最初から「替え」など存在ない。

どんなに優れた才能を持つ大谷選手がいようとも、大谷選手自分ではないのだ。

自分自身の意識で唯一コントロールできる自分自身という存在は、この文脈においてのみ、圧倒的に「かけがえのない」存在ということができる。

誰かの下位互換とか上位互換という考え方はすべきではない。

事実としては私は間違いなくこの世に存在するほかの誰かの下位互換だろう。だからなんだ、という話である。それで自分の生きる価値が低下することは微塵もない。

「知るか」という精神で生きていけ。そのほうが健全だ。

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