東京が受けた空襲について「東京者は贅沢していたから罰が当たった」と長岡の人に言われた長岡出身東京在住の祖母が、長岡空襲の報に接して「ざまぁみろ」と思ったというような、そういう身もふたもない話はなかなか伝承されないので、あらためて語… https://t.co/avp1pZTHeX
http://anond.hatelabo.jp/20170116162327 リンク先『婆ちゃんに戦争の話聞いてきた』で語られている「婆ちゃんの工場を襲った」空襲はおそらく、1945年8月1日深夜から2日未明にかけて行われた富山大空襲のことだろう。 それ以前、7月にも市街地に対する比較的小規模な空襲は度々行われている(模擬原子爆弾、いわゆるパンプキン爆弾の投下も行われた)が、8月の空襲は市街地の実に99.5%を焼き尽くす大規模なもので、ブコメでも言われているように「空襲で全部なくなった」。燃え盛る炎が明々と夜空を照らしていたという証言はネットでも複数読める。 で、だ。問題は ものすごく暑かったので、多くの人は川に逃げたらしい。そんな人でごった返した川めがけて、空襲は襲った。川に逃げた人はみんな死んだ。 というくだりである。この「川」というのはおそらく、富山市街地を貫流する神通川を指す。皮
アメリカ戦略爆撃調査団の目標情報に挙げられている富山北部の工業地帯。 富山市は元来富山藩10万石の城下町であって、物産においては売薬を第一とする富山県の県庁所在地であるが[10]、かつては東に親不知、西に倶利伽羅峠の天険があり、交通の便が非常に悪く、商業面においては僅かに売薬業者が全国を踏破する程度だった[11]。工業面においても売薬や銅器製造を中心とするものであって、これは相当の発展を見たものの生産額は農業に及ぶものではなかった[12]。しかし、時代が明治に変わると交通及び通信が発展し、道路及び鉄道は随所に開通し、海運の発達も著しく、富山県は四方からの物資集散の中心点となった[11]。これにより商工業の発展は殖産興業の政府方針にともなって著しく、1921年(大正10年)にはついに工業生産額が農業生産額を上回るに至った[13][13]。富山市における近代的大工場は1929年(昭和4年)7月
今週のNHK連続テレビ小説「ごちそうさん」。 戦時体制での政府や軍の愚かさや非情さを克明に描いている。今週始めのドラマでは、戦時中に流れていたラジオ放送が登場したが、当時は実際にこんな放送が行われていた。 「空襲はさほど恐ろしいものではないと?」 「そうです。爆弾というものはそれほど当たるものではありません。むしろ防空活動をおろそかにして街を焼けるにまかせる方が恐ろしい。敵の思うツボですから」 東京を始めとする大空襲で大勢の市民が犠牲になった背景に、当時の政府による「無謀な」指示や指導があったことをうかがわせる。 今週の「ごちそうさん」は、実はテレビドラマの歴史上で画期的なものだといえる。 戦時中の政府や軍による「愚かな政策」によって、空襲における市民の犠牲者が膨大になってしまったという過去の歴史を直視し、空襲における国などの無策をこれほど明確に示したことはテレビドラマではかつてない。 「
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