生きていると急に世界がカオスに見えるときがある。
全ての意味が些末なことに感じる。そういう時は気が穏やかになる。本当は なんでもいいんだと実感して、そんな自明なことが何故分からなかったのか不思議に思う。この状態は長続きせず、気づけば義務と雑用に帰っている。
作品を鑑賞するとき、意味を重視する向きと感覚を重視する向きがある。例えば「考察」は意味的だ。ストーリーの論理的な繋がりやキャラの機微を言葉にしていく。
反対に、感覚的な鑑賞は映るものをただ受ける。映画なら色彩や構図を受ける。文章なら語感やリズムを受ける。意味重視は言語的で感覚重視は非言語的になる。言語的がゆえ、考察的な見方は人と分かち合いやすい。逆に感覚重視は言葉にしづらく個人的になりやすい。
感覚的な鑑賞を言葉にすると詩に近づいていく。
詩人は言語の以前ですべてを観る。そこで得た感覚を言語的な意味に戻す。そこで描かれる言葉は意外かつ直接的になる。詩人は言語に対しても感覚的で それ故に誠実になる。慣用的な言葉遣いは実感をぼやかし、意図せずに嘘をつかせる。詩人はなるべく正直であろうとする。
もし言葉に帰らなかったら?つまり、視界をそういう景色と見なしつづける。移り変わる情報をただ感受する。観客席から立たなくなる。
社会生活の基礎は言語活動なので社会で生きるのは難しそう。その疎外感も感受の対象になるかもしれない。マインドフルネスを常にすべてに起動させつづけるような。
特殊な環境をセットすれば、抽象画を観てるような気持ちのまま死ぬことができるかもしれない。死ぬその時まで頑なに視界の当事者性を拒否しつづける。そういう形の安楽死はありえないのかな。