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異物れもん

断片的

「言語化」をやめて安楽へ

 

 

 生きていると急に世界がカオスに見えるときがある。

 全ての意味が些末なことに感じる。そういう時は気が穏やかになる。本当は なんでもいいんだと実感して、そんな自明なことが何故分からなかったのか不思議に思う。この状態は長続きせず、気づけば義務と雑用に帰っている。

 

 

 作品を鑑賞するとき、意味を重視する向きと感覚を重視する向きがある。例えば「考察」は意味的だ。ストーリーの論理的な繋がりやキャラの機微を言葉にしていく。

 

 反対に、感覚的な鑑賞は映るものをただ受ける。映画なら色彩や構図を受ける。文章なら語感やリズムを受ける。意味重視は言語的で感覚重視は非言語的になる。言語的がゆえ、考察的な見方は人と分かち合いやすい。逆に感覚重視は言葉にしづらく個人的になりやすい。

 

 

 感覚的な鑑賞を言葉にすると詩に近づいていく。

 詩人は言語の以前ですべてを観る。そこで得た感覚を言語的な意味に戻す。そこで描かれる言葉は意外かつ直接的になる。詩人は言語に対しても感覚的で それ故に誠実になる。慣用的な言葉遣いは実感をぼやかし、意図せずに嘘をつかせる。詩人はなるべく正直であろうとする。

 

 

 もし言葉に帰らなかったら?つまり、視界をそういう景色と見なしつづける。移り変わる情報をただ感受する。観客席から立たなくなる。

 

 社会生活の基礎は言語活動なので社会で生きるのは難しそう。その疎外感も感受の対象になるかもしれない。マインドフルネスを常にすべてに起動させつづけるような。

 

 特殊な環境をセットすれば、抽象画を観てるような気持ちのまま死ぬことができるかもしれない。死ぬその時まで頑なに視界の当事者性を拒否しつづける。そういう形の安楽死はありえないのかな。

 

 

 

 

 

 

思考模写

 

 

 考えることについて考えている。

 ソファーに座ってコーヒーでも飲んでいると、いま起きている「これ」が何なのか分からなくなる。仮説が断片的に浮かんでは消える。

 

 しばらく漫然と思案していたこの頃。寝っ転がりながらまた考えていると、ふと閃いた。ばらばらに浮かんでいた言葉が繋がってみるみる文章になっていく。興奮のままスマホのメモアプリに書きつけた。以下、そのメモを載せる。

 

*

 

 全ては内面のうちで起こる。

 内面には膨大な文章、イメージ、音、映像が収蔵されている。これらは現実で経験したことから抜粋されている。抜粋作業は自分しか行えないため、収蔵されたものは自分の色調を帯びている。

 

 抜粋により細部は捨象されて、言語的な形で保存される。言語は常に実物そのものを写せない不完全さをはらむ。

 

 何かを考えるとは、その何かを起点として連想すること。

 例えば今の「考えることは連想すること」は、自分の思考を起点として、似た概念を探索していき、連想という言葉にたどりついている。内面にある概念を選択していって一つの線を描いている。考えるとは白紙に何か書きつけることではなく、無数に散らばっている文字から絞り込んで文章にすること。

 

 この動きは人工知能の機構と似ている。AIはインターネットから掻き集めた膨大なテキストを抱えている。ユーザーから入力があると、それを解釈してから最も相応しいと思われるデータを選びだしてくる。機械はどんな人間よりも博識ゆえに凡庸でもある。

 

 考えるだけでなく、読むことも連想かもしれない。映画を観ることも音楽を聴くことも。読むとは、テキストを基本として自分で文章を切り分け、そこから連想すること。

 

 書くことも連想かもしれない。書きたいことに対して適切な言葉を連想しながら絞り込む。もちろん読むことも書くことも言語を用いる。ゆえに不完全である。書いていると調子が乗ってきて、言葉がどんどん生成される。文章から文章が連想される。そこで思考が生まれている。

 

 読む、考える、書くは互いを刺激しあう。読んでいるなら考えているし、書いていても考えている。読まなければ書けない。そして、言葉が生成されているときは、たぶん書くのと同時に読んでいる。

 

*

 

 こういうのをメモしてから眠った。

 起きてから読み返せば大して新鮮なことでもない。ただ実感を模写しただけでなぜ興奮できたのか。

 

 記述すること自体に意義を感じたのかもしれない。「これ」が客観的に記述されているだけで世界に腰を据えれたような感じがする。安心する。ちなみに、このメモも言語で記述されているので不完全となる。

 

 

 

 

手垢のついた言葉しか私は知らない

 

 あらゆる言葉は手垢でコーティングされている。

 

 生まれてから数年は他人の言葉を聞き、語彙も文法も他人から学び、他人との会話で実践する。私の言葉には他人がまとわりつく。「手垢のついていない表現」などほとんどない。

 

 使われるにつれて、意味は曖昧になっていく。簡単に通じるように、ニュアンスは失われていき、大味の意味だけが生きのこる。手垢で包まれておぼろげな姿しか見えないのだ。

 この濁流の中で、流されないためには。

 

 

 可能性爆発だ。言葉の組み合わせに目を向ける。文法などの枠組み、単語ひとつひとつは他人のものだが、それの組み合わせにはまだ何か眠っている。

 つるつるの表現はきっとある。

 

 たとえば比喩。別々の単語をむすぶことで、新規性のある表現を引き出し、失われていたニュアンスも言い当てる。言葉のろ過をすり抜けて、澱みをそのままに。

 

 この方角を走っていくと、遠くに詩が見えてくる。