名優マイケル・キートンが監督・主演・製作をつとめた映画『殺し屋のプロット』。記憶を失いつつある殺し屋を主人公としたノワールを観て、脳科学者・茂木健一郎が感じたものとは——。

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 茂木健一郎は、研究や著作、メディア出演と多忙な現在も、寸暇を惜しんで映画を観るという。

「もともと映画が好きなこともあるんですけどね(笑)。理由のひとつは、多くの映画には“現代”が描かれていることです。“現代”を知るために、映画を観に行くんです」

©︎細田忠/文藝春秋

 そういった意味では、『殺し屋のプロット』はまさに“現代”の映画と言えるだろう。なぜなら、この映画は“記憶を失う病”をテーマとした作品だからだ。

 2つの博士号を持ち、元陸軍偵察部隊の将校でありながら、殺し屋として生きてきたノックス(マイケル・キートン)は、急速に記憶が失われていく病と闘いながら“大切なもの”を取り戻そうとしていく。

「医学が発展する以前は、認知症になる前に人間は亡くなってしまうことが多かった。けれど今は、多くの人が“記憶を失うかもしれない”という不安を抱えて生きています。物語として初めて正面から認知症を扱ったのは、有吉佐和子さんの小説『恍惚の人』で、もう50年も前のことなんですよね」

 本作の特徴は、記憶を失う男が“殺し屋”という異色の設定にある。サスペンスとしての緊張感と、人間ドラマとしての深みが同居している。

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 茂木氏は「フィクションとして楽しんでほしいので、あくまで知識として話しますけれど」と前置きしたうえで、“記憶”をめぐる脳の働きについて語った。

人間は記憶を失っても、大切な人を救おうとする

 物忘れに悩みながら殺し屋稼業を続けていたノックスは、医師からクロイツフェルト・ヤコブ病と診断される。この病は急速に進行する神経疾患で、認知症に似た症状を示し、やがて患者の記憶は失われていく。

 そんななかでもノックスは任務をこなしていくが、ある日、発作に襲われ誤って無関係の女性や相棒のマンシー(レイ・マッキノン)を射殺してしまう。引退を決めた矢先、16年もの間、離れて暮らしていた息子・マイルズ(ジェームズ・マースデン)が彼を訪ねてくる。マイルズは「娘を妊娠させた男が彼女を侮辱したため、怒りのあまり衝動的に殺してしまった」と打ち明け、ノックスは息子を守るため、真実を隠蔽する計画を立てる。

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「人間の脳には“手続き記憶”と呼ばれる、身体で覚えた技能や手順を記憶する仕組みがあります。これは認知的な記憶とは別のもので、比較的長く残ることが知られています。だから、病に冒されてもテクニックはさほど衰えない、という映画での描写も理解できますね」

 ノックスは記憶を失いながらも、職業的な技能と父親としての愛情に突き動かされ、息子を救おうとする。茂木氏はその姿に、人間の“関係性”の根源を見るという。

「われわれ人間は“関係性”で生きています。ダンバー数といって、安定した人間関係を維持できるのはおよそ150人とされます。その中でも、もっとも深い絆を持つ相手——家族との関係を再び取り戻したいという欲求は、本能に近い。ノックスが最後に求めたのは、まさに息子との絆だったんだと思います」

©︎細田忠/文藝春秋

 では、急速に記憶が失われていく状況で、果たして息子の存在や約束を覚えていられるのだろうか。

「人間の脳は驚くほどレジリエント(回復力が高い)です。ある機能が失われても、他の神経回路がそれを補おうとする。つまり“まだら認知症”のように、ある記憶は消えても、別の記憶は鮮明に残るということが実際にあります。記憶が失われつつあるなかでも、残った一部の機能を活かして大切な人を守る——それは現実的に起こりうることなんです」

“記録”と“記憶”のせめぎあい

 ノックスが記憶を失いながら完全犯罪を企てる一方、事件を追うイカリ刑事(スージー・ナカムラ)たちは監視カメラ映像などの“記録”をもとに真相に迫っていく。この映画は、“記憶”と“記録”のせめぎあいを鮮烈に描いている。

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「デジタル・タトゥーとか“忘れられる権利”という言葉に象徴されるように、現代社会では何もかもが記録され、消せなくなっています。記録は残るのに、記憶は消えていく。この対比がとても印象的でした。AIなどの技術で“記録”、つまり情報を保存・再生する仕組みは科学的に解明されてきましたが、“記憶”のほうはまだ判明していないことが多いんですよ」

 だが、現代の脳科学が解こうとしている“記憶”の問題を、かつて哲学的なアプローチで解こうとした人物がいたという。

「フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、“記憶”を単なる情報保存ではなく、人間の意識の中核にある“純粋記憶”として捉えました。つまり、記憶は生命の流れのなかにある。プルーストが『失われた時を求めて』で描いた“マドレーヌの香りで過去が甦る”場面や、ブルース・リーの『Be Water(水のようにあれ)』という言葉のように、記憶は形を変え、流れ続けるものだと思うんです」

映画でしか描けない“人間”のドラマ

「さまざまな側面から楽しめる映画ですが、“終活映画”としても興味深いですね」と茂木氏は語る。

 たしかにノックスは引退を決めた時点で、仲間に資産のマネーロンダリングを依頼しており、その矢先に訪ねてきた息子のSOSを、最後の仕事として引き受ける。

「自分が自分であることさえ曖昧になっていく前に、殺し屋のプロとしての技量を通じて息子に究極の愛情表現を行う。皮肉なことに、記憶を失う病気になったからこそ、彼は純粋なかたちで愛を表現できたのかもしれません」

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 主演・監督を務めたマイケル・キートンは海外のインタビューで「単なる“ヒットマン映画”ではなく、“父と息子の物語”として観てほしい」と語っている。その言葉どおり、『殺し屋のプロット』はノワール・サスペンスでありながら、ヒューマンドラマとしての側面が大きい。

「最初に、“現代を知るために映画を観る”と言いましたが、もうひとつ理由があります。映画には“人間”が描かれているからです。とくに、映画でしか描けない人間を観たい。そういう意味で、『殺し屋のプロット』は観る意義の大きい作品だと感じました」

©︎細田忠/文藝春秋

〈プロフィール〉
もぎ・けんいちろう 1962年生まれ。東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。専門は脳科学、認知科学。近著に『60歳からの脳の使い方』(扶桑社)『脳はAIにできないことをする』(徳間書店)などがある。

 

〈映画あらすじ〉
博士号を有するという異色の経歴を持つ凄腕の殺し屋ジョン・ノックス。ある日予期せぬ事態が降りかかる。急速に記憶を失う病だと診断され、残された時間は、あと数週間というのだ。やむなく引退を決意したノックスの前に、疎遠だった一人息子のマイルズが現れ、人を殺した罪をプロである父の手で隠蔽してほしいと涙ながらに訴える。刻々と記憶が消えていく中、ノックスは息子のために人生最期の完全犯罪に挑む――。

〈映画データ〉
監督・製作:マイケル・キートン
出演:マイケル・キートン、ジェームズ・マースデン、ヨアンナ・クリーク、マーシャ・ゲイ・ハーデン、アル・パチーノ
2023年/アメリカ/英語/カラー/ビスタサイズ/115分/原題:KNOX GOES AWAY/字幕翻訳:大城弥生/映倫区分:G
提供:木下グループ 配給:キノフィルムズ
公式HP:https://kga-movie.jp 公式X:@5648_plot
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