飯野賢治はいつ “クリエイター飯野賢治”を演じ始め、そして演じることをやめたのか?飯野賢治生誕55周年トークライブから見えたこと【飯野賢治とは何者だったのか】 | Game*Spark - 国内・海外ゲーム情報サイト
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飯野賢治はいつ “クリエイター飯野賢治”を演じ始め、そして演じることをやめたのか?飯野賢治生誕55周年トークライブから見えたこと【飯野賢治とは何者だったのか】

あるいは、強い自己像を作り上げ、世界に見せつける欲動が生まれた深層心理について。

連載・特集 特集
飯野賢治はいつ “クリエイター飯野賢治”を演じ始め、そして演じることをやめたのか?飯野賢治生誕55周年トークライブから見えたこと【飯野賢治とは何者だったのか】
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たぶん90年代のゲームシーンを追いかけてきた人なら、飯野賢治の姿をありありと思い出せると思う。長髪と巨体を黒いスーツで包み、ゲーム業界で挑発的なアクションを行ってきたあの姿だ。

ただ、時間が経たなければわからなかったこともある。あの飯野の姿は、もしかしたらひとつの虚像でもあったんじゃないか。あれは飯野本人が、いわば音楽や映画監督のような“作家”や “アーティスト”として作り上げたゲームクリエイターの姿だったんじゃないか。ゲーム業界で何かを切り開くために作り上げた姿じゃなかったのか。

飯野賢治はまだゲームの作り手が “アーティスト”としてあまり扱われていない時代から、積極的に“アーティスト”であろうとした。僕が知っている飯野賢治は、そうやってメディアに出ていた姿がほとんどだ。だけど“それ以外”の姿をあまり知らない。Game*Sparkで飯野賢治に関わる企画を手掛けるまで想像もしなかった。


“それ以外”の飯野とは、何者だったんだろう? つい先日、それを知る手掛かりのようなイベントが行われた。それが5月5日に行われたトークライブ「飯野賢治の気になること。2025」である。

トークライブには、飯野の妻である飯野由香を中心に、飯野賢治の古くからの仲間が集まった。

過去にイベントを共同で行ってきたサラリーマンクリエイターのヨシナガ。人気番組「進め!電波少年」を手掛け、飯野と仕事をしたこともある、TVプロデューサーの土屋敏男。そして星海社代表の太田克史がステージに上がる。さらに、今年5月にGame*Sparkでもレポートした飯野のバンドNORWAYのメンバーのTaccsも加わった。それだけじゃなく、GLAYのHISASHIによるビデオメッセージまで公開されるほどだった。

彼らが語る飯野の姿から、僕は「作家として気を張っていない時の飯野さんとは何者だったのか」について考えていた。トークライブはある意味で、一人の人間がいつ “作家”として自分の新しい姿を作り上げ、そしてどこでその姿に一区切りつけたのかという、始まりと終わりについてを考えさせるものだった。


14年ぶりに行われた飯野賢治のトークライブ

ヨシナガ氏

このトークライブは、かつて新宿のロフトプラスワンで行われてきた「飯野賢治とヨシナガの『気になること。』」(以下、「気になること。」)というイベントを14年ぶりに行うかたちで始まった。

もともとこのイベントは、名前の通り飯野とヨシナガが2008年から企画したものだ。この頃はすでに飯野はWARPでのゲーム開発を終了し、社名をフロムイエロートゥオレンジ(以下、fyto)へ変え、ゲーム業界から離れて7年が経った頃である。

ヨシナガが飯野と関わるきっかけはブログだった。ヨシナガは自分のブログ「僕の見た秩序。」で「KO・U・HU・N☆」というフレーズを使っていたところ、飯野がブログで使っているのを知ったという。それをきっかけにお互いが連絡するようになり、やがてトークライブを行うようになったそうだ。

このあたりは前回の、飯野が結成したバンド・NORWAYの座談会で語られた事に近い。ヨシナガとのイベントは「Twitterからバンドを結成した」というフットワークの軽さに似ていた。ブログから面白そうな人と繋がっていくあたりが飯野らしい。

「僕と飯野さんふたりとも、遊びと仕事が曖昧なんです」そうヨシナガは言う。基本的にトークライブはギャラをもらわずにやっていたそうだ。ヨシナガが “サラリーマンクリエイター”と自称し、数々の面白い仕事を手掛け、インターネット上の有名人と言っていい。

本人は謙虚に「飯野さんからすると、僕はどこの馬の骨とも分からない」と語る。「だけど、飯野さんは対等だったんです」と、共にイベントを行ってきた実感を語った。

飯野賢治が “飯野賢治”に至るまで

そんな飯野とヨシナガの手作りでやってきたトークライブなのだが、飯野が亡くなってからひさしぶりに開催されるかたちとなった。でも飯野がいない今回は違う。飯野が生まれてから亡くなるまでを、彼と近い人間の目で振り返るトークだった。

イベントでは編集者として関わった太田の目線や、飯野がファンだったという「進め!電波少年」を手掛けたプロデューサーである土屋の意外な関わりや、バンドNORWAYのメンバーとして関わったHISASHIとTaccsによる音楽活動の話などがあった。

ただ、このイベントで特に気になったのは “クリエイター飯野賢治”が生まれた真相を見るかのような、飯野の幼少時代から亡くなるまでのプライベートの数々だった。

飯野由香氏

「飯野賢治は5月5日生まれで、今年2025年で55歳になります。5並びなのでこれはもう、イベントをやるしかないと」飯野由香はイベントを開催した理由をそう言う。「告知も5時55分にやったりして。誰も気づいてくれないですけど(笑)」そういう仕掛けはちょっとした夫へのリスペクトかもしれない。

ところが由香は、会場を埋め尽くしたファンを前に感極まってしまう。「こんなに集まってくださって……」その姿は飯野が亡くなってから、12年もの時間が経ったことを感じさせるものだった。

イベントの中心になったのは、飯野賢治が生まれてから亡くなる直前までの写真の披露だ。様々な時代の飯野を見ながら、みんなで語っていく。軽い雑談みたいだったけれど、僕が見入ってしまったのは、自分が知っている “クリエイター飯野賢治”じゃないときの姿が垣間見えるところだった。

会場では飯野由香が、飯野の幼いころからの写真を見せていくことから始まる。ところが始まりから僕はぎょっとしてしまった。母の手に抱かれる飯野の写真がモニターに映ったからだ。

「階段。だれかに抱かれて、その階段を一歩一歩上がってゆく。アパートというか、マンションというか、そういう建物の二階」、「それが僕の覚えている一番最初のシーン、一番最初の記憶」(※A)飯野は自分の幼少のころをそう語っている。

「昭和っぽい写真ですよね。夫の子どもの頃は眼光が鋭いものが多くて」と由香は写真について説明している。それはまだ飯野の母が家族で一緒に暮らしていたころの写真だった。会場は静かだったが、僕は飯野の自叙伝「ゲーム Super 27 years life」(以下、ゲーム)を読んで、小学校2年生のころに母親が消えてしまったことを知っていた。「この女性がそうなのか」と緊張してしまった。

「僕は1970年5月5日、こどもの日生まれで、その誕生日の前日に彼女はいなくなってしまったんだ」飯野は突然、母親がいなくなった日をそう告白する。その事実を受け入れるまでに、心のなかで葛藤があった。

「でも、実は僕は彼女がいなくなる前に、すでに母親がいない子どものドラマっていうか、そういうのを知っていたわけ。テレビでだかマンガでだかわからないけど。だからそういうイメージはもう前からあって、『それは悲しいものなんだ』というのが刷り込みされていたような気がするんだよね」(※A)

「『楽しいことガマンして待っていたら、母親が帰ってくるかもしれない』と思ってずっと待っていた記憶がある」飯野は楽しみにしていた遠足まで休んで、自分の部屋にいた。「窓をずっと開けて、10時間ぐらい待っていた。でも結局、帰ってこなくて、『あ、帰ってこないな』みたいなね。その結果に結構泣いたね」(※A)

モニターには次に飯野が父親とふたりで撮った写真が映る。「幼少期から旅行が好きだったんですね」と由香が説明する。飯野は母親に対して苦い記憶が残る一方、父の飯野保夫とは後の活動にも繋がるような、思い出を重ねていた。

「うちのおやじは山形で生まれて、山形から東京に出てきて」(※A)保夫は地方から上京し、職を転々とするキャリアを辿っていた。やがて、ビニールを製造する企業に腰を落ち着けることになる。

飯野は父から多くの影響を受けた。妻が消え、保夫は大変な境遇に陥っても、息子を大切に育て上げていた。「僕を育ててくれたのは99パーセントおやじだからさ」(※A)と飯野は語るように、保夫から大事に見守られていた。

飯野は小学生の頃にYMOを知り、そしてビデオゲームの到来した時代を目の当たりにして、「僕の住んでいる世界が、日本という国が変わっていくのがわかった」、「僕は『なにかをしなくちゃ』と思った」(※A)と確信する。音楽と、ゲームやインターネット、SNSといった新興のテクノロジーへの興味はこの頃に固まっており、それは生涯変わることはなかった。

「賢治はさ、夢見る力は小さい頃から持ってたよ」保夫は息子に対してこう見ていた。「小さい頃は、わりとおとなしくて、淋しがり屋だったな。小学校2年生の頃から2人で暮らしているから、寂しいって。体は大きかったけど、可愛いところがあるんだよね。野良猫とか、賢治が近寄っても逃げないんだ」(※B)

父からの影響は、飯野が旅行を好むようになったこともそうだが、興味深いのは仕事の面でも大きかったことだ。飯野は保夫が伝えた「『働いているとこから歩いて五分以内のところに住むべし』みたいな妙な家訓」(※A)を守り、WARP時代は自宅から徒歩で2分の場所に会社を構えるほどだった。

そんな飯野だが、両親の関係の顛末については苦い思いを残している。

「母親のことは、うちのおやじの選択ミスだったんだと思う」(※A)飯野は保夫の結婚についてそう切り捨てる。「飯野家といえば、山形のほうのおじいちゃんおばあちゃんというのはそのころから全然没交渉で。飯野家というのは親戚間の交流が浅いわけ、ひじょうに」というように、どうも保夫は故郷への思い入れはあまり持たず、上京してきたのもあるのかもしれない。

飯野は母についてこう考えていた。「やっぱり彼女はちょっといいかげんな女で、そういういいかげんな遊んでいる女に引っかかった山形から出てきた純朴な男って、そういう感じじゃないかな」(※9)このことは、後の飯野の仕事観や恋愛観にも大きく影響を与えたようにも思える。

モニターで幼少期の写真が終わり、高校生の写真が映る。僕はそれを見たときには驚いた。まるでWARPをやめ、fyto以降に大きく減量した飯野の姿そっくりだったからだ。

ここまでにも発言を引用している自叙伝「ゲーム」を参照すると高校以降の飯野はこうだ。やがて高校を退学し、大検にも失敗。空いた時間を国内旅行や読書に費やしていく。いろんなバイトを経験するも、どれもしっくりとこず、職を転々とする。やることが決まらないまま鬱屈してゆく。

飯野はこの状況をなんとかしようと悩んでいた。そんな時、中学の頃にゲームのプログラムコンテストで入賞したことを思い出す。そこでゲーム会社への就職を決意。インターリンクへ入社する。

インターリンクとは、バンダイやバンプレストなどの下請けとしてゲームを開発する企業だった。飯野は得意の音楽制作や、『ウルトラマン倶楽部2 帰ってきたウルトラマン倶楽部』のシナリオなどに関わるようになる。これが飯野のゲーム業界におけるキャリアの始まりだった。

演者が並ぶカウンターの手前に、5月5日にリリースされた「KENJI ENO 55」のジャケットが置かれている。ゲーマーによく知られているあの長髪と黒いスーツの飯野が描かれている。

あの姿は、実はインターリンクに勤務しているころにもう固まっていたらしい。「ロバート・パーマーの影響で、服装はいつもスーツだった」(※A)とのことで、この時点でよく知られている飯野の姿はできあがっていたのかもしれない。

飯野が“ゲームクリエイター”としての姿を本格的に確立していくのはこの後だ。

やがて飯野はインターリンクで「キャラクターゲームを作るのに飽きてきてね」(※11)と感じ、有限会社EIMを立ち上げて独立。だが夢のある展開ではなかった。飯野は自分のゲームを開発しようにも、結局、企業にはシリーズものかキャラゲーの企画しか通らない。その事実に苛立ちを隠せなくなる。

だったらオリジナルタイトルをやるしかない。「作家性のあるものをつくりたいなあとムラムラ思ってました(笑)」(※C)飯野はそのために株式会社ワープ(WARP)を設立。『宇宙生物フロポン君』、『Dの食卓』、『エネミー・ゼロ』、『リアルサウンド ~風のリグレット~』……。 “ゲームクリエイター”という姿でメディアへ積極的に露出し、ゲーム業界にて数々の記憶を残す活動を行っていく。

自分の存在を位置づけるためのクリエイティブ

太田克史氏

“クリエイター飯野賢治”を間近で見てきた人は、90年代WARP時代の飯野をどう見ていたのだろうか?

太田はそんな飯野と直にやりとりしてきた編集者である。太田はまだ講談社の新人だったころ、飯野の自叙伝「ゲーム」の企画・編集を務めていた。

「基本はテープに飯野さんの発言を録音したものを書き起こしたのが『ゲーム』なんです」と太田は説明する。当時、太田はコミックの編集部に在籍しており、そこで飯野と面識があったという。しかしその後、太田は左遷されてしまい、みじめな思いを抱えていた。そこで奮起して「飯野さんの本を出したい!」と強い目標を立ち上げたのだそうだ。

太田の仕事に対して、飯野は「僕の書籍の中で最も売れた本」、「僕のパブリックなキャラクターを半分くらい作ったのは彼だと思う」(最前線セレクションズ)と後に語っている。ここまでに本書を引用した発言のように、ナイーブな一面も読み取れるのだが、高校の教師を実名を挙げて批判していたり、他のゲームタイトルのことも批判していたりする。当時の “傍若無人な飯野賢治”というイメージを強めたのも確かだ。


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「ピュアな人だったので、『これは書かないでくれ』というのがありませんでした。あの本は、それを煮詰めたものになったんです」そう太田は「ゲーム」について語っている。

どうあれ「ゲーム」は飯野がもっとも注目度の高い頃に書かれた、いち時代の本というイメージは強い。正直に言えば僕は当時、タレント本の一種として捉えてしまっていた。しかし、いま思えばビデオゲームというジャンルにとっては “クリエイターをアーティストの一種として取り上げる”アプローチのひとつだったのも確かだ。

「あの頃のゲームはおもちゃの扱いでした。さらに当時は他社からの引き抜きを防止するために、スタッフの名前もニックネームになっていた時代。クリエイターとしての彼らのインタビューはほぼなかったんです」太田は当時のゲームにおけるクリエイターの扱いをそう振り返る。

80年代から90年代半ばにかけての当時は、ゲームクリエイターはメディアで登場することはあまりなかった。もちろん、大手雑誌が大ヒットシリーズを生み出す堀井雄二や宮本茂などを取り上げることはあったし、ゼロではない。

しかし、ゲーム全体でひとりのクリエイターを “作家”としてインタビューしたり、特集したりすることは決して多くはなかった。それどころか、太田が指摘するようにゲームクリエイターやスタッフの顔どころか名前すらもわからない時代も長かった。

そんな太田にとって、飯野のインタビューはエポックメイキングだった。「飯野賢治さんのインタビューは何もかも違っていました。 “自分はこんな音楽を聴いてきた”みたいに、アーティストとしてのインタビューだったんですよ」

「今でこそ、ゲームでそういうインタビューは当たり前だけど、間違いなく最初にそれをやったのは飯野さんですね」太田はそう語る。

実際、飯野自身もそれを意図したことを語っている。「クリエイターが顔を出して『こんなのをつくるんだぞ』っていう、ミュージシャンや映画監督のインタビューのような、ああいうことがしゃべりたかったんだけど、ゲーム誌にそんなページはなかったし。そういうのを受け入れてくれればいいなあなんて言いながらつくっていました」(※C)

太田はあの頃の“クリエイター飯野賢治”がどんなオーラを持つ人間だったかをとうとうと語っていく。「WARPに入って、社長室に入ったらウクレレを弾きながらインタビューをしていました」

朗らかな飯野を想像させるエピソードだが、太田はちょっと違う印象も抱いていた。「当時はオウム真理教事件の記憶も新しかったですし、グルって感じもあって」いかに当時の飯野が構築したクリエイター像が異様だったかも感じさせる話でもある。

ただ、太田の飯野との関係は90年代の一時期だけじゃなかった。太田は飯野がWARPからfytoに社名を変え、ゲーム業界から離れた後も様々な仕事をしていた。

そのひとつが飯野に小説執筆を依頼したことだ。太田は2003年、講談社にて新しい文芸誌「ファウスト」を立ち上げていた。この文芸誌は、舞城王太郎や西尾維新や清涼院流水の他、竜騎士07や奈須きのこらも寄稿していたことで有名だった。その創刊号に、飯野の短編小説が掲載されている。

そんな小説の執筆でも、なんというか飯野らしいエピソードがあったらしい。

「飯野さんにはパークハイアットに泊まってもらって書いてもらったんです。でも、原稿の様子を見に行ったら、 “これからの出版業界の話をしたい”ということになって」飯野は太田に弁舌を振るうが、小説は2週間でわずか20行しか書けていなかった。「できないことをごまかしてたんですよ! それ!」と思わず由香もつっこんでいた。

「でも、そういう話をするのが楽しかった」太田はそう振り返る。「出版業界の未来も非常に魅力のある語り口で話してくれた。教養もあるし、交流も広い。そしてなにより話が面白いからついつい許しちゃうんですよ」

そんな太田だが、「最初に飯野さんと付き合ったときの話で、覚えていることがあって。それは当時のWARPにいた方が結婚したときの話で」という。それは「ゲーム」にも書かれている結婚についての話だ。

「結婚って、でも、いいことばかりじゃない」飯野はおめでたいはずのことにもこう考えていた。「結婚したことによって怠けちゃって、甘えちゃうやつ。これがヤバイ」(※A)

「突然、結婚して共同生活をはじめると人間がかわるやつがいるじゃない。甘えちゃうというか、際限のない愛を知っちゃうやつ。そうなったら、もうしょうがないよ。家庭のなかで必要とされているでしょう。『あなたが必要なの。あなたが大事なの』って言われたら、そこでそいつの存在が成立しちゃうから」(※A)

「男って、本来は存在が成立しないところで生きているからね。男は子供を産まないから『自分が生きている価値はなんだろう』と思って、自分の存在をなんとか位置づけたいと思うものなんだ。で、そのためにはまわりから認められるしかないわけで、そういう意味で張り切ったりがんばったりするんだけれども、家庭でまあまあ存在が認められちゃうと、そこでプライドがオーケーになっちゃうんだね」(※A)

「本当に、下手な女に引っかかるとプライドのハードルがメッチャ下がるよ。これは何人も見ているもの、俺」(※A)

クリエイター “飯野賢治”から折り返すとき

「なんて厳しいことを言うんだと思いましたよ」そう太田は飯野の結婚観について衝撃を受けていた。飯野はこの発言を残した当時には由香と結婚していて、 “ダメになっていった人間”にはならないために精一杯のことをしていたらしい。

特にWARPで数々の代表作を手掛けている時期でもある。自分のオリジナルタイトルを生み出そうと、もっとも腐心しているころだ。今日のジェンダー観からすれば明らかに古びた意見だが、飯野は “クリエイター飯野賢治”でいることを強迫的なまでに意識していたのは確かだ。メディア上での強い発言はもちろん、どうやらプライベートでもその姿を堅持していたらしい。

いったい何故そこまでの思いに駆られていたのか?

「長男が生まれたときに、『オレはそうならないぞ!』と言っていて、ほんっとに私きつかったんですよ! 」由香も当時の飯野がそこまでのスタンスでいたことに、家庭で大変な思いをしていた。なにせ仕事で1週間は家に返ってこないのも当たり前だった。「ずーっと長い時間ひとり(いわゆるワンオペ育児)で辛くって!」

ただトークのメンバーは、今にして思えば、なぜ飯野がそんな心持ちになっていたかについて考察していた。

「自分を丸くしたくない思いがあったんでしょうね」とヨシナガは言う。「お母さんがいなくなった影響があったのかな……」

「女性不信もあったんじゃないかな」と土屋は続ける。僕もそれは少し感じていて、飯野の原体験として両親の関係がどれだけWARP時代での活動や、メディア上での発言にも繋がったのかという、心理的な影響も考えざるを得なかった。

僕はある発達心理学の研究を思い出していた。幼少時代に父親か母親の別離を経験した人間は、その逆境から起業する力になるケースがあるという。もちろん、幼少期に両親の別離を経験することがすべて起業を促すわけではない。むしろ起業から遠ざかるケースもあるし、成長する中での人間関係の影響によって、いかようにも変わることが語られている。

とはいえ研究を簡単に読み込んでみると「男性は女性よりも幼少期の逆境による影響」への指摘や、幼少期の逆境が起業してからルールを破るような行動を行う可能性など、飯野を思い出す話がいくつも見つかる。

仮説だが、飯野が90年代に “クリエイター飯野賢治”を演じようとした源流に母との別離はどれだけ大きかったのだろうか。ただ、それはいつまでも続くわけではなかったことも、考えさせられるところである。

実際のところ、飯野は90年代の苛烈なWARPでの活動に区切りをつけてから大きく変わってしまう。fytoに社名を変え、ゲーム業界から離れていくに伴い、自らのマスイメージさえも変えていく。

変わった後の姿が会場の入口近くにあった。飯野の30代以降の姿が等身大パネルとして飾られている。大きく減量してしなやかなシルエットになった姿だ。その顔つきは、先ほどモニターに映っていた高校時代の飯野に似ていた。

僕は等身大パネルの飯野と目を合わせながら、「もしかしたら、よく知られているあの巨体で、長髪とスーツの“クリエイター飯野賢治”から、ある時期から区切りを付けたということかもしれない」と考えさせられた。

fytoになってからの飯野は90年代の華々しい露出が嘘だったかのように、名前を出す活動が控えめになっていく。

「『いま、なにをやってるんですか?』とよく言われる」(公式ブログより)飯野はfytoで活動しているころ、こんなことを語っている。僕も2000年以降の飯野の代表的な仕事はすぐに思いつかない。自動販売機のプリペイド型決済システム「Cmode」が有名だろうか。ただ、わかりやすい創作ではなく、そうした企画などに関わるようになったことは意外でもあった。

実は飯野自身は、すでにWARP時代に「近未来的に僕がやっている仕事は、たぶん、ゲームじゃないと思う」(※A)と断言していたりする。「少なくともいま『ゲーム』という定義を辞書で調べたら出てくるようなゲームの仕事はしていないと思う」

それでも当時は「思いをメッセージにしてずっと伝え続けるということは、たぶんいつになっても変わらないと思うんだ」と、 ゲームから離れたとしても“クリエイター飯野賢治”を見せていくことは語っていた。

飯野が手掛けた仕事のひとつ。高級牛肉ブランドのロゴを手掛けた。

ところが実際には自分の名前を伏せることが多くなっていく。「これはうまく伝えるのが難しいんですけれど多くの仕事が、『僕の『作品』じゃないからなあ』という気持ちが大きい」(公式ブログより)と語り、飯野が関わった多くの仕事が新規立ち上げ事業なのもあり、NDAによって表立って言えないのことも要因だが、なによりも “思いをメッセージにして伝える”ものづくりから遠いことが大きかったようだ。

「『こういう作品が作りたい』というのは僕の考えや、気持ちが発端になっているわけで、作品を届ける側の責任として或いは、広報的な活動として、その内容というより『気持ち』や『思い』を伝えることが多かったりします」(公式ブログより

「だけど、いまやってる仕事の多くって、そういう『作品』の類とは違うんですよね」意外なことだが、飯野自身は温泉旅館を作るプロジェクトなどに関わり、旅館も商業的な成功を果たすが「個人が見えるのは気持ち悪いと考えた」とのことで、自分の名前を伏せていたという。「よく、誰々プロデュースのレストランとか、誰々プロデュースのホテルとかそういうのもあったりするけれど、あれ、僕には気持ち悪いんですよね」、「旅館側の人たちには、口止めをしたくらいです。僕の名前は出さないでね、と」(公式ブログより)というほどだ。

90年代の傍若無人さのある “クリエイター飯野賢治”を考えると、fytoになってからは極めてまっとうな大人へと転向したかのようだ。

それは、家庭との取り組みにおいてもだいぶ変わったらしい。

「二人目の時は、柔軟になって丸くなりましたね!」由香はそういって、飯野が次男を抱っこする写真を映す。この頃にはスリムになっており、穏やかに育児に関わる姿を見せている。「ママ友に褒められてから、積極的に育児をするようになったんですよ!」

ただ、この時期の飯野の発言を見るに、次男が生まれるまでは経済的に苦労したようだ。いくら飯野の名前が有名でも「最初の数年は、実績もなにもないので仕事がまったくない時期もあり、ものすごく大変でした」(公式ブログより)とのことで、fytoは最初から順調ではなかった。

次男が生まれたのは2007年のことだ。「やっと2人目の子供が生まれた。最初の子供と9年も離れている」、「それは僕に問題があって いまから8年近くも前に、ゲームの世界から離れ しばらくの間、仕事がうまくいかずに 精神的にも経済的にも、大変なことになってしまった。新しい仕事が軌道に乗って 生活が数年の間、しっかり安定してからという判断をして 思いの外、時間がかかってしまった」(公式ブログより

そこで飯野は「大きな谷の時期があった。家族でがんばった。その結果として、今日がある」と語るまでに、家庭に対しての考えは変わっていた。「こんないまを、会ってすぐにカミさんは見つめていたんだなあと驚く」(公式ブログより)と、家族で協力する大きさを感じていた。WARP時代には長男の育児にあまり関わっていなかったし、家族を顧みない “クリエイター飯野賢治”であろうとしていたようだが、fyto時代になってからは家庭に参加するようになっていた。

やがて、飯野が息子との旅行をする写真が映る。それはかつて飯野が父の保夫とどこかへ旅行に行った写真にも重なって見えた。引用してきたブログを読んでみても、子どもたちと過ごした日々を書いたものが数多く見当たる。

そんな保夫だが、2005年に亡くなっていた。「父は笑顔のまま、この世を去りました。最期に受けた大きな教えを胸に生きていこうと思います。ありがとう」(公式ブログ)と飯野は言葉短くそのことを書き残している。

保夫が亡くなった後、しばらくして、飯野が父親とのことを思い出すような企画が舞い込む。そんな企画を立てたのが土屋だった。

土屋敏男氏

「飯野さんとは2010年くらいに会って、いろんな話をしました。2011年に、地上波アナログテレビ放送が完全に終わることに合わせ、萩本欽一さんを起用し、ドキュメンタリー映画を作ったんです。そこで萩本さんにチームラボの猪子さんなど、いろんなクリエイターにサプライズで会わせました」

そこで飯野と萩本が顔を合わせたとのことだが、現場は探り合いだったらしい。

「入ってすぐにカメラがおかしくなって撮れてないんですよ。その様子。猛獣が探り合うみたいな……ふたりともジャンルが違うし。割と飯野さんは自分の中で折伏するタイプ。喋った中身は覚えてないけど、『なんだか久しぶりに親父と喋ったみたいな気がしたな』と言ってましたね。お父さんともっと喋りたかったという思いがあったのかな

飯野は保夫から多くを受け継ぎ、やがて自分が父親として家族と関わる姿を見せるようになった。その姿は90年代に腐心した “クリエイター飯野賢治”を証明しようとすることから転換したかのようだ。

他の発達心理学の話でを加味すると、青年期に強気な起業家として活動した人間が、中年期に入り次世代に何かを残すことを考え、家庭や社会への貢献を考えるように変わることもあるという。飯野の人生とは、まるでそんなひとつの姿のように思える。

だが、その姿はいつまでも続かなかった。

突然の逝去

2010年。飯野は知人女性との食事中に体調を崩し、そのまま救急車に搬送され入院してしまう。数日間、意識を失っていたという。

「『え? これでオレの人生、終わっちゃうの?』と思った、その瞬間の、景色の崩れ方はすごかったです」(公式ブログ)家族や周囲が緊迫した事態に包まれる中、なんとか生還した飯野はその時のことをこう語っていた。

「そういうのは二度と思わないでくださいって話をしていましたよ」太田は飯野が倒れた時をそう言う。「いろんな偶然が重なって助かったから」

「ここで不死身と思っちゃって…。ここから自分の身体を大事にしてたらこんな事にはなってなかったんじゃないかと思う」と由香は言う。飯野自身は「振り返れば、反省すべきことも多いどころか ずいぶんと、いい加減に、生活をし続けていたことが 積もり積もって、このような事態になったのだと思われます」(公式ブログ)と語っていた。

しかし3年後、2013年に倒れた時は、もう戻ってこれなかった。

僕はfyto時代になってからの飯野は、スリムになって健康的なイメージへと変わったと思っていた。だが、飯野に近かった太田は危険な兆候を察していたらしい。

「体格のいい人がやる糖質制限ダイエット、これは実はよくないそうなんですよ。コレステロールが血管に溜まるらしいんです」と太田は減量した飯野について指摘する。「あとはタバコをやめられていなかったですね」

太田は飯野へ健康についての注意をしていたが「言っても聞かない」という反応だった。「前回助かったのはラッキーだったわけだから何度もあると思わない方がいい」と言っても、通じなかったようだ。「自分が不死身だ、奇跡だって思っちゃうよね」と土屋は返していた。

飯野賢治の遺産

あまりにも早い逝去に、やはりトークでは「生きていてほしかった」という言葉が挙がる。話題はTwitter(現X)がサービスを始めた時から、その面白さを広めるブランドマーケティングに尽力していた話から、「いま生きていれば、生成AIについても面白い見方をしていたんじゃないか」という話にも及んだ。

「僕が嫌なのは、『この人が飯野賢治を知らないというのはおかしい』という人が、どういう形かわからないけど飯野賢治を知るべきなのに、知られていない」太田は飯野の現状についてそう語る。

「自分の力不足はそこなんですよ。もっとスポークスマンとして飯野賢治を伝えたい。飯野さんは宮本茂とはキャラクターは違ったので、今ならば小島秀夫に近いポジションにいたんじゃないかと。ゲームの辛いところは、3DOやセガサターンといったハードがないと過去の作品が遊べなくなっちゃうところ。傑作もリメイクがないとすぐに文化的に断絶してしまう」

今回のイベントで僕が思ったのは、プライベートの飯野自体が実はすごくドラマチックな経歴を辿っていたことだ。子どものころに突如として母が消えてしまうこともあってか、“強いクリエイター”を演じた時期もあった。

しかし自分自身は決して家族を壊すことはしなかった。経歴が大きく変わっても、息子たちを導くことをいくつも行う父親らしい父親でもあった。この過程はどこか飯野の深層心理についても思いが行ってしまうほどだ。

しばしば飯野賢治は開発したゲーム以上に本人が面白いと言われることもある。つまりこうも言えるのではないか。飯野賢治が作り出した一番の作品は “クリエイター飯野賢治”だと。

創作とは作家が自身のトラウマや傷を癒す過程ともいわれる。飯野の場合、アーティストとしての自己像を作り上げ、ゲーム業界に楔を打ち込むことそれ自体が幼少期の苦痛を払拭する過程だったのだろうか? そしてゲーム業界での目立った創作から離れ、家庭にも関わるようになることで、その自己像を畳んでいったのは、ある意味で区切りを付けることができたということだろうか?

飯野賢治が “クリエイター飯野賢治”じゃない時の姿とは、実は真っ当さが強い人柄の人が、子どもの頃に経験したきらめきやトラウマのようなことの多くを取り戻すようなことだったのかもしれない。

イベントではNORWAYが演奏した、坂本龍一とデヴィッド・シルヴィアンの「Forbidden Colours」のカバーが流れる。みんな “クリエイター飯野賢治”の強気な顔つきのすぐ裏側にあった、飯野の真っ当で、親切な側面をどこかで見つけていたのかな、と僕は感じていた。そうでなければ、会場の客席から飯野を惜しみ、すすり泣く声が聴こえることはないはずなのだから。

「KENJI ENO 55」レコード紹介サイト飯野賢治生誕55周年記念企画ページ

飯野氏発言引用


引用はすべて原文ママ。

(※A 1997 講談社 「ゲーム」より)

(※B 1996 マイクロデザイン出版局「飯野賢治の本」より)

(※C1999 ソニー・マガジンズ「2003」より)


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ライター:葛西 祝,編集:宮崎 紘輔


ライター/ジャンル複合ライティング 葛西 祝

ビデオゲームを中核に、映画やアニメーション、現代美術や格闘技などなどを横断したテキストをさまざまなメディアで企画・執筆。Game*SparkやInsideでは、シリアスなインタビューからIQを捨てたようなバカ企画まで横断した記事を制作している。

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編集/タンクトップおじさん 宮崎 紘輔

Game*Spark、インサイドを運営するイードのゲームメディア及びアニメメディアの事業責任者でもあるただのニンゲン。 日本の新卒一括採用システムに反旗を翻すべく、一日18時間くらいゲームをしてアニメを見るというささやかな抵抗を6年続けていたが、親には勘当されそうになるし、バイト先の社長は逮捕されるしでインサイド編集部に無気力バイトとして転がり込む。 偶然も重なって2017年にゲームメディアの統括となり、ポジションが空位になっていたGame*Sparkの編集長的ポジションに就くも、ちょっとしたハプニングもあって2022年7月をもって編集長の席を譲る。 夢はイードのゲームメディア群を日本のゲーム業界で一目置かれる存在にすること、ゲームやアニメを自分達で出すこと(ウィザードリィでちょっと実現)、日本武道館でライブすること、グラストンベリーのヘッドライナーになること……など。

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