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宮沢賢治と橄欖の森

賢治作品に登場する植物を研究するブログです

ブログ内容の紹介

謎の多い宮沢賢治の作品をそこに登場する植物を丁寧に調べることによって読み解いています。本ブログの内容は,ブログ名について,作品論,エッセイの3項目から構成されています。作品論とエッセイにあるカテゴリー名末尾の括弧内の数字は各カテゴリーの記事数を表します。例えば,「やまなし(41)」は童話『やまなし』に関して41つの記事があることを表しています。各カテゴリー名をクリックすると記事名が表記され,さらに記事名をクリックすると本文を読むことができます。『銀河鉄道の夜』に関しては記事数が多いので「銀河鉄道の夜(総集編) (5)」を最初に読んでいただければと思います。

 

1.ブログ名について

橄欖の森とは

 

2.作品論

小岩井農場(5)

敗れし少年の歌へる(7)

芥川龍之介(13)

業の花びら(21)

蠕虫舞手(5)

二十六夜(3)

サガレンと八月(2)

四又の百合(4)

ガドルフの百合(6)

土神ときつね(6)

氷河鼠の毛皮(4)

シグナルとシグナレス(3)

ビヂテリアン大祭 (1)

やまなし (41)

若い木霊 (8)

水仙月の四日 (1)

どんぐりと山猫 (2)

春と修羅 (20)

風野又三郎 (1)

十力の金剛石 (2)

花壇工作 (1)

鹿踊りのはじまり (1)

北守将軍と三人兄弟の医者 (1)

毒もみの好きな署長さん (1)

マグノリアの木 (1)

銀河鉄道の夜(目次) (1)

銀河鉄道の夜(種々) (7)

銀河鉄道の夜(心理と出自)(5)

銀河鉄道の夜(三角標) (11)

銀河鉄道の夜(宗教) (6)

銀河鉄道の夜(リンゴ) (7)

銀河鉄道の夜(発想の原点) (12)

銀河鉄道の夜(総集編) (5)

ひのきとひなげし (1)

なめとこ山の熊 (1)

烏の北斗七星 (6)

よく利く薬とえらい薬 (4)

 

3.エッセイ

宮沢賢治の性格(24) 

賢治と化学(1)

宮沢賢治の母(3)

鬼滅の刃(2)

烏瓜のあかり (3)

賢治作品に登場する謎の植物 (5)

希少植物 (1)

湘南四季の花 (4)

 

 

詩集『春と修羅 第一集』の詩「休息」で賢治はどこへ出かけたのか

 

詩「休息」の日付は大正11年(1922)5月14日となっている。この日は日曜日である。賢治はこの日,恋人とどこかへ出かけたようである。本ブログでは何処へ出かけたのか推測してみたい。

 

詩の全文は以下のようなものである。

そのきらびやかな空間の/上部にはきんぽうげが咲き/(上等の butter-cup(バツタカツプ)ですが/牛酪(バター)よりは硫黄と蜜とです)/下にはつめくさや芹がある/ぶりき細工のとんぼが飛び/雨はぱちぱち鳴つてゐる/(よしきりはなく なく/それにぐみの木だつてあるのだ)/からだを草に投げだせば/雲には白いとこも黒いとこもあつて/みんなぎらぎら湧いてゐる/帽子をとつて投げつければ黒いきのこしやつぽ/ふんぞりかへればあたまはどての向ふに行く/あくびをすれば/そらにも悪魔がでて来てひかる/このかれくさはやはらかだ/もう極上のクツシヨンだ/雲はみんなむしられて/青ぞらは巨きな網の目になつた/それが底びかりする鉱物板だ/よしきりはひつきりなしにやり/ひでりはパチパチ降つてくる

                    (宮沢,1985)下線は引用者 以下同じ

 

中頃にある「よしきりはなく なく」から最終詩句である「ひでりはバチバチ降ってくる」までの詩句は2人の旅先での熱烈な愛の営みが詠われている。「雲はみんなむしられて/青ぞらは巨きな網の目になつた」は賢治が翼をつけて空に逃げ出そうとしても捕まえられるという意味だろう。

 

出かけた場所を示すヒントは,出だしの「そのきらびやかな空間の」から始まる7行の中に隠されているように思われる。

 

「きんぽうげ」はキンポウゲ科(学名: Ranunculus)の植物の一群,またはそのうちの代表種であるウマノアシガタ(Ranunculus japonicus Thunb.)の別名でバターカップとも呼ばれるものである。ウマノアシガタの草丈は30~70cmで,日当たりの良い山野や土手に生える。花の色はバターのように光沢のある黄色でカップ状である(第1図)。

 

第1図.ウマノアシガタ(大磯町丘陵地で撮影)

 

「つめくさ」はマメ科の「シロツメクサ」(Trifolium repens L.;ホワイトクローバー)で,茎は地をはい,30cmくらいの高さまでなる(第2図)。明治期にオランダからの献上の器物の間に詰め物として使用されていたのが,最初の持込である。その後に牧草,緑肥,緑化用として輸入されたものが定着・分布拡大したと考えられている。ちなみに,シロツメクサはpHが6から7.5の土壌で生育するので,東北の酸性不良土の黒ボク土では生育困難と思われる。東北でシロツメクサの群落があるとすれば石灰岩末などで土壌改良された牧場あるいは畑やその畦と思われる。

 

「芹」はセリ科の「セリ」(Oenanthe javanica (Blume) DC.)で水田の畔道や湿地などに生える。高さは20 - 80cm。

 

「硫黄」(元素記号S)はキンポウゲの花と同じに黄色いが温泉の匂いがイメージされている。ちなみに,硫黄は無臭なので温泉の匂いとは硫化水素(化学式H2S)の匂いである。

 

「密」とはシロツメクサの花から発散される蜂蜜の匂いであろう。

 

第2図.シロツメクサとミツバチ(大磯町で撮影)

 

童話『ポラーノの広場』(1927年以降)の二章「つめくさのあかり」に「「おや,つめくさのあかりがついたよ。」ファゼーロが叫びました。なるほど向うの黒い草むらのなかに小さな円いぼんぼりのような白いつめくさの花があっちにもこっちにもならび,そこらはむっとした蜂蜜のかおりでいっぱいでした。」,「そのときわたくしは一つの花のあかしから,も一つの花へ移って行く黒い小さな蜂を見ました。「ああ,蜂が,ごらん,さっきからぶんぶんふるえているのは,月が出たので蜂が働きだしたのだよ。ごらん,もう野原いっぱい蜂がいるんだ。」」とある。

 

つまり,2人で出かけた場所はきらびやかな空間であり,硫黄(硫化水素)と蜂密の匂いが漂う賑やかな温泉街と思われる。その空間にはキンポウゲの咲く山あるいは丘陵地が見え周囲にはシロツメクサの群落がある牧場や養蜂場とセリが自生する川があるということになる。「ぶりき細工のとんぼ」は温泉街で売られているブリキ細工のオモチャかもしれない。

 

前述したように5月14日は日曜日である。詩「休息」と同じ日付の詩「習作」は賢治と恋人について記載されていた(前ブログ,2025)。多分,詩「休息」は2人で温泉に出かけたときのスケッチであろう。

 

詩「休息」は未定稿文語詩「〔なべてはしけく よそほひて〕」に対応するかもしれない。

 

なべてはしけく よそほひて/暁惑ふ 改札を/ならび出づると ふりかへる/人なきホーム 陸の橋/歳に一夜の 旅了へし/をとめうなゐの ひとむれに/黒きけむりを そら高く/職場は待てり 春の雨    (宮沢,1985)

 

澤口たまみ(2010)は,この文語詩をとりあげて賢治が大正11年(1922)の春に恋人と「一夜の旅」をしていると推測している。もしも詩「休息」とこの文語詩が対応しているとすれば,「〔なべてはしけく よそほひて〕」をスケッチしたのは5月15日(月)の朝の花巻駅と思われる。

 

この文語詩の先駆形は,

「フェルトの草履 美しくして/なべての指は 荒みたり/さもいたいけの をみなごの/オペラバックを 振れるあり/暁惑ふ 改札を/ならび過ぐると おのおのに/人なきホーム 陸の橋/まなこさびしく ふりかえる」(宮沢,1985)。

 

「なべてはしけく よそほひて」の意味は,澤口によれば「偶然に乗り合わせたように装って」だとしている。つまり,2人はオペラバックも愛らしい女性と,朝,偶然に乗り合わせたように装って,同じ汽車(あるいは電車)で帰ってきたといっている。当時,未婚の男女が肩を並べて歩いているだけで眉をひそめられてしまう時代であった(澤口,2010)。

 

では,賢治と恋人は5月14日(日)にどこの温泉地へ出かけたのであろうか。

逢瀬の候補の一つとして,

賢治研究家の米地文夫(2019)は,二人の逢瀬の場所として青森県の陸奥湾に面した浅虫温泉を候補にあげている。米地はこの時の逢瀬を振り返って詠んだ詩として詩集『春と修羅 第二集』のアイルランド風というメモ書きのある「島祠」(1924.5.23)をあげている。この詩には,「うす日の底の三稜島は/樹でいっぱいに飾られる・・・・鷗の声もなかばは暗む/そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき/鱗をつけたやさしい妻と/かつてあすこにわたしは居た」(宮沢,1985)とある。「前世」では海の底で「人魚」(妖精;Nymph)を妻としていたかもしれないという切ない恋歌である。

 

この詩は賢治が生徒をつれて北海道へ修学旅行をした帰りに,浅虫温泉のすぐ沖に浮かぶ,「湯の島」(標高132m)を描いたものである。なお,詩「島祠」の下書稿では「三稜島」は「三角島」となっていた。島の形が「三角形」に見えたのだろう。

 

今でも,浅虫温泉から見える湯ノ島には弁財天を祀る祠がある。「島祠」を書いた日付は恋人が渡米する3週間前である。恋人を「妖精」の「人魚」に喩えたのは,文語詩・先駆形の「なべての指は 荒みたり」と同じで,恋人が蕎麦屋を営む実家の手伝いをしていて手が魚の鱗のように荒れていたからだと思われる。

 

ただ,当時,浅虫温泉は花巻から東北本線を使っても片道7時間以上(?)かかったと思われる。なぜなら,1924年5月23日の修学旅行の行程が,浜垣の調査によれば「午前4時20分に船は青森港着。6時15分青森発の列車に乗り,車中で陸奥湾の湯の島を見つつ,「島祠」をスケッチ。13時49分に花巻に着いた」(浜垣,2025)ということになっているから。だから,そんな遠い温泉地に「一夜の旅」として出かけるだろうかと言う疑問も残る。また,浅虫温泉は硫黄泉ではない。

 

近場なら小岩井農場周辺の温泉地が候補になる。硫黄泉もあり,小岩井農場には蜂蜜の匂いがする「シロツメクサ」の群生が見られると思われるからである。賢治は嗅覚が異常に過敏である(前ブログ,2025)。

 

詩「小岩井農場」(1922.5.21)パート七に「少しばかり青いつめくさの交つた/かれくさと雨の雫との上に/菩提樹(まだ)皮の厚いけらをかぶつて/さつきの娘たちがねむつてゐる」(宮沢,1985)とあり,パート三では「蜂凾の白ペンキ」の記載もある。つまり,当時,養蜂家が小岩井農場あるいはその近辺では「シロツメクサ」を蜜源として蜂蜜を採取していた。それを裏付けるものとして,藤原養蜂場は明治時代から雫石町の隣の盛岡市内で養蜂を始め,大正時代からは早池峰山麓を本拠地として盛岡市内及びその周辺に数ヵ所支場を持っていた。その一つに小岩井転地支場もあったという(藤原養蜂場HP,2025)。小岩井農場の南の雫石川,その支流域には繋温泉や鶯宿温泉などの硫黄泉の旅館もたくさんある。また,小岩井農場の北西には網張温泉が,南西には賢治がよく訪れたという「七つ森」(見立森316m,三角森299m,勘十郎森317m,稗糠森249m,鉢森342m,石倉森301m,生森348m)という小高い丘陵が連なる。また,「七つ森」の西北には標高1418mの「三角山」がある。

 

この「七つ森」を詠ったものに詩「第四梯形」(1923,9,30)がある。

青い抱擁衝動や/明るい雨の中のみたされない唇が/きれいにそらに溶けてゆく/日本の九月の気圏です/そらは霜の織物をつくり/萓(かや)の穂の満潮(まんてふ)/(三角山(さんかくやま)はひかりにかすれ)・・・・縮れて雲はぎらぎら光り/とんぼは萓の花のやうに飛んでゐる/(萓の穂は満潮/萓の穂は満潮)/一本さびしく赤く燃える栗の木から/七つ森の第四伯林青(べるりんせい)スロープは/やまなしの匂の雲に起伏し/すこし日射しのくらむひまに/そらのバリカンがそれを刈る

 

下線部内の「くらむ」は「目が眩む」と「暗む」の2つの意味がある。私はこの詩の創作時期が賢治と恋人の恋の破局の時期と重なることから,「やまなし」を恋人,「くらむ」を「暗む」と解釈して,この詩には失意の底にある恋人が表現されていると考えた。なぜなら,この詩の冒頭にあるように,賢治は近親者たちの反対に遭ったとき,「個人」の幸せ(青い抱擁衝動)を「みんな」の幸せ(きれいなそら)の中に溶かし込んでしまったからである(性衝動の昇華)。あやしい空のバリカンは「やまなし」(恋人)までも刈ってしまったのであろう。

 

つまり,小岩井農場周辺の温泉地は恋人との思い出の地なのかもしれない。

 

また,岩手県雫石あたりは遠いむかし深い海の底でもあった。雫石町の坂本川流域の新生代新第三紀中新世(2400万年前~510万年前)の地層からは,深海魚の化石が多数発見されている(岩手県立博物館,2020)。これは,詩「島祠」(1924.5.23)にある「鷗の声もなかばは暗む/そこが島でもなかったとき/そこが陸でもなかったとき」,つまり深い海の底であったとき「鱗をつけたやさしい妻と/かつてあすこにわたしは居た」を彷彿させるものである。賢治も大正5年(1916)夏に盛岡周辺の土性調査を行なっているのでそのことを知っていた可能性がある。もしかしたら,詩「島祠」は賢治が修学旅行の帰りに陸奥湾の「湯ノ島」(三角島)を見て詠ったものだが,賢治は三角形をした「湯ノ島」を見て過去の恋人と出かけた温泉地から見える「七つ森」の「三角森」や背後の「三角山」を思い出したのではないだろうか。

 

参考・引用文献

浜垣誠司.2025(調べた年).修学旅行詩群.https://ihatov.cc/series/shugaku.htm

岩手県立博物館HP.2020.化石の水族館.岩手県立博物館だより No164.https://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/museum/tayori/data/164.pdf

藤原養蜂場HP.2025(調べた日付).藤原養蜂場の歴史.https://fujiwara-yoho.co.jp/about-us/history/

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

米地文夫.2019.宮沢賢治が描いた架空の島「山稜島」の手書き地形図.総合政策 20:1-11.

澤口たまみ.2010.宮澤賢治 愛の歌.盛岡出版コミュニティー.

前ブログ,2025.賢治の感覚過敏,特にバラ科の植物の「匂い」に敏感.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2025/06/15/091852

 

お礼 ユキノカケラさん いつも本ブログ読んでいただきありがとうございます。2025.12.10

 

詩「習作」の「とらよとすれば・・・ことりはそらへとんで行く」が意味するもの

 

詩集『春と修羅 第一集』の詩「習作」(1922.5.14)は以下のようなものである。

 

キンキン光る

西班尼(すぱにあ)製です

(つめくさ つめくさ)

こんな舶来の草地でなら

黒砂糖のやうな甘つたるい声で唄つてもいい

と┃ また鞭をもち赤い上着を着てもいい

ら┃ ふくふくしてあたたかだ

よ┃ 野ばらが咲いてゐる 白い花

と┃ 秋には熟したいちごにもなり

す┃ 硝子のやうな実にもなる野ばらの花だ

れ┃  立ちどまりたいが立ちどまらない

ば┃ とにかく花が白くて足なが蜂のかたちなのだ

そ┃ みきは黒くて黒檀(こくたん)まがひ

の┃  (あたまの奥のキンキン光つて痛いもや)

手┃ このやぶはずゐぶんよく据えつけられてゐると

か┃ かんがへたのはすぐこの上だ

ら┃ じつさい岩のやうに

こ┃ 船のやうに

と┃ 据えつけられてゐたのだから

り┃ ……仕方ない

は┃ ほうこの麦の間に何を播いたんだ

そ┃ すぎなだ

ら┃ すぎなを麦の間作ですか

へ┃ 柘植(つげ)さんが

と┃ ひやかしに云つてゐるやうな

ん┃ そんな口調(くちやう)がちやんとひとり

で┃ 私の中に棲んでゐる

行┃ 和賀(わが)の混(こ)んだ松並木のときだつて

く┃ さうだ

 

この詩の頭(左側)にある「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」は,北原白秋作詞,中山晋平作曲の「恋の鳥」という歌の一部で,1919年の元日から東京の有楽座で公演された歌劇「カルメン」の劇中歌として,カルメン役の松井須磨子によって歌われたものである(原,1999)。

 

「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」は,舞台がスペイン(西班尼)である歌劇「カルメン」のカルメンを「ことり」になぞらえたものと思われるが,詩「習作」において「ことり」は賢治自身と思われる。つまり,恋人が賢治(=ことり)を捕らえようとすると,賢治は理想を求めて空へ飛んで行ってしまうということであろう。恋人が恋に積極的になると賢治は引いてしまうのだと思われる。なぜ,賢治は引いてしまうのか。

 

引いてしまう理由として考えられるのは自閉スペクトラム症(ASD)的な資質をもつ賢治の「こだわり」である。

 

そのことが詩の最後の詩句「柘植さんが/ひやかしに云つてゐるやうな/そんな口調がちやんとひとり/私の中に棲んでゐる/和賀の混んだ松並木のときだつて/さうだ」に現れている。

 

これは「冬のスケッチ」(1921年冬以降~翌年初め)の八葉にある「ここの並木の松の木は/あんまり混み過ぎますよ/あんまり枝がこみあって/せっかくの尾根の雪も/また,そら,あの山肌の銅粉も/なにもかもさっぱり見えないぢゃありませんか。/すこし間伐したらどうです。」に対応する。この詩は,和賀仙人の鉱山や湯田村へ通じる馬車鉄道と道路が併存する並木の景観を詠んだものとされている(三浦,2010)。賢治は,客車の窓からの眺望が妨げられるとクレームをつけている。 

 

なぜ,賢治は和賀の混んだ松並木にクレームをつけたのか。それは,賢治が景観に強い「こだわり」を持っているからだ。

 

賢治が北海道に生徒を連れて旅行したときの「修学旅行復命書」(1924)の中に「郷土古き陸奥の景象の如何に複雑に理解に難きや,暗くして深き赤松の並木と林,樹神を祀れる多くの古杉,楊柳と赤楊との群落,大なる藁屋根檜の垣根,その配合余りに暗くして錯綜せり。而して之を救ふもの僅 に各戸白樺の数幹,正形の独乙唐檜,閃めくやまならし 赤き鬼芥子の一群等にて足れり。」(宮沢,1985 下線は引用者 以下同じ)とある。

すなわち,郷土の「赤松の並木と林」や「樹神を祀る多くの古杉」を暗いと嘆き,景観の中にオニゲシなどの花卉や明るい樹肌と幹が直立するシラカバ,ヤマナラシ,およびシンプルな円錐形の樹形をもつドイツトウヒなどの樹木を取り入れることを主張している。賢治は,農業の実践の場でもある郷土の風景を西洋風の北海道的風景に変えようとしている。これは,賢治の景観に対する強い「こだわり」である。

 

賢治は詩「習作」で柘植さんの冷やかしの一例として「ほうこの麦の間に何を播いたんだ/すぎなだ/すぎなを麦の間作ですか」というのを紹介していた。つまり,手入れの悪い麦畑を皮肉っている。しかし,賢治の和賀の混んだ「松林」に対する「クレーム」は柘植さんが言う「ひやかし」とは異なる。柘植さんの「ひやかし」には皮肉つまり「悪意」が込められているが,賢治の「クレーム」には「悪意」は感じられない。賢治の「意識」の中に「棲んで」いるのは「ひやかし」ではなく悪意のないASDの人に特徴的な強い「こだわり」に基づく「クレーム」である。

 

以前,ASDの人は「こだわり」が強く,相手の顔の表情などから感情を読み取ることが苦手で,自分の思っていることをストレートに言ってしまうことがあるので,悪意がないにもかかわらず相手を怒らせてしまうことがある。ということを述べたことがある(前ブログ,2025a)。相手を冷やかしているのではない。

 

では,賢治を結婚から引かせてしまう「こだわり」とそれを後押しするものとは何か。

最初に,賢治と恋人に共通した「こだわり」について述べてみる。

2人に共通した「こだわり」は西洋文化を積極的に取り入れたいというものである。西洋文化に憧れ,古い封建制が色濃く残る土地から一刻も早く抜け出したい恋人が賢治を好いた理由の1つとも思われる。

 

だから,賢治は詩「習作」の冒頭で歌劇「カルメン」の中で歌われる「恋歌」になぞらえて「キンキン光る/西班尼(すぱにあ)製です/(つめくさ つめくさ)/こんな舶来の草地でなら/黒砂糖のやうな甘つたるい声で唄つてもいい」と詠ったのだ。賢治は農学校に教諭として就職した後,藤原嘉藤治と一緒にレコード鑑賞会を開催した。賢治は,そこで西洋の音楽を紹介した。多分,洋服を着て西洋文学や西洋文化について語ったのであろう。恋人はこのレコード鑑賞会に参加していてそのような賢治に好意をよせるようになったと思われる。そして,相思相愛の恋に落ちる。

 

しかし,賢治にはこれ以外にたくさんの強い「こだわり」があった。これらは,恋人との間に大きな溝を生じさせるものである。

 

1)結婚生活

賢治には理想的な妻というのがある。

昭和2年(1928)6月ごろ,賢治は結婚相手としての理想の女性像について親友の藤原嘉藤治に,「それは新鮮な野の食卓にだな,露のように降りてきて,挨拶を取り交わし,一椀の給仕をしてくれ,すっと消え去り,また翌朝やってくるといった女性なら,僕は結婚してもいいな。時には,おれのセロの調子はずれを直してくれたり,童話や詩を聞いてくれたり,レコードの全楽章を辛抱強くかけてくれたりすんなら申し分ない」(板谷,1992)と話したという。下線部はまるで家政婦のような女性である。賢治は,西洋文化を積極的に取り入れようとしたが,父と母の影響と思われるが,生活様式は古風で封建制を嫌ってはいなかった。宮沢家は家長でもある父・政次郎の権力が絶大で母・イチはそれに従っていた。そして,賢治はそれを見て育った。

 

一方,これは憶測だが,恋人はそのような教育は受けていなかったと思われる。『春と修羅 第二集』の詩「〔はつれて軋る手袋と〕」(1925.4.2)にそれをうかがわせる話が登場する。この詩には「かういふひそかな空気の沼を/板やわづかの漆喰から/正方体にこしらえあげて/ふたりだまって座ったり/うすい緑茶をのんだりする/どうしてさういふやさしいことを/卑(いや)しむこともなかったのだ/……眼に象って/かなしいあの眼に象って……あらゆる好意や戒(いまし)めを/それが安易であるばかりに/ことさらあざけり払つたあと/ここに蒼々うまれるものは/不信な群への憤りと/病ひに移化する疲ればかり」(宮沢,1985)と書かれてある。つまり,恋人は妻が夫に従属するのではなく,夫と妻は平等だと主張している。しかし,賢治は正方形の小さな家の中で「ふたりだまって座ったり/うすい緑茶をのんだりする」,つまり夫と妻は平等とする生活に憧れている恋人の願いに対して「卑しむ」ようなことをしてしまったと言っている。「卑しむ」とは見下すことである。

 

「戒め」には「あやまちのないように,前もってする注意」するという意味だが,「自由がきかないように,縛ったり閉じ込めたりする」という意味もある。つまり,恋人ははっきりと自分の意見が言える女性だったと思われる。

 

詩「小岩井農場」(1922.5.21)のパート四に「いま日を横ぎる黒雲は/侏羅や白堊のまつくらな森林のなか・・・いまこそおれはさびしくない/たつたひとりで生きて行く/こんなきままなたましひと/たれがいつしよに行けやうか」というのがある。この詩句の「きままなたましひ」の持ち主は恋人だと思われる。「きまま」とは「わがまま」という意味もあるが,自分の気持ちに従い,自由に振る舞うことである。この恋人の性格は恋人の母の影響と思われる。恋人の母は仙台藩の客分であったある高級武士の娘(姫君)である(佐藤,1984)。ただ,仙台藩は戊辰戦争で明治新政府軍に敗れ没落していた。そんな状況下でも,恋人の母が蕎麦屋を稼業にする夫に従順であったとは思えない。また,結婚に強く反対したのは恋人の母だったという。

 

お金の使い方も賢治と恋人ではまったく異なる。

賢治はあるだけみんな使ってしまうが,恋人は持っているお金を逆に増やそうとする。

 

『詩ノート』の 「〔わたくしどもは〕」(1927.6.1)には,「わたくしどもは/ちゃうど一年いっしょに暮しました/その女はやさしく蒼白く/その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした/いっしょになったその夏のある朝/わたくしは町はづれの橋で/村の娘が持って来た花があまり美しかったので/二十銭だけ買ってうちに帰りましたら/妻は空いてゐた金魚の壼にさして/店へ並べて居りました/夕方帰って来ましたら/妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑ひやうをしました/見ると食卓にはいろいろな菓物や/白い洋皿などまで並べてありますので/どうしたのかとたづねましたら/あの花が今日ひるの間にちゃうど二円に売れたといふのです」(宮沢,1985)と記載されている。

 

賢治は自由に自己主張する恋人について行けないところがあったような気がする。つまり引いてしまう。

 

2)「法華経」を基にして「みんなを幸い」にするということ

これが賢治の最も強い「こだわり」である。

詩「習作」にある「野ばらが咲いてゐる 白い花/秋には熟したいちごにもなり/硝子のやうな実にもなる野ばらの花だ」の「ばらの実」は「法華経」の暗喩である。なぜ「ばらの実」が「法華経」なのかについては前ブログ(1921,2025b)で詳しく説明した。

「花が白くて足なが蜂のかたちなのだ/みきは黒くて黒檀まがひ」の「花が白くて足なが蜂のかたち」(第1図)は菩薩が頸に掛ける「瓔珞」(第2図)のイメージである。また,黒檀は仏壇などの仏具に使われる高級素材である。黒檀で作られた観音菩薩像もある。

 

第1図.モミジイチゴの花(A)とアシナガバチ(B).Aは公益財団法人船橋市公園協会の樹木図鑑より,Bは山梨県HPより.

 

第2図.瓔珞.写真は『新宮澤賢治語彙辞典』より.

 

詩「習作」にある「立ちどまりたいが立ちどまらない」「(あたまの奥のキンキン光つて痛いもや)」とは,恋に夢中になっている賢治が「法華経」の修行に「立ちどまりたいが立ちどまらない」を考えてしまうと「(あたまの奥のキンキン光つて痛いもや)」になってしまうということである。つまり,修行を怠ると罰なのかもしれないが,頭が痛くなるというのだ。

 

次に「このやぶはずゐぶんよく据えつけられてゐると/かんがへたのはすぐこの上だ/じつさい岩のやうに/船のやうに/据えつけられてゐたのだから……仕方ない」とある。

 

この詩句には頭が痛くなる理由が書かれてある。

 

その理由とは,「このやぶ」(=法華経の教え)が頭の中に岩のように,あるいは錨を下ろした船のようにしっかりと固定されているからだ。

 

恋人が2人だけの時間を多く取るように要求すれば賢治の「法華経」の修行に費やせる時間は少なくなる。つまり,賢治は「法華経」を基に「みんなを幸い」にするということに対して強い「こだわり」を持っているので,恋人が自分の考えを強く主張すると,賢治は自分の理想を求めて離れて行ってしまうということになる。つまり,とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く。

 

これも,柘植さんのような「冷やかし」で言っているのではない。賢治の強い「こだわり」や「白黒思考」がそう言わせているのだと思われる。

 

参考・引用文献

板谷栄城.1992.素顔の宮澤賢治.平凡社.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

三浦 修.2010.宮沢賢治作品の「装景樹」と植生景観 : 「田園を平和にする」白樺,獨乙唐檜,やまならし.総合政策 .11 (2):127-149.

佐藤勝治.1984.宮沢賢治青春の秘唱「冬のスケッチ」研究.十字屋書店.

前ブログ.2021.植物から宮沢賢治の『よく利く薬とえらい薬』の謎を読み解く(1).https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/05/05/182423

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お礼 ユキノカケラさん いつも本ブログ読んでいただきありがとうございます。2025.12.4

詩「風景」と同じ日付のある詩「手簡」が意味するもの

 

詩集『春と修羅 第一集』の詩「風景」と同じ日付のある「『春と修羅』補遺」の詩「手簡」(1922.5.12)を解読する。詩「手簡」は以下のように6節から構成されている。

 

雨がぽしゃぽしゃ降ってゐます。/心象の明滅をきれぎれに降る透明な雨です。/ぬれるのはすぎなやすいば,/ひのきの髪は延び過ぎました

私の胸腔は暗くて熱く/もう醗酵をはじめたんぢゃないかと思ひます。

雨にぬれた緑のどてのこっちを/ゴム引きの青泥いろのマントが/ゆっくりゆっくり行くといふのは/実にこれはつらいことなのです。

あなたは今どこに居られますか。/早くも私の右のこの黄ばんだ陰の空間に/まっすぐに立ってゐられますか。/雨も一層すきとほって強くなりましたし。

誰か子供が噛んでゐるのではありませんか。/向ふではあの男が咽喉をぶつぶつ鳴らします。

いま私は廊下へ出やうと思ひます。/どうか十ぺんだけ一諸に往来して下さい。/その白びかりの巨きなすあし/あすこのつめたい板を/私と一諸にふんで下さい。

                    (宮沢,1985)下線は引用者 以下同じ

 

1.詩「手簡」の日付を検証する

詩「風景」では「雲はたよりないカルボン酸/さくらは咲いて日にひかり」とあるように殆ど雲のない青空を描いているようなものだったが,同じ日付の詩「手簡」では「雨がぽしゃぽしゃ降ってゐます」とある。2つの詩の天候を描写している詩句を比較すると2つの詩が同じ日にスケッチされたものとは思えなくなってくる。詩「手簡」の日付の日の天気を国立国会図書館に収められている「中央氣象臺月報」で調べた研究者がいる。その研究者によると大正11年(1922)5月12日の岩手県(水沢)は1日中雨雲で覆われていて降水量は15.6mmだったという(浜垣,1921)。つまり,詩「手簡」は風景スケッチ的には詩の内容とその日の天気は一致する。では詩「風景」はいつのスケッチだったのであろうか。

 

興味あることに,浜垣がブログに添付した5月の水沢の資料によると5月11日も1日中曇りであったが,5月10日の昼間と夜の雲量は0で1日の降水量も0となっている。すなわち,晴天である。これは,単なる憶測だが,2つの可能性が考えられる。1つは,詩「風景」が5月12日ではなく5月10日の日付のある詩「雲の信号」と同じ日の出来事ということである。詩「風景」が賢治と恋人の逢瀬を詠ったものであることは前ブログ(2025)で述べた。詩「雲の信号」の結びの詩句は「きつと四本杉には/今夜は雁もおりてくる」である。つまり,恋人(=杉)と賢治(=雁)は5月10日の夜に会っていたと思われるからである。ただ,その夜は気持が混乱していてその出来事をスケッチにとどめることができなかった。実際に心象スケッチしたのは2日後の5月12日だったというものである。

 

2つ目は,詩「風景」は自然描写ではなく心象スケッチなのでスケッチした日の天気は詩の内容と密接には関係しなくてもよいというものである。詩「雲の信号」でも日付が5月なのに「雁」が「四本杉」に降りてくる。「雁」はこの時期繁殖のため北へ渡って日本にはいない。つまり,詩「雲の信号」も単なる自然描写なのではない。

 

2.「ぬれるのはすぎなやすいば,/ひのきの髪は延び過ぎました」とは何か

「すぎな」はトクサ科「スギナ」(Equisetum arvense L.)の栄養茎である。地下茎をつくり繁殖力が強い。「すいば」はタデ科の多年草の「スイバ」のことである。両者とも畑地にも生える難防除雑草である。農家にとっては厄介者である。雨は農作物には恵みをもたらすが,ここでは,雨が厄介者の「すぎな」や「すいば」をぬらしているだけとなっている。「ひのき」はヒノキ科の針葉樹である「ヒノキ」(Chamaecyparis obtusa (Siebold et Zucc.) Endl.)のことである。童話『ひのきとひなげし』(初期形;1921年秋頃)で賢治は「ひのき」を気高い菩薩的なものとして扱っている。「ひのき」は悪魔に騙されそうになった「ひなげし」を助けるため,「波羅羯諦(はらぎゃあてい)」と叫んで悪魔を退散させる。「波羅羯諦」は「般若心経」の最後に出てくる呪文である。その意味は苦しい状況を脱して悟りの境地に行こうである。

 

若い「ひのき」の樹形は円錐形で先は尖っているが,老木になると頭頂部はへたってきて枝が横へのびることで全体が丸みを帯びてくる。賢治にとって「ひのきの髪は延び過ぎました」は,「ひのき」の悪魔を退散させる力が弱まったということを意味しているのかもしれない。あるいは,「般若心経」では悪魔(誘惑者)を退散できないと考えたのかもしれない。「法華経」が全能であることを確証できるものを欲している。

 

3.「私の胸腔は暗くて熱く/もう醗酵をはじめた」とは何か

「発酵」は無酸素で進行するので,酸素を取り入れることができなくなった状態である。つまり息詰まって閉塞感や絶望感を感じている。「私の胸腔は暗くて熱く/もう醗酵をはじめた」には,心の中に抱える罪悪感や苦しい感情が充満し,行き場のない状態が表現されている。賢治は日付が同じである詩「風景」で,ある女性と「法華経」の教えに背く行為をしたことを表白した(前ブログ,2025)。賢治はこの女性を修行を妨害する誘惑者と見做している。つまり,女性に近づいたこと,および女性を近づかせたことで罪の意識を感じたのだろう。罪に対する責任が雨に濡れたゴム引きのマントのように重く覆い被さってくる。

 

4.「透明な雨」と「黄ばんだ陰の空間」とは何であろうか 

「透明な雨」は何か神聖なものが出現してくる予兆のようなものである。多分,それは「黄ばんだ陰の空間」に現れる。

「黄ばんだ」と似ている表現として,童話『ひかりの素足』(1922年前半頃)「三,うすあかりの国」に,「地獄」と思われる所を「そこは黄色にぼやけて夜だか昼だか夕方かもわからずよもぎのやうなものがいっぱいに生えあちこちには黒いやぶらしいものがまるでいきもののやうにいきをしてゐるやうに思はれました。」,「そらが黄いろでぼんやりくらくていまにもそこから長い手が出て来さうでした。」(宮沢,1985)とあり,童話『銀河鉄道の夜』(1931)「六.銀河ステーション」に「次から次から,たくさんのきいろな底をもったりんどうの花のコップが,湧くやうに,雨のやうに,眼の前を通り・・・・」とあり,童話『北守将軍と三人兄弟の医者』(1933)に「三十年といふ黄いろなむかし」とある。

 

賢治は「地獄のような所」,「底」,セピア色になった「昔」を「黄いろ」あるいは「黄ばんだ」と表現しているように思える。

 

「黄ばんだ陰の空間」を私なりに解釈してみると,この場所は詩の主人公が現実にいる「陽のあたるところ」とは別の古めかしい「底」と実感した「異世界」的な空間ということになる。ただ,この空間が具体的にどのようなものかはこの詩からは解らない。しかし,詩「手簡」の9日後の日付がある詩「小岩井農場」(1922.5.21)でこの「異世界」的な空間が明らかになる。この詩のパート四でこの空間が「地質時代の林の底」につながる入り口であることが明かされる。

 

いま日を横ぎる黒雲は/侏羅(じゆら)や白堊のまつくらな森林のなか/爬虫(はちゆう)がけはしく歯を鳴らして飛ぶ/その氾濫の水けむりからのぼつたのだ/たれも見てゐないその地質時代の林の底を/水は濁つてどんどんながれた/いまこそおれはさびしくない/たつたひとりで生きて行く/こんなきままなたましひと/たれがいつしよに行けやうか

すきとほるものが一列わたくしのあとからくる/ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り/またほのぼのとかゞやいてわらふみんなすあしのこどもらだちらちら瓔珞(やうらく)もゆれてゐるし/めいめい遠くのうたのひとくさりづつ/緑金(ろくきん)寂静(じやくじやう)のほのほをたもち/これらはあるひは天の鼓手(こしゆ),緊那羅(きんなら)のこどもら

                         (宮沢,1985)

 

この「黄ばんだ陰の空間」である「爬虫がけはしく歯を鳴らして飛ぶ」「地質時代の林の底」には,賢治のあとをついてくる「ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り/またほのぼのとかゞやいてわらふみんなすあしのこどもら」がいる。

 

5.「ゴム引きの青泥いろのマント」とは何か

ゴム引きのマントは2枚の生地の間に天然ゴムを塗り,圧着・加熱して作られた防水性の高い生地で作られたマントのこと。防水性は高いが蒸れるのと水を吸収して重くなる。

 

6.「子供」と「あの男」とは誰か

賢治は詩「手簡」を心象スケッチしていたとき,賢治の意識は宗教者としての自分と科学者としての自分に解離していたと思われる。噛んでいる「子供」は宗教者としての「私の右のこの黄ばんだ陰の空間」に「白びかりの巨きなすあし」で立っていると感じる「あなた」である。そして,科学者としての自分,つまり「あの男」はそれを「咽喉をぶつぶつ鳴ら」しながら見つめている。何をぶつぶつ言っているのか推測してみたい。多分,おまえの右側に白光りする巨きなすあしの子供など存在するはずがない。そう感じるのはおまえの妄想にすぎない。と言っていると思われる。

 

7.「その白びかりの巨きなすあし」とは何か

これも,似た表現が詩「小岩井農場」(1922.5.21)パート九に出てくる。

 

たしかにわたくしの感官の外で/つめたい雨がそそいでゐる/(天の微光にさだめなく/うかべる石をわがふめば/おゝユリア しづくはいとど降りまさり/カシオペーアはめぐり行く)/ユリアがわたくしの左を行く/大きな紺いろの瞳をりんと張つて/ユリアがわたくしの左を行く/ペムペルがわたくしの右にゐる・・・・わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ/ユリア,ペムペル,わたくしの遠いともだちよ/わたくしはずゐぶんしばらくぶりで/きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た

                           (宮沢,1985)

 

賢治は,実際に詩「手簡」の日付から9日後の5月21日に岩手山の南山麓にある神聖な場所で「地質時代の林の底」にタイムスリップして,自分の左右に伴走する瓔珞を身につけた裸足の子供を幻視することになる。

 

私は,詩「小岩井農場」に出てくる「瓔珞をつけた素足の子」を〈観世音菩薩〉の化身だと思っている。パート四で賢治は「瓔珞をつけた素足の子」を「天の鼓手,緊那羅のこどもら」とも言っている。「法華経」の「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には,〈観世音菩薩〉(あらゆる方角に顔を向けたほとけ)はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞身」「梵王身」など,33の姿に変身すると説かれている。その中に「緊那羅 」もいる。つまり,賢治が幻想した「瓔珞をつけた素足の子」は〈観世音菩薩〉であろう。

 

宗教者としての賢治にとっては地質時代にも〈観世音菩薩〉は存在していた。童話『四又の百合』(1923)は,恐竜が跋扈する2億年前のある国の王がこの国を訪れる〈正徧知(しょうへんち)〉に「布施」と「四又の百合」を献上する物語である。〈正徧知〉とは仏教の開祖である〈釈迦〉のことである(前ブログ,2022)。

 

詩「手簡」のタイトルである「手簡」とは宗教者としての賢治が「私の右」に感じる現実世界とは異なる「黄ばんだ陰の空間」,つまり「地質時代の林の底」に向かって「南無観世音菩薩」と唱えることだと思われる。賢治は「法華経」の教えに背いたことと,ある女性と関係をもったことで「罪」の意識を感じ,異空間に存在する〈観世音菩薩〉に通信(手簡)を送り救済を求めたのだと思われる。

 

賢治は5月12日に自分の右側に「黄ばんだ陰の空間」と「子供」と「白びかりの巨きなすあし」の存在を感じているが,これは精神医学的には「解離性障害」と関係している。精神科の芝山雅俊によれば,「解離」の病態で見られる幻視にはしばしば子供が登場するという。また,自分のかたわらに誰かが見えるという幻覚は精神医学では同伴者幻覚と呼ばれるのだという(芝山,2007)。芝山の述べていることは,科学者としての賢治が宗教者としての賢治に言いたかったことでもある。ただ,賢治が生きていた時代には,自閉スペクトラム症を含む発達障害も解離性障害も知られていなかった。

 

参考・引用文献

浜垣誠司.2021.黄色の世界.https://ihatov.cc/blog/archives/2021/02/post_993.htm

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

芝山雅俊.2007.解離性障害-「後ろに誰かいる」の精神病理.筑摩書房.

前ブログ.2022.童話『四又の百合』に登場するまっ白な貝細工のやうな百合の十の花のついた茎(1)-それは自然界に存在するのか-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/10/22/123344

前ブログ.2025.『春と修羅 第一集』の詩「風景」にはどんな意味がこめられているのか.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2025/11/18/092946

『春と修羅 第一集』の詩「風景」にはどんな意味がこめられているのか

 

詩集『春と修羅 第一集』の5月12日の日付のついた詩「風景」(1922.5.12)を私なりの解読してみたい。

 

この詩は「風景」というタイトルが付いているが詩「雲の信号」の2日後でもあり賢治の恋歌である可能性が高い。つまり,詩「雲の信号」(前ブログ,2025)の続編である。

 

雲はたよりないカルボン酸/さくらは咲いて日にひかり/また風が来てくさを吹けば/截られたたらの木もふるふ/さつきはすなつちに廐肥(きうひ)をまぶし/(いま青ガラスの模型の底になつてゐる)/ひばりのダムダム弾(だん)がいきなりそらに飛びだせば/風は青い喪神をふき/黄金の草 ゆするゆする/雲はたよりないカルボン酸/さくらが日に光るのはゐなか風(ふう)だ   (宮沢,1985)下線は引用者 以下同じ

 

1.「雲」と「風」について

「雲」と「風」は詩「〔わが雲に関心し〕」で「わが雲に関心し/風に関心あるは/たゞに観念の故のみにはあらず/そは新なる人への力/はてしなき力の源なればなり」とあるように,人間の行動の原動力となる根源的なエネルギー,つまり,フロイト的にはリピドー(Libido;性的衝動)のようなものである。

 

2.「雲はたよりないカルボン酸/さくらは咲いて日にひかり」とは何か

「雲はたよりないカルボン酸」とは国際雲図帳では下層(L)の雲(C)が無い状態であり符号(記号)で表すとCL=0と表現する。同様に,中層(M)の雲(C)が無いのをCM=0とし上層(H)の雲(C)の無い状態をCH=0と表現する。前ブログ(2025)でも述べたが,CL=0,CM=0,CH=0の特にCH=0はカルボン酸(RC=OOH)の構造式に類似している。カルボン酸のカルボニル基(RC=0)はその構造式の形から男の「性」の高まりを象徴している(前ブログ,2025)。つまり,「雲はたよりないカルボン酸」とは風景スケッチ的には「青空」で太陽がさんさんと降り注いでいる状態のことであるが,心象スケッチ的には賢治の「愛欲」や「性欲」が高まっている状態のことを言っているように思える。賢治のリビドーは決して頼りないということはない。むしろ,高まっている。

 

また,カルボン酸(R1C=OOH)はアルコール(R2ÖH)と反応してエステル(R1C=OO R2)を生成する。カルボン酸のカルボニル基(C=O)は,酸素(O)の電気陰性度が高く分極しているため,求核攻撃を受けやすい特徴がある。この分極により,カルボニル炭素は求核剤(アルコールの酸素ような電子豊富な物質)の攻撃を受けやすくなる。

 

フィッシャーが1895年に酸触媒の存在下で,カルボン酸とアルコールを縮合させる反応を第1図のようにに示す。

 

第1図.カルボン酸(R1C=OOH)とアルコール(R2ÖH)の酸触媒下での反応

 

「さくらは咲いて日にひかり」とは風景スケッチ的には太陽の光を浴びて桜の花が光っているということだが,心象スケッチ的には賢治の「愛欲」の高まりに恋人も「一層強い欲情」で応えたということである。あるいは,恋人が賢治に激しく迫る。つまり,化学式を使って説明すると,カルボン酸(R1C=OOH)のカルボニル基(C=O)は「愛欲」が高まった賢治であり,その賢治を誘惑して捕まえようとしているのがアルコール(R2ÖH)の酸素(Ö)である恋人である。捕まえるとエステルという甘い匂いのする物質ができる。つまり,賢治は女性からの誘惑を受けやすい。

 

賢治は詩「小岩井農場」パート9で「宗教情操→恋愛→性欲」あるいはこの逆である「性欲→恋愛→宗教情操」の可逆的な命題は明確に物理学の法則に従うと言っている。上記説明文は「性欲」と「恋愛」あるいは「宗教情操」の関係を賢治に見習って物理と化学式で説明してみたものだ。賢治は神聖なものは「いい匂い」がすると言っている。

 

詩「峠の上で雨雲に云ふ」(1927.6.1)では「黒く淫らな雨雲(ニムブス)よ・・・おまへは却(かえ)ってわたくしを/地球の青いもりあがりに対して/一層強い慾情を約束し/風の城に誘惑しやうとする」(宮沢,1985)とある。雨雲(ニムブス)は誘惑者として振る舞う恋人のことであろう。「地球の青いもりあがり」とは「岩頸」であり「岩鐘」であり賢治の「カルボン酸」である。

 

「風の城に誘惑しやうとする」とは何であろう。「城」には王とその妃がいる。つまり,「風」(性的衝動)の一つの結末である「結婚」へと導こうとする。ということであろう。少なくとも賢治はそう理解している。

 

3.「また風が来てくさを吹けば/截られたたらの木もふるふ」とは何か

「ふるう」は勢いを盛んにするという「振るう」のことと思われる。「たらの木」はウコギ科の「タラノキ」(Aralia elata (Miq.) Seem.)のことである。草の葉の縁にある鋸歯はナイフにもなる。「タラノキ」の幹をナイフなどで傷つけると透明な樹液がでる。出てくる量も多いらしい(shinobi.jp.2012)。破局して半年以上たったあとの詩「過去情炎」(1923.10.15)にも「截られた根から青じろい樹液がにじみ/あたらしい腐植のにほひを嚊ぎながら/きらびやかな雨あがりの中にはたらけば/わたくしは移住の清教徒(ピユリタン)です」(宮沢,1985)とある。「截られる」には性的興奮時に分泌される液体がイメージされているように思える。

 

「わたくしは移住の清教徒(ピユリタン)です」とは,宮沢家の祖先が西(京都)から移住してきたということを意味している。一方,恋人は先住民の末裔と思われる。2人の出自の違いが反対された結婚に色濃く影響を及ぼしている(前ブログ.2022b)。

 

4.「さつきはすなつちに廐肥(きうひ)をまぶし」とは何か

厩肥に纏わるものとして〔青いけむりで唐黍を焼き〕(1926.8.27)という詩がある。農学校を退職して羅須地人協会を始めようとしていた頃である。その下書稿(二)には「たのしく豊かな朝餐な筈であるのに/こんなにもわたくしの落ち着かないのは/昨日馬車から崖のふもとに投げ出して/今日北上の岸まで運ぶ/廐肥(きゅうひ)のことが胸いっぱいにあるためだ/エナメルの雲 鳥の声/熱く苦しいその仕事が/一つの情事のやうでもある/……川もおそらく今日は暗い……」(宮沢,1985)とある。

 

この詩を基に創作された文語詩〔厩肥をになひていくそたび〕には「熱く苦しきその業に,遠き情事のおもひあり」と「情事」の記載がある。ある女性の影が見え隠れする。「廐肥」とは,厩(家畜を飼っておく小屋)の家畜などの糞尿と藁(わら)などを混ぜて腐らせ,堆肥にしたものである。この「厩肥」を運ぶ「熱く苦しいその仕事が/一つの情事のやうでもある(あるいは遠き情事のおもひ)」とするのは,農業経験もある賢治研究者によれば,情事そのものが「熱く苦しい」身を焼くようなものであり,また賢治が鼻を刺すような厩肥の強い臭いの中にわずかに混ざっているかもしれないスペルマの臭いを敏感に感じとっているからだという(前ブログ,2022a)。賢治は嗅覚がとても敏感である(前ブログ,2021)。

 

つまり,詩「風景」の「すなつちに廐肥をまぶし」も単純作業であるにも関わらず,リズム感もあり,呼吸も激しくなり,「熱く苦しいその仕事」でもあることから「一つの情事のやうでもある」と思われる。

 

5.「(いま青ガラスの模型の底になつてゐる)」とは何か

同じものを指しているかどうかわからないが,ガラスの模型は童話『銀河鉄道の夜』(第四次稿,1931)の第一章(午後の授業)に出てくる。学校の先生がジョバンニとカムパネルラに天の川銀河を「両面の凸レンズ」の形をしたガラスの模型を使って以下のように説明する。

 

先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸(とつ)レンズを指しました。「天の川の形はちゃうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光ってゐる星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見はわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄(うす)いのでわずかの光る粒即(すなわち)星しか見えないのでせう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので,光る粒即ち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるといふこれがつまり今日の銀河の説なのです」(宮沢,1985)。

 

多分,詩「風景」に出てくる「青ガラスの模型」とは「両面凸レンズ」の横断面の形をしたものだと思われる。女性を象徴するものであろう。そういえば,カルボン酸のカルボニル基(C=O)を攻撃(あるいは捕まえようと)する酸素の記号(O)もその形に似ている。 

 

もう一つ,レンズが登場するものを紹介する。詩「過去情炎」(1923.10.15)である。先に引用した詩句のあとに「雲はぐらぐらゆれて馳けるし/梨の葉にはいちいち精巧な葉脈があつて/短果枝には雫がレンズになり/そらや木やすべての景象ををさめてゐる/わたくしがここを環に堀つてしまふあひだ/その雫が落ちないことをねがふ/なぜならいまこのちいさなアカシヤをとつたあとで/わたくしは鄭重(ていちよう)にかがんでそれに唇をあてる」(宮沢,1985)とある。

 

「梨」は「やまなし」のことで恋人の名が隠されている。「滴がレンズ」とは滴が重力によって紡錘形になり,その断面が「両面凸レンズ」の横断面と同じ形になることを示している。つまり,上記したようにこの詩の水の「滴」もガラスの「両面凸レンズ」と同様に女性を象徴するものであろう。アカシヤを掘り起こした後にそれに唇を当てると言っている。「情炎」とは激しく燃え上がる欲情のこと。ただ,賢治は破局後半年以上経っているのに恋人のことが忘れられないようだ。つまり,後悔している。1922年12月に童話『やまなし』では短果枝に付いていた「やまなし」の果実は落下した。つまり,破局した。詩「過去情炎」では短果枝についた「雫が落ちないこと」を願っている。

 

5.「ひばりのダムダム弾がいきなりそらに飛びだせば」とは何か

ダムダム弾とは殺傷力を高めるため体内で留まるように工夫された鉄砲弾のことである。「ヒバリ」の雄は繁殖期に飛び出したあと雌に合図するため空中でホバリング(停空飛翔)する。ただ,詩の中で体内に留まったのは弾でもヒバリでもなくスペルマだろう。

 

6.「風は青い喪神をふき/黄金の草 ゆするゆする」とは何か

「風」はリピドー(性的衝動)で,「喪神」は放心状態のことである。放心状態になると草あるいは体が揺れるのであろう。

 

また,フロイト的な夢判断では女性を象徴するものを,その中が複雑な地形をしていることから森や岩や水のある「風景」として描写することが多い。詩「過去情炎」では「風景」を「景象」と記載している。つまり,詩「風景」のタイトルは男性を象徴する「雲の信号」(カルボン酸のカルボニル基)の対になるものである。

 

宗教学者の中沢新一がある対談で詩集『春と修羅』はエロチックな作品であるということを語っている。

 

僕は家の書棚にあった『春と修羅』をずいぶん小さいときに読んで,はっきり言って気持悪かったです。何が気持が悪かったか,それはそのときははっきりわからなかったのですけど,今になってはっきりわかります。その詩はエロチックすぎたのです。その詩全体に猥(みだ)らな感じを受けました。

僕がそんなふうに感じたのは,家がクリスチャンだったことに関係があると思います。クリスチャンは御存知のように表面的には禁欲を言います。だから,禁欲が強い意味をおびてくる。・・・・

僕はそのことを,叔母に話しました。彼女の本でしたから。そうしたら彼女は宮沢賢治の『春と修羅』は,性的な詩なんだから,そりゃそうさと言って,ますます僕を恥ずかしがらせる悪趣味を発揮しました(中沢,1998)。

 

賢治の詩「雲の信号」には「そのとき雲の信号は/もう青白い春の/禁慾のそら高く掲(かゝ)げられてゐた」とあった。

 

詩「雲の信号」と同様に詩「風景」の内容は,5月12日の眠っているときに見た夢のことを語っているのでないならば,簡潔に言えば「僕たちは愛し合ったんだ」ということを詠っている。簡単なことを難しい言葉で言うのは自閉スペクトラム症(ASD)の特性の一つである。ただ,賢治は愛し方が「田舎風」だと感じている。

 

参考・引用文献

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

中沢新一.1998.哲学の東北.幻冬舎.

Shinobi.jp.2012.広範囲に繁殖し始めた『トゲ無しタラの木』を撤去と,その後.https://surumekuu.blog.shinobi.jp/Entry/1294/

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前ブログ.2022a.賢治の文語詩「民間薬」(第2稿)-羆熊の皮は魔除けか-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2022/06/03/075750

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お礼 ユキノカケラさん いつも本ブログ読んでいただきありがとうございます。2025.11.19

童話『やまなし』に記載された「光の網」は何を意味するのか-クラムボンとの関係

 

童話『やまなし』(1923.4.8)は賢治が投影されている鉄いろに変に底びかりしている〈魚〉と川底にいる恋人が投影されている〈クラムボン〉の悲恋物語である(前ブログ,2021abc)。 

 

この童話の一章「五月」前半には,日が当たらない川底にいる〈クラムボン〉という生き物らしきものの名が繰り返し11回出てくる。しかし,「にはかにパッと明るく」なると消えてしまう。その代わりに登場するのが「光の網」である。

 

「光の網」は,風景描写としては,太陽の光が水面の波を通過して,水底に届くとできる集光模様(Caustic コースティクス)のことである(Wikipedia 第1図)。以下に示すように4回出てくる。

 

第1図.集光模様(Wikipedia).

 

にはかにパッと明るくなり,日光の黄金(きん)は夢のやうに水の中に降つて来ました。波から来る光の網が,底の白い磐(いは)の上で美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました。

 

そのお魚がまた上流(かみ)から戻つて来ました。今度はゆつくり落ちついて,ひれも尾も動かさずただ水にだけ流されながらお口を環(わ)のように円くしてやって来ました。その影は黒くしずかに底の光の網の上をすべりました。

 

『お魚は……。』その時です。俄(にはか)に天井に白い泡がたつて,青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾(だま)のやうなものが,いきなり飛込んで来ました。兄さんの蟹ははつきりとその青いもののさきがコンパスのやうに黒く尖(とが)つているのも見ました。と思ふうちに,魚の白い腹がぎらつと光つて一ぺんひるがえり,上の方へのぼつたやうでしたが,それつきりもう青いものも魚のかたちも見えず光の黄金(きん)の網ゆらゆらゆれ,泡はつぶつぶ流れました。

 

『こわいよ,お父さん。』弟の蟹も云ひました。光の網はゆらゆら,のびたりちぢんだり,花びらの影はしずかに砂をすべりました。

                 (宮沢,1985)下線は引用者

 

「光の網」が水の底にできた「集光模様」だとしても,なぜ賢治は4回も出したのであろうか。賢治が「光の網」を強調したのには何か意味があると思われる。では,何であろうか。

 

「光の網」は「底の白い磐の上で美しくゆらゆらのびたりちぢんだり」,「ゆらゆらゆれ」たりしているものである。

 

「ゆらゆら」揺れる「光」に「陽炎(かげろう)」という現象がある。

 

「陽炎(かげろう)」とは,局所的に密度の異なる大気が混ざり合うことで光が屈折し,起こる現象。よく晴れて日射が強く,かつ風があまり強くない日に,道路のアスファルト上,自動車の屋根部分の上などに立ち昇る,もやもやとしたゆらめきのこと(Wikipedia)。

 

多分,「光の網」は「陽光(かげろう)」と関係がある。

 

前ブログ(2021ab)で「クラムボン」はアイヌ語で「kut・岩崖, ra・低い所,un・にいる, bon・小さい」(kut ran bon)に分解できるので「石の下の小さな生き物」の意味であるということと,水底で跳ねるということで水生昆虫の幼虫である「カゲロウ(蜉蝣)」であろうと推測したことがある。

 

「光」が織りなす現象である「陽光(かげろう)」と水生昆虫の幼虫である「カゲロウ(蜉蝣)」は読みが同じだけでなく語源も同じである。

 

水生昆虫の「カゲロウ(蜉蝣)」の名の由来に,その成虫の飛ぶ姿が,「陽炎(かげろう)」のように「ゆらゆら」と見えることから名付けられたというのがある。

 

また,「カゲロウ(蜉蝣)」は不完全変態をするので英語で「Nymph(ニンフ)」と呼ばれている。「Nymph(ニンフ)」には山や川に住む「妖精」という意味もある。

 

「詩ノート」の「〔エレキや鳥がばしゃばしゃ翔べば〕」(1927.5.14)には,「枯れた巨きな一本杉が /もう専門の避雷針とも見られるかたち/・・・けふもまだ熱はさがらず/Nymph,Nymbus,,Nymphaea ・・・ 」(宮沢,1986)(NymbusはNimbusの誤記?)とある。この詩を書いたのは,恋人がシカゴで亡くなってから1か月後である。「枯れた杉」は,亡くなった背の高い恋人のことを言っていると思われる。賢治は,また恋人をNymph,Nimbus,Nymphaeaと形容している。Nymphは「カゲロウ」の幼虫(ニンフ)と同じ英語名で,Nimbus(ニムブス)は雨雲(乱層雲)で,Nymphaea(ニンフェア)はスイレン属の植物のことである。

 

つまり,日の当たらない川底の恋人が投影されている「カゲロウ(蜉蝣)」の幼虫「ニンフ」は「妖精」でもあったが,光が当たったとたんに「光の網」に変幻したのだ。なぜ,「光の網」に変幻したのか。それは賢治が投影されている「魚」を捕まえるためだと思われる。「光の網」とは魚をを捕まえるための「魚網」(fishing net)がイメージされている。 

 

そのことを裏付ける詩がある。

 

詩「〔エレキや鳥がばしゃばしゃ翔べば〕」の2週間後の詩「峠の上で雨雲に云ふ」(1927.6.1)では「黒く淫らな雨雲(ニムブス)よ・・・おまへは却(かえ)ってわたくしを/地球の青いもりあがりに対して/一層強い慾情を約束し/風の城に誘惑しやうとする・・・おまへがいろいろのみだらなひかりとかたちとであらゆる変幻と出没とを示すこと/おまへの影が巨きな網をつくって/一様にひわいろなるべき山地を覆ひ・・・みだらな触手をわたくしにのばし/のばらとつかず胸ときめかすあやしい香気を風に送って・・・わたくしをとらうと迫るのであるか」とある。

 

「雲」や「風」は詩「〔わが雲に関心し〕」で「わが雲に関心し/風に関心あるは/たゞに観念の故のみにはあらず/そは新なる人への力/はてしなき力の源なればなり」とあるように,人間の行動の原動力となる根源的なエネルギー,つまり,フロイト的にはリピドー(Libido;性的衝動)のようなものであった。賢治は「雨雲」に対して官能的なイメージを実感している。性欲を抑制したがる賢治にとって「雨雲」は誘惑者であり邪気を含んだものでもあった(原,1999)。

 

詩「峠の上で雨雲に云ふ」と同じ日付がつくものに「〔わたくしどもは〕」(1927.6.1)という詩がある。

 

「わたくしどもは/ちゃうど一年いっしょに暮しました/その女はやさしく蒼白く/その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした・・・」とある。

 

つまり,詩「峠の上で雨雲に云ふ」の「おまへ」は1年間恋愛関係にあり,結婚の話しまで出ていた大畠ヤスである。ヤスは1927年4月13日にシカゴで亡くなっている。恋人(大畠ヤス)は「ひかりとかたちとで/あらゆる変幻と出没」(杉,雨雲,月,クラムボン)とを示し,「巨きな網」(光の網)をつくって,「わたくし(賢治)をとらうと迫る」のである。

 

上記に引用したもの以外に詩「南からまた東から」(1927.4.2)では「南から/また東から/ぬるんだ風が吹いてきて/くるほしく春を妊んだ黒雲が/いくつもの野ばらの藪を渉って行く・・・・」,詩〔春の雲に関するあいまいな議論〕(1927.4.5)では「・・・あのどんよりと暗いもの/温んだ水の懸垂体/あれこそ恋愛そのものなのだ/炭酸瓦斯の交流や/いかさまな春の感応/あれこそ恋愛そのものなのだ・・・」,詩〔その恐ろしい黒雲が〕(1929?)には「その恐ろしい黒雲が/またわたくしをとらうと来れば/わたくしは切なく熱くひとりもだえる/北上の河谷を覆ふ/あの雨雲と婚すると云ひ・・・」などがある。 

 

「地球の青いもりあがり」は「雲の信号」であるカルボニル基を有するカルボン酸であり「岩頸」,「岩礁」である。賢治の「性」の高まりを象徴するものである。

 

童話『やまなし』の一章五月では賢治が投影されている〈魚〉は「性」の高まりで「婚姻色」である「鉄いろに変に底びかり」している。婚約指輪のつもりか「口を環のように円く」もしている。恋人が投影されている〈クラムボン〉は,それに対して「一層強い欲情」で応えようとしている。多分,駆け落ちしてでも一緒になりたい気持で結婚を迫ったと思われる。そのためには「光の網」になってでも〈魚〉である賢治を捕獲しようとする。しかし,それを上空の木の枝から監視していたものがいた。先住民の神の化身でもある〈かはせみ〉だ。〈魚〉と〈クラムボン〉の恋は「さきがコンパスのやうに黒く尖つている〈かはせみ〉によって引き裂かれた。

 

参考・引用文献

原 子郎.1999.新宮澤賢治語彙辞典.東京書籍. 

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

佐藤勝治.1984.宮沢賢治青春の秘唱「冬のスケッチ」研究.十字屋書店.

前ブログ.2021a.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(1)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/08/095756

前ブログ.2021b.宮沢賢治の『やまなし』-登場する植物が暗示する隠された悲恋物語(2)-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/09/101746

前ブログ.2021c.童話『やまなし』は魚とクラムボンの悲恋物語である.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/09/20/090540

 

お礼 ユキノカケラさん いつも本ブログ読んでいただきありがとうございます。2025.11.14

詩「雲の信号」の「今夜は雁もおりてくる」とは何を意味しているのか

 

本稿では詩集『春と修羅』の「雲の信号」(1922.5.10)の結びの詩句「きつと四本杉には/今夜は雁もおりてくる」を解読してみたい。

 

まず「雁」についてだが,

「雁」は,カモ科ガン亜科の水鳥のうち,カモより大きくハクチョウより小さい一群の総称である。日本にはマガン,カリガネ,ヒシクイなどが生息し,北海道宮島沼や宮城県伊豆沼などに冬鳥として飛来するという(Wikipedia)。渡り鳥である雁は秋に渡ってきて春に北に帰る。「雁帰る」は春の季語。

 

ただ,詩を風景描写として「雁」を鳥の「ガン」だとするといくつか矛盾が出てくる。

 

詩「雲の信号」が5月に書かれたとすると「きつと四本杉には/今夜は雁もおりてくる」という詩句は季節的にはおかしなものになる。5月に日本に「ガン」はいないからだ。また,鳥の専門家によれば「ガン」は「木にとまらない」ので生態的にもおかしいという。

 

では,「雁」が鳥でないなら何なのだろうか。

 

短『ラジュウムの雁(かり)』(1922)では牡牛座のプレアデス星団つまり「昴(すばる)」をラジュウムの雁,化石させられた燐光の雁と呼んでいる。そこで,賢治研究家の中には詩「雲の信号」に出てくる「雁」もプレアデス星団の「昴」ではないのかと推測するものもいる。

 

詩「雲の信号」は賢治と恋人の恋を扱ったものである。この詩に登場する「雲の信号」,「岩頸」,「岩鐘」あるいは「農具」も賢治の恋人への「愛欲」や「性欲」が高まったことの象徴であり,「山はぼんやり」の「山」は賢治の「みんなをさいはひにする」という賢治の「理想」を象徴するものであった(前ブログ,2025ab)。つまり,詩「雲の信号」に出てくる「岩」や「山」は単なる風景描写ではないのだ。

 

ならば,「雁」も風景の中の「雁」というよりは賢治の恋と関係する何ものかであろう。多分,「雁」には賢治が投影されている。なぜなら,「雁」が降りてくるところが先住民の末裔で背の高い恋人を象徴する日本固有種の「杉」だからである。

 

詩集『春と修羅』の恋歌である詩「マサニエロ」(1922.10.10)に「杉」が出てくる。賢治の勤めていた農学校の裏手にある花巻城址の高台から恋人が務めている花城小学校辺りの景観を読んだ詩とされている。この詩で「城のすすきの波の上には/伊太利亜製の空間がある/そこで烏の群が踊る/白雲母のくもの幾きれ/(濠と橄欖(かんらん)天蚕絨(びらうど))・・・・すゞめ すゞめ/ゆっくり杉に飛んで稲にはいる/そこはどての影で気流もないので/そんなにゆっくり飛べるのだ/(なんだか風と悲しさのために胸がつまる)/ひとの名前をなんべんも/風のなかで繰り返してさしつかえないか」(下線は引用者 以下同じ)と,「杉」を見ながら恋人の名前を呼びたくても呼べないという切ない恋心が表現されている(前ブログ,2021 下線は引用者 以下同じ)。

 

「杉」を形容する「橄欖」は橄欖岩の緑色,「天蚕絨」は「天鵞絨」のことで,柔らかく光沢感のあるビロード(ベルベット)のような織物のことである。つまり,恋人でもある「杉」を柔らかくて光輝いていると形容しているのだ。ただ,この詩を書いたとされるのが1922年10月10日なので賢治の恋は破局へと向かっていた。

 

破局後の「杉」の様子は恋人が渡米する2ヶ月前の詩「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」(1924.5.18)に書かれてある。花巻の西に位置するアイヌ塚(現在は蝦夷塚)を訪れたときの作品と言われている(前ブログ,2022a)。

 

「雲は酸敗してつめたくこごえ/ひばりの群はそらいちめんに浮沈する/(おまへはなぜ立ってゐるか/立ってゐてはいけない/沼の面にはひとりのアイヌものぞいてゐる)/一本の緑天蚕絨の杉の古木が/南の風にこごった枝をゆすぶれば/ほのかに白い昼の蛾は/そのたよリない気岸の線を/さびしくぐらぐら漂流する・・・・/アイヌはいつか向ふへうつり蛾はいま岸の水ばせうの芽をわたってゐる」(宮沢,1985)とある。

 

この詩では,恋人を形容する「杉」は「杉の古木」となっている。さらに,ここを訪れた賢治に,沼から覗く幻影としての「アイヌ」に「杉」と並んで立ってはいけないと威嚇されている。幻聴である。この詩に登場するアイヌも「アイヌはいつか向ふへうつり」とあるように渡米した先住民の末裔と思われる恋人の姿だったのかもしれない。

 

ちなみに,「水ばせう」は,植物の「ミズバショウ」(サトイモ科;Lysichiton camtschatcense S.)のことで葉が変形して花のように見える「仏炎苞」と呼ばれる苞が特徴である。「仏炎苞」という名は,苞が仏像の背後にある炎をかたどる飾り(後背)に似ていることによる。それゆえ,詩の最後の2行は,相思相愛の恋人が「怒り」とともに米国に去ったのち,火に集まる習性のある「蛾」に化身した賢治が仏教の暗喩ともとれる仏炎苞を持つまだ芽でしかない「水ばせう」の上を「たよりなく,さびしくぐらぐらと」漂流しているとも読める。詩「小岩井農場」パート九の後半部にある賢治の考えた可逆的な「命題」によれば「性欲」→「恋愛」→「宗教情操」への移行期である。

 

詩「雲の信号」に出てくる「杉」は「四本杉」である。この「四本杉」と思われる樹齢300年を超える「杉」は花巻の西にある花巻中学の北側にあったという。現在は伐採されて存在しないが,そこに詩「雲の信号」の詩碑が建っている。

 

ちなみに,詩「〔日はトパースのかけらをそゝぎ〕」に出てくる「杉」はこの詩碑から西南へ2kmの地点にある奈良時代の熊堂古墳群(アイヌ塚あるいは蝦夷塚)の中にある「杉」だとされている。

 

一方,「雁」に賢治が投影されている可能性のあることは童話『雁(かり)の童子』(1923)からもうかがえる。

 

この童話概要は以下の通りである。

旅をする私が巡礼の老人から聞いた話として物語は語られる。ある日沙車(さしゃ)に住む須利耶圭(すりやけい)の従弟が雁の群れを鉄砲で撃ち落とした時,弾丸が胸を貫いた雁たちは人の姿に変わり天へ帰っていったが,生き残った小さな雁だけは地上に残り童子(子供)の姿に変わった。それが,「雁の童子」である。弾丸に倒れ人間の姿になった雁の1人が天に帰る前に須利耶に童子はお前とは縁のあるものだから連れ帰って育てるように告げる。須利耶はそれを了承する。育ててみると童子は口数が多くなく,思慮深く,家畜をいたわり,肉を食べることを嫌がる子供であった。また12歳になったころだが,母を働かせて自分が塾へ通うことに気兼ねするような一面もあった。その冬,童子は古い沙車大寺のあとから出土した「翼をもつ天童子」の壁画の前で,育ててくれた須利耶に「わたしはあなたの子です,この壁画は前世であなたが書いたものです」と言って,育ての親である須利耶圭と自分は実の親子であったという因縁を伝えて命が尽きる。

 

第1図は1907年,スタインによりミーランで発掘された有翼の天使像(金子,1994)。童話『雁の童子』の「翼をもつ天童子」はこの天使像を参考にしたとされる。

 

    第1図.有翼の天使像.

 

詩集を出版して4年後,昭和3年(1928)9月,賢治は花巻病院で両側肺浸潤と診断され,以後自宅療養を繰り返していた。この頃の話しとして賢治の親友である佐藤隆房が以下のようなエピソードを著書の中で述べている。

 

父・政次郎は,賢治の空想のみで邁進している姿を心配し,賢治に「お前の生活はただ理想をいってばかりのものだ。宙に浮かんで足が地に着いておらないではないか。ここは娑婆だから,お前のようなそんなきれい事ばかりで済むものではない。それ相応に汚い浮世と妥協して,足を地に着けて進まなくてはならないのではないだろうか」と教えたり,頼んだりしていた。また,「私は二十年来,賢治が宙に浮かぼうとするのを引きとめて,地に足を着けさせようと努力したのですが,それは失敗で笑止の至りです」と人に話したという(佐藤,1994)。

 

また,母・イチは,賢治が幼小のころ娘たち(トシ,シゲ,クニ)に町の娘が着るような着物を作ってやりたいと考え,政次郎の反対を押し切って忙しい中,養蚕に励み,繭を売り,あるいはつむぎ,その金で娘達に着物をととのえていた。結局,この労働と気苦労で,心臓病や神経痛に苦しむことになる。賢治は幼少のころから花巻仏教会が大沢温泉で開催する夏期講習会に参加していた。15歳のときにはこの会で座右の書となった『漢和対照妙法蓮華経』の編者・島地対等に合っている(堀尾,1991)。講習会の宿泊費は自費なので母が支払っていたのかもしれない。

 

賢治が「翼」をつけて「宙に浮かぼう」としたのは,母・イチの影響によるものが大きかったと思われる。賢治は幼児期に「嬰児籠」の中で育てられた。イチは多忙で賢治の世話を十分にはできなかったが,幼児の賢治を寝かしつけるとき「ひとというものは,ひとのために何かしてあげるために生まれてきたのス」といつも語り聞かせていたという(前ブログ,2022b)。

 

つまり,父・政次郎にとって賢治は理想ばかり求めて翼を付けている天使のように空を飛んでいた。これは,人間の姿になった「雁の童子」の父・須利耶圭が「翼をもつ天童子」を壁に描いたという話しと類似している。

 

「雁の童子」は殺生を嫌い菜食主義であること,母に気兼ねすることなど,こだわりの強い自閉スペクトラム症(ASD)的な資質を持つ賢治で,須利耶圭は父・政次郎が,母はイチがモデルになっているのであろう。

 

「雁」は5月の繁殖期の「ガン」であるとともに賢治でもあるのだ。

 

「きつと四本杉には/今夜は雁もおりてくる」は「きっと今夜は私(賢治)が恋人に逢いに行く」という意味が込められている。また,その逆である恋人が賢治に逢いに行くというのも考えられる。賢治研究家の佐藤勝治(1984)は,恋人の近親者の証言として,「恋人が小さな妹をつれて宮沢家を訪ねていた」という話しを聞いている。

 

つまり,人間の姿になった繁殖期の「雁」(=賢治)なら5月の日本にもいるし,「杉」に変身した恋人のところに止まりにもいく。「法華経」という「翼」を付けた賢治は「みんなのさいはひ」を願い「雁」のように大空に舞い上がったが,恋人(杉)を見つけると5月に地上に舞い降りてきてしまった。つまり,詩「雲の信号」は単なる「風景スケッチ」ではなく,賢治の「心」に映った青春真っ盛りの「心象スケッチ」なのである。

 

参考・引用文献

堀尾青史.1991.年譜宮澤賢治伝.中央公論社.

金子民雄.1994.宮澤賢治と西域幻想.中央公論社.

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

佐藤勝治.1984.宮沢賢治青春の秘唱「冬のスケッチ」研究.十字屋書店.

佐藤隆房.1994.宮沢賢治-素顔のわが友-.桜地人館.

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詩「雲の信号」の「みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ」とは何か

 

詩集『春と修羅』にある「雲の信号」(1922.5.10)は,

「あゝいゝな,せいせいするな/風が吹くし/農具はぴかぴか光つてゐるし/山はぼんやり/岩頸(がんけい)だつて岩鐘(がんしやう)だつて/みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ/そのとき雲の信号は/もう青白い春の/禁慾のそら高く掲(かゝ)げられてゐた/山はぼんやり/きつと四本杉には/今夜は雁もおりてくる」(宮沢,1985 下線は引用者)という内容のものである。

 

この詩にある「岩頸だつて岩鐘だつて/みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ」にはどのような意味が込められているのか。

 

「時間のないころ」とは文字による記録が残るようになる以前の,あるいは時計が発明される前の,人類が文明を持つ前の時代であろう。つまり,先史時代のことであろう。日本では旧石器時代から弥生時代を指す。ただ,東北は奈良時代までを指すものと思われる。東北は大和朝廷の支配が及ばないところであり,大和民族とは異なりアイヌ語を使う別の民族が先住していた。文字を持たない「蝦夷」とも呼ばれた人たちである。

 

先史時代の人類はどのようなものであったのだろうか。

 

現在では,

先史時代でも発祥から先史時代前半まで,つまり農耕が始まるまでの人類は,生存能力に劣り常に滅亡の可能性に晒されていた。火を使い加工する手段を得てはいたが,食糧は多くの植物性およびわずかな動物性食物に頼り,常に飢餓の危険にさらされながら,より住みやすい土地を求めて移動を繰り返していた。そのため,集団の信仰や習俗には多産を祈念し推奨する要素が多く生じ,またジェンダーの観念も生殖に重きが置かれていた(Wikipedia)。と考えられている。

 

大正13年(1924)に出版された西村眞次の『文化人類学』の第五節にも「・・・まだ同胞の愛といふものが理解せられず,配偶季節が来ると異性の間に激しい咆哮(ほうこう),咬?,争闘の行はれたことは,丁度交尾季節に於ける鹿の如くであったらう。さうした動物のやうな生活を人類は久しい間に互(たが)って生活し,徐々として文化の向上に向かって其(その)歩を轉(てん)じつつあった(西村,1924)。とある。

 

賢治の時間のないころを扱ったものとして童話『鹿(しし)踊りのはじまり』(1921~1924)がある。「ざあざあ吹いてゐた風が,だんだん人のことばにきこえ,やがてそれは,いま北上の山の方や,野原に行はれてゐた鹿踊りの,ほんたうの精神を語りました。」という出だしで始まる。5~6頭の繁殖期の雄鹿が登場し,鹿と人と花の咲いたウメバチソウの交流が描かれている。「性」を謳歌するような作品である(前ブログ,2021)。

 

つまり,先史時代の,とくに農耕が始まるまでの人類は生き残るために多産・生殖に重点を置いていたということであろう。

 

縄文時代の遺跡から発掘される土偶は女性を象徴する祈りの道具である一方で,石棒は男性を象徴する祈りの道具であった。先史時代は「みんなのさいはひ」を祈るような論理的思考は生まれなかったのだと思われる。

 

賢治は,「岩頸」を童話『楢の木大学士の野宿』で「地殻から一寸頸を出した太い岩石の棒」であると説明している。岩鐘も噴出した粘り気の強い溶岩が釣鐘状に固まったものである。つまり,「岩頸」も「岩鐘」も男の「性」の高まりを象徴するものである(前ブログ,2025)。

 

「岩頸だつて岩鐘だつて/みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ」とは,「岩頸だつて岩鐘だつて,みんな先史時代の多産が尊ばれ,太い岩石の棒(石棒)が祈りの道具に使われていたころに戻れればいいなと思っているのだ」という意味であろう。

 

参考・引用文献

宮沢賢治.1985.宮沢賢治全集 全十巻.筑摩書房.

西村眞次.1924.文化人類学.早稲田大学出版部.

前ブログ,2021.宮沢賢治の『鹿踊りのはじまり』―植物や動物と「こころ」が通う-.https://shimafukurou.hatenablog.com/entry/2021/08/01/101145

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お礼 ユキノカケラさん いつも本ブログ読んでいただきありがとうございます。2025.11.5