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「迂闊なことが言えない」社会の危うさ。朱喜哲✕難波優輝

【人生は遊び。プロジェクト】朱喜哲さん篇 #9

新進気鋭の美学者・難波優輝さんが、「何者か」になるための物語で溢れた現代を批判する『物語化批判の哲学』(講談社現代新書)がついに刊行。人生も、世界も、物語ではない。そう断言する本書はまた、「では、世界とは何なのか?」を探究する冒険の書でもあります。 

今回、対談のお相手としてお招きするのは、『人類の会話のための哲学』『バザールとクラブ』『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』といったご著作を通じて、他者と生きることの難しさ、そして芳醇な味わいに向き合ってこられた、哲学者の朱喜哲さん。 

朱さんがご研究されているローティという哲学者は、主著『偶然性・アイロニー・連帯』のなかで、「アイロニー」、すなわち自分自身を(何度でも)語り直すこと、「再記述」にひらくことを重視しています。 

人生を、もっと自由に遊ぶために。誰かと共に語らいながら生きることと、自由であること。両者の関係性を探りあてようとする大胆な対談を、どうぞお楽しみください!

【人生は遊び。プロジェクト】朱喜哲さん篇 もくじ

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*本記事は、2025年8月22日に鴨葱書店様にて開催されましたトークイベント「おうち遊びと公園遊び──人生を、もっと自由に遊ぶために」の一部を抜粋・編集したものです。

一人遊びをするときの「自分」

質問者 比喩的な質問になってしまうんですが、一人遊びというのは、自分の中に他者がいるようなことかなと思うのですが、難波さんはその自分の中の他者とは、どういう関係性を築いているのか伺いたいです。私も一人遊びはよくする人間なんです。汁椀の蓋についた水滴を固めて遊んだりもするんですが......。

難波 自分のなかの他者っていうのが全然わからないんですが、それはどういうことなんでしょうか?

質問者 たとえば一人オセロとかをするじゃないですか。自分が次に何をうつか分かっているのに、別手にまわったときに、「あっ、違う自分が出てきた」みたいな感覚がありますよね。

難波 分かります。

質問者 そのときの「自分」ってなんなんだろうと思って。

難波 確かに。自分はあまり意識したことはなかったんですけど、確かに自分のなかに影法師みたいに、一人なのか二人なのか、いっぱいいる感じは確かにするなあ。だから、あんまり寂しくないんですかね......。あっ、質問者さんは寂しいですか......?

質問者 どうだろう。一人遊びに集中しているときは全然さみしくないですね。

難波 そうですよね。むしろやっぱり、人と遊んでいるときのほうが寂しいから......。一人遊びのほうが寂しくないように思う。でも、「他者」かあ。いるような、いないような.......。

いや......でも、いないです。いないような気がする。他者というよりは、オセロそれ自体というか、オセロ盤そのものとか、駒の手触りとか、このオセロ盤の性格はこうだなとか。そういうことばかり考えるから。でも、自分の中に「影法師」のようなものはいるのかなと考えたくなりましたね。

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バザールの明るさとクラブの暗がり

質問者 『バザールとクラブ』を拝読しました。読みながら考えたのが、私的な空間と公的な空間が混在することってないのかなということでした。たとえば、文学フリマとかもその一例なんじゃないかと思うのですが、ご意見伺いたいです。

 おっしゃるとおりで、「バザールとクラブ」論って、それっぽく聞こえるんですけど、ある場所が100%クラブであるということはありえないんですよね。グラデーションになっている。それどころか、いまこの瞬間、一瞬、クラブ的なものが立ち上がったけど、そうじゃなかった、というときもある。

もっと言えば、この人にとってはクラブだけど、別の人にとってはバザールであるということもあるかもしれない。よくある「ここはアットホームな職場です」というフレーズも、上司はそう思っているかもしれないけれども、部下は思っていないかもしれない、ということがあり得ますよね。だから、この場所がバザールかクラブか、それが何%かという問いは、あまり「イケてない」問いではあって。

私の解釈では、それは言葉づかいの問題。バザール用の言葉遣いと、クラブ用の言葉遣いがある。たとえば文学フリマとかで、お客さんと売り子としてしゃべるとき、これはバザールっぽい言葉遣いですよね。でも、ある二次創作物について、「このカップリング、すごく好きなんです!」という話をしたのなら、これはクラブ的な言葉遣い。

私たちは、言葉遣いごとにバザール的なものとクラブ的なものを行き来しながら、お互いの距離を測ったり、詰めたり、何かの繋がりを作ったりしながら、言葉を乗りこなすわけですが、大事なことはやっぱり、使い分けてもいいんだよ、ということ。会社がアットホームだからといって、常にベタベタとしなくてはならないわけではなくて、基本他人行儀で、でも不意にクラブ的なものが芽生えてくるというのでもいい。

もう一つの大事な点は、クラブ的なものって、迂闊なことが言えちゃう「危うさ」でもあるという話をさっきしましたけど、なんでそれでいてクラブが大事なのかといったら、迂闊なことって、言わずにしまっておいたら、変わるキッカケがなくなってしまうということ。

迂闊なことを言えちゃう場があるからこそ、「あっ、俺いまやばいこと言っちゃった」って気付けるかもしれないし、「それって.....」と言われるかもしれない。自分自身が変化に「ひらかれる」ためにも、クラブ的な、ちょっと迂闊なことが言えちゃう場所も、あるいは正しくなさを含みこむことができる場所も、大事なんだと言いたい。

全部がバザールになっちゃったら、非常にまずいことになる。いまの社会がそうだと思いますが、あらゆる言動がSNSで上げられてしまって、バザール的な光がすべてを照らしてしまう環境だと、みんなクラブっぽい暗がりに潜在的な希求を持っちゃって、どこかでバランスがとれなくなってしまう。そうすると、「身も蓋もない本音」を言う政治家に人気が集まってしまう。そこが、バザールとクラブ論のポイントであり、面白いところだと思います。

質問者 もうひとつ、「バザールとクラブ」という概念は西洋的な概念ですが、果たして日本でもつかえるような世界的な概念のかな......というのが気になったのですが......。

 そうですね、この比喩は、中東のバザールとイギリスのジェントルマンズクラブという、めちゃくちゃオリエンタリズムを投影したものですからね。この『バザールとクラブ』の邦訳でも書かれてますけど、「私はどちらにも行ったことがない」というめちゃくちゃな話なんです笑

さっき難波さんがつかった言葉でもありましたが、「本音と建前」というものがある。ローティの友人、と言ってもいいような哲学者に、ローティは「古き良き日本社会」みたいなものを考えたんじゃないか、とおっしゃる方もいらっしゃいます。私は、本当にそう言っていいかは分からないと思っていて。ローティ的な比喩を、日本的な「本音と建前」論に適用していいのか、というのは、自分の次の課題としてあります。

質問者 よいお店、よい社会というのは、「ぶっちゃけ話」のような、暗がりで言うような話を受けとめつつ、でも嗜めてくれる人も出てくるかもしれない、という「幅」がそこそこある場所なのかもしれないと思いました。

 そうですね。私もそう思います。お店の話はいま、BRUTUS.jpで絶賛連載中ですので、そちらもぜひお読みください......!

ローティの「バザールとクラブ」はそのどちらも、人と一緒にいざるを得ないというスタート地点に立っている。難波さんの考える世界観とは、その部分で違いがあって、面白い対談でした。

難波 あんまり人といても......ねえ。

 笑笑笑笑 では、ちょうど時間になってきたので、これにて終了です。ありがとうございました......!

難波 ありがとうございました!

  【人生は遊び。プロジェクト】 
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難波優輝(なんば・ゆうき)|1994年、兵庫県生まれ。美学者、会社員。立命館大学衣笠総合研究機構ゲーム研究センター客員研究員、慶應義塾大学サイエンスフィクション研究開発実装センター訪問研究員。神戸大学大学院人文学研究科博士前期課程修了。専門は分析美学とポピュラーカルチャーの哲学。著書に『物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために』(講談社現代新書)、『SFプロトタイピング』(共著、早川書房)、『なぜ人は締め切りを守れないのか』(堀之内出版より近刊予定)など。

朱喜哲(ちゅ・ひちょる)|1985年、大阪府生まれ。哲学者、大阪大学招へい准教授。大阪大学文学部卒、同大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史。また研究活動と並行して、企業においてさまざまな行動データを活用したビジネス開発に従事し、ビジネスと哲学・倫理学・社会科学分野の架橋や共同研究の推進にも携わっている。著書に『〈公正フェアネス〉を乗りこなす』(太郎次郎社エディタス)、『バザールとクラブ』『人類の会話のための哲学』(よはく舎)、『NHK100分de名著 ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」』(NHK出版)など。

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私たちは実のところ、「締め切り」のことをよく知らないまま生きている。ときに私たちを苦め、ときに私たちを奮い立たせる「締め切り」とは何なのか?「締め切り」から、現代社会に深く埋め込まれたルールを描き出し、豊かな生き方を探る哲学的冒険。

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──千葉雅也

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