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円学堂よもやま話

東京江戸川区の京成小岩駅前の鍼灸院です。

エコーチェンバー

エコーチェンバー現象の語源?となった残響室


最近は頻度減りましたが

あれから、ちょくちょく
ChatGPT使っています。


ChatGPTを使用していて気になりましたのが
こちらの好みを学習している可能性があり、
(ChatGPTにその件について質問しましたら、学習ではなく適応だと言っていました)


自分に都合よい情報ばかり選択してしまう
エコーチェンバー現象のようにならないか?


不安ありましたので、それに関して質問しましたら


ChatGPTいわく


↓↓↓↓


AIとのやり取りでエコーチェンバー感を避けたければ、
あえて「反証」「逆の立場」「科学的に否定されている可能性」
などを求める姿勢を持つことがカウンターになると。


AIへの質問と回答は、ともすれば
人間とAIの関係が「脳内の自己対話」を拡張したものに近いといいます。


自分の中のバイアスがAIという外部鏡に投影され、
それが反射して戻ってくる。


まるで
内なる独白がデジタル空間で増幅されているかのように。


それを避ける意味でも遊びをいれて、
「AIを意図的にバイアス対抗装置として使う方法」として使うのはどうか?と。


つまり、自分の意見にわざと異論をぶつけさせ


エコーチェンバーではなく逆エコーチェンバーを設計するという発想。


↑↑↑↑


と、回答がありました。



これはとても気をつけたいことです!


自分では上手くまとめられないことをChatGPT
効率的にまとめてくれてると思い重宝していましたが
(まるで、自分が器用になったかのように)


なるほど、
「脳内の自己対話」を拡張したものに近い

ですか・・


自分の意見にわざと異論をぶつけさせ
逆エコーチェンバーを設計するという発想


これからは
そのような使い方もしていきましょう。


そうすると

ChatGPTを上手く使用するというのは


一人でボケとツッコミをやるようなものでしょうか?

ChatGPT使用上級者はこのレベル?


それ、普段の日常生活でやってるような気が・・・


まさに「脳内の自己対話」を拡張したものに近い


とは、このことでしょうか?

身体と思考

高市さんの手の置きどころが国民に仕えます。との意志表示に見えて、アドバイスする人が優秀なのかな?と勘繰る自分に”汚れちまった悲しみ”を覚えます


日本初の女性総理大臣が誕生したようですね。


政治の世界に限らず
適した能力ある人は


男女問わず
登用されるべきと思っています。


この先の世の中のために


政治思想信条と政策は別にして
女性の総理大臣が誕生したのは
喜ばしいことと思います。





人間は合理的判断をするのは稀で、

判断したことに対して

後付けで「合理的(に思える)理由」を作成することが多い

と言われています。



合理的判断しているようで、

実は好き嫌いで判断している

と言い切る人もいます。



個人的に面白いと感じるのは、


その好き嫌いは


時と場所、
状況や環境、タイミングで


変わるということです。
(感情もホメオスタシスとの説を是として考慮すると)



なのに、



一時の感情で決めたかも知れない判断(好き嫌い)に
引きずられてしまいがちなのですよね。


対人でも、
自分自身に対して心中ででも


一度、言葉にすると


その言葉に、
自分自身が動かされたり
制約されたりしがち。



言葉は力があるんですね。





言葉を作るのは頭(脳)ですので、
頭に身体は支配されていると考える人もいますが、
現実的には双方向です。


(頭と身体が切り離せないように
心と身体も切り離せないのでは?)


現実的な判断を必要とされるような
国家間の情報収集をしている人達は、
調査対象国の決定権を持つ立場の人間の
健康状態をとても気にするそうです。


第二次世界大戦の原因の一つとされる
第一次世界大戦の戦後処理。


ヨーロッパの戦勝国の面々が
負けた側からは多大な賠償を得ようと
躍起になっていた中で、


あまり敗戦国を追い詰めるのは禍根を残すと、
敗けた側にも配慮した処置にしようと尽力していたアメリカ大統領が
交渉の途中でスペイン・インフルエンザに
罹患してしまい

(スペイン・インフルエンザが脳に影響した説もあり)


それまで粘り強く交渉していた気力はどこかに消えて


「もう、好きにしな」と
ヨーロッパの戦勝国側の思い通りになりました。


その決定が後々、
ナチスドイツ誕生のキッカケの一つになったと言われています。


「病は判断を狂わせる」
(身体の状態が判断に影響する)





また長年、
病を患っていたスティーブン・ホーキング博士の

晩年の考え方に後ろ向きな暗さがあったのも、
身体の状態や環境による影響があったのかも?
と個人的には感じています。



極端な例ばかりでなく

ある国では裁判官の食前、食後で判決に有意に差があったそうです。


空腹は怒り呼びますからね。
(空腹も身体の状態)



そういうわけですので


政治家だけでなく


全ての人が身体に無理ない範囲で


お仕事出来ると
より良い判断が出来て、
より良い結果につながる
かと思います。


無理して頑張るのを美徳とするのは考えものです。

ネコと平和

カワイイは正義だ!ってお話?


神道では人には魂が四つあるという、
と聞きますが(様々な説あります)

イエネコには魂が九つあるそうです。


人間が家畜化した動物たちの中で
唯一、自らの意志で家畜化されたのがイエネコという説があります。

(雌牛も自ら近づいたという説もあり)


家畜化された種たち
食料、労働力などを人間へ提供している
種々の中でイエネコ様は特殊だというのです。


穀物に群がるネズミの捕獲
という面で役立っていたとも聞きますが

実際に調べた人の多くはその説には否定的です。


数少ない人に役立った一つとして
日本の三味線に革が使われていた例もありますが
三味線に使用するため猫を飼育した例はないようですので
(ノラ猫だけでなく飼い猫もさらわれていたようです)


これもまた微妙なところかと思います。


アビゲイル・タッカーの
「猫はこうして地球を征服した」では
そういったところを多岐に渡り探索していますが、


結論として


「カワイイ」に人は征服されてる


と言ってるようで笑顔になります。

「春夜の怪」とは別のお話です


時代少しさかのぼりまして


鎌倉物語」や「三丁目の夕日」の作品でお馴染みの
西岸良平氏の短編「春夜怪」という作品で描かれる

猫の地球征服っぷりも奮っています。


地球外生命体として訪れた種族が
自分たちに酷似した猫に混じり暮らしている、

というお話です。



彼らは人間を遥かに凌駕する科学技術を持ちながら
猫のようにダラダラと平和に暮らすのを選んだというのです。



多く、地球外(知的)生命体の来訪の物語は
人類存亡の危機と描かれることありますが


遥か宇宙の彼方から地球に来るような
科学技術を持っているのだとしたら、


その知的生命体は
我々地球人類が利用出来ていないエネルギーや物質を
資源として活用している可能性が高いので、


地球の資源には全然興味無いかも知れないし


我々人類の持つ「侵略」「征服」「支配」という概念も

とっくに卒業しているか、最初から持ち合わせて無い可能性もあります。



誰かを判断する基準を「自分」にするの、もう辞めません?

と同時に

自分が大事だからこそ、他も大事。


そんな気分にさせられるのが西岸良平氏の「春夜怪」という作品です。



ネコに平和を学べということでしょう!


違うかな?・・・(^_^;)

とつこ

誰か絵本にしてくれないかな

友人が勧めてくれた本

三冊目が「とつこ」



事前情報は入れず読まずで

届いてから封を開けてのご対面。



小説じゃない・・・

「漫画じゃん・・・」



一分弱、固まったあとに

気をとり直して読む。



短編六話構成
はじまりが「とつこ」


これは

「痛み」を抱えて生きる人の
「痛み」の緩和の話じゃないですか



我々の仕事は肉体からアプローチしているだけの違い。



精神、心理の変化が肉体にも大きな影響を与えるように

肉体の変化も精神、心理に大きく影響します。


すべてのお話が「祈り」のよう


そこで、「ハッ」と気がつく


今回勧められて最初に読んだ
「熊はどこにいるの」


なんで自分があんな感想を持ったのか・・・


人は生まれてから色々な経験をして、
世の中に対応するすべを学習します


その過程で得たものが「クセ」になります。



語弊あるかも知れませんが


その「クセ」をかき分けて
「本能」のようなところに呼びかけるのが

(本能というより原始生命の記憶?)


我々の仕事


「生まれたての頃はどうでしたかね?」
と問いかける。


失われた、と思っているもの
残っていませんか


問いかけ、提案を繰り返す
物語に変化ありますように、と



あぁ〜、
自分の小さな「とつこ」がほどける。



・・・


「とつこ」


作家さんの
かときちどんぐりちゃんの
住まわれている土地を思うと


現代の遠野物語です。



とつこ:糸が絡まるの意だそうです。

ロックだぜ!

年齢を経て、暴力的な描写が苦手になりました

なかなか良いんだよね。

と、友人が勧めてくれた小説の

2冊目が「ババヤガの夜」。


どんな話かも聞かず、評判も読まず。

とりあえず、読む。

「予測」出来ない楽しみ重視で


届いた封を開けてから初対面です。



大藪春彦夢枕獏を思わせる、始まりです。


あぁ、そうだね。

ヤツの影響で本を読むようになったけど、
はじめの頃はこんな話ばかり勧められてたな~、と思い出す。


違うのは、女性の描き方。


昭和の時代の和製ハードボイルド・バイオレンス・アクション?に比べて、
女性の描き方に男性目線の中二病っぽさが無い



閉鎖的な田舎町で育った自分には、
この作家さんのように


既存の価値観をぶち壊すような人達がとても趣深い。


昔はそういうのを
「ロックだぜ!」みたいに持て囃す人も居ましたが、


何かを「ロックだぜ、ロックだぜ」言ってる人に


結構、保守的な人が多かったりしたのも思い出します。


人間らしいですが・・・



めちゃくちゃロックだぜ!

そういうのを思うと、


研究職の人って、何を目指してるか

というと

教科書の書き換えなんだそうです。


言い方変えると


常識の書き換え


めちゃくちゃロックです。


ちなみに、

我々は身体地図の書き換えをしているのですが、それがロックかどうかは?

熊はどこにいるの

唯一、共感できなかったユキの「感覚」に嫉妬


小説を読みました。


長いこと知識を得る為の情報媒体としてしか
「本」を使っていなかったことを悔やんでいます。



失ってはじめて気づく

そんな言葉を聞きますが

失われてたことに気づかなかった



その、何か・・・?



友人が勧めてくれた本

「熊はどこにいるの」

一気読みしましたが、読み終えてから

もう少し言葉を大事にゆっくり読めば良かったかな?という気分。



主要な登場人物は四人の女性ですが、
神道などでは人には魂が四つあるという


それを思い起こさせるように、
僕には一人のお話のように感じました。



子供の頃、ふと流れてきた曲に

懐かしさのような、
もの哀しさのような

言葉では上手く言い表せない気持ち


成長するにつれて、
その感覚すら忘れてしまった「何か」を思い出しました。



その言語化すると失われてしまいそうな
「何か」を表現しようとしているのかな?この作家さんは。


と、勝手な思い込みをして


それを表現しようと「言葉」を使用していることに

趣深いな〜と。



もしかすると、
小説の多くはそうなのでしょうか?


などなど考えて、気になりましたので


「熊はどこにいるの 書評」で検索


作者ご本人が語っている記事


ちょろり見てみましたら


僕の感想は全然

ご本人の意向とは違っていました!(笑)


これからは小説も読むことにしましょう。

ハーネス:神経回路を再利用する身体文化

ハーネス:制御装置。眼の部分は心理的な面の制御でしょうか?


「文化が脳をハーネスする」という概念を、
身体文化に当てはめて考えてみましょう。


「文化が脳をハーネス」とは何かと言いますと
「ハーネス」とはもともとは馬具の意味ですが


ここでは
「既にある機能を、新しい目的に利用する」というニュアンスで使います。


仮説ですが
文字は「自然界の形状を検出する脳の回路」
に寄り添う形で生まれたといいます。

言語も「一般的なパターン検出・記憶・系列処理能力」
を利用していると。


文化はゼロから脳を変えるのではなく
既存の神経回路を流用して新しい機能を成立させていると考えられています。



身体文化への応用の例として
ヨガ・気功・武術・ダンス・ボディワークを


呼吸や姿勢制御は進化的に
最古層の神経回路に支えられて


ヨガや気功はそこを
「ハーネス」して、
リラックス・集中・意識変容の文化的技法に変えている。

自律神経系の原始的な仕組みを、
文化的に組織化し直したものと言えます。



武術やダンス

本来は「捕食/逃走」「求愛」「集団シンクロ」
のための運動パターンかと。

武術はその攻防パターンを
社会的な秩序・儀礼・鍛錬に「ハーネス」していると。


ダンスは「求愛と群れの同調」
文化的な表現や宗教的儀式に「ハーネス」に。



心理療法的にとらえたボディワーク

タッチ、姿勢、呼吸、動きの調整は、
哺乳類の安心反応や母子の愛着回路を「ハーネスしている。


触れることは哺乳類共通の安心システムを刺激します。

文化はそれを「治療法」として再利用しているのでしょう。




進化は遅いが、文化は速い


文化は進化で形成された神経回路を
「即興的に」利用して、

新しい習慣や技法を作る。

だから「新しい身体文化」とは、

実際には「古い回路を別の文脈で走らせること」ではないかと。



気功、ヨガ、鍼灸、武術、心理療法、スポーツ


——すべては「文化による神経回路のハッキング」とも言えるのではないでしょうか。



そうすると、身体文化の多くは
「神経の再利用アート」 になりますね。


古代の人は試行錯誤で
「このやり方だと人間は落ち着く/強くなる/癒える」

というものを文化として残してきたと言えますね。

エコ・エコと
再利用を盛んに言われていて

外部の「物」にとらわれがちですが


人間は古代から
自覚出来ない内部のシステムまで
再利用してきたわけですね!


で、なんでこんな事にばかり

(今回だけでなく、以前のブログなどでも
これ、鍼灸と何か関係ある?と感じた方もいるかと)

言及しているかと言いますと



我々の施術法の多くは

文化的影響の下に潜む

最古層の神経回路にアクセスして
身体に変化をうながしているからなんですよね。


そして、文化的なモノ
人間の苦しみの原因になっていることが
往々にしてある


それが、我々の施術が
非常に効果がある理由の一つなのです