第16代の天皇。
大鷦鷯天皇、大雀天皇とも。 誉田天皇(応神天皇)の第四子。母は仲姫命、五百城入彦皇子の孫ナリ。
子女には、去来穂別天皇(履中天皇)、住吉仲皇子、瑞齒別天皇(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)、大草香皇子、幡梭皇女がある。
じんじゃ この記事は、尼崎市に立ち寄った際に「難波」という地名があったので立ち寄った難波八幡神社の訪問記録です。 難波八幡神社を参拝 難波八幡神社の歴史 難波(なにわ)の由来 まとめ 難波八幡神社を参拝 難波八幡神社(なにわやはたじんじゃ) 主祭神 八幡大神(はちまんのおおかみ) 例祭日 10月15日 鎮座地 東難波町3丁目6-15 本殿は1688年(5代将軍徳川綱吉の時代)に作られたそうです。 本殿の説明 境内の三社殿には菅原道真、ヒノカグツチの神、スサノオが祀られていました。 尼崎には、菅原道真が九州の大宰府に向かう途中、尼崎の海辺の神社に立ち並ぶ老松や砂浜の美しさに目を奪われ、船を止めた…
①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩の内 ⑤ 五世紀、倭の五王たちは、東アジアでの倭国地位を確立すべく中国宋に使者を送った。(宋書倭国伝) 五王とは宋書の済・興・武が記紀の允恭いんぎょう・安康あんこう・雄略ゆうりゃくの三大王おおきみ(天皇)にあたり、讃は応神おうじん・仁徳にんとく・履中りちゅう、珍を反正はんぜい或いは彌を仁徳とする諸説ある。 分りやすく説明すると「仁徳天皇と3人の子と2人の孫」。仁徳を五王に含める説の場合は「仁徳一家五人」。 ちなみに五王を数に見合わせると、③讃、④珍、済、⑤興、⑥武と並ぶ。 古代の大王おおきみで最も度量が大きく勇断で指導力のあるのは、カリスマの応神天皇(誉田ほんだの大君)で学…
発展する葛城氏 初代武内宿禰は孝元天皇の孫ですが、出雲口伝によれば本名は武内大田根(おおたね)で3世紀頃の人ということです。 初代武内宿禰の父は布都押之真(ふつおしのまこと)で母は紀国造家である高倉下(たかくらじ)の子孫(高倉下は海部氏から出ているので、西出雲王家の郷戸家(神門家)や多くの有力豪族の血を持っていた)の山下陰姫(やましたかげひめ)あったということです。 出雲口伝では武内大田根は、日向の西都原(さいとばる)に移住し、西都原の王である物部のミマキ王(崇神天皇)に仕えていたようで、ミマキ王の后となった豊玉姫(とよたまひめ 出雲口伝ではヒミコ)の使者として魏の領地である帯方郡に行ったそう…
真実の仁徳天皇: 倭歌が解き明かす古代史 作者:福永 晋三 不知火書房 Amazon 煙と経済 そして国家の在り方を考える はじめに 日本人なら一度は耳にしたことがあるだろう 「民のかまど」の話。 仁徳天皇が高台から民家を見下ろし、 煙が立っていないことを憂いて 減税を決断したという、 美しい逸話として語り継がれてきた。 しかし、この話を単なる 「心温まるエピソード」として 片付けてしまうのは、あまりにももったいない。 現代の我々が直面する消費税率の議論、 財政再建と景気対策のジレンマ、 そして政治家の経済感覚── これらすべてに通じる本質的な問題が、 1600年前の古代日本に 既に提起されて…
この記事ではかつて息長氏の本拠地は大阪(平野区喜連)だったという仮説を基に、息長氏が近江に本拠地を移した理由は「隼別皇子(はやぶさわけのみこ)の乱」にあるとする説をまとめていきます。 隼別皇子(はやぶさわけのみこ)とは 隼別皇子(はやぶさわけのみこ)は生きていた? 息長氏が去ったあとの平野区喜連 隼別皇子(はやぶさわけのみこ)とは 『隼別皇子の叛乱』より作成 隼別皇子(はやぶさわけのみこ)は5世紀頃の古墳時代の王族で、第15代応神天皇の子で、第16代仁徳天皇とは異母兄弟にあたります。 隼別皇子(はやぶさわけのみこ)は仁徳天皇に対して謀反を起こしたことが『古事記』『日本書紀』に記されています。 …
記紀に伝える仁徳天皇の善政 善政とは何だったのか 記紀に伝える仁徳天皇の善政 応神天皇が崩ずると、暫しの空位期間を経て、実弟(公称上は実子)の大鷦鷯尊が即位した。仁徳天皇である。そして歴代天皇の系統の中では、この第十六仁徳天皇から第二十五代武烈天皇までの十代(途中兄弟相続が四回あるので世代にして五代)が、大鷦鷯尊の系譜に連なる所謂仁徳系の天皇になる。やがて子が無いまま若くして武烈帝が崩じたため、応神天皇五世の孫に当たる男大迹王が、大伴大連等によって近江から迎えられて即位し(継体天皇)、皇位の系統は再び応神系に戻されている。 仁徳帝の事績の中で、記紀が共に多くの文字数を割いているのは、天皇が民衆…
本記事はアフィリエイト広告を利用しています 記事内に商品プロモーションを含む場合があります こんばんわー 相変わらずLINEのメッセージ着信の通知がまったく来ないうめじろうです・・ LINEのメッセージのとこ開いて初めて赤い丸数字が出てて知るという・・・(-_-;) 一体なんなんでしょうね?太陽フレアの仕業か・・!(またそっちいく・・^^;) もう、ええけど。(^^; 高品質iPhone販売【ハピネスネット】 さてさて、最近のお米・・・高いわよねえ~~・・・(*´Д`)(ってなんで急におねえ・・^^;) なんだか高騰したガソリンと同じように見えてしまうのは私だけでしょうか・・(~_~;) ガソ…
謎とされる古代豪族の一人、巨勢氏について。仁徳天皇とは巨勢氏を想定した人物ではないか。次の流れで紹介していく。 ・巨勢氏(こせうじ)・許勢小柄宿禰・続日本紀、751年の2月の条・巨勢男人(こせのおひと)・巨勢徳多(こせのとこた、とくだ、とこだこ)・巨勢山古墳群・條ウル神古墳・巨勢比良夫(こせのひらぶ)・雀部・仁徳天皇と大雀・新羅の初代王・赫居世居西干(かくきょせいきょせいかん)・星河建彦宿禰・仁徳天皇に関する推測・平群木菟と大鷦鷯天皇の名前交換エピソードは何を意味しているのか■巨勢氏(こせうじ) 現在の奈良県御所市古瀬(かつては大和国高市郡巨勢郷)を本拠とした豪族。 御所市(ごせし)の名前の由…
新年あけましておめでとうございますm( )m本年もよろしくお願いいたします。2025年の冒頭は前回の続き、これまでも当ブログで紹介した #住吉大社と #仁徳天皇陵 を結ぶラインについてあらためて。#サイノカミ信仰 目次 第一本宮で直角に交わる差東西と南北のライン 基準点となる石舞台 北の「種貸」サイノカミ信仰のこん跡 南の「陰陽石」サイノカミ信仰のこん跡 前方後円墳はサイノカミ墳墓(出雲口伝) 本文 www.zero-position.com 第一本宮で直角に交わる差東西と南北のライン 前編は、住吉大社の東西の祭祀ラインから、海神(海童、わだつみ)三神が第14代仲哀天皇(表筒男命、第三本宮)、…
三皇子の出自 三皇子の関係 大鷦鷯尊の正体 三皇子の出自 一旦ここで話を戻して、応神帝による太子選定を最初から見直してみることにする。そもそも応神帝はなぜ末子の菟道稚郎子を後嗣にしたかったのか。元より応神帝の真の思惑や、諸皇子を取り囲む環境などは、今となっては知る由もない訳だが、単に偏愛していたからという理由だけで郎子を選んだのであれば、それこそ君主失格と言われても仕方がない。そこで応神天皇の名誉のためにも、この末子相続には然るべき理由があったという前提に立った上で、史書の行間に隠れた歴史の真実に迫ってみたいと思う。 まず改めて大山守皇子の系譜を見ておくと、生母の高城入姫命は、景行帝皇子の五百…