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新内閣発足
norajirushi.hatenablog.com
大阪市中心部にある、美しい中州の中之島。 土佐堀川の向こうに、1918(大正7)年に建てられた大阪市中央公会堂が見えます。 赤煉瓦に白い石の帯を配した外観は、いわゆる辰野式。 実施設計の段階で、東京駅も設計した辰野金吾の手が入っています。 正面アーチの上から小さく覗いているのは、知恵の女神・ミネルバと商業の守護神・メルキュール。 大阪に相応しい神々ですね。 「定礎」の揮毫は、今や1万円札の顔となった経済人・渋沢栄一。 腰壁部分に黒っぽい大理石を用いた、重厚なエントランスホール。 階段の木製親柱にも、美しく彫刻が施されていました。 地下の展示室では、大阪が「大大阪(だいおおさか)」とよばれた時代についても紹介されています。 大正期に起きた関東大震災後、東京から多くの人が流入したことによって、大阪は当時の東京市を凌ぐ日本一の大都市になったらしい。 近代建築が次々と建設され、華やかで活気のある大
京都市営地下鉄東西線の小野駅近くを通る醍醐街道に、「葛籠尻の小町カヤ」と呼ばれる古木が残っています。 小町とは、世界三大美人に数えられる平安期の女流歌人・小野小町。 この木は、小町のもとへ百夜通いを続けた深草少将が、百夜の前日に世を去ったことを悼んで、小町が種を播いたものと伝えられています。 醍醐街道は、すぐに滋賀県境にある髭茶屋追分から来た旧奈良街道に合流。 まもなく左手には、小野小町ゆかりの隨心院。 境内にある小町の邸宅跡には、「小野小町化粧の井戸」が残ります。 旧奈良街道を南へ進むと、街道沿いに「弘法大師獨鈷水」の石柱。 真言宗の開祖・空海ゆかりの水場があったようです。 石仏は残りますが、井戸跡らしきものは見つけられません。 少し先の道端には、こんなにもたくさんの石仏たちが大集合。 新奈良街道と交差しながら、旧奈良街道を進むと、 まもなく、醍醐寺が見えてきます。 醍醐寺は、平安初期に
前回訪問した大阪の毛馬閘門(こうもん)が面白かったので、今回は京都市伏見区にある三栖閘門を目指します。 ここは、伏見城の外堀であった濠川に架かる大手橋。 伏見は酒処なので、橋の向こう側には「富翁」の蔵が見えます。 橋の上流には、「月桂冠」の昭和蔵。 下流の方向の先に、目指す三栖閘門があります。 橋のたもとには、「坂本龍馬 避難の材木小屋後」の碑。 近くの船宿・寺田屋にいた龍馬が伏見奉行配下に襲撃されたさい、両手首を切られながら身を潜めて難を逃れた材木小屋の跡になります。 西へ少し歩くと、路傍にポンプ式の井戸と、木の上に小さな祠。 地下に豊かな「伏水」が流れる、伏見らしい光景です。 すぐに、「近代化産業遺産」のプレートが掲げられた酒蔵に出合います。 こちらは、「桃の滴」や「日出盛」のブランドで知られる松本酒造。 建仁寺塔頭にあった江戸初期の建築を移した正門もすごいが、 何といっても、この光景
横浜大さん橋近くの開港広場公園に、球状の「日米和親条約調印の碑」があります。 幕末にアメリカからペリーが来航し、鎖国を終わらせたのが1854(嘉永7)年。 その後、日本は激動の時代に突入し、明治維新を迎えることになりました。 広場の奥には、白い教会堂が見えます。 表にまわると、日本キリスト教会横浜海岸教会とのこと。 敷地内には、「日本基督公會発祥地 明治五年」の碑がありました。 日本で最初のプロテスタント教会は、ここで誕生したようです。 公園の西側には、旧英国総領事館。 イギリスは、開国後に最大の貿易相手国でした。 現在の建物は、関東大震災後に建て直されたものですが、正面に回るとなかなかに壮麗。 廊下の壁面には、風合い豊かなスクラッチタイルが張られています。 左側にあるのは、薩英戦争の記念銘板。 この使い込まれた銅製ドアノブの風合いは、何とも良いですね。 工事中の中庭に説明板もなく放置され
大阪市阿倍野区にある、JR阪和線の「美章園」駅。 華やかな名前の駅には、 大戦末期の空襲により駅で亡くなった多くの犠牲者を弔う、「遭難供養之碑」があります。 (Wikipedia「美章園駅」より) 被災直後の写真では、すでに阪和線のこの区間が高架になっていたことが分かります。 美章園で高架下が商店や住宅として活用され始めたのは、敗戦後のことらしい。 その高架下にある、レトロな商店街。 訪れたかったお好み焼きの「甘辛や」さんは、あいにくのお休み。 でも、鉄骨に包囲された手ごわそうな入口に、大阪でもっとも古い高架下商店街の実力を実感できました。 商店街は、北に向けて続きます。 高架の向かいある、なぜか伝統薬の名前のフライショップ。 1軒だけある小さなショッピングセンターを過ぎると、 また、戦後感漂う店舗が続きます。 たこ焼き経営道場とは、珍しいですね。 中華屋さんの隣は、更地になっている。 入
京都市を南北に流れる、平安京造営時に開削された運河であった堀川。 平安時代には、都への物資搬入や、庭園への水の引込などに用いられていたようです。 今回は、有数の古い人工河川である堀川の、現在の姿を辿ろうと思います。 堀川紫明の交差点からスタート。 堀川通は、戦中に家屋を強制疎開させ拡幅しているので、京都市の南北の通りとしては最も広い道路。 右手から合流している紫明通下の暗渠には、下賀茂を横断し、賀茂川をサイフォンで立体交差してきた琵琶湖疎水が流れていて、現在は堀川の水源として使われています。 交差点の少し北には、大河ドラマで注目される紫式部の墓が、なぜか閻魔大王の冥官であったと伝えられる小野篁(たかむら)の墓と並んで、ぽつんとあります。 意外な2人の墓所が、仲良く並んで残るのは、ちょっと不思議な光景。 少し南へ歩くと、堀川通の中央分離帯の中に堀川せせらぎ公園。 堀川の流れが、少し顔を出し始
今回は、ちょっと涼しい街歩きをしようと、大阪の梅田に来ました。 空調の効いた地下街で、壁や床面に潜む化石を探してみようという趣向です。 「化石」と聞くと、なぜか心がワクワクしてしまうのは、自分だけでしょうか。 実際の化石発掘は何度か経験しましたが、屋内での探索は初めてです。 JR、阪急、阪神、大阪メトロ3線の駅が集中する駅前には、メタリックで楽しい形状の、巨大な5本の梅田吸気塔。 都ホテルや日生劇場を手掛けた村野藤吾の設計で、1963(昭和38)年に建てられています。 このユニークな吸気塔は、下に広がる地下街の換気を担っているようです。 (「梅田地下街ダンジョン案内地図」より) 梅田の地下には、複雑に入り組む通路が張り巡らされています。 しかも、地下は1フロアーだけではありません。 「梅田ダンジョン」の異名をもつこの地下街は、新たな来訪者を必ず絡めとる迷宮なのです。 くわえて、地下のフロア
前回から、大阪市西区の九条に来ています。 大阪メトロの九条駅から、戦前には「西の心斎橋」と呼ばれた九条商店街を、西に抜けてきました。 ところで、大阪には三条や四条がないのに、どうして「九条」という町があるのでしょうか。 諸説ありますが、大川(旧淀川)が海へ出るところに大きな中州があり、これを幕府の儒官であった林羅山が、「衢壌(くじょう 賑やかな地の意味)島」と名付けたのが始まりとのこと。 「衢壌」は、やさしい「九条」の文字に変わっていったようです。 キララ九条商店街を抜けた先には、「源兵衛渡」の交差点。 この交差点の向こうには、安治川が流れ、かつては渡し場がありました。 そして、この安治川ですが、九条島を分割するように掘られた人工の川になります。 少し上流へ行くと、安治川を開削した土木家・河村瑞賢の紀功碑があります。 瑞賢は、たびたび大阪平野に起こる水害を、大川が海に出る直前に九条島が流れ
あいにくの天候ですが、JR大阪駅前に来ました。 万博会場シャトルバスターミナルの建設が、始まっているようです。 広い曽根崎通と四ツ橋筋が交差する「桜橋」交差点。 曽根崎通の南側は、江戸時代には全国から米が運び込まれ、諸藩の蔵屋敷が建ち並んだ「堂島」になります。 今回は、この曽根崎通と少し南にある中之島に挟まれた、「堂島」を歩いてみようと思います。 少し南へ歩くと、「元 櫻橋 南詰」の碑。 大きな交差点の名前にもなっている桜橋ですが、橋はもちろんのこと、川の姿も今はありません。 すぐ近くには、「左 堂島薬師堂」の道標。 道標の示す方角には、「堂島」の名前の由来にもなっている、薬師堂がありました。 でも、すごい。 右手に見えるお堂が、反射ガラスで覆われた丸い形状になっていて、大きなミラーボールのよう。 聖徳太子の時代が起源の歴史あるお堂と言われても、にわかには信じられません。 桜橋跡や薬師堂の
阪急神戸線の神崎川駅に、初めてふらりと来てみました。 大阪梅田駅から3つ目の小さな駅です。 土地勘はありませんが、すぐに「三津屋商店街」のアーケードに出会いました。 アーケードは、駅の西口から南方向へと続いているようです。 左手には、赤い装飾の沖縄料理店。 右奥には、ネパール料理店。 「スナック アリラン」。 「神崎川に在るキリストの集会所」の前には黒猫さん。 街猫なのでしょう、お腹まで出して撫でさせてくれました。 スタミナ食品の「宮里商店」。 店頭で焼いてくれるホルモン焼は、タレ味というよりは塩味ベースのようですが、おいしい。 カウンター上には、サーターアンダギーやスパムなど、沖縄らしい食品も置かれていました。 この静かな商店街では、ゆったりとアジア方面からの風が吹いているようです。 と思ったら、ヨーロッパもありました。 大好きな、アーケードのうねり。 通路沿いの柱には、「ヤカーリングの
今回は、大阪市東住吉区にある近鉄針中野駅周辺を歩きます。 「針中野」とは、面白い駅名です。 しかも、駅周辺には鍼灸院や整骨院がやたらと多い。 針中野の「針」は、鍼灸の「鍼(はり)」と関係がありそうです。 針中野駅の少し東には、近鉄南大阪線と並行するように庚申(こうしん)街道が南北に通っています。 庚申街道は、日本の庚申信仰発祥の地といわれる四天王寺へと続く、庚申堂参りの古い道。 街道沿いには、旧家も残ります。 旧家の屋根には、珍しい亀の鬼瓦もありました。 住所表示には、しっかり「針中野」とあります。 街道沿いの中井神社。 901(延喜元)年に書かれた『日本三大実録』にも、摂津国の「田辺東社」として記される街道沿いの古い神社です。 旧街道には祠が多いものですが、この祠の向こう側、赤い郵便ポストの横に、何やら石柱らしきものが見えます。 道標です。 「☞でんしゃのり( )」、「☜はりみ( )」と
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