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「機動戦士Gundam GQuuuuuuX 」最終話感想。一番泣きたいのは俺だからね??

はいどうも! はじめましての方ははじめまして。そうでない方はこんにちは。
ブログでは毎度お久しぶりのあでのいです!
 
前回の記事がジークアクス劇場公開時の感想だった訳ですが、今回は最終回の感想です。
ジークアクス全体の感想ではなく最終回に関しての感想ですね。
(めんどいのでタイトルも全部カタカナ表記で行きます)
 
なんやかんやで先行公開の劇場版から約半年のお祭り騒ぎを私も楽しませていただいたクチなんですが、最終回に関してはマジで色々思う所があったので、一応ちゃんと文章化しておこうと思った次第でして。
 
とは言え、ぶっちゃけ先日Xのスペースの方で駄弁った内容を文字にしてるだけなので、文章読むのがタルいって人はRECしてるのでそっち聞いてくれたら良いかと思いますね。
 

https://x.com/adenoi_today/status/1938596970916176171


(最初は待機時間みたいな感じなので、喋り始めるのは再生して5分後くらいからです)
 
ぶっちゃけ内容も上のスペースのタイトル通りなので、ネガティブ意見はノーセンキューな方々は気をつけてもろて。

 

最終回当日の私

とにかくまあまずは、最終回放送当日の私のツイートを見て下さいよ。
 

 
いやもうこの当日ツイートが全てって感じではあるんですがぁ!
 
実際、私、ジークアクス11話までちゃんと無茶苦茶楽しく見てたんですよね。
そらまあ尖ったことしてるアニメなので、それこそ富野信者勢として思う所も無いこた無かったんだけど、それはそれとして視聴後のXでの皆とのワチャワチャも含めてスッゲー楽しんでたのは確か。
 
特に11話なんてマジでド深夜にゲラゲラ笑いながら見てたし、11話見終わった時点で「まだ1話残ってるけど、こんなんもう勝ち確じゃん!」って手叩いてたよね。
だから「最終回楽しみー!」って、ウッキウキで再生ボタン押してからのテンション急落の落差が上のツイートよ。
俺が一番泣きてえよ、マジで。
 
途中までは面白かったというか、楽しんではいたよね。
序盤の「光る宇宙」完全再現パートとか「やってんなあ!」って。
そっからしばらくしてからは、もうPC画面の前でゲッソリというかゲンナリというか、後ろ20分間くらい延々「えぇ、なにコレ……?」ってガッカリし続けてたのが、正直な当日の振り返りになる。

 

ドラマがなかった

って感じで、まずは恨み言からスタートしてみた訳なんだけど、じゃあ最終回の何が気に入らんかったんかって話をするとですね。
 
さっき「序盤の『光る宇宙』完全再現の辺りまで楽しんでた」と述べたんだけど、ただ、その時点でも実は薄っすら「あれ?」って感覚はあったんだよね。
「NT空間でベラベラ喋り出したなコイツら」みたいな。
 
そもそも私がジークアクスというアニメの最終話に何を求めてたかって言ったら、要するに「もっとカッチャカチャなまま全速力で駆け抜けてくれると思ってた」ってのに尽きるんですよね。
だってそれこそ11話なんて本当にカッチャカチャだったじゃん。それが無茶苦茶面白くてさ。
 
で、俺は正直11話の段階で、ここまでに散りばめた諸々の要素とかを残り1話で全部ちゃんと納得いくように畳むのは無理なんだろうなって思ってて、そんでもって「それで良いよね」とも思ってたんだよね。
カッチャカチャかなまま爆速で駆け抜けて、ただ、マチュとシュウジとニャアンのエモーショナルな部分についてはケリつけてくれるんだろうな、と。
それ以外はまともに畳まずしっちゃかめっちゃなままでOKだし、何ならしっちゃかめっちゃなままであってくれ、とまで思ってた。そう期待してた。
 
何だけど、実際の最終回は全然そんなことなくって、シンプルな俺の感情でだけ言えば「むっちゃショボくなかった?」というのが正直なとこなんすよね。
なんか最終回で急に全員我にかえって「ちゃんと最終回やらなきゃ!」でツケの支払いに小さく奔走して、そのままこじんまりと終わった感がある。
 
全部の要素に目端を利かせて「このキャラの考えてることはこうです」「このキャラの背負ったテーマはこうケリがつきます」「このキャラとこのキャラの関係はこうオチつきます」っていうのを、凄え丁寧に一個一個順番に描いてったんだけど、そのせいで俺の感覚だと最終回、ドラマがゼロのまま終わったって印象なんだよね。
 
この「ドラマが一切無いまま終わった」っての、本当に率直な俺の感想なんだけど、案外そういう不満持ってるの俺だけっぽいというか、「だけ」では無いにせよTL見ててもかなり少数派な感じでちょっとビックリしちゃった所がある。
賛否両論って話は聞くんだけど、「描かれたドラマの賛否」について議論されてるよね。
そうじゃなくてさ、俺の中では人間ドラマが最終話で描かれてたって感覚が無いんだよね。そもそも。
 
「この2人はこういうふうに収まります」「このキャラにはこんなふうにケリがつきます」っていうプロットがセリフの形で開示されてただけで、人間ドラマが行われていたって感覚が本当に無いのよ、俺の中で。
(しかも、そのセリフのやりとりがNTの精神感応空間だけで行われてるってのがより受け入れづらかったんだけど、それはまた少し別の話になるので詳しくは後述)
 
いや本当にそういうラインで文句言ってる人をTLでほとんど見なかったから、マジで俺だけの感覚っぽいんだけど、とにかくそういうのに対する絶望感みたいなのがあったね。
これを「面白い」と思える感性が、マジで俺の中に無かった。
だから本当にずっとつまんなかったの。マジで。
 
ネタ的に面白かった部分も、まああったはあったんだけどさ。それこそガンダムがハイパー化した辺りとか「ハイパー化したやんけw」って。
ただなー、やっぱりそういう要素にしても、キャラクターの人間ドラマがドライブしているからこそ、その勢いでこっちも「おいおいおいおーいw!」ってゲラゲラ笑いながらツッコミつつ楽しめるってのがある訳じゃん。
なんだけどさー、何度も言うように「あくまで俺の感性として」って話ではあるんだけど、最終話については人間ドラマがドライブしてる感が全く無かったので、その状態で「RX-78が現れます」「白い悪魔とか呼ばれます」「ハイパー化しちゃいます」とかやられても全部上滑りしちゃって、俺ん中で笑い要素としても機能しなかったんだよね正直。
 
そんな感じで、マジで期待してたものが一切何も提供されなかったって感覚なんすよね。最終話に対しては。
 
ただ上で「不満言ってんの俺だけっぽいんだよな」って言いつつ、ちょい近いこと言ってる人は多少いたなとは思ってて、個人的には林檎亭さんのこのツイートが凄え気に入ってるんすよね。
 

 
なんか超「わかるわかるw」ってなっちゃったもん。この最終回評、良くないですか? 俺めっちゃ好きなんすよ。

 

急にシン・エヴァの話

最終回見た後に自分の中で感想まとめてた時に、フッとシン・エヴァのこと思い出したんだよね。
私シン・エヴァについて、放映当時の視聴直後から「終盤の展開、好き嫌いだけなら自分の好みでは一切ないんだけど、それでも見てる間は全然面白かったから、やっぱ庵野秀明って映像作家として凄えわ」って感想を言ってたんすよ。
 
まともに見たの映画館で1回だけなので細部の記憶はかなり怪しいんだけど、シン・エヴァの終盤ったへんの、エンディングに向かう流れって実際、前節での私の不満がモロに適用されると思うんだよね。
謎の精神世界空間みたいなとこで、セリフで自己開示しあって、最後に1人ずつ各キャラクターのテーマが順番順番にキッチリ処理されてく構成じゃん。
アレ見た時に「これ俺の趣味じゃねーなー」と思いつつも実際めちゃくちゃ面白かったんだよね。
なんと言うか、映像演出のエネルギーで押し切られちゃった感があって、こういう構成って本当は俺好きじゃないのに、それでも面白いからやっぱり庵野秀明って凄いよなあ、って。
 
だから逆に言うと、「そうはならなかった」のがジークアクスだったってことだと思うんだよね。
あのキャラクターたちが1人1人、精神世界で嘘偽りなく自己開示しあって、真っ当に議論しあって、一個一個ケリがついてくあの感じが、そもそも好きなヤツじゃないなってのがあって、それはシン・エヴァと同じな訳で。
ただ、シン・エヴァの場合は映像演出だとか音楽だとか、そういう諸々の「画面力」「映画力」で面白く見れちゃって、要は庵野マジックにかけられたみたいな話な訳だよね。シン・エヴァ見た時の俺は。
 
そのマジックに一切かからなかったんだよね、ジークアクスでは。
ずーっと「いやー、趣味じゃねえわあ。つまんねえわあ」って気持ちのまんま、最後まで終わっちゃったっていう。
そこが凄い大きかった気がするなあ、と。
 
で、その原因の一つとして、やっぱり要所要所でシーンにパロディ入れてくる所が、地味に効いてたのかなってのもある。
構図にせよセリフの掛け合いにせよ、ファーストパロを入れてくる訳で、それ自体が味だとは思うし、少なくとも私自身11話までは楽しんでた訳なんだけど、やっぱりパロディって元ネタ知ってる身としては、一歩退いちゃうというか、メタ的に冷静にさせられる部分ってあるじゃん。
そのせいで真面目な話してる時に、元々趣味じゃないのと合わせて、さらによりノレなくなるというか、入れ込めなくなっちゃった部分はあるのかな、と。

 

 

物語の「問」にあんま興味持ててなかった

ジークアクスの最終回にノレなかった理由として、もう一個あるのが、身も蓋も無い話として、ストーリー全体の「問」みたいなのにそもそもそこまで興味無かったってのがあるかなと思う。
いやコレちょっと説明するのが難しいんだけど。
 
まずさ、私自身マチュもニャアンもキャラとして好きなんだけど、別に感情移入とか共感しながら見てはいないっていう所があんのよね。
TLでは最終回前くらいに「マチュたちのキャラクターがちゃんと描かれてないから感情移入できない」云々みたいな意見について、何か議論されてたなって記憶があるんだけど、そういう意味で言えば私は全くマチュにもニャアンにも感情移入してはいなかったりするし、別にジークアクスというアニメを楽しむのにそれが必要だとも思ってない。
 
行動力の権化みたいな少女が宇宙と地球とをドタバタ駆け抜けてって、元気にハチャメチャやってんのをニコニコしながら「面白えなコイツらw」って眺めて。
それで十分楽しかったんだよね、ジークアクス。
 
だから逆に言うとさ、別に俺マチュたちに対して「こうなって欲しい」とか「こういう所に着地して欲しい」とか、そういう気持ちは全然無かったんだよね。
感情移入も共感もあんましてなかったってことは、なんつーかなあ、「応援」的なメンタルも無かったからね。
だから、ニャアンとちゃんと仲直りしてくれて嬉しいとかも無いしさ、最後にシュウジとキスできて良かったねみたいな気持ちもあんま無いんだよね。
正直、俺にとってオチというか着地点はそれこそ「もうどなってもいいや」であって、興味あったのはオチに至るまでの過程でどこまで「劇的」なものが見れるかどうかでしかなかったんだよ。
で、その「劇的」さが、少なくとも俺の感性に響くようなものは最終回に一個も無かったな、という話になっちゃう。
オチにそもそも興味が無かったから、オチだけ見せられても何も面白くなかった、というのが言い方としては適当な表現になるのかな?
 
それが他キャラにも言えて、なんか俺ん中でエグザベ君とシャリア・ブルに対しても「殺し合わずにすんで良かったね」みたいなのが、まあ良かったは良かったけど別にそこに感動はしてないんだよな、というお話があったり。
 
で、今のはキャラクターについての話だったんだけど、物語全体のテーマ性の話で言うと、かなり個人的に最終回で「えっ、そんな話だったの?」ってビックリしちゃったとこがあって。
それが何かって言ったら、最終回で結構「ニュータイプ」の話ちゃんとやってなかった? 俺そこ凄い意外だった。
そこら辺の話が俺的にマジでどうでも良すぎて、あくまで個人的感想なんだけど、率直に言って「えっ今更??」みたいな感覚がある。
ニュータイプ論に対する次世代のアンサー」な話をされても、「いやこちとらF91もクロスボーンもXもターンエーもGレコもとっくに経とんねんぞ??」的なさ。
 
というよりか、もっと言うと、俺はジークアクスに対して、そういうニュータイプ論を「知らねーよ」つって蹴っ飛ばすようなアニメだと思いながら見てた所がある。
ジークアクスというアニメが原典パロで既存ファンくすぐりを仕掛けつつも、マチュという主人公が「ニュータイプの革新」だ「人類の未来」だっつう「ガンダムの論理」に呑まれず、「知らねー!うるせー!」な個人的動議で突っ走り続けてたの凄え好きだったんすよね。
だからマチュちゃんが急に「そんなの本当のニュータイプじゃない!」って言い出した時に、「えっ??」ってなっちゃったんすよね。
「あれ? 君そういうこと言う子だったっけ??」っていう。
その辺で困惑もあったし、シラけちゃったという悲しい話がある。
 
まあマチュのセリフも確かにマチュのこれまでの成長ストーリーがちゃんと乗っかってはいるので、別に頭でっかちなニュータイプ論をしてる訳ではないってのも分かるは分かるんだけど……。
とにもかくにもあそこのセリフで「そうっすかー……」って感覚になっちゃったりしたんすよ。
 
あとさらにここに付け加えると「シャアがどうすれば穏当に1人の人間として幸せになれるかというクエスチョンに解答を出した」みたいな褒められ方も結構TLで見たんだけど、そこの話もマジでノレなかったというか、興味が全く湧かんかった。
というかそもそも俺ジークアクスのシャアが、あんまりシャアに見えてないんすよね正直。
 
そこも実はよく分かんないんだよね。
TLでも結構みんな「シャアに対する解像度が高い」って褒めてて、まあ確かにシレッと生き延びて要らん計画を進めてたりする厄介ムーブとかは確かにシャアさんだなって思うは思うんだけど、そんなにちゃんとシャアらしかったかと言われると、あんまそうでも無かったんだが俺的には、という。
まあそもそも論として俺はアムロに拘り持ってるシャアさんが好きだから、そこの因縁をはなから持ってないジークアクスのシャアには興味が持てないって話はある。
 
シャアさんの人間的魅力が深掘りされてくのってやっぱこう、ガルマ殺して高笑いキメたけど「案外そんなスッキリもしねえな」とか我に帰ったりとか、ララァアムロがNT能力で奇跡体験してるそばで全くその輪に入れなかったりだとか、偽名使って一兵卒のMS乗りやってたら楽な身分が意外と気に入っちゃったりだとか、その辺の諸々がある訳じゃないすか。
ジークアクスのシャアって要するに「その辺の諸々」が全部無しになってる訳で、まあそれ自体が「空っぽ」理論に繋がってるとは思うんだけど、それはそれとしてそんなシャアに興味持てないしってのが正直な所でして。
 
まあだからそんなこんなで、本当に悲しいかな、全部全部私のツボを外したな、というか。
延々興味無かった話ばっかされちゃったな、という感想になっちゃうんすよね。

 

 

身体性の話

上で「人間ドラマが行われていたように見えない」って話を延々してたんだけど、そこのデカい理由の1つとして「身体性の欠如」みたいなことが言える。
 
どういうことかって言ったら、最終回でキャラクターのほぼ全員がコクピットに座ったまま微動だにせず、NTキラキラ空間の精神感応だけで真っ当な議論や和解をする訳じゃん。
それがマジで俺には人間ドラマに見えないんだよね。
これも「俺の感性がオールドタイプなだけか!?」とか不安になっちゃうんだけどさ、やっぱこう、気持ちとしては「良いから一発ちゃんと殴れ」とか思っちゃう。
 
悪い老害オタクムーブと言われたらそれまでなんだが、ここら辺はどうしても俺は富野アニメの民だから余計にそう感じるって言うのはあって、何かって言ったら、劇場版GレコIVのラスト辺りのシーンが凄い好きなんだよね。
ベルリ君がフォトントルピードで大量虐殺しちゃって、マスクに「人殺し」だ「殺人者」だと追いかけ回されてメンタルボロッボロになった後に、ラライヤとノレドという美少女2人に左右から腕抱きしめられて、何なら胸押し当てちゃって「これで元気になるでしょ?」って。
俺やっぱり「コレだ!」と思うんだよねえ。
こういうシーンに「身体性」という富野ワードの真骨頂というか、美しさを感じて無茶苦茶感動しちゃう。
 
だからそういう意味で、それこそマチュとニャアンとかが、あれで和解というか、手を取り合うようになれちゃって本当に良かったのかというか、とにかく凄えガッカリ感があった訳よ。
それはシュウジとマチュにしても同じ話で、なんかもう見てて「違うじゃん!!」って気持ちでいっぱいだったんだよね。
キスしようとして顔寄せたらヘルメットがぶつかって「これじゃあダメだな」ってのがある訳じゃん……!
 
いやまあ富野アニメを引きすぎて基準にした話をしちゃってる自覚はあるんだけどさ、でもやっぱり本音なんだよね。
全部の人間関係をNTキラキラ空間でのやりとりばっかで処理してったの、そんなん尺の都合やんけと思うし、本当に心底「つまんねーーーー」って感じたのは本当なんすよ。
 
セリフでいくら何か交わしたところで、肌の温かさを知れるかどうかの方がよっぽど大事じゃん!
MSの冷たい装甲越しでお前らは何が満足できんねん! 的なさー。
 
マチュとニャアンが顔も見合わせず手も触れずに共闘モードに入ったのとか凄えガッカリしちゃったし、いやまあマチュにとってキラキラというのがいかに重要な体験だったかというのがしっかり描かれていたから分からんことも無いは無いんだけど、じゃあそれでキラキラの中だけでのキスでお前満足なのかよ?っていうのがどうしてもモヤッとするんすよねえ……。
 
でまあ、その辺はそもそも原典のアムロララァの精神感応シーンがある訳でしょと言われたら微妙に反論しづらいところは確かにあんだけど、でもやっぱりそれもちょっと違うんじゃないかとも思っちゃうんだよね。
だってさ、あの時ララァアムロになんて言ったかっていったら「なぜ今になって私の前に現れたの?」じゃん。
アムロニュータイプ能力で精神に直にアクセスして一足飛びに分かり合えちゃった。
それがどれだけ素晴らしい奇跡体験だったとしても、ララァにとっては「今さら」で「遅すぎた」ことなんだよね。
それって要するにさ「だって私もうシャアと先に寝ちゃったもん!」ってことだと思うんすよね。
シャアに境遇から助けてもらって肌触れ合わせてイチャイチャしちゃってんのよ、ララァはもうさ。
だから明日2人は血みどろで風に舞うんだろ!?(すまんコレは言ってみたかっただけ)
そこが結構「光る宇宙」の一連のシーンの中でも結構大事だと思ってんだよなあ。
 
閑話休題
まあ「これがジークアクスです」と言われてしまったらそれまでなんだけど、どうしても凄えモヤつきはあるんですよね。
「そこに身体性は無いのかお前らは!?」ってどうしても思っちゃう。
 
で、もっと言うと、そういうのをちゃんと描くアニメなんだと思ってたんだよね。俺は。
少なくとも俺がジークアクスの1話目(の劇場版パート部分)でむっちゃ引き込まれたのって本来そこだったんだよ。
 
マチュって本来的には身体性の塊みたいな少女だったじゃん、という。
スペースコロニー育ちで「こんな重力ニセモノじゃん!」つってイライラ溜め込んで、プールの飛び込み台の上で逆立ちして、プールに落ちてみせちゃう、あの冒頭がある訳じゃん。
で軍警ザクの横暴見て「ふざけんなよ!」つって、ザクのコクピットハッチ無理やり開けて、自分の両足でザクの腕の上ダッシュして、ジークアクスに全身使ってッバーン!って飛び移る訳よ。
俺はあそこら辺のシーンに対して「良いなあ!このアニメ!」って凄えワクワクした所があって、そこには「身体性」というキーワードが確実にあったはずなんだよ。
ジークアクスの装甲冷たくて気持ちいいってののために、わざわざ下着になって素肌を晒すのとかも、そういうことだと思うんだよなあ。
 
って前提があった上であの最終回だったので、本当に「ええぇ……」って感じなんだよなあ。うーん……。
 
まあちょっと難しいポイントとしては、元々ロボットアニメにおける人型ロボットというのはパイロットの身体の延長として描かれるので、そういう意味で言えばハイパー化したガンダムの腕をジークアクスが駆け上がって首を吹っ飛ばすっていうのは、それはそれで身体性の発露と言えなくもないっちゃないんだが。
まーでもなあ、やっぱりそれもキャラクター自身の人間同士の身体性があってこそ活きるものじゃんと思うので、うーん、やっぱりなあ。
 
だからやっぱりストレートに個人的に一番面白かったのが1話で、それとは別の意味で一番楽しかったのが11話で、一番つまんなかったのが最終話だったな、という。
なんか凄い悲しいことになっちゃった。

 

 

最後に

という訳でまあボロクソに好き勝手言わせてもらった訳なんですけど、こうやって言語化してるとそれはそれで「言うて正しいのはあっちの方なんかなあ」という気持ちになったりならなかったりラジバンダリ。
 
ほら、最終回のEDが「もうどなってもいいや」じゃなかったじゃん。
凄え正しいと思うんだよね。
だって全然「もうどうなってもいいや」じゃなかったからさ。ちゃんと全部どうにかしたからねコイツら。
 
だからさ、そう考えると「ちゃんとどうにかする方が、そりゃ正しいか」とも思っちゃうんだよね。
だってさ、俺の不満って要するに「30分かけて前話までの手仕舞いをいそいそやっただけだったな」って話なんだけど「いや最終話なんだからそりゃ前話までの手仕舞いをしなきゃダメだろ」っていう。
「ちゃんと手仕舞いしたんだから偉いだろ」って、まあ、それは確かにそう。
 
だからまあ、最終的に「俺の感性の方が問題かあ」と諦めざるを得ないのかなとも思うんだが、でもなあ、そうは言っても「そんなもん見せられてもちっとも面白くねえよぉ」が本音の感想なんすよねえ。いやはや。
 
という訳でまあ、そんな感じです。
 
色々とまあ異論とか、それこそ「いやそれはお前が読み取れてないだけでこのシーンでそこはこういうふうにちゃんと描かれてたろ読解力雑魚が」みたいなお叱りとかも来るかなあとは思うんですが。
 
たださー、あの日は外せない職場の飲み会でリアタイ無理になってさあ。
で終電で帰って、「眠いけど今回ばっかりは一刻も早く見とかなきゃな」って思ってアマプラで視聴して、ってシチュエーションだったからさあ。
そこでもうずーーーっと「え、なにコレ……。面白くない……」だった訳で、そんなんもう俺ボロボロよ。火曜の深夜にさあ。
その思い出だけは本物なんすよ、どうしようもなく。
 
 
そんな訳で延々ネガティブな愚痴ばっかダラダラ綴った訳なんですけど、まあこういう素直な感想をちゃんと文章化しとくのも大事っちゃ大事かなあとも思うので、こうしてブログで記事化してみた次第です。
 
あとまあ、凄え文句ばっか書いたけど、それはそれとしてビギニングの上映から半年、無茶苦茶楽しませてもらったのもまた事実ではあるし、「火曜の深夜に皆で爆笑したよね」って向こう何年か思い出話にできるだけで、本当に素晴らしいアニメだったよねってのも本音ではあるんすよね。
 
と最後に申し訳程度にフォローして終わる。
そんじゃーねー。