第36回高松宮殿下記念世界文化賞を受賞したピアニスト、アンドラーシュ・シフ(71)が10月、授賞式のために来日した。シフはバッハの解釈に定評があり、モーツァルト、ベートーベン、シューベルトなどウィーン古典派の優れた演奏で知られる巨匠。合同記者会見と個別懇談会の場では、受賞の喜びとともに、言葉に熱をこめて日本文化と音楽界の現状への思いを語り続けた。「日本の文化に誇りを持って大切にしてほしい。存在を当たり前のこととしてはいけません。日本的な趣向を守るべきだと思います」-。
音楽は人を結びつける
シフは1953年、ハンガリーのブダペスト生まれ。5歳からピアノを弾き始め、フランツ・リスト音楽院で、民謡に親しむことを重視するコダーイ・メソッドで教育を受け、バルトークの練習曲集「ミクロコスモス」などが教材だった。79年、ハンガリーを離れ、イギリスに渡る。99年、室内オーケストラ「カペラ・アンドレア・バルカ」を創設。イギリス王立フィルハーモニー協会金賞など受賞多数。
世界文化賞の受賞者がそろった合同記者会見でシフは「受賞は誠に光栄です。私は他者が書いたものを再現することしかできません。残念ながら才能がなくて創造者にはなれませんでした」と演奏家の立場をわきまえ、謙虚に話した。そして「音楽はショービジネスではありません」と続けた。
個別懇談会の場で、シフはさらに説明を加えた。
「芸術はエンターテインメントではありません。より深い次元があります。生の音楽を聴くコンサートは学びを経験できます。これは唯一無二の経験です。聴衆が一緒に経験することが大事なのです。音楽は人を結びつけることができます」
「コンクールは消えてしまえばいい」
会見と個別懇談会が行われたのは、第19回ショパン国際ピアノ・コンクールの結果が発表された直後だった。コンクールについて問われると、真っ先に「ベリー・バッド」という言葉が口をついて出た。
「私もオンラインで視聴していましたが、退屈してしまいました。コンクールは消えてしまえばいい。こういうことを言うのは少数派でしょう。音楽はスポーツではありません。芸術なのです。スポーツは速さ、距離などを測ることができますが、芸術は計り知れない要素の集合です。審査員のいるスポーツのフィギュアスケートなどは芸術に近づくと問題が生じるのです。人の趣向、エゴ、嫉妬心などの感情が入り込みます。芸術で測れるものがあるでしょうか。主観的な趣向だと思います」
シフはコンクールをキャリアのばねに利用してこなかった。著書「静寂から音楽が生まれる」によると、かつて「文化省に呼び出され、『同士シフよ、あなたはこの国を、ハンガリーを代表してチャイコフスキー国際コンクールに参加するのです』と言われたこと」があった。当時、ハンガリーはソ連の同盟国で、コンクールを拒否する自由はなかったという。
シフは今回のショパン・コンクール優勝者、アメリカのエリック・ルー(27)の演奏をカーティス音楽院で聴いている。ルーは2018年にリーズ国際ピアノ・コンクールで優勝しているが、シフは「それからキャリアを築けなかったのはどういうことなのでしょう」と疑問を呈する。
「いくつ優勝すれば十分なのですか。多くのコンクールで1位を取った人は今どこにいるのでしょうか。消えてしまったのですか。私はぼやいているだけかもしれません。今の私がショパン・コンクールに参加しても優勝できないと思います。しかし、何年もかかりましたが、名誉あるこの世界文化賞を受賞しました。このことのほうがうれしいです。コンクールの意義は何なのかと思います」
現実的にコンクール入賞者のほとんどが忘れられる。コンクールと音楽の本質は違うのだ。
音楽に必要なのは「熟成」
シフは「音楽とワインは似ているところがある」と話す。その心は「どちらも熟成しなければならない」点だ。
「私は20歳のときベートーベンのソナタを学びました。今日の演奏とは全く違うものです。私の考え方、コンセプトが変わったわけではありません。さまざまな経験によって私という人間が変わったのです。若い音楽家たちに何か言うことがあるとすれば、充実した人生を送ってほしい、ということです。賢く練習すれば1日3時間で十分と思います。残りの時間は美術館や博物館に行き、映画を見て、友人と話をして、森を散歩してもよいでしょう。すべてのことが音楽に貢献します」
新型コロナがはやり始めコンサートがほとんどなくなった2020年3月、「明るい希望をもって乗り越えていきたい」として行った東京オペラシティでのリサイタルが印象に残る。来年3、4月に日本ツアーを行うことが決まっている。
「日本は世界最高峰の趣味、テイストを持つ国だと思います。生け花、食事のプレゼンテーション、パッケージなどすべてが芸術的な美しさと思います。今、ホテルのエレベーター、お手洗いでも音楽が鳴っています。それは私から言わせればただの騒音です。人は静寂を恐れているのでしょうか。日本ではまだ音のない場所があることにホッとします」(江原和雄)