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氷河期世代、エンジンだけは温かい

FIREのFIだけを目指して、日々のことなんかを・・・

今しゅ・・・先週のお題「ストックしているもの」

大物感のある鯖缶

 

お疲れ様です ジョンです

 

キッチンの棚を開けると、鯖缶が整列している。

なぜこんなに増えたのか?
スーパーで「安い!」と思った記憶は一切ない。

安かったのは僕の扱いだけです。

 

鯖缶、最近ちょっと天狗になってないかな?
棚に鎮座してるこの態度、完全に“大物感”出してる。

君、いつからそんな“高級感のある青魚”を名乗るようになった?
昔はもっと「庶民の味方です!」って顔してたのに、最近はスーパーの棚でやけに凛々しい。値札も凛々しい。財布が震える。

 

でも鯖缶だけは裏切らない。
人間関係は裏切るし、天気も裏切るし、給料日は毎回期待を裏切るのに、鯖缶だけは賞味期限まで律儀に待ってる。
そこは評価する。
ただ、その代わり棚のスペースを圧迫してくる支配的態度はいただけない。

 

今日も仕事中、「これ絶対に誰か別の人に振るべき仕事だよね?」が、なぜか真っ先に僕のところへ飛んでくる。
まるで不満の宅配便。再配達は無料。受け取り拒否は不可。

毎回、送り主の名前だけはハッキリしてるのに、責任の所在だけはぼんやりしてる。
そんな宅配いらない。


家に帰ってくると鯖缶は朝から1ミリも動いてない。
それなのに存在価値は揺るがない。

正直腹が立つ。

だって、賞味期限は長いし価値は変わらないし、
「そこにあるだけで許される存在」
なんだよな。
僕は今日、存在してるだけで怒られたのに。

鯖缶は並んでいるだけで褒められ、
開ければ評価が上がる。

缶は凹んでも味は変わらないが、
僕は凹んだらそのまましばらく味がしない。

 

鯖缶を温めて湯気が立つと、今日のストレスがわずかに薄まる。
ただし“わずかに”だ。
9割はそのまま残る。
残るんかーい、と思いつつ、その1割に救われる。
中年のメンタルには大事な1割だ。

 

缶を開けた瞬間、
「ピュッッ!」
って飛んでくるあの汁、避けられない。

ジョン・ウィ○クでも被弾するレベルの正確さ。

白Tに落ちた瞬間「あ、今日はそういう日ね」と悟る僕。

 

結局鯖缶って、未来の自分に向けたメッセージだと思うんです。

「どうせ疲れて帰ってくるでしょ?
 ほら、これでも食べてなんとかしなさいよ。」

この“雑だけど愛のある気遣い”。
誰にも見返りを求めず、未来の僕だけを淡々と救う青魚。
しかも常温保存OK。タフ。

こんな存在、人生において他にあったっけ?

 

でも棚を見てると、
“ああ、ここだけは裏切らない世界だな”と、謎の安心感が湧いてくる。
悔しいけど、鯖缶に勝てない自分がいる。

 

鯖缶を開けながら、今日も思う。
「人生、しんどいな。でもメシうまいな」
この雑なバランス感覚のおかげで、まだギリ生きてます。

 

僕のメンタルが豆腐なのではなく、周囲のスプーンが鋭すぎる

柔らかい甲冑(豆腐)

 

お疲れ様です ジョンです。

 

最近、「瞑想がメンタルに良い」と聞いたので始めてみた。
本来は“心を整える”ためらしいが、僕にとっては 怒りの未処理案件が自動ポップアップする機能 になっている。
サポートに問い合わせたい。

 

まず目を閉じる。
呼吸を感じる。

で、呼吸に集中しようとした瞬間、なぜか脳内の雑念たちがテンション120%で走り出すんですよ!

「今日のミス思い出し選手権」
「明日の面倒ごと反省会」
「過去の恥ずかしい記憶イントロドン」

勝手に開催しないでほしい。

ヒーリングBGM流してるのに、雑念が大音量でサビ入りしてくる。
瞑想アプリの声「落ち着いて」
雑念「いや無理!!!今大反省会やってるから!!」

表面上は「静寂の中にいる僕カッケェ…」みたいな雰囲気出してる。
でも内心は完全にこれ。
外見と中身の温度差がすごい。

 

こんな脳内、落ち着くわけがない。

心を落ち着けるどころか、怒りが燃え上がっちゃってる
呼吸するたびにイライラを吸って吐いてる。
環境への負荷が高い瞑想だ。

瞑想した結果、心が落ち着くどころか、炎上事件の第一発見者になりました。

さらに瞑想を続けると、怒りの領域が広がる。

「初対面でタメ口で話すやつ、自分が王族だと信じてるの?」

「今日の上司、なんであんなに語尾に圧かけてんの?語尾で人を殴るタイプ?」

「エレベーター閉めるボタン押しながら

『どうぞ〜』って言ってくるやつ何?二重人格?」

日常のイラ立ちも全部蘇る。
瞑想とは本来、心を鎮める行為のはずだが、僕のそれは完全に 怒りの増幅器 だ。
怒りを濃縮して脳に返してくる。

 

でも続けるんですよ。
なぜなら中年には他の手段がない気がするから。

しかし、怒りがマックスまで燃えきった頃、なぜか急にスッ…と静かになり、時々わかる瞬間がある。

「あ、これ…相手が悪いだけでは?」
「僕のせいにするには無理があるのでは?」
「いやむしろ被害者側じゃない?」

そう、瞑想とは自分を責めすぎる豆腐メンタルに、「お前悪くないよクーポン」を配布してくれる神イベントでした。
効果は24時間限定。
ただし嫌なことがあると即失効。

 

今日わかった。
瞑想は「心を落ち着かせる」ためのものじゃなくて、心の中に沈殿してる怒り・愚痴・毒をハイライトで照らす装置。
照らした結果、僕の心の中はフルスロットルで燃えてた。

でもね地獄の全貌が見えたら、意外とちょっとだけスッとした。

「はい、ここが痛いポイントね」
「ここが炎上してる場所ね」
「ここの毒は熟成されてますね〜」

みたいな感じで、心のカルテができた感覚。
そして瞑想が終わった後の感想はこれ↓

「心は整ってない。だが、地獄の温度だけは把握した。」
まあ、荒れてる自分を正しく認識できたという点だけは評価したい。

……明日も確実に荒れるけどね。

 

そして、瞑想の最大の魅力はこれ。
何も解決してないのに、なぜか落ち着いた気がするインチキ感
呼吸しただけで人生の9割くらい許せる気がしてくる。

冷静さを取り戻しただけで、
「あの上司の言い方、まあ死にはしないな」
と寛大な気持ちになれる。

 

瞑想を続けるうちに気づいたんだけど、

「負けない心」って、強靭さでも努力でもなくて、

・倒れたら3秒くらいで起き上がる

・嫌なことは1ミリ改善する

・人間関係は深追いせず、逃げ道を常に確保

・寝れば治ると信じる厚かまし

この4つの合体ロボだと思う。

 

豆腐メンタルは弱点じゃなくて、
“しぶとく生き延びるための柔らかい甲冑”だと思えば、それでいいじゃん。柔らかいほうが衝撃吸収するし。
今日も雑念まみれで瞑想が終わったけど、なんだかんだで、少しだけ心が軽い。

 

今日も仕事でいろいろあったけど、瞑想して呼吸整えて、
「まあ、明日でいいか」
と呟けた時点で勝ちです。

 

そんな感じで今日も瞑想で毒素を半分だけ流し、残りの半分はブログのネタとして保存する。
こうして中年は、生き延びるどころか、わりと図太く明日ちょっとだけ頑張るのであった。

(全て個人的な感想です)

 

お前だけ上がるな!

調子に乗るNISA


お疲れ様です ジョンです

 

最近、NISAが調子に乗っている。
勝手に増えやがって、画面の中で陽気に育ってる。

正直、自分よりNISA口座のほうがマジメに働いている気がしてきている。

こっちが寝坊しても、深夜に唐揚げ食べても、黙って働き続けるなんて…
もういっそ税務署に「この子、ほんと働き者なんです」って親目線で申告したいくらいだ。

はい、まずここまで切り取ると、ものすごく“勝ち組の入り口”みたいな雰囲気が漂うんですけど、そんな上手くいく人生だったら、そもそもこんなに愚痴が渋滞してません。

 

むしろ最近は、
「資産だけは元気だが、持ち主はボロボロ」
という、状態になってきました。

こっちは毎朝、腰の痛みで“生まれたての子鹿”みたいな歩き方してるのに、なぜ資産だけ元気なんだ?

僕の元気はどこで目減りしてるの?
睡眠中に誰かに持っていかれてるのか?
そう思うくらいには、ボロボロだ。

 

で、順調なグラフを見ながら、ふと思うんですよ。

――この資産の伸び、僕の人生のどこにも反映されてなくない?と。

現実のほうは、

・朝起きるたびに体のどこかが謀反を起こしてる

・仕事中では“理不尽イベント”が普通にデイリークエストとして出る。

・「疲れが取れない」という中年の呪い(永続デバフ)
こんなステータスばっかり継続されていく。

にもかかわらず、NISAだけはひとりで勝手に絶好調。

 

こっちは今日を必死にこなしてるのに、資産だけが先に勝手に輝こうとしてる。

で、もうひとつ腹が立つ事実がある。

NISAを積むために働いてるのに、働けば働くほど精神が削れる。
つまり、
僕が苦しむ → NISAが増える → 僕がさらに苦しむ
この負の連鎖。

 

そもそもだよ?
人生の主役は僕なんだよ?
なんで脇役のはずの資産が主役みたいに活躍して、
本体である僕が疲れたエキストラみたいになってるんだ。

 

ふぅ、ぶちまけてちょっとスッキリしたところで今月はこんな感じです。

2025年11月

(この他に個人向け国債10年を保有)


総投資額 3,500,000

評価額  7,156,449

(上記とは別に来年のNISA用現金360万までは確保してあります。)

 

最近気づいたのは、
NISAが順調だと、生活の中でちょっとした錯覚が起こるんですよ。

「え、僕…経済に軽く歓迎されてる?」
って一瞬だけ思う。
いや、財布を見ると経済からほぼ無視されてるのは分かるんですよ?
でも、数字が増えてると、なんか“やれてる感”が出る。

それでいいのかもしれません。

 

たとえ明日の相場が荒ぶっても、
「まあ、中年の僕だって荒ぶる日あるしな」
って割と冷静になれる。
投資と自分、どっちが落ち着きないかって言われたら、正直いい勝負だし。

 

そして結局、僕は今日も淡々と買い増す。
淡々と働き、淡々と疲れ、淡々と積み立てる。
“地味の三拍子”で構成された、最高に味気なくて最高に健全な習慣。

 

だから今日も、

NISAは静かに右肩上がり。
僕は静かに肩が上がらない。
でも、まあなんとか生きてるからいいか。

そんなテンション低めの生活で、今日も積み立てます。

 

確率に殴られ続けた20代の反省文

負け組の待合室

 

お疲れ様です ジョンです

 

何気なくパチンコ屋の前を歩いていたら、若い頃、ギャンブルにハマってた頃の自分を思い出しました。

なぜか“ギャンブルはワンチャンで人生ひっくり返せる装置”だと信じていました。
いま思えば、完全にメーカー非公認のファンタジーでしたね。

 

パチンコ屋の自動ドアがシュッと開いた瞬間、

「今日は勝てる気がする」

この“気がする”だけで財布の中身を全部つっこめる勇気は、別の場所で発揮してほしかった。
例えば資格勉強とか、転職とか。
なぜよりによってパチ屋の入口で出してしまったのか。

 

ホールに入った瞬間、なぜか 今日、勝つ側の人間 みたいな顔になる。
あれ、今思えばただの“負け側の待合室に入っただけ”なんですけどね。
自信のソースがゼロなのに、どうしてあんなに強気だったのか。
せめて確率表ぐらい見てほしい。

 

で、座った途端に財布から声がするんですよ。
「本当にやるの?」「このまま返ってもいいけど?」みたいな、弱めの警告音。
でも若い頃って、ああいう“大事な忠告”ほど、異常なレベルで耳が遠かった。

 

そして案の定、台はビクともせず、こっちはビクビクしながら千円札を入れ続けるだけ。
途中でふと気づくんですよね。

「あれ、楽しいより悔しいのほうが上回ってね?」って。

でも当時の僕は、なぜかそこからが強かった。
“勝つまで帰らない”という、学校の先生も泣いて喜ぶ根性論を炸裂させていた。
ただ問題は、方向が完全に間違ってただけだ。

今の自分が若い頃の僕に会ったら、そっと肩に手を置いて言いたい。

「根性出す場所、そこじゃない。」

 

最初に数千円勝ったときのあの高揚感。
あれが全ての元凶。

ホール側の「一口どうぞ」があまりに甘くて、僕は一発で依存した。
「おい、いけるじゃん。僕、才能あるわ」

才能?
あるならなぜ収支表は毎月”スキー場のゲレンデ並みに滑り落ちていく”のか説明してほしい。
あの初勝利は “無料のアメ”。
本番はその後に待つ“永久搾取コース”だったのに、僕は堂々と“おかわり”し続けていた。

 

若い頃は「勝負してる」「読みが当たった」と言い聞かせていたが、視点を変えると、もっと辛辣だ。

客はただ、光と演出に反応して、自主的にお金を投入し続ける生き物。

店は戦ってなどいない。
ただ僕たちが希望を勘違いするのを待っているだけだ。

もし店側に“客の分類表”があるなら、若い頃の僕はこう書かれていただろう。

「希望で戦ってくれるタイプ。
長時間座る。
いっぱい負けてもまた来る。優良。」

ちょっとしたホラーである。

 

時間を戻せるなら、当時の自分を軽くシバきたい。

「お前が戦ってるのは“運”でも“才能”でもなく“確率”だ。
そして確率はお前の友達ではない。根性で勝てる相手じゃない。帰れ。」

いやもう、耳元じゃ足りない。
大声で叫びたい。
むしろホールのスピーカーから流したい。

 

金は働けば稼げる。
でも、若い頃の僕は一番貴重な“時間”をさらっと溶かしていた。

朝から夜までパチ屋にいて、
外に出ると「今日…なんかあったっけ?」と本気で思う。

映画ならストーリーが残る。
旅行なら写真が残る。
買い物ならレシートが残る。

ギャンブルだけは、

「長時間座ってた」という謎の事実だけが残る

若いうちの時間って、もっと濃く使えるはずだったのに。

 

当時は悔しくて泣きそうな日もあったけど、いま振り返ると、
「よくあんな純粋なバカを全力でやれたな」
と、なんか感心してしまう。

 

ギャンプルは最初から負けるように設計された時間泥棒 でした。

ただ、その経験のおかげで、
“世の中は甘くないし、確率は冷酷”
ということだけは学べたと思う。

 

僕は今、
「勝てる場所でしか勝負しない」
という最低限の知性を手に入れた。

半額シールは誠実だし、
クーポンは裏切らないし、
ポイント2倍デーは味方だ。

ギャンブルより、この世界のほうがよっぽど優しい。

 

授業料は高かったけど、今の僕はもう、ホールよりスーパーのタイムセールの方が燃える。
こっちはちゃんと勝率が高いし、何より“負けても納得できる値段”で済む。

 

むくんだ顔に書かれた“昨夜のメッセージ”

 

僕が求めてる間接照明(左)と会社が攻めてくる手術室みたいな光(右)

お疲れ様です ジョンです。

 

今日も残業。気づいたら夜でした。

会社の蛍光灯の白さ、もう少しやさしい色に調整できないのかな。
僕の心は間接照明を求めてるのに、会社はずっと手術室みたいな光量で攻めてくるんです。
働き方改革」とか言われるたびに思うけど、まず“働かせ方懺悔会”を開催してほしい。
壇上に上がるべき人、けっこういるよ?

 

そんな日に限って、コンビニの明かりだけは、やたら優しく見えるんです。

自動ドアが「君みたいなの、待ってたよ」と言わんばかりに開く。
完全に悪の組織の勧誘スタイル。

イライラしたままコンビニに入った僕は、気づけば 茶色い食べ物限定ガチャ を回していた。
唐揚げ、コロッケ、チョコ。
茶色いほど心に効くという人体の謎仕様。

茶色って、なんか安心するよね。
もはや心の保湿クリーム。

 

「今日くらいはいいだろ」と言いながら、まるで正義のような顔で買うチョコパイ。帰宅してから「いや買いすぎだろ」とつっこむ未来の自分。
もうこれ、時間差漫才じゃないですか。

 

帰宅すると、靴を脱いだ瞬間に気づくんです。
「あ、”イライラ”、今日も同伴なんだ。」

玄関まで一緒に帰ってくる。
まあ、誰も連れて帰ってこない人生なので、”イライラ”ぐらい連れて帰ってもいいのかもしれないけど。

 

落ち着こうと部屋を見まわしたら、理性がどこにも見当たらない。
置き手紙すらない。
外出許可を出した覚えはないのに、勝手に夜の街へ消えていったらしい。

仕方ないので、残った僕と茶色い食べ物達で、深夜の“残業ストレスの応急処置ミーティング”を開始。
気づけば選手たちが全員出場して、皿の上は無事に完食。

深夜のわりに祝祭感あるのやめてほしい。
1人でフェスしてる感じです。
盛り上がってるのは僕の血糖値だけ。

 

食べ終わる頃、お腹はパンパン、罪悪感はふわふわ、でも心だけは妙に落ち着いています。

カロリーってすごいね。
栄養としては微妙なのに、精神への即効性は神。

 

食べ終わった瞬間、心の奥のイライラが少し薄くなっていることに気づいた。

ただし、その後は胃袋がひとり残業で騒がしい。
「こっちはまだ勤務中です!」と言わんばかり。
申し訳ない思いを抱えつつ、僕は布団に逃げ込みましたね。

 

ただ問題がひとつあってね——
翌朝、恐ろしいほど現実が忠実にやってくるんですよ。

「昨夜の自分さん、お会計まだですよ?」
って感じで、胃と顔面むくみと後悔がレジ前に整列してる。
あんなに仲良かった食べ物たちが、夜が明けた瞬間に一斉に僕を裏切るの、なんなんだろうね。

友情って儚い。

 

そしてふと、こんなふうにも思う。

残業を乗り切って、イライラも処理して、ついでに胃袋に仕事を丸投げしてでも、なんとか一日を完走しました。

——今日の僕、めちゃくちゃ頑張ってない?

この“ネガティブとポジティブが同時に起動する感じ”、実はけっこう心に優しいバランスなんですよね。
若い頃みたいに一直線に落ちないし、かといって完全にポジティブにも振れない。

 

今日もちゃんと働いて、ちゃんと疲れて、残業でイラついて、ドカ食いして、ちょっと反省して、この“雑でも前に進んでる感”が、思った以上に僕を支えてくれてる。

 

そして夜になるとまたイライラを連れて帰ってくるかもしれない。
理性はまた夜の街へ消えて行くかもしれない。
その結果、唐揚げが再雇用されるかもしれない。

 

けれどまぁ……
生きてればそういう日もありますよ。
むしろ、それで今日も越えられたなら上出来。

僕はちゃんと生活を踏ん張っている。

 

とりあえず結論はこれです。
「夜のドカ食いはなるべく控えたい。でも、完全にはやめられない。だからせめて美味しいものでやらかしたい。」

 

今日もなんとかやってます。
静かに、しぶとく、ゆっくりと。

 

たぶん明日の夜もまた、”イライラ”と一緒に帰ってくるんだろうけど、
まあ……放し飼いでいいや。

 

まぁ、これも作品の途中ってことで

怒られた時の反省してる風の顔

 

お疲れ様です ジョンです。

 

港に何かの研究をする船が入港していて、勉強が得意そうに見える賢そうな人達が一生懸命作業してました。

立派そうな人達を見ると、つい自分の過去と比較してしまいます。

 

学生時代、勉強は「将来のため」って言われても、将来がピンと来なかった。
だって将来なんて、まだ発売前の新作ゲームみたいなもんなんです。
内容がわからないから、やる気も出ない。

 

なんなら「勉強なんて社会に出たら使わないだろ」と思っていましたよね。
結果、社会に出てから使えるものが特に何もなかった。

社会に出たら、数学は“請求書の計算”に、英語は“アプリのマニュアル読む時”に、
そして国語は“上司への言い訳文”に必要だった。
世の中、ちゃんとテスト範囲だった。
人間、逃げた方向からちゃんとブーメランが飛んでくるんですね。

 

「今やらなくても、なんとかなるっしょ」と思ってました。
──なるにはなった。なんとか“なってる”。
ただ、“なんとかなってる側の人間”が、こんなにギリギリを走ってるとは当時知らなかった。
たぶん、あの頃の僕は「未来の自分」を過信していたんだろうな。
でも未来の僕は、当時の僕ほどバカじゃなかった。だからこそ、ちゃんと後悔してる

 

40代になった今、ふと気づいた。
あの頃サボった勉強の“応用問題”が、毎日出てくる。
「お客様の怒りを鎮めよ(配点10点)」
「給料を上げずにモチベを保て(難易度SS)」
──いや、これ、受験問題より難しい。

そして今も“勉強しなかったツケ”を、分割払いで返しています。
支払い方法:労働。
支払回数:たぶん一生。

 

それにしても、“勉強しなかったツケ”って、税金みたいに静かに引き落とされる。
給料明細には書いてないけど、確実に払ってる感じがする。
ただ、社会の面白いところは、勉強してきた人も別の形で苦労はしていることだ。
ストレスとか、責任とか。
つまり、どのルートを選んでも、最終的に“疲れる”のは平等らしい。

 

僕は子供の頃から、自分を押し殺す生き方が染み付いていた為、自分の好きなものや、やりたい事を無いものとして思い込んでいました。

なので若い頃は気づけなかったが、今になって思うのはモノづくりの仕事をしてみたかった。

機械工学っていうんですかね、複雑な機械なんかを設計して、削って、組み上げて──そういう世界。
でも現実の僕は、その部品を「運ぶ」側。

 

たまに考える。「勉強してたら、もう少し違う人生だったか?」と。

何がいけなかったって、あの頃、机に座る気がしなかったんですよ。
先生の声が子守唄みたいで、世界史のノートには居眠りの跡が地層みたいに残ってる。
まさかその地層が、将来の自分の“進路の断層”になるとは思わなかった。

 

勉強しなかったせいで、手に入らなかったものは多い。
でも勉強しなかったからこそ、拾えた知恵もある。

「怒られたときの反省してる風の顔」とか、

「会議中のうなずきのタイミング」とか、

「夢は追うより、配達されるまで待つ方が楽」とか。
この発想の柔らかさは、たぶん現場で磨かれたんでしょう。
どれも学校では教わらないけど、人生ではたぶん結構使う。

 

昔は「なんで僕ばっかり」と思ってたけど、今は「まあ僕だしな」で落ち着く。
この開き直りも立派な知恵。
人は失敗を繰り返して、ようやく“笑える諦め方”を覚えるんだと思う。

失敗って、案外いい先生です。授業料が高いけど。

 

勉強しなかった過去は、もうどうにもなりませんが、覚えたことがある。
“やってみる”のは、何歳からでも遅くないってこと。

 

今日もハンドルを握りながら思う。
僕は学ばなかったけど、気づけた事はある。
勉強しなかった分、知れた世界もあると思う。
過去の選択を“失敗”と呼ぶか“成功”と呼ぶかは、
もうちょっと先で決めようと思います。

 

後々、「あれは最高の選択だった」と考え直せるように、日々ハゲんで逝きます

 

自分の限界は、だいたい関節が教えてくれる

熊から逃げ切れないダッシュ

お疲れ様です ジョンです。

 

ある時、僕を癒してくれる人類は存在しないんだと気づきました(結婚をあきらめました)。なので代わりに、大自然に癒されたいのと健康の為に、少し前から登山を始めました。

 

つい最近も登山に行ってきました。
「運動不足だから軽く登ろう」と言ったのは僕だ。「たまには自然に癒されたいな」なんて言いながら、実際、登り始めて15分で「軽く」どころか、「これは修行か?」というレベルの息切れ。
自然よりもまず、自分の呼吸音がうるさい。鳥のさえずりが聞きたいのに。

脳内ではずっと「山をナメるな」とか「なぜよりによって今日なのか」みたいなナレーションが流れていた。

 

登山道の入口にあった「熊出没注意」の看板。
…注意って、どう注意すんの?
熊が来たら「今日はやめときますね」って下山すればいいのか。
それとも「仲良くやりましょう」って交渉するのか。

 

まあ現実的に言えば、僕のダッシュじゃ逃げ切れない。
最近じゃ、階段三段で息が上がるし、朝の靴下履く動作がすでにストレッチ。

登山靴を履いた動作で“体力ゲージ”が半分減る。
こんなおっさんが熊に出会ったら、全力で「すみません」って謝るのが最速の戦略だ。

 

しかし登りながらふと考える。熊って本当に出るのか?
それとも僕たちが勝手に“恐れ”を作ってるだけなのか。
実際の敵は、熊じゃなくて膝だし。登山って、もはや膝との戦いだ。

 

かなり上まで登ってきた。熊? 出ない。
でも代わりに出たのは「弱音」「汗」「心の中の老化」。
それにしても、坂を登るたびに思う。
「なぜ休日に苦行を?」

「なんで僕は、坂の少ない人生を選ばなかったんだろう。」

と自問自答。
自分で選んだ道に文句を言う、人生の縮図。

 

途中ですれ違ったおじいちゃんに「頑張ってね」と声をかけられた。
たぶんあの人、僕より元気。
人間、年齢より脚力のほうが真実を語る。

 

山頂に着いたときは、もう嬉しさと疲労の境地。
「達成感!」とか言いながら、実際は“もう動けない”だけ。
でもおにぎりを食べた瞬間、「人生、こんなんでいいかも」とか思う。
たぶん、脳が酸欠でポジティブになってた。

 

下山では、膝が「そろそろ交代要員を…」って訴えてた。

でも大丈夫。
この達成感があれば、また次も登れる。

 

熊は出なかったけど、
“恐怖に勝った中年”が、山を下りた。

 

でも、こんな自分を笑えるようになったのが、年を取るいいところだと思う。
若い頃は「情けない自分」を嫌ってたけど、今は「情けなさに味がある」って思える。
いわば“人生の旨み成分”だ。

もはや勝ち負けじゃない。
「熊が出る山を登る勇気がある時点で、たいしたもんだ」
そう思えるのが中年の特権だ。

 

足はガクガク、息はゼェゼェ、でも心だけはやたら元気。

山頂で食べたおにぎりの味も、膝の悲鳴も、たぶんすぐ忘れる。
でも、「また登りたい」って気持ちだけは残る。
人間ってほんと、懲りない生き物だ。
――熊には会えなかったけど、
ブログの“ネタ”にはちゃんと出会えた。

 

これでいい。
これがもう、だいたい登山の正解だと思う。