センカク事件とは、起きたことよりも「起きた後の空白」の方が語られている。事件の実態は不確かで、情報は断片的で、証拠は曖昧。しかし、この国の異様さを最も象徴したのは、事件そのものではなく、**国家も市民も誰ひとりとして明確な動きを見せなかった“責任の真空地帯”**だった。
センカク地区で起きたとされる不可解な騒ぎは、行政の会見で“想定内”の言葉に変換され、メディアによって“冷静な対応”として薄められ、市民の間では“どうせ何も変わらない”という諦念の下に沈んでいった。事件がどう処理されたかを正確に知っている者は誰もいない。しかし、ここで重要なのは、誰も知ろうとすらしなかったという点だ。
■ 行政の怠惰──「不作為」が最適解になる制度疲労
行政の最大の問題は、無能さではない。リスクを避けるために実行力を捨てたことだ。
センカク事件を前に行政は、事態を把握しようとせず、詳細を説明しようとせず、対策を講じようとしなかった。だがそれは怠慢というより、現代官僚の“生存戦略”とも言える。
この国では、行動した者ほど批判される。成功しても評価は曖昧で、失敗すれば生涯の烙印になる。そうした文化の中で育った官僚組織にとって、**もっとも安全な行動は「行動しないこと」**だ。
センカク事件は、行政が“安全性”を最大化した結果としての無作為の極致だった。
報告書は未提出のまま、現地調査は形だけ行われ、関係者の責任は“今後の検証に委ねられる”。その間に、事件は自然消滅していく。“忘れられる”ことが最も都合がいいのだ。
■ メディアの空洞──映像はあるが、意味をつける者がいない
センカク事件には複数の映像が存在すると言われている。だが、それらは意味を与えられないままSNSを漂い、削除され、再び現れ、また消えていった。
本来であれば、メディアの役割は事実を精査し、文脈を与え、社会が理解できるように翻訳することだ。しかし、今のメディアにはその力がない。
センカク事件を報じるニュース番組は、一様に妙な抑制を帯びていた。表情だけ真剣に整えたキャスターが、何も言わずに「冷静に」とだけ繰り返す。現場の取材が制限されているのに、制限がなぜかは説明されない。“報じるふり”だけが働き、説明は働かない。
結果、市民は情報ではなく雰囲気だけを受け取る。そしてその雰囲気は、行政の沈黙を補強し、市民の諦念を深める方向へと働く。
■ 市民の諦念──“考えた者だけ損をする”社会疲労
この国の市民はもう、事件の真相を知ろうとはしない。
それは無関心というより、学習された諦めである。
・声を上げても届かない
・調べても本当の情報にはアクセスできない
・関われば自分が消耗するだけ
こうした累積された体験が、「考えても仕方がない」という共通感覚を生んだ。これは政治的な無気力ではなく、日常的な生存戦略だ。
考える行為そのものがコストになり、疲労になる社会では、人々は最初から思考を放棄するようになる。
センカク事件が“自然消滅”したのは、市民がそれを望んだからではない。向き合う気力が残されていなかったからだ。
■ 結論──責任の空洞は、国家と社会が共同で作り出した
センカク事件が放置された理由はひとつではない。
行政の怠惰、メディアの退化、市民の諦念――これらが三位一体となり、**“責任がどこにも存在しない国家”**を作り上げてしまった。
責任が誰にも属さない社会では、事件は自然に忘却される。
忘却される事件は、再発しても誰も驚かない。
驚きが失われた社会では、危機は常態化し、異常は日常に溶けていく。
センカク事件が示したのは、国家の末期ではなく、思考を放棄した共同体の末路だ。
国家の怠惰か、市民の諦念か。
その問い自体がすでに虚しい。
なぜなら、責任はどちらにもなく、どこにもないからだ。
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