教採対策 福沢諭吉「小学教育の事」補足
諭吉の
について補足する。
結論 諭吉は必要なものを教えるべき時に教えるべしという。しかし、今は教育が長期化し、教育の終了時点も不明。
- 諭吉の主張1 一生役立つ内容
- 諭吉の主張2 小学校で教えるべきでない内容
- 主張1から見た現在……すぐ役立つものを教えること
- 主張2から見た現在……教育はいつまであるか?
- 教育はいつまでに終わるか?(未整理)
諭吉の主張1 一生役立つ内容
第一節
貧乏や家の仕事で、入学できない、途中でやめることが多いことを受けて、
たとい廃学するも、その廃学の日までに学び得たることをもって、なおその者の生涯の利益となすべき工夫なかるべからず。
諭吉の主張2 小学校で教えるべきでない内容
第四節
(道徳教育は必要だとしても、)
ひっきょう、技芸にても道徳にても、これを教うるに順序を誤り場所を誤るときは、有害無益たるべし。今の小学校は高上なる技芸・道徳を教うる場所に非ざるなり。
・儒者の意見(経書を道徳教科書として教える)も、洋学者の意見(美術や体操なども教える)も批判。
・経書は難しすぎるうえに、時代に合わない内容もある。
主張1から見た現在……すぐ役立つものを教えること
諭吉の場合、学校にいる期間は長くないという切迫感があり、
「これだけは教えねば」と思って、教育内容を厳選。
しかし今は学校にいる期間が長いから、
最低限教えるべき内容はすぐに終わってしまう
or長い時間があると思って、教えることが増加・複雑化・高度化
(したのだろうか?)
↓
すぐに役立つことか、将来いずれ役立つことか、
両方をいかにバランスよく教えるか?
↓
国語で言えば、すぐに役立つ敬語、文書の書き方などと、将来の教養に役立つ国語教材と、両者をいかにバランスよく教えるか?
主張2から見た現在……教育はいつまであるか?
諭吉は、教えるべきとき・場所を見極めよという。
諭吉には、「廃学」、学校教育がすぐ終わるかもしれない、という危機感があった。
↓
諭吉にならうならば、
我々も、いつまでに教育を終えるかという終わりを見据えて、
いつ何を教えるべきかを考えなければならないのではないか?
教育はいつまでに終わるか?(未整理)
・生涯教育とは言わずに生涯学習という。
→教育は大人になるまで?大人には教育はないのか?
→「教育が終われば大人」か? 高校を卒業した新大学生は大人か?
・『エミール』では、生徒の結婚まで先生が指導。
・西洋の哲学者は死後まで考えた教育、生き方を論じているイメージがあるが……
(例 ギリシャの「魂への配慮」)
・そもそも、教育基本法の教育の目的にある「人格の完成」はエンドレス?
教採対策 教育の目的14 学校教育は何のためにあるか?
レポート「教育の目的」のメモを残しておく。
ここでは、
教育の目的よりはせまく、「学校教育の目的」について考える。
- はじめに 問いの言い換え
- whyからhowへ 6/4追記
- 学校教育の存続の状態
- 諭吉の「強迫教育法」 6/5追記
- 学校以外で学べるのに学校に行く理由
- 学校教育が正当化される理由
- 学校の諸課題はどこから? 内在と外在(6/19追記)
はじめに 問いの言い換え
学校教育は何のためにあるか、という問いを、
学校教育はなぜ廃絶されずに残っているか、と問い直す。
↓言い換えると、
学校教育はいかなる状況で存続しているか?
whyからhowへ 6/4追記
さきほどの、問いの言い換えの方法は、
国語教育 書けないの解決(『教え学ぶ技術』摘要) - sazaesansazaesan’s diary
国語教育 添削の根幹(『教え学ぶ技術』摘要) - sazaesansazaesan’s diary
で紹介した
を参考にした。そこでは、whyのブレイクダウンとして、
p201 whyではなく、how(やwhat/who)で考える。
p202 5つのwhyを考える
ことを提唱していた。今回はp201の方を試した。
学校教育の存続の状態
学校以外で学ぶことは可能。(ホームスクールや進研ゼミだけで)
(6/23追記 一条校以外に通っても就学義務を果たしたと認められないことは
11. 学齢児童生徒をいわゆるインターナショナルスクールに通わせた場合の就学義務について:文部科学省
に詳しい。)
大多数の生徒が、義務感に駆られてほぼ毎日登校するから、
授業が成り立ち、学校教育は成り立つ。
(生徒のいない授業は授業ではない)
→学校以外で学べるが、学校に行く人が多い
諭吉の「強迫教育法」 6/5追記
では、義務教育を「強迫教育法」と言っている。
(前略……)すべて学校の管理に関する部分の事は、文部省の政権に非ざれば、よくすべからず。いわんや強迫教育法の如き、必ず政府の権威によりてはじめて行わるべきのみ。
ただし我が輩はもとより強迫法を賛成する者にして、全国の男女生れて何歳にいたれば必ず学につくべし、学につかざるをえずと強いてこれに迫るは、今日の日本においてはなはだ緊要なりと信ずれども、その学問の風 をかくの如くして、その教授の書籍は何を用いて何を読むべからずなどと、教場の教授法にまで命令を下すが如きは、また事のよろしからざるものと信ず。
思うに、
普通のイベントや施設ではリピーターを作るのに苦労するが、学校は義務教育や義務感により、ほぼ自然にリピーターが作ることが可能なのか?
学校以外で学べるのに学校に行く理由
・学校でしか学べないことがある(?)
・学校でしか得られない学歴(学んだ事実)を必要とする
(教育を受けた方が職業選択の幅が広がるなどの実利?)
・公的な補助を受けられる。(例 義務教育)
・教育が国民の義務だから
・義務感、横並び意識
学校教育が正当化される理由
・国家が教育を義務化するのは、
平等かつ強制的に、国民が教育を受ける必要性があるからか?
・しかし、保護者に向けては、
学校は学校以外では学べないことを学べる場所でなければ、
その存在を正当化しがたい?
学校の諸課題はどこから? 内在と外在(6/19追記)
レポートを出した先生も想像していないとは思うが、
学校教育の存在意義が問われる背景には、
おそらく学校教育の諸課題の指摘があるのではないか?
つまり、
「諸問題を出しているのに、これからも学校教育が必要なのか?」
という理由で問われているのではないか?
では、学校教育の諸課題は、学校教育の中にもともとあったか、学校教育はもともと不具合がなかったところに外から悪影響があったのか?(=原因は内在or外在?)
教採対策 原因はどこに - sazaesansazaesan’s diary
で述べたヘーゲルの言うように学校に内在していたか、
我が輩の所見においては、これを文部省の学制に求めず、また教師の不徳、教書の不経をも
咎 めず。これらは皆、事の近因として、さらにこの近因を生じたる根本の大原因に溯 るに非ざれば、事の得失を断ずるに足らざるを信ずるものなり。けだしその原因とは何ぞや。我が開国に次 で政府の革命、すなわちこれなり。
のように、教育制度(システム)、教師(ヒト)、教科内容(コト)の外部にある社会状況の変化、つまり、学校の外から来た原因か?
教採対策 教育の目的13
本記事は教育の目的について論じる教育原論のレポートの下書きメモである。
- 普遍的な教育の目的はあるか?
- なぜ教育の目的が問われるか
- 個人と国家からの期待に答えられない
- 教育万能論の問題
- 教育への期待 平田オリザ氏の批判から
- 教育の目的を問う理由2つ 6/3追記
- 余談 教育の目的を問う理由を思いついたきっかけ(6/3追記)
普遍的な教育の目的はあるか?
教育思想史の本を読んでいて気づいたが、
人間・社会の存在形態とその目標により、教育の目的は変わる。
異なる国・時代、異なる価値観にはそれぞれに「教育の目的」がある。
それらばらばらな「教育の目的」に共通するのは、
・望ましい能力・性格(自立も)。
・普遍的なものの維持と現代に起きた変化への適応(不易と流行)
の2つであろう。(それぞれの内容は時代・地域により変わる)
なぜ教育の目的が問われるか
学校以外のサービスと学校の違うところは、
全ての人の生活必需品ではない。
貴重な時間・予算は目的をもって使いたい。
教育の弊害が教育による利益より目立つ。
教育の目指しているものが他の人には理解できない。
以上の理由で、教育の存在意義が問われている?
個人と国家からの期待に答えられない
個人にとっては、
・みな進学する、画一化、平等風。
・教育で精神的に追いつめられる。
・自由やりたいことできず、社会の道具にされる。
・勉強で忙しく、勉強以外で才能を発揮できなくなる。
・教え込みすぎる(放置もダメだが)
(6/16追記
個人にとっての教育の負の側面については、
教採対策 何で勉強しないといけないの3 - sazaesansazaesan’s diary
も参考。)
社会にとっては、
・個人の才能を最大限発揮せず、社会を最大限発展させていない。
・現状を改善しない。
(6/16追記 かつては、教育によって
個人は立身出世、社会は人材獲得ができるという、個人も社会も得する状況ができていたのだろうか?)
教育万能論の問題
「タブラ・ラサ」説と教育万能論 -「生まれか育ちか」論争をてがかりに- | 学術機関リポジトリデータベース
P9-10
万能論の問題1 問題行動の原因は、育て方・教育の在り方・子どもの努力がすべて。
問題2 子どもの育ちに影響するのは育児だけとするなど、判断をゆがめる。
問題3 生得的な差異はないとすると、障害を見落とす。
近代における教育可能性概念の展開を問う : ロック、コンディヤックからヘルバルトへの系譜をたどりながら(フォーラム1)
p1-2 教育の目的がない、教育可能性は無制限=乱開発
教育への期待 平田オリザ氏の批判から
『わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か』(平田 オリザ)|講談社
pp67-68教育では短期的記憶、従順さ、根性を問うてきた。
発想や表現力・コミュニケーション能力は養えない。
その一方で、本書では学校自体が不要とは述べていない。
↓
以上の平田氏の話から、平田氏は
教育自体は必要だが、教え方が悪い、と考えているのだろう。
評論文 文化資本 内田樹『街場の文体論』補足 - sazaesansazaesan’s diary
で引いた話を見ると、平田氏は、学校が取り組むことで生徒は文化資本の格差を縮めるというように言っておられる。
教育の目的を問う理由2つ 6/3追記
理由1
教育に対する批判は、
教育自体への批判と、教育を施す手続きへの批判とがある。
教育の目的を問うことは、
教育自体への批判にこたえるヒントになるはずである。
理由2
もし生徒が
「職につながらないけど、大卒でないよりはましだから、大学に行く」
「学びたいこともない。学んでも現状改善しない。」
という諦めムードに満ちているなら、教員として何を言うか?
その際に、教育の目的を考えておくことは役に立つかも?
余談 教育の目的を問う理由を思いついたきっかけ(6/3追記)
で、ゴーストを追いかけて街を壊し逮捕されたシーンを見て、
「ゴースト(目的)が他の人に見えて、他の人もゴースト退治の必要性を理解できるなら、ゴースト退治で街を走り回ることは理解してもらえるのではないか。
同じように、教員は教育の目的を明確化したら、教育への協力が得られるのでは?」
と思ったのがきっかけ。
教採対策 学び合い
はじめに
個別最適な学びと協働的な学び、主体的対話的で深い学びなどが提唱される。
そのなかで、学び合いや協働学習が言われる。
教採対策 授業に使えるQNKS、けテぶれ - sazaesansazaesan’s diary
教採対策 同時異学習(個別最適な学びに関連して) - sazaesansazaesan’s diary
の続きとして、
学び合いについての参考になるものをメモしておく。
修得主義では学び合いが難しい?
修得主義や課程主義は、一定の期間における個々人の学習の状況や成果を問い、それぞれの学習状況に応じた学習内容を提供するという性格を有する。個人の学習状況に着目するため、個に応じた指導、能力別・異年齢編成に対する寛容さという特徴が指摘される一方で、個別での学習が強調された場合、多様な他者との協働を通した社会性の涵養など集団としての教育の在り方が問われる面は少なくなる。また、修得主義や課程主義の下における発展的な学習については、学習を深める方向ではなく学習を短い時間で進める方向に傾斜した場合、学びを深める機会が失われたり、学びのセーフティネットとなる他者との学び合いの機会が損なわれたりするおそれがある。
まとめると、
・個別学習になりすぎると、協働して社会性を習得できない。
・先に進むことばかりでは、学びが深まらず、学び合いがなくなって困る。
つまり、
個人の学習だけでなく、各人が協働で学ぶことも、両方大事。
・「学びのセーフティネット」
→(おそらく)理解できない生徒が理解できる生徒に教えてもらうことで授業についていける、ということ?
(それは学び合いではなくて、生徒同士で教えてあげているだけか?)
なお、この参考資料は、
修得主義の考え方により指導の個別化、
修得主義と履修主義で学習の個性化、
履修主義で協働的な学びを行うべし、としている。
おなじみの個別最適な学びと協働的な学びの解説になっている。
参考になる論文
や
学習支援と協働学習 ―東北大学Student Learning Adviserの事例を踏まえて― | 学術機関リポジトリデータベース
P31学習支援の4形態
P33 共同学習と協調学習の違いの表
協調的な読解問題解決の文脈において読解方略を学ぶことで産出欠如を克服する教育プログラムのデザイン
および
ここに引かれるPalincerは学び合いの元祖的な人らしい。
生成AIが切り拓く新たな認知発達の地平 ― ピアジェの反省的抽象化理論から読み解く脳の拡張可能性
ネット記事。特に4のAIと議論する話が参考になる。
生涯学習の観点から 5/20追記
学び合いをする意味(私の疑問)
生徒同士で教えるシステムになっていないのは、それでは限界があるからだろう。
教師は生徒以上に知識を持って、教える技術を心得ているから教える。
では、そうであっても、
・生徒同士で学び合いは成り立つか?
・生徒同士で学び合いをする意味とは?
教採対策 家庭教育・非制度的教育
はじめに 福沢諭吉に補足
(青空文庫)に、僭越ながら補足しておく。
(福沢以後の歴史研究としては、
明治期初期から中期の家庭の教育力に関する一考察―一家団欒に焦点をあてて― | 学術機関リポジトリデータベース
を参考。)
家庭は環境の一部
福沢氏は言う。
いわゆる教育なるものは
則 ち能力の培養にして、人始めて生まれ落ちしより成人に及ぶまで、父母の言行によって養われ、あるいは学校の教授によって導かれ、あるいは世の有様に誘 われ、世俗の空気に暴 されて、それ相応に萌芽を出し生長を遂 ぐるものなれば、その出来不出来は、その培養たる教育の良否によって定まることなり。就中 幼少の時、見習い聞き覚えて習慣となりたることは、深く染み込めて容易に矯 め直しの出来ぬものなり。
・教育は学校教育、制度的教育に限られず、家庭や社会の非制度的教育も含む。
・子どもは大人を模倣することは、
教採対策 教育の目的⑥ 内田樹の『下流志向』 - sazaesansazaesan’s diary
で引いた 3月22日 - 内田樹の研究室でも言われる。
学校教育におけるケア的かかわりの再考 : ケアと正義の視点からの養護教諭の存在意義 | 学術機関リポジトリデータベース
(博士論文)p41に家庭の近代と家庭の教育的機能についてはまとまっている。
人格への影響
全体これらの父母たるものが、教育といえばただ字を教え、読み書きの
稽古 をのみするものと心得、その事をさえ程能 く教え込むときは立派な人間になるべしと思い、自身の挙動 にはさほど心を用いざるものの如し。されども少しく考え見るときは、身の挙動にて教うることは書を読みて教うるよりも深く心の底に染み込むものにて、かえって大切なる教育なれば、自身の所業は決して等閑 にすべからず。
・今でいう教科指導と生徒指導に分けて、教科指導だけでは教育ではない、と主張。
・さらに、現代には親以外にも、メディアを通じて、いろいろ学んでいる。
現代の若者と特別活動 : ではない | 学術機関リポジトリデータベース
P13
いずれにせよ,良いことも悪いことも,酸いも甘いも,「人間として」の善と悪に関わる何かを,若者たちは「環境」から学んでいるのである。学校も,またそれ以外のSNSを含めたサイバー空間も,すべてが彼らを取り巻く教育環境の一つである。
学校と家庭は生徒の環境?(私の想像)
福沢は、子どもが学校と家庭と社会から教育を受けるとしている。
以下は教員採用試験の小論文対策のために私が想像したこと。
現代の生徒はより多くのアクターから影響を受けている(ように思う)
生徒にとって、
先生、学校全体、クラス、部活動、学校以外の友人関係、家庭・・・などはすべて環境では?
これらそれぞれがある個人を見る見方は異なる。多面的でとらえがたい。
↓
・家庭が子の全体像を把握することは難しく、家庭だけで習慣を形成できるとは限らないのでは?
・ならば、学校としては、何をしたらいいのか?
福沢はなぜ家庭教育を重視するのか?
簡単に答えられないが、理由の1つとして、
第2編で
国法の何ものたるを知らず、
己 が職分の何ものたるを知らず、子をばよく生めどもその子を教うるの道を知らず、いわゆる恥も法も知らざる馬鹿者
が多くいるから(そこまで言わんでも……)、政府も圧政を敷くと述べている。
自由な社会のためには、各人が教育を受け、子どもに教育を受けさせる必要がある、ということであろう。
文化資本と遊び
・福沢の言う習慣には、
評論文 文化資本 内田樹『街場の文体論』補足 - sazaesansazaesan’s diary
の言う文化資本や
教採対策 教育と遊び - sazaesansazaesan’s diary
の遊びも含む?
家庭学習の問題
で知ったのだが、新宿区HPには家庭教育支援のページがある。以下を参照。
効果のある学校 / 鍋島 祥郎【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア
(第4章 p129 初出1994)
到達度・意欲の違いに合わせた個別対応として、宿題を出す。
宿題を出すのは、家庭が協力的、家庭学習が成り立つことを前提としている。
=宿題は家庭依存的
同書の書評も参考。
教採対策 アクティブラーニング、学習理論
国語教育 言語活動の問題 - sazaesansazaesan’s diary
教採対策 総合的な学習の時間1 - sazaesansazaesan’s diary
のつづき。アクティブラーニングについてのメモである。
以下ではアクティブラーニングをALと略す。
ALの基礎
21世紀型の資質・能力をいかに育成するか | 学術機関リポジトリデータベース
はALを考えるうえで重要な論点をまとめた講演。
P9以後でジグソー法の実践について。
も短いながらよくまとまっている。
主体的学びが成立するための条件の探求 | 学術機関リポジトリデータベース
AL研究の整理と、主体的な学びの3レベル
アクティブ・ラーニング授業実践事例(200事例)|NITS 独立行政法人教職員支援機構
ALが成立する学級経営の条件
協同学習に対する自律的な動機づけに働きかける教師の信念及びそれに規定された指導行動に関する事例研究
では学級経営で重視されるルールとリレーションに注目している。
小学校におけるアクティブラーニング型授業の実施に関する一考察―現状の学級集団の状態からの検討―
学級経営で有名な河村茂雄氏らの研究。
(※河村氏は 教採対策 学級経営2 - sazaesansazaesan’s diary に登場。)
その他 AL関係
に引かれる学習の共同性・社会性や「社会的に共有された調整学習」(SSRL)
学習理論のまとめ
言語機能からみる学びの三角形 | 学術機関リポジトリデータベース
(リクルートマネジメントソリューションズの記事)
スキャフォールディング
理論を応用したものとされる。
ヴィゴツキーについては、「わかったつもり」研究で有名な
田島 充士 (Atsushi Tajima) - マイポータル - researchmap
の 再文脈化としての概念変化も参考。
共同推敲における学習者の認知能力に関する研究 ―発達の際近接領域に着目して―
p164で、
教育心理学者たちの世紀 - 福村出版株式会社 心理・教育・社会学を中心とした学術出版社のp289にもとづき、
→スキャフォールディングへの批判。本来のヴィゴツキーから離れている。
スキャフォールディングはヴィゴツキーをいかに応用したかについては、
ブルーナーにおける「足場かけ」概念の形成過程に関する一考察 | 学術機関リポジトリデータベース
エンゲストロームの拡張的活動理論
ALへの応用として、
ファシリテーションの視点を生かしたアクティブラーニングのための教員スキルに関する研究
言語活動の充実と学習環境づくり | 学術機関リポジトリデータベース
のとくにp6
ひとまず以上。
国語教育 文学教育に使えそうな内田樹氏のブログ
文体論で言及した記事
評論文の背景 内田樹「届く言葉」(『街場の文体論』所収) - sazaesansazaesan’s diary
で紹介した
漱石への言及
虞美人草について。
『変身』や『吾輩は猫である』は憑依文学。
『吾輩は猫である』の登場人物の年齢について。
→責任についての話。ここに出てくるマクガフィンは、
「「おじさん」的思考」内田樹 [角川文庫] - KADOKAWA
第4章漱石論の13節では、「こころ」の先生が作品中のマクガフィンとされる。
映画の解釈方法
Thinking about movies, Watching, Questioning, Enjoying, Peter Lehman & William Luhr, 1999
から、映画に誤読はないという説を紹介。
つじつま、あやしさについて。
(映画の解釈について)
ただし、「好き放題にやってよろしい」と断言するためには、それなりの学術的基礎づけが必要だ。
映画における視点の問題 誰が見ていたのか?
映画とは関係ないが、テクストと武道の型については、解釈の正誤ではなく、解釈の貧富があるだけ。