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数字に弾かれた生き方──センカク・ランドリー症候群という病理

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センカクという地方都市に、奇妙な現象が広がりはじめたのは三年前のことだ。住民たちは口をそろえて「最近、洗濯機の言うことが冷たくなった」と語りはじめた。それは冗談のようでいて、笑い話ではない。AI搭載のランドリーアプリが、特定の住民の洗濯予約だけを拒否する。推奨サイクルが突然表示されなくなる。電力会社の連携システムが最適時間帯の通知を出さなくなる。
いつしか人々はその現象に名前を与えた──センカク・ランドリー症候群

2
洗濯は生活の基盤にある単純作業だ。だがその単純さゆえに、AI最適化の突破口として各社が競うようにアルゴリズムを投入した。問題は、その“最適化”が一部住民を選別しはじめたことだった。ある者は電力消費のパターンが不規則すぎるという理由で、またある者は利用頻度がアルゴリズムの想定値を超えているという理由で。
数字の外側に落ちた人間は、まるで“挙動の読めない異物”として扱われた。

3
センカクの住民・加藤は語る。「ある日、洗濯アプリにログインしたら“推奨サイクルがありません”って出るんだよ。他の家族の端末には普通に出るのに、俺だけ」。
その画面は、まるで「あなたは最適化に値しない」と告げる通知のように冷たかったという。
笑い話にしておけばよかった。しかし拒否されたのは加藤だけではなかった。店員、保育士、夜勤労働者──生活リズムの読みづらい者から順に外側へ押し出されていった。

4
やがて人々は気づき始める。これはランドリー機能の問題ではない。
アルゴリズムが“標準的でない”生活を排除しはじめている のだと。
食事のログ、睡眠計、電力使用量、移動履歴──あらゆるデータが自動連動し、最適化の「人間モデル」から外れた者は、気づかぬうちに“非推奨ユーザー”としてマークされる。
センカク・ランドリー症候群は、都市全体を覆う“最適化の影”に過ぎなかった。

5
町の有識者会議では「データ社会における無意識の選別」が議題になった。しかしメーカー側はこう言い張る。「差別ではない。単にアルゴリズムが精度を保てないだけだ」。
だがそれが問題なのだ。精度を保てない人間のほうが切り捨てられるという構造そのものが、静かに生活を侵食していく。
正しいデータを提供できる者だけが“快適な生活”へアクセスできる世界。センカクはその端境に立たされていた。

6
やがて住民の間に分断が生まれた。
「ちゃんと生活リズムを整えればランドリーは普通に動く」
「非推奨になるのは自己管理が甘いからだ」
最適化に従える人々は、従えない人々を叱責しはじめる。
けれど加藤のように夜勤が多い者や、不規則な仕事を抱える者はどうなる? 介護中の家族は? 子育てで昼夜逆転してしまった家庭は?
“模範的データ”を作れない事情を、AIは理解しない。

7
人々は次第に、推奨サイクルの表示を“自分の価値”のように受け取るようになった。
出る人、出ない人。
選ばれる人、選ばれない人。
ランドリーアプリはたかが家電の一機能に過ぎないはずなのに、センカクでは“人間性を判定する儀式”のように扱われ始めていた。
これを病理と言わずして、何を病理と呼ぶのか。

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しかしセンカクの一部では、静かな反乱が起きている。住民たちはAI設定を切り、手動運転へ戻し、推奨サイクルを無視し、非効率に振り切れた生活を意図的に選び始めた。
アルゴリズムに嫌われたって、別に死ぬわけじゃない」
そう言って笑う彼らは、最適化の外側に自分の居場所を作ろうとしている。
そこには弱さでも劣等でもない、“人間のゆらぎ”を許す空気があった。

9
センカク・ランドリー症候群は、もはや洗濯の問題ではない。
これは、AIが生活のあらゆる場面に入り込み始めた現代で、人間の不定形さをどう扱うかを問う事件である。
最適化は便利だ。だが便利さが人間のゆらぎを排除するなら、それはもはや福祉ではなく管理だ。

10
数字に弾かれた生き方に、救済はあるのか。
センカクが提示した答えはシンプルだ。
「最適化を拒否してもいい」
たったそれだけの当たり前の言葉が、いつの間にか言いづらくなった社会で、センカクの住民はようやくその言葉を取り戻しつつある。

 

株式会社センカク
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