孤憤

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天国は有った方が都合が良い

1 生死の意義
 人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのであろうか?
 また、私たちは何のために生きているのであろうか?
 誰でも時折抱えてしまう疑問であるが、私は二十歳の頃、この疑問に対して一つの仮説を立て、概ね解答に辿り着いた。しかし、その解答は、科学的な視点を基にしたものであり、愛や憎しみ、さらには血も涙もない、冷徹で非情な現実を前提にしたものである。
 だいたい、このような疑問を持つ時は、何かに挫折し、物事がうまくいかないなど、メンタルが弱っている時である可能性が高いので、ここで提示するのは憚れるのだが、本稿の前提として提示する必要があるので、願わくば、あまり真正直に受け取らず、生物の基本的原理を聞いている程度で読んでもらえるとありがたい。
 
□ 生の意義
 DNAの最も単純なプログラムは「できるだけ長く、自分と同じ仕組みを持つ生命体を後世へ引き継ぐ」というものである。私たちの肉体は、このDNAを生かし、維持するための装置に過ぎない。そして、このDNAは、他のDNAと交配することによって、より多様性を持たせ、絶滅のリスクを減らそうとする。
 複雑化したDNAは、異種との交配が困難になった。そこで、雌雄が別れ、有性生殖が生まれた。現代人の脳の多くは、異性に対する関心によって占められている。それもまた、DNAが持つ、この単純なプログラムに起因するものだと言えよう。
 しかし、こう説明すると、よく、「子供を持たない人には生きる意義が無いのか?」という問いが投げかけられる。そこで、私は、「例えば、働きアリはすべてメスであり卵巣を持っているが、生殖の役割を持たない。」と例を挙げる。すると今度は、「じゃあ、子供を持たない人は、子供を持つ人のための奴隷ですか?」という問いが続く。
 働きアリを奴隷だと考えてしまうところが、通常の人々の印象だから仕方ないのだが、考えようによっては繁殖するためだけに、巣の中心地で自由が効かない女王蟻の方がよっぽど種族の奴隷ではないのだろうか。それからアリの生態は面白いもので、この数万のメスの中から突如数匹だけがオスに変異する。もしかしたら今日誰かに踏みつぶされた一匹の働きアリが次の稀有なオスだったかもしれないのである。
 ここで、私が言いたいのは、有性生殖を行う個体だけが重要なのではなく、周囲の他の生命体の存在も重要であるということだ。
 これは、自分の生に疑問を感じている人たちに特に伝えたいのだが、私たち一人ひとりが生きることによって、多くの影響を周りに与えており、仮に自分が子供を産まなくとも、その影響は確実に存在しているのである。どんな生にも活動する限り、無限のバタフライエフェクトがあり、意義のない生など存在しない訳である。
 
□ 死の意義
 これも、DNAのプログラムによって説明することができる。
 DNAは「テロミア」と呼ばれる細胞分裂の回数を制限する仕組みを持っており、これによって個体の寿命が決まる。この仕組みは、細胞分裂の過程でエラーが蓄積し、それが有害にならないようにするための安全装置である。
 私たちの人生が有限であることは、恐怖であり、それを克服できたとしても虚無感は否めない。しかし、残念なことに、私達の「人生」と呼ばれるものは、DNAというOS上に構築されたアプリケーションソフトが生み出した世界にすぎない。DNAの継承は重要だが、アプリケーションの意識を引き継ぐのは、非効率である。まあ、人類は文字というものを発明し、記憶を引き継ぐことには成功しているが。
 
 以上が、二十歳の頃に私が到達した生死観である。
 
 しかし、これではあまりに非情で虚無感が強すぎるので、当時の私が同時に建てた仮説も掲載しておこう。
 
□ DNAの目的
 私は、DNAの最終的な目的は、宇宙そのものを制御することにあるのではないかと考えている。
 この突飛な発想は、漫画家大友克洋の傑作『AKIRA』から着想を得たものである。
 物語の中で、実験体41号:鉄雄は、強大な超能力を持つが、その力は膨張し続け、やがて制御不能になり、害悪の権化と化す。そのため、次元をも操れる力を持つ実験体28号:AKIRAによって、異次元へと転移させられる。
 宇宙はおそらく素粒子以下の素子の揺らぎから始まったが、今では、無秩序に膨張し、無用な自己複製を続けている。そこで、この膨張と複製の中で、宇宙は自らを制御するものを求めているのではないかという仮説を立てたのである。
 そして、地球においてはその有力候補が、DNA式生命体というわけである。従って、DNAの最終的目的は、宇宙そのものを制御するか、それが出来ない場合は、これを抹消する力を得ることではないかと考えている。
 もしこの仮説が正しければ、DNAが私達のククたる悩みなど一切介さない理由も、多少は納得できる人もいるだろう。
 
2 天国と地獄
 中世の生死観は実に単純であった。神が存在し、私たちが生きている間に行った行為によって、死後に天国へ行くか地獄へ行くかが決まる。非常に分かりやすいものであった。
 私が前章で述べたように、人類は最終的には宇宙をコントロールする理性を目指しているとしても、そのような壮大な目標が個々人にとって生きる意義となるには、あまりにも大きすぎる。私一人がいなくなったところで、世界は何も変わらないだろうと結論づけてしまうのも無理はない。
 だが、多くの宗教が示唆するように、もし死後の世界が存在し、そしてその死後の世界における自分の立場が現世での行いによって決まるのであれば、人は道徳を重んじ、理性を保とうとするだろう。
 
 しかし、またここで水を差すようで悪いが、現代科学において死後の世界は存在しない。私たちが「人生」と呼んでいるものは、前述したように脳内で動作するアプリケーションソフトによって作り出された仮想の世界に過ぎない。私たちの肉体も、DNAというOSも失われてしまうと、それは消滅するほかない。
 さて、天国も地獄もないとなると、何のために生きているのかという問いが深く心に迫ってくる。現在不遇に苦しむ人々、生命の意義を見いだせない人々にとって、DNAの壮大な計画など、何の意味も持たないであろう。時には、そうした人々が、「どうせ無意味ならば、思いっきり暴れて焼身自殺でもしてやろうか」と考えても無理はない。至って迷惑な話なのだが、自暴自棄者にとって、その選択は救いの一つであるから困ったものである。
 
 しかし、最近になって私はあることに気づき、もしかしたら天国と地獄は実際に存在するのかもしれない、という考えが芽生え始めた。そして、驚くべきことに、現在の自分が地獄行きであることにも気づいてしまったのだ。 
 そのきっかけとなったのは、クリストファー・ノーラン監督の映画『インセプション』における設定である。

 夢の中では時間が現実よりもゆっくりと流れる。深層心理に近づくほどその現象が顕著に現れる。科学的に解明されていないが、多くの人がそのような体験をしたことがあるだろう。『インセプション』では、夢の深層にある第4階層(夢の中の中の中の夢)においては、時間という概念すら消失し、永遠の時間に浸ることになる。ただ、このような状態では理論的な思考が働くことは難しく、文字通り意識を持つことはほぼ不可能だろう。 しかし、現実に第4階層の夢で意識が保持できるとなるとどうなるだろう。 死に至る瞬間、脳が酸素供給を失うと、脳細胞はもがき苦しむが、最終的には弛緩するという。もしその、もがき苦しむところで意識が残っていて、それを自覚しているとしたら、極めて苦しい時間が続くことになるだろう。恐怖が無駄に意識を引き延ばし、まるで第4階層の夢を見続けているような状態になるとすれば、それはまさに地獄である。 逆に、死をある程度悟っていて、楽しい思い出しか浮かばない場合、いわゆる思い残すところのない人生だった場合、脳細胞が苦しみ始めても、それを死の過程の一部だと受け入れることができる。そうすれば、別に肉体的苦痛が実在しているわけではないから、苦しむことはない。もし、その状態で永遠に楽しい深層心理の海に漂い続けることができるなら、それは天国に他ならない。

 アインシュタインの理論によると、時間の進み方は、物体が存在する加速や重力場によって異なる。私たちの意識は、言ってみれば、コンピュータゲームの中のバーチャル世界そのものである。考え方次第では、外部の重力系とは関係なく時間が過ぎることも不思議ではない。 病床で生命維持装置が外され、親族や医師からは、今まさに死に臨んでいるように見えるその刹那、永遠とも言える時間が存在する可能性がある。そして、その時間が地獄であるか天国であるかは、これまでの積み重ねてきた深層心理の要素に左右されるのだろう。

3 天国に行くために

 自己主張が強く承認欲求が高い私は社会に適応できないらしく、精神科医の指導の下、日中は睡眠薬精神安定剤で自我を抑え込んでいる。さらに、夜になると抑制された自我が睡眠を妨げるため、より強力な睡眠薬を処方されている。ところが、この薬が数分で意識が飛ぶほど効くという代物で、逆にかえって副作用の不安を感じさせた。そこで、仕事に影響がない週末などは、あえて自然睡眠を試みた時期もあったのだが、さっぱり眠れない。 そこで、薬の量を調整してみたら、かえって悲惨な結果を招いてしまった。それは、必ず「悪夢」を見るという現象だった。 日中、抑えられた自我は夜になると反動として暴れ出す。そして、薬でその暴走を中途半端に抑えると、私は第4階層で目覚めさせられる。そこには、悲しいことに、幼少期のトラウマが生み出した恐怖や悪魔が存在し、私に悪夢を見させる。 
 私が生まれ育った家での記憶は、今でも深層心理に強く残っている。特に兄と母の記憶が悪い影響を与えている。父親は、私が左利きだと知ると、毎日私を叩いて矯正しようとしたそうだが、なぜか父親のことは夢に出てこない。それでも、幼少期に受けた脅威や恐怖は体が覚えており、その影響が私の思考や行動に変化を与え、兄や母はその変異を理解できず、気味悪がっていた。
 父の誕生日が12月25日だったため、家族は毎年クリスマスパーティーを開いていた。ユーモアが溢れる家庭だったが、そのユーモアには時折悪意が込められていた。特に母と兄は、私を笑いの対象にすることで、私の変わり者の性格や異変を攻撃していた。このことが、私の無意識に深く影響し、今でも強力なトラウマとして残っている。
 私は、家を出てからも、この無意識のトラウマと戦い続けていたように思う。そして彼らの主張を覆すには、私の変異した発想を正当化することが必要だと感じ、それを先鋭化させてきた。その結果、理解力や発想力には長けているが、記憶力や協調性が極端に低いため、精神科医をして社会不適合者の烙印を押された。
 というわけで、私が死ぬ直前に見る夢が悪夢である可能性が高い。前述の論理を踏まえれば、私は地獄に行くことになるだろう。

 しかし、妻と出会ってからは、私の人生は大きく変わった。貧しくとも楽しく、激しくとも和やかに、互いに支え合って、私たちは多くの幸せを共に積み重ねてきた。にも関わらず、無意識の中では、未だに幼少期のトラウマと争っているというのは実に残念である。
 こんな性格なので、仕事の上では大成できなかったが、二人の子供が立派に成長してくれたことが何よりの喜びだ。これからも山あり谷ありの人生が続くだろうが、私がやらかしたような失敗はしないだろう。その根拠については、また後日とするが、とにかく、今の所、私は思い残すものの無い状態にある。従って、私はいつ死んでも構わないということになるが、一つには、命には価値がある。価値があるものなら、少しでも高く売れるタイミングで手放したいので生きている。
 そして、それより心配なのは、もし今死んだら、あの無意識の存在たちが悪夢となり、私は地獄に堕ちる可能性が高いことである。
 
 というわけで、無意識の中から彼らを追い出して、この戦いを終わらせなければならない。

 昨年末で引退した私の主治医は言っていた。「あなたの社会適用を阻害している突出した才覚を抹消し標準化する薬品は存在する(まるでロボトミーだ)。これを使えば、根治は早い。逆に、自我を抑えるだけでは、治療を長引かせるだけでなく、自我の反転攻勢を警戒し続けることも求められる。しかし、私はあなたの才覚、殊に文才については、奇貨だと信じている。あなたの個性は、本来称賛されるべきものだと思ってみませんか?」
 ということで、私は、社会に適応するために整形手術を選ばず、仮面をかぶることを選んだ。だから、仮面の下の個性は、本来誰にも否定されるべきものではないと強く信じようと思う。そして、生家で培われたトラウマと戦う必要はないことを自覚し、今後も機会を設けて自然睡眠に挑戦し、悪夢が訪れた時には「もうお前たちとの戦いは終わった」と告げ、彼らを無意識の世界から追い出すことを目指す。
 次に、これからは妻との時間を大切にしようと思っている。私の人生における唯一の黒字は、妻と共に築いた家族とのつながりだ。この黒字の記憶で深層心理を満たすことができれば、最後に見る夢が天国になる可能性も高くなるだろう。
 もし私が希望をかなえてもらえるなら、あの日の夢が見たい。それは、大阪城公園の木陰のベンチで、彼女の膝を枕に横たわり、初めて人を愛しいと感じたあの日のことだ。 

ポール・ゴーギャン『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』

 

 ゴーギャンという画家は、あまり好きではない。彼は独自性を強調しようとしているようだが、ゴッホルノワール、モネのように極限を追求し、その中で生まれた独特の強さや刀傷を感じさせることがないからだ。その理由の一つは、この絵画に見られる「説明」が多すぎる点にある。絵の右端にいる赤ん坊から左端の老婆まで、一人の人間の一生を描いており、わかりやすいが、どうしても説明が多くなりすぎてしまう。
 セリフが多かったり、説明が過剰な漫画やドラマが退屈だと感じることがあるように、芸術においても過剰な説明は魅力を薄めることがある。画家なら、画力でその深さを表現し、役者なら演技でその感情を伝えるべきだ。それが作品に余計な説明を加えることなく、観客に感動を与える力になるのだと思う。
 私の文章も、薬品で自我を抑えるようになってから、「簡にして要」を欠く駄文が増えた。
 フェルメールのように多くの寓意を持つ「アイテム」をや、凝縮された表現を駆使して、読者に連想させ、読者自らが扉を開き、その好奇心を満たせるような文章を書けたら望外の喜びである。
 いつか主治医が残してくれた私の「文才」とやらが、私を天国へ導いてくれることを望む。