「兄貴の出撃も、ある意味、特攻に近かったと思うんですよ」
と、特攻隊戦没者慰霊法要の席で、かつて日本海軍の戦闘機隊指揮官だった岩下邦雄(1921-2013)は語った。岩下は83年前の昭和17年10月26日、日米機動部隊が激突した「南太平洋海戦」で、空母瑞鶴の艦上爆撃機搭乗員だった実兄・石丸豊大尉を亡くしている。石丸豊と岩下邦雄は、兄弟で飛行学生を首席で卒業した。学業優秀、スポーツ万能、人格円満な豊は、邦雄にとって目標ともいえる、尊敬する兄だった。
「十死零生」の特攻隊と、生還の可能性がわずかでも残されたほかの部隊とで、隊員の精神状態を比較することはむずかしい。だが、南太平洋海戦は、その2年後に始まった「特攻」と比較して、岩下がそう回想してもおかしくないほどに凄絶な戦いだった。
前編記事<南太平洋海戦で起きた「護衛任務の放棄」…「ミッドウェーの悲劇」を回避した指揮官の決断と「攻撃隊8割死亡」の凄絶な実態>から続く。
シメタ!モールス信号から聞こえた一筋の希望
機動部隊は第一次攻撃隊を発進させた後、ただちに第二次攻撃隊の準備にかかり、翔鶴から零戦5機、九九艦爆19機、瑞鶴から零戦4機、九七艦攻16機を発進させた。
第二次攻撃隊もグラマンF4F 10数機の邀撃を受け、さらに対空砲火を浴びて、艦爆12機、艦攻10機、零戦2機を失った。米空母エンタープライズと戦艦サウスダコタに新たに装備された新型のエリコン20ミリ、ボフォース40ミリ対空機銃の威力にはすさまじいものがあった。
そんななか、第二次攻撃隊に参加した翔鶴零戦隊の佐々木原正夫二飛曹(のち少尉。1921-2005)は、被弾し、気息奄々としている敵空母ホーネットを上空から見て、機上でバンザイを叫んだという。佐々木原は、日記に次のように記している。
〈クルシーを入れてみると、味方の母艦群より連続信号を発信してくるのが受信された。然し未だ母艦は見えず、又その位置も判らなければ測定も出来ぬ。クルシーが破壊されてゐるのだ。諦めて電話(音声通話)に切り換えたが感度なく、電信(モールス信号)にダイヤルを切り換えると間もなく感度あり、総戦闘機(サクラ)及び制空隊(ツバメ)に呼びかけているのが聞こえた。
シメタ!と受信に掛る。右手の操縦桿を左手に持ち、レシーバーを完全に装着して、ダイヤルを調節して聞こえるのを右膝の上の記録板に書きとめる。
『サクラサクラ我の位置、出発点よりの方位二十八度 九十五浬 速力三十ノット、針路三十三度。一三三五(注:午後1時35分)』
次いでサクラサクラと連送して来る。直ちに母艦の位置を計算、会合点時間を計測する〉
翔鶴より九七式艦上攻撃機で索敵に発進していた吉野治男一飛曹(のち少尉。1920-2011)は、途中、敵艦上機と遭遇したほかは敵影を見ず、午前9時頃、母艦上空に帰ってきた。吉野は語る。
「着艦セヨの信号で着艦コースに入り、艦尾近くに達してまさに着艦寸前、母艦の着艦用誘導灯が消え、飛行甲板が大きく左に傾きました」
上空では、敵急降下爆撃機が、まさに攻撃態勢に入っていた。翔鶴はそれを回避するために右に転舵したのだ。吉野の目前で、翔鶴はたちまち、おびただしい水柱と煙に覆われた。
翔鶴には爆弾3発が命中、幸い、攻撃隊を出した後でミッドウェー海戦のときのような誘爆は起さずにすんだが、瑞鳳に続いて発着艦が不可能になった。
吉野機をはじめ、攻撃や上空直衛から生還した飛行機は瑞鶴に着艦せざるを得なくなる。同じ頃、艦隊前衛の重巡洋艦筑摩も、敵の爆弾4発を受けた。