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五輪閉会式が可視化した「男性優位社会、昭和的、電通的な何か」の終焉と一つの希望

この高い授業料を無駄にしてはいけない

東京オリンピックが、決して「無事に」ではないが、閉幕した。8月24日からはパラリンピックが始まる。少しの間だけ、日常に戻ることができる。テレビが五輪中継に埋め尽くされ、スマホの通知が五輪ニュースだらけという日々がいったん終わった。首都高も通常の料金で乗ることができる。

酷評された開会式・閉会式だったが、よく考えると、今の日本を見事に捉え表現し世界に発信したという意味では、「大成功」ではなかったか。田舎の盆踊り、会社の社員総会と揶揄された開会式・閉会式も、メダルラッシュも、すべては「現実」だ。男性優位社会、昭和的な何か、電通的な何かの終わりを感じた瞬間でもあった。そう、これは日本の縮図なのだーー。

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成長も成熟もしていない日本社会

「東京五輪の閉会式、どうだった?」と聞かれたら、あなたはどう答えるか?

私ならこう答える。「フランス、パリ五輪の予告編が最高だった」と。正直、「やられた感」しかなかった。

オーケストラの演奏から始まり、古都を駆け抜けるBMX、宇宙でのサックス演奏、エッフェル塔の前に集合した市民たちと帰国したばかりのメダリスト、その周りを飛ぶ飛行機が放つトリコロールカラー、マクロン大統領のメッセージ、組織委員長のカメラへのサイン……。

あの祝祭的な高揚感を思い出し、キーボードを叩いているだけで涙が出てきた。感動と嫉妬で、だ。その後、お通夜のような気分になってしまった。そして「そうだ、パリ、行こう」と、決意した。

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反面、東京五輪閉会式は、まるで中小企業の社員総会、田舎の盆踊りとカラオケ大会、NHKの子供向け番組を見ているかのようだった。いや、失礼。中小企業の社員総会も、田舎の盆踊りやカラオケ大会、NHKの子供向け番組も魂かけてやっている。それは分かっている。ただ、あの閉会式には、五輪開催に肯定的な層でさえ疑問を持ったのではないか。

ダンスなどのパフォーマンスもすべて、想定の範囲内のもので、唸るものではなかった。個人的には東京スカパラダイスオーケストラが登場した際に、たまに音源を聴き、フェスに出ていたらふらりと見る程度のファンとして「おっ」と一瞬だけ思ったのだが、「でも、スカパラでいいのか?」と心配してしまった。NHKのアナウンサーは世界での活動実績についてふれていたのだが、とはいえ、世界の誰もが知っているアーティストだと言えるだろうか?

しまいには、「上を向いて歩こう」に「東京音頭」である。この名曲たちにケチをつけるわけではない。特に「上を向いて歩こう(海外ではSUKIYAKI)」は、世代を超えた人生の応援歌ではある。しかし、やや意地悪な視点で言うならば、これを超えるヒット曲を日本は世界に向けて送り出してこなかった、ということではないか。

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今さら言うまでもないが、開会式もひたすら内向きであった。登場人物に、世界に通じる日本人があまりに少なかった。紅白歌合戦、24時間テレビの域を出ていなかったのではないか。

出てきた著名人の中で、世界的に圧倒的に有名な人、評価されている人はごくわずかだった。ドラクエの曲が流れた瞬間は若干、テンションが上がったものの、とはいえ、この曲は世界の人にとってどれだけ知名度があるのだろうと心配になってしまった。

「五輪をやる意味」がぶれぶれだった

長嶋茂雄、王貞治、松井秀喜の揃い踏みには、それなりに感動したが、世界中で圧倒的な知名度の人はほぼ皆無である。身体が不自由なのにもかかわらず登場した長嶋茂雄の姿は感動を呼んだが、私にはそれを支える同い年の松井秀喜が老いていることの方が衝撃だった。この美しい光景にケチをつけるわけではないが、私たち世代は高齢者を支えて生きるのかと悲しくなってしまった。

リオ五輪閉会式での東京大会予告映像ほどの高揚感がない。あのとき登場していたアニメやゲームのキャラクターは、ある意味、世界一有名な“MADE IN JAPAN”である。日本として最高にクールなものは何か。そのあたりが前面に出てはいなかった。それが何なのかも分からなくなった。

直前に、過去の問題発言の発覚により開会式関連で小山田圭吾や小林賢太郎の辞任・解任劇があった。この件ついては、組織委員会の脇の甘さや、一方でキャンセル・カルチャームーブメントに対する批判も沸き起こった。ただ、小山田圭吾や小林賢太郎が出てきたところで期待薄だ。「誰それ?」「これはどこがすごいの?」となってしまったはずだ。

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一部のメディアでは、流出したMIKIKO氏の開会式企画案が紹介され、拡散し共感、支持を呼んでいた。たしかに、この開会式や閉会式よりもずっと良かったと私も感じた。だが、そのMIKIKO氏案だったとしても何かが足りない。それは、結局のところ、日本が2020年(実際には2021年)に五輪をやる意味がぶれたからだ。抜け落ちてしまったからだ。

「次はこの感動を、ニッポンで!」「復興五輪」「コンパクト五輪」「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」「コロナを世界が団結して乗り越えることができたことを日本から発信したい」など、様々な「五輪ポエム」が披露されたが、結局、何のための五輪なのか分からなくなってしまった。それが開会式、閉会式にも現れていた。

何のための五輪だかわからないのだから、ブレる。まるで高校の学園祭バンドが、BOOWY、ユニコーンからメタリカまで、メンバーの好きな曲を手当たり次第に演奏するかのようだった。

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招致時から酷暑対策が指摘されていた。それに加えて感染症の拡大だ。「バブル方式」さらには「無観客開催」など、徹底した対策が行われたこともまた事実だが、この環境下で五輪をやることの意味が何なのかよく分からなくなってしまった。

我が国が成長も、成熟もしていないこと、世界に発信できる何かが不明確であること、様々な犠牲の上で成り立っていることが可視化された五輪だった。この上ない、残酷ショー、矛盾に満ちたステージだった。

電通的、男社会的、昭和的な何かをこえて

憲法改正に関する議論において、改憲派、護憲派がそれぞれ一様ではないように、五輪に関する賛否もそれぞれ意味は異なる。五輪とはそもそも、開催国が日本であろうとなかろうと、コロナがあろうとなかろうと、賛否が渦巻くものだ。

商業化、政治利用、五輪開催後のダメージ、さらには競技の場として最適かどうか、ドーピングなどの具体的な問題にどう向き合うかなど、常に賛否を呼ぶ。しかし、それはあくまで五輪のあり方の問題である。

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今回、日本で散見された、五輪の開催の是非がいきなり、「お前は努力しているアスリートたちを批判するのか」という論理の飛躍につながるのは、あまりに幼稚で恥ずかしい事態である。ネトウヨ対パヨクの幼稚な論争と片付けるつもりはないが、とはいえ、極端な賛否に揺れたのではないか。

もっとも、「この状況でやるのか」という批判を誘発しやすい状況ではあった。感染が拡大し、人々が様々な我慢を強いられている中で、やるのか、と。

結局のところ、どの立場の人も心から喜べない五輪になってしまったのではないか。そして、五輪開催への批判も、選手の活躍に歓喜する様子も必ずしも矛盾するわけではないのに、分断を加速する。なんとも後味の悪い五輪であった。

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Twitterでは今日も五輪をやってよかった派と、そうではなかった派の対立が可視化されている。この、よかった、悪かったも雑な振り返りだ。しかるべき人が、しかるべき手段で、指標を決めて、エビデンスベースで振り返りをするべきである。

ただ、その雑な振り返りに乗るならば、私は「やってよかった」と言うことにする。日本の恥、膿を全世界に晒すことができたからだ。

今度こそ変わらなくては

政権はこれにより、支持率の向上、浮揚を目指し、秋の総裁選や総選挙につなげるつもりだったのだろうが、コロナ対策の失策が見事に可視化され、また無観客にしても(五輪と関係するのか否かという議論はあるが)、感染が明らかに爆発し、五輪ですべてを忘れるという状態には至らなかった。

一連のプロセスを通じてこれまでの五輪のあり方、男性優位社会、昭和的な何か、電通的な何かの問題が可視化されたのではないだろうか。

準備の段階から、開催期間まで、徹頭徹尾、スキャンダルの連続だった。なかでも、セクハラ発言のようなものや、明らかに男性中心の意思決定などが明らかとなった。頑張ってメダルをとったところで自治体の首長にメダルをかじられ、容姿や恋愛についてコメントされる。やっていられない。

開会式ではMISIAが「君が代」を歌った。最終の聖火ランナーは大坂なおみだった。彼女たちは多様性の象徴と呼ばれる。しかし、会社の経営陣や管理職が突然、SDGsバッジをつけても、いきなりは何も変わらないのと一緒で、彼女たちを立てただけで、いきなり男性優位社会が変わるわけでも、多様性が認められるわけでもない。この男性優位社会、しかも高齢者たちが権力を握る社会をなんとかしなくてはならない。

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開会式、閉会式、さらには今回の五輪招致から開催まで、その前の自民党政権になりアベノミクスが発動された件においても、昭和へのノスタルジーを強く感じた。あの頃はよかった、と。ただ、結局、昭和から平成、令和にかけて少なくとも日本社会は前に進んでいなかったことが浮き彫りにされたのではないか。

もろもろ、案件を丸投げで受け、バブル期よろしく有名な人をとりあえず立て、中間で搾取する電通的な仕事の進め方もだ。もっとも、「電通的」と批判するのはややためらってしまう。彼らを擁護するわけではないが、電通も所詮はクライアントの言いなりだからだ。

依頼主に確たるビジョンがないのだから、ふわっとしたかたちでまとめてしまう。その結果、古い日本、進んでいない日本の「ダサさ」が可視化されたのではないだろうか。

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これはまずい。私たちはいい加減に目覚めなくてはならない。いや、少なくとも40代までの人は目覚めていてほしい。今度こそ、この社会に危機感を抱き、加速度的に変わらなくてはならない。

選手こそが、日本の進化の象徴だった

それでも救いがなかったわけではない。若い選手たちの活躍こそが、東京五輪が残した希望だった。58個とかつてないメダルを獲得した。

新型コロナウイルスショックにより1年、延期された。アスリートにとって1年、歳を取ることは、重い意味を持つ。1年の加齢だけが原因ではないだろうが、内村航平、瀬戸大也といったかつてのメダリストが、あっという間に脱落していったのは残酷だった。

白血病を克服し、五輪に臨んだ池江璃花子選手も、成績という意味ではメダル獲得には至らなかった。病を克服したドラマは、五輪前にドキュメンタリーが放送され、あたかも五輪をやる意義を説明する番組のようにすら見えてしまったのだが、五輪開催中に彼女に関する報道は驚くほどに少なかった。闘病、復活には拍手をおくりたいが、そのドラマも消費されたかのようだった。

一方で、新旧様々なスポーツで日本勢が結果を出していった。特にサーフィンやスケートボードなど新しい種目での活躍、野球の悲願の金メダル、女子バスケの銀メダルなどに熱狂した人も多いことだろう。

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ホームだから有利だったと言う声もある。とはいえ、無観客の環境である。努力したプロセスや結果に対して「ホームだったから」と片付けるのも酷である。選手の活躍には素直に拍手をおくりたい。日本のスポーツが進化したことは素人目にみてもわかる。ここは直視したい。これまでとは練習方法も視野も異なる選手たちが育ちつつある。

開会式では国内外の選手が、スマホを片手に入場してきた。マナー違反とみる人もいるだろうが、今までの精神論的な「礼儀」から良い意味で逸脱していて好感がもてた。

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スケートボードなどにおいて顕著だったが、ミスをしてもプレイをとことん楽しみ、称え合う姿勢が印象的だった。スケートボードといえば、瀬尻稜さんによるフランクすぎる解説が話題となった。「鬼ヤバいっすね」「いや〜ハンパねえっす」「ゴン攻め」などと連呼した。

自由な空気がナイスだった。そこには、中高年の、しかも男性では理解不能な自由な空気、枠にとらわれない何かがあったのだ。

よりかっこいい日本への期待

選手たちの活躍、その多様性、メダルラッシュ。開会式・閉会式では日本の停滞感が可視化されたが、日本のスポーツは間違いなく進化している。アスリートの流した汗と涙には嘘はないと感じた次第である。

もっとも、これに関して「五輪反対していた人も、始まってみたら変わったじゃないか」的な批判があるが、少しだけ冷静になりたい。多くの人が、その立場で「よかれ」と思ったことをして、結果としていい思いも、面白くない思いもしたのが、今回の五輪ではなかったか。

アスリートや指導者たちは間違いなく頑張った。大会関係者は数々の問題を抱えつつも、五輪をやりきった。実に不思議な体験だった。

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2013年の招致決定から、新型コロナウイルスショックの影響により開催が1年延期され、開催され、終わった今も、テレビやスマホ上で夢を見ているようだ。悪夢もよい夢も両方みた。最初から最後まで、不祥事のデパート、メドレー、リレー状態だった。日本、このままではまずいじゃないか。高い授業料の、倫理の授業だった。

五輪は終了した。まだパラリンピックは残っているが、いったん日常に戻ろう。脱・密室、脱・空気の支配、脱・男社会などを志向しよう。無駄にしてはいけない。

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正直、東京五輪はまったく楽しむつもりがなく、実際、開会式・閉会式と一部の競技を数十分みただけだったが、あの残酷な閉会式を経て、パリ五輪への期待は高まった。友人たちと、パリに行く約束をした。

その頃、社会が少しでも前に進んでいますように。よりかっこいい日本になっていますように。いや、するんだ。絶対に。鬼やばい、ゴン攻めの日本を見せてやろう。