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ラーメン二郎好きが驚愕…「麺の量を半減した店」で気づいた「衝撃の事実」

まさか、そんなことが…

ある店舗の「量を減らす」宣言

ラーメン二郎は、店によって量がかなり違う。

普通のラーメンを頼んでも、あっという間に食べられる店もあれば、かなり頑張って頑張って突き進まないと食べきれない店もあって、けっこう差がある。

およそ2年少々でラーメン二郎のほぼ全店をぐるぐるまわって(だいたい均等にまわって累計330回ほど)、それぞれ完食するまでどれぐらいかかったかを記録しているのだが、早いところだと4分かからずに食べきれるし、多いところだと8分を越えてしまうことがある。つまり倍ほど違う。また、多いところにかぎって、ブタをおまけにたくさん乗っけてくれたりして、ぶぎゃーと叫びつつ、10分近くかかってしまうこともある。

デフォルトの量で、かなりの差があるのだ。

〔PHOTO〕iStock
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ラーメン二郎好きたちは、「この店の量は少ない、ここは破壊的に多い」ということをだいたい把握している。また、インターネットでそういう情報が交換されているので参考にされるといいとおもうが、ただ、かなり変動的な部分も多い。「この前に来たときと全然、量が違うじゃん!」てことがすごく頻繁に起こるので、そのへんは気をつけたほうがいい。

先だっても、二郎のある店がラーメンの量を減らす宣言をしていた。

ツイッターの「非公式アカウント」で呟いていたので、店名は出さないが、6月に以下のようなツイートをしていた。

「店の近隣などに、嘔吐があり、近隣の住民からクレーム、保健所より指導がありましたので。明日よりラーメンのサイズを変更致します。」

なかなか哀しいお知らせである。

以下、それぞれのサイズ変更について述べてあった。

基本のポイントで言えば「新ラーメンは旧小ラーメンの半分程度」ということになった。

つまりあっさりいままでの半分になったのだ。量が一挙に半減である。値段は変わってなかった。実質の値上げということになるが、でも店としては値上げしたつもりはないだろう。いろいろ困ってしまって、踏み切ったというところである。

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破壊的な量だった

この店は、数あるラーメン二郎直系店の中でも、有数の麺の量を誇っていた。

2年前に初めて行ったときは、「小ラーメン」なのに予想を越えた量に手間取ってしまい、完食するのに10分を越えてしまった。私はわりと食べるのは早いほうなので、10分を越えることは滅多に起こらない(ふつうに食べて10分越えたのは、この店と、もう一軒だけである)。

ここは私のなかでは圧倒的にラーメン量の多い破壊的な二郎ということになっていた。

ただ10分を越えたのは初回だけで、そのあとは8分、7分と落ち着いてきて、私が慣れたということもあるのだろうが、初回の2018年夏をピークに量が少しずつ減っていたようにも感じた。二郎の麺の量はかなり変動的なのである。「ブレ」によって違うときもあれば、おそらく店長が何かを決めて量を増減させてしまう、ということもあるのだとおもう。

でも量が減ったといっても、やはり全二郎のなかでトップレベルの多さではあった。

もともとのラーメン二郎のポリシーは、若者に(大食いの人に)とにかくラーメンだけで腹一杯になってもらいたい、というところにある。直接に聞いたわけではないが、毎日のように食べていれば、そのメッセージはラーメンを通してびんびんと伝わってくる。

ふつうの中華料理店でラーメンだけを頼んで食べても、腹を減らしている若者はそれだけではまずなかなか満足しない。いまだってそうだとおもう。ギョウザをつけたり、半チャーハンを追加したり、大盛りにしたり、何とか嵩増しして満腹しようとする。でも、ちょい足りない。それがもともとのこの国の「ラーメン」の標準的な分量である。

そんな状況下で、「ラーメン一杯だけで、どんなに腹減った若者も満足させてやろうじゃないか」という意志をラーメン二郎は持っていて、それを提供しつづけている。

〔PHOTO〕iStock
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もちろん、ラーメン一杯だけで満足させてやろうという発想は、ラーメン二郎だけの特別のものではない。ただ、作り出されたのラーメンがあまりに独特で力強くて破壊的でもあったため、熱狂する連中を生み出してしまい、それがどんどん神格化されていった、という側面がある。

二郎は「祝祭」である

「ラーメン二郎の基本精神」は、社会がそこそこ貧しく、学生はまずほぼみんな貧しかった、という状況から生み出されたのだろう。けっこう前の時代の精神である。
やがて「飽食の時代」がやってきて、それさえも過去の言葉になり、「すさまじい量のラーメン」がまったく別の意味をもつ時代になってしまった。

いまは、「めちゃめちゃ量の多いラーメン」は、ある種の「祝祭」として捉えられているとおもう。

ひごろ食べるものではないから、その量の多さも「楽しみの一環」としてとらえている。お祭り屋台での食べ物と同じだ。

仲間を誘って、おもしろいもの、でもちょっと怖いものとして、祝祭的に来店する人たちが増えているとおもう。

まあ、しかたがない。

お祭り気分でやってくるのはべつだん悪いことではない。

どんな気分で来ようが、食べるときに粛々と対峙して食べれば、それでかまわない。何も問題はない。

ただときどきずっと祭りのつもりで、騒ぎつづけてる客がいて、それはちょっと迷惑である。客がどんだけ「祝祭空間」だとおもっていようと、現場は日常である。

働いてる人たちや、かなり食べ慣れてる人たちにとっては、いつものところでのいつものラーメンでしかない。だいたいの人は初めて来ようとも「あ、ここはここで日常なのだな」と気付いて、それらしく対応する。そういう人がほとんどである。小さい声で話しながら、現場を乱さないように気をつけている若者を多く見かける。

暴走する連中は一部だけである。

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カラダでわかっていないと対応できない

ラーメン二郎の問題は「未経験者は、出てくるボリュームをうまく想像できない」というところにある。

食べたことがなければ、想像しにくい。

アタマで想像しても意味がない。カラダでわかってないと対応できない。世の中のだいたいのものがそうであるように、事前に想像していることは、現場ではほとんど意味を持たない。

とんでもない量のものを食べきるポイントは、ただひとつ、ひたすら同じペースで食べ続ける、ということだけである。最初から一定のスピードを保ち、いついかなるときも同じペースで進み、最後まで同じペースで食べ続けることが大事なのだ。

途中、終わらないかもとか、無理かも、というような雑念がわいてきたとしても振り払い、払えなくてもいいから、身体だけは動かしつづけるしかない。

すごく簡単なことだけど、簡単だからこそ、身体で覚えるしかない。脳内で巻き起こる雑音を徹底して無視するというかなり強引な作業も必要となる。経験を重ねるしかないのだ。ごくまれに経験しなくてもできる人もいるのだろうが、あらゆるスポーツと一緒で、それはただの天才でしかない。プロのフードファイターにはそういうタイプの人がいるのだとおもう。

二郎の基本ルール

ラーメン二郎でもっとも嫌がられるのは、食べ残すことではなく、ずっと席に座っていることである。

実はラーメン二郎では「何も増してない二郎のふつうのラーメン」(多くの店で“ラーメン小”と呼ばれるもの)を頼んで、トッピングでヤサイやアブラを増していないのなら、それを食べきれなくて残しても、べつに怒られることはない。残した丼をカウンターに戻したら、そのときちらっと冷たく見られるかもしれないが、ふつう何も言われない。ありがとうございましたと言ってくれる店さえあるはずだ。

明記されてないが、それはラーメン二郎の基本ルールである。

食べきれないのは罪ではないが、ゆっくり食べるのは罪、それがラーメン二郎である。

〔PHOTO〕iStock
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逆に言えば、大盛りにしたり、ヤサイを増したりしたのに、それを残すと、基本的に店側(およびその周辺にいる二郎慣れした客たち)は、心の中ではあきれているし、かなり怒っている、ということになる。口でどう言われるかは、タイミングとあなたの態度次第だけれど、基本的には叱られて当然の状況である。大きく怒られても受け入れるしかない。

それも二郎のルールである。

だから初めての店では、ふつうのものにしたほうがいいし、あまりいろんなものを増さないほうがいい。常に行く店があったとしても、他店はまったく麺の量は違うものだから(ヤサイの量もすごく違う)、そこは気を付けたほうがいい。

量の多さを「お祭り」のようにとらえ、勝手なチャレンジメニューだとおもいこんで、食べられるかどうかわからないものを頼んでしまう。それがいろんな問題を引き起こす。そういう人は15分を越えてもまだ食べ続けようとして、迷惑をかける。

ひとつの目安として言っておくと、ラーメンが提供されて15分以上その席に座り続けているのは二郎では「有罪(ギルティ)」となる(あくまで目安ではあるが、多くの店がそれぐらいを基準にしている)。

そういうヤカラが嘔吐などをやらかしてしまう。

店側も、いろいろ迷ったのだろうが(この店では以前から嘔吐に対する注意書きが貼ってあった)それでも事態が変わらないから、量を減らす決断をしたのだろう。

「めちゃめちゃうまい」

「量を半分にする」と非公式につぶやいた店に、行ってみた。

そもそも「半分」にして、それでもふつうのラーメンとして提供できるというのがものすごいことである。

行ってみた。

店内に量を減らした旨の貼り紙は見あたらなかった。いろいろ見渡したがなかったので、私が行ったときにはそういう断り書きはなかったようである。つまりある意味、ひそかに(知ってる人だけが知ってる状態で)量は減らされたようである。

ふつうのラーメンを頼んだ。

ラーメン二郎のすごいところは、でかいブタ(二郎独特のチャーシュー)やヤサイが盛られていると、ぱっと見、すごく減っても(麺が半減しても)、かなりわかりにくい、というところにある。これ、ほんとにそんなに減ってるのかな、と一瞬、おもってしまう。

ただ、実際に箸を入れて、麺をがさっとつかんで食べ始めると、あ、少ない、というのがすぐわかる。

このへんは経験値でしかないのだけれど、持ち重りがしないのだ。

少ないとわかって、食べ始める。

次の瞬間、痺れるようにおもった。

めちゃめちゃうまい。

いや。

めちゃめちゃめちゃめちゃめちゃめちゃ、うっまーい!

〔PHOTO〕iStock
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ひとりで食べてるのに「うっまーい」と声に出しそうになった。ひょっとしたら「うっ」くらいの音は漏れていたかもしれない。

つきぬけて、うまい。

ちょっと驚いた。

そうなのだ。

量が少ないと感じられた瞬間、量に対する心配がなくなり、脳の中が味とだけ対峙する状態になり、すると、ただストレートに、めちゃくちゃうまい、と感じたのだ。

そういうことである。

これだけ二郎を食べ慣れているのに、それでもいつも「量」について心配しながら食べていたのか、ということに(あらためて)気づかされたのである。

どんだけ慣れようと、量が多いという事実の前には、いつも少し怯えがあるということなのだろう。

さすがに食べきれないという不安ではないが、最後まで美味しく食べられるか、食い切る前に苦しくなるのではないか、そういう懸念をいつも抱えてる。そして、それは自分が意識しているより、もっと重くのしかかっていた。

うまいかどうかより、量のほうが気になっていたのだ。それに気付いていまさらながら、驚いた。

量の心配がまったくないと、味だけに注目できる。

だから、めちゃうまく感じた。

ただうまい。スープが麺にからんで濃く、ブタが分厚くてやわらかくて脂身たっぷりで脂身が甘くて、ほろほろしていて、麺は二郎の麺らしく、麺の強さがどこまでもしっかりしていて、そこに醤油味の濃い味がたっぷりしっかりしみこんでいて、ひたすらうまい。途中から、何のどこがうまいのかという判別もどうでもよくなって、ただ脳の芯が痺れるようにひたすら、うまうま、うまうまうまうま、うまーーーーーっ、と、とろけていくだけである。

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「うまいかどうか」は後回しになっていた

どこのラーメン二郎でも、ここまでとろけるわけではない。

さほど味の濃くない店もある。好みの問題で、個人的にはそういう店ではあまり痺れることがない。どこまでも濃い味こそ、私にとってのラーメン二郎である。

ただ、「うまい」という最初の衝撃が、最後まで残らないことも多い。

最初の1分ほどは、うまい、うまうまーっと少し唸りながら食べ始めるのだけれど(連れがいたら、うまいなっ、と短く小さく言うこともある)、途中からは、頭のなかは「量」のことだけになっていく。ただただ全部食い切ることだけが優先事項になり、脳のなかの「うまいかどうかを判断する部分」はずっと停止してしまうのだ。総合的な記憶としては、うまかったはずだけど、よく覚えてない、ということになってしまう。

たぶん「食べきれるかどうか」は極端な言い方をすれば「生きるか死ぬか」に直結する大変な問題なのだろう。そういう場合「うまいかどうか」はかなり後回しになってしまうのだ。動物としてしかたない。

同行する若者も、あとで聞くと「量は多かったですね、味は、味は、、、よく覚えていません」と正直に答える者もいる。

「麺が半分になった店」の味は、たぶん以前からほぼ変わってないはずである。

以前から痺れるほどうまかった、はずなのだ。

でも痺れるほどのうまさの記憶にはなっていない。

「ラーメン二郎はそんなにうまいのか」と聞かれて、よく返答に困ってしまうポイントはここにある。

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うまい、と答えておけばいいのだけれど、それだけだと、何か伝わってない気がするし、そもそもうまいかどうかだけで食べに行ってるわけではないからだ。

ふつうの量のラーメン店では、うまいかまずいか、がもっとも大事なポイントなのだろう。

二郎の場合、うまいかまずいか以外にもいろんなことを体験するのが大事で、それらをひっくるめて「ラーメン二郎に行きたい」とおもうのである。

純粋に味が好きだという客もいるだろうけれど、でも「今日もまたラーメン二郎に行って、生きて戻れた」という感覚が好きで、それがくせになっている常連もけっこういるとおもう。

量が半減させた店は、行きやすくはなったが、より魅力的になったわけではない。そこは店長も苦渋の決断だったのだろう。昔の記憶があると、少し残念な気持ちにもなる。

とはいえ、それはそれでまた行ってみようという気分になるのが、二郎の不思議なところなのである。

体力と食欲のあるかぎり、通い続けるしかない。

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