「17歳の時に母親は自殺した」
2020年7月18日、人気俳優の三浦春馬さんが死去したという一報が入ってきた。
仕事も順調そのもので、人気だけではなく実力もあり、多くのファンを持つ爽やか俳優の代名詞のような三浦さんの死に多くの国民は衝撃を受けた。
私もその一人であり、あの日は茫然自失としてしまい、何も手につかなかったほどである。このように自殺のニュースを聞けば誰でも衝撃を受け、心の整理がつかないものであるが、これが家族や近親者の場合であればなおさらである。悲しみや悔しさ、自責の念などが入り混じり、受け止めきれずにうつ病などを発症する人もいる。
自殺の一報が入ると、現在「死にたい」と思っている人達の後追い防止のためのメッセージや、マスコミ報道に関する注意喚起は発せられるようになったが(守られてはいないが)、残されたご遺族や、近親者、友人などのケアに必要な情報が足りていないと常々感じている。
そんな折に、俳優の高知東生さんが自殺遺族であることを明かしツイートしたこところ、実に2.2万のリツイートと16.2万のいいねがつく、大きな反響となった。
《俺が17歳の時に母親は自殺した。その日、寮生活をしていた俺に突然会いに来て「進路を今決めろ」と言い、別れ際に「ねぇ、私綺麗かな?」と聞いてきた。「実の息子に何言ってんや!気色悪い。もう門限だから行くぞ」と言って車から降りると、母親は泣きながら笑っていた。それが最後の会話になった。》
《その日から俺は「なんであの時『綺麗やぞ、お袋』と言ってやらなかったのか?」「言ってたら死ななかったのか?」と苦しむことになった。喪失感、怒りや悲しみ、様々な感情をどう吐き出していいかわからず、俺はどんどん荒れていき喧嘩ばかりするようになった。今も最後の一言への後悔は消えていない》
《家族や身近な人の自死に出会うと、そのことを昇華するには時間がかかる。当時の俺は「困ったことがあったら何でも言ってくれ」と友人知人から言われるのが辛くて仕方がなかった。「だったらお前お袋返してくれるのか?」そう言いたかった。「おう!ありがとうな」と平気な顔で答え自分の気持ちを隠した》
《今思えばあの時、一人で充分に泣いたり、嘆いたり出来る時間があったら良かったと思う。寮生活で、親戚に預けられていた俺には居場所がなくそれができなかった。 最近、有名人の自殺が続き悲しくて仕方がない。ショックを受けている仲間と話しているうちに自分の過去の想いも噴き出してきた。》
《自殺を受け入れることは本当に辛い。「こうすればよかった」と後悔が残り「なんで相談してくれなかったんだ!」と悔しさも湧く。受け入れていくプロセスも人それぞれだと思う。嘆きや悲しむ人に自分の良かれと思う励ましを押し付けないで欲しいなと俺は思う。悲しみは簡単に癒えない。俺もやっと少し。》
多数の共感コメント
注目すべきは、このツイッターに寄せられた反応である。5つの連続ツイートに実に400以上ものコメントが書きこまれた。そのうち自分も親や親族の自殺を経験したという方が59人、恋人や友人知人の死を経験したという方が12人、ご自身が今死にたいと思っていたが考えさせられたという方が4人いらした。
コメントの中にいくつか「こんなにも同じ経験をした人が多いのか」と驚きの声が上がっていたが、考えてみれば自殺大国日本には自殺遺族大国でもあるのだ。
厚生労働省自殺対策推進室と警察庁生活安全局生活安全企画課が今年3月に発表した、「令和元年中における自殺の状況」によれば、平成22年から令和元年までの10年間で自殺で亡くなった方の人数は、実に251,161人もいるのである。
ここ数年自殺者の数は減ってきており、2019年には初の2万人割れと言われたが、過去を振り返れば3万人を超えている時代もあり、これが10年20年30年……50年とさかのぼっていけば、自殺者の数はゆうに100万人を超えていく。
そして自殺者一人に対して家族が両親とその祖父母や子供たち兄弟姉妹などと考えていくと、自殺遺族は人口の1割近くを占めていると考えてもおかしくない。決してマイノリティなどではないのだ。
高知さんのツイートに対する自殺遺族の方からは、
「辛さに気付いてあげられなかった後悔、悲しみ、怒り。様々な感情が未だに色褪せずに心の中にあります。今もこの文章を書きながら涙が溢れてきます」
「自殺遺族でなければ分からないことです。(中略)今でも後悔と悲しみと怒りで自分を責めてしまいます。1日たりとて母を思い出さない日はありません」
「あの時の後悔ばかりが駆け巡り、最近は自分も消えてなくなりたいと思うようになりました」
といった自責の念が語られている。
中には「はじめて吐き出せました。ありがとうございます」というものもある。
これほど多くの人々が近親者の自殺という辛い体験をしているにもかかわらず、自殺遺族の方が心情を語れる機会は非常に少ないと感じる。自分の心に蓋をし、何もなかったかのように生きることを余儀なくされている。
ではなぜ今回これほど大きな反響があったのか? それはやはり高知さんが自殺遺族の当事者として発信されたことから、共感を呼んだことが大きいと思う。
ご自身がまず心を開き、自己開示をしたことで他の人々も続くことができたのだろう。「共感」は他者を癒し勇気づけるなによりの薬だと、私自身も日頃、依存症支援で実感している。
当事者性の強み
社会問題は自己責任だけで解決できるものではない。さまざまな支援者や当事者、家族が横並びとなって連携し問題の解決にあたることが望ましい。
しかしながら、日本ではいわゆる学位や資格をもった専門家の意見が尊重され、当事者や家族は、専門家に教えを請いながら「ケアされる人」「患者」「要支援者」という立場に置かれがちである。
また当事者や家族の方も「どこかに魔法のように自分の辛さを解決してくれる専門家がいるはず」と信じて、あちらこちらを渡り歩いている人も多い。
もちろん良い専門家に繋がり、癒され、問題を解決していく人もいるが、日本はそれほどメンタルケアが充実しているわけではない。専門家と呼ばれる人の質もタイプもそれぞれである。
私も、依存症で苦しんでいた頃、さまざまなクリニックに通ったが、依存症のことをほとんど知らず、ただ単に抗不安剤や睡眠導入剤を処方する医師や、全く気が合わないどころか逆にずたずたに傷ついてしまうカウンセラーとも出会ってきた。本当に救われたのはやはり当事者の自助グループにめぐりあえたことが大きかった。
高知さんのツイートへのリプライを見ていると、自殺遺族の方も当事者ならではの共感や分ちあいに効果があると思える。実際、「自殺遺族の会」といった自助グループも検索してみると様々にヒットし活動されているのだが、それほど知られていないように感じる。
広報不足もあるのだろうが、日本はどうもこの自助グループに対し「傷のなめあい」といった誤解や偏見が強く、その存在を知っても行ってみる気になれない人も多いのではないか。もう少し自助グループの真の姿が理解されていくと、救われてくる人々が増えていくと思われる。
では、当事者の自助グループとはどんな役割を果たすのだろうか? 依存症の自助グループに携わってきたものとして、自助グループの役割をお伝えしたい。
医療は「眠れない」「辛い」「死にたい」といった症状に対し薬物療法をおこなったり、場合によってはカウンセリングなどで心の問題に対処するわけだが、当事者性の一番の強みは「経験」である。
同じ経験をしている人の集まりなので、繋がってきた人の気持ちが痛いほど良く分かる。そしてその心がどのように変化していくかも自分が体験しているので、そこに寄り添っていくことができる。
まだ辛い渦中にある人の、感情の揺れや、落ち込み、気分の変動などにも、近寄ったり、少し距離を置いたりと対処していくことができるので、自分が巻き込まれずに、必要な時に必要なサポートができる。
また第二の強みは「共感」である。
本当に辛い経験をした時に人はその気持ちをなかなか打ち明けられない。自分を惨めに感じたり、恥に思ったり、様々な思いが交錯するが、相手も自分と同じ辛さを経験していると先に心を開いてくれると、自分の気持ちも話しやすくなる。同情や憐れみ、原因探しや、余計な励ましなど、二重に傷つくことも避けられる。
またこのような辛い体験をしたのは「自分だけではない」という思いは、勇気づけられ前を向くきっかけになる。
そして第三の強みはロールモデルの存在である。
人は悲しみや苦しみの渦中にある時は、ここから抜け出したいと思っていても、そのやり方が分からないものである。
けれども同じ苦しみや悲しみを経験した人たちが、今は明るく前向きに自分の人生を取り戻している姿を目の当たりにすると「自分もこの苦しみから抜け出せるかもしれない、あの人の様になりたい!」と思えるようになる。
ロールモデルが身近にいると、その人のやり方を真似ることもできるし、どうやって抜けだしたらよいか教えてもらうこともできるのである。
このように当事者性をもった自助グループのようなポジティブな集まりは、効果的かつ社会の好循環を生みだしている。日本も心の問題に対し誤解や偏見をとり除き、専門家頼みではなく、当事者活動に対しても理解し国やメディアも光をあてて頂きたいと思う。
家族や知人よりも他人のほうが話しやすい
日本は家族主義の傾向が強く、「家庭内の問題は家庭で解決」「他人様に迷惑をかけてはいけない」という傾向がまだまだ根強く残っている。また「世間体」に対する抵抗も大きい。
しかしながら本当に辛い話は家族や友人・知人よりも、感情的なバイアスがかからない信用できる赤の他人に話す方が気楽だったり、よい解決策が見つかる場合も多い。
身近にいる人は、大切な人が苦しんでいる姿をみれば「自分がなんとか力になりたい!」という思いに駆られるが、むしろ自助グループのような「力になってくれそうな他人の集まり」の情報提供に徹してもらった方が真の手助けになる場合もある。
例えば、家族に辛い気持ちを分かってもらいたいと思っても「心配をかけたくない」「みんな辛いのだから」と気を使ってしまったり、逆に打ち明けられた家族が「私も辛いのよ!」と自分の思いを爆発させてしまったり、「弱音を吐くな」とか「いつまで過去にこだわっているんだ!」と精神論で返してくることもある。
また、あまりにも傷つきが深く、日頃から家族関係が悪いと「こうなったのはお父さんのせいだ!」などと家庭内の原因探しや犯人探しになってしまうケースもある。
家族といえども別の人間である。必ずしも理解者であるとは限らないし、理解されないからといって愛されていないわけでもない。ところが理解されないと、愛情不足と混同してしまいがちで、家族同士はかえって感情的になってしまう。
頼りになり助けになる友人・知人に出会えるケースももちろんあるが、大抵の場合一般人は同じ問題を経験していない。するとどうしても自分の考えられる範囲でしか答えが出せないため、一般論、常識論になりがちである。
うっかりすると詳細を聞き出そうとしたり、「何か兆候はなかったの?」などと原因を探ろうとしたり、無理に感情を吐き出させようとしてしまう。
また、「天国で見守ってくれているよ」「きっと楽になれたよ」「あなたが悲しんでいると亡くなった人も悲しむよ」などと「早く元気を取り戻すべき」といった考えの押し付けをしてしまうこともある。
まだショックを受けて日も浅い時期に、一刻も早くその悲しみや苦しみを受容させようとしても逆効果である。
その上、友人知人が悲しんだり、苦しんでいる姿をみることに自分が耐えられず、やたらと励ましてしまう人もいる。
すると励まされた方は、そうなれない自分を責めてしまったり、気を使ってしまったり、うっとうしく感じて心を閉ざしたり、時には励ましてくる相手に怒りをぶつけてしまうこともある。力になりたいという気持ちが、空回りして傷つけあうことにもなりかねない。
その点、赤の他人の方が気を使わずに話すことができ、相性が悪ければその人には2度と連絡しなければよく、余計な心理的負担を感じずにすむ。その上で自分にあう聞き手を探せば良いのだ。
自殺遺族の話を聞いてくれる団体は各地に存在するが、主な団体をご紹介するので参考にしてほしい。
全国自死遺族総合支援センター(http://www.izoku-center.or.jp/)
自死遺族ケア団体全国ネット(http://www.jishicare.org/)
悲しみを持ち続けることは問題なのか?
私は、投機にハマった叔父が3億円もの借金をしたあげく自殺未遂をし、それこそ我が家がひっくり返るような大騒ぎとなった経験がある。
その後、その借金問題から親族はバラバラになり、叔父はその時は発見が早くかろうじて一命を取り留めたが、結局失意のまま亡くなってしまったようである(母が親族と断絶してしまったので詳細は分からない)。
あの頃、まだ私は年若く、また家族に反発していた時期でもあったので、母らの深い思いは見て見ぬふりをしてしまったが、我が家などは借金が出てきたこともあり、あまりの衝撃で誰もが現実を受け止めきれず、原因探しで祖父も巻き込み兄弟姉妹が傷つけあうことになった。
「なぜこんなになるまで抱え込んでいたのだ!」という怒りや悔しさが誰の胸にもあり、ICUに入った叔父を残し、集まった叔父叔母らが激しい言葉で怒鳴り合っていた。
「今の知識があの当時の私にあれば、親族が決裂してしまうこともなかったのに」と仲の良かった従姉妹たちのことを思いだすと時々淋しく思うことがある。
また私は、依存症者でありその家族でもあるが、以前「“芸能人の薬物事件を芸能人がバッシングする”という『深刻な構造』」という記事で書いたように依存症は非常に自殺率の高い病である。
自分が医療と自助グループに繋がって以来、15年の月日が経ったが、それこそ数多くの仲間の自殺に出会ってきた。その中には自分が深く関わっていた人もおり、今でも助けられなかったことへの自責の念や、悲しみを抱えている。
最初の衝撃や喪失感といったものは収まったが、では受容に至ったかと聞かれればそうならず、いまだに思い出すと心に鉛をのみ込んだような感じがする。
そしてこういう気持ちを吐露すると、一部の援助職の方にグリーフケア(grief=深い悲しみ。愛する人を失ったときに、悲嘆に暮れる人を、悲しみから立ち直れるように支援することである)を勧められたり、「まだ問題を抱えたままの人」のように言われることがある。
断っておくが私はもちろんグリーフケアを支援者の方から何度もおこなっていただいたし、それでも悲しみがなくならないので「これは日本の支援者のテクニックが未熟だからではないか?」と考え、米国のカウンセラーに頼んだこともあった。
それでも悲しみがなくならなかった。そのため、「これは日本と米国の文化の違いが問題なのではないか?」と考え、今度は長年米国でセラピストとして活躍していた日本人に依頼したこともあった。
みなさん、長年の経験をもちスキルは一流の方々である。けれども悲しみはなくならなかった。
確かに私が未熟であり未完のままということもあるかもしれないが、結局のところ「なくならない悲しみがあっても良い」と思うようになった。以前の私は完璧に悲しみがなくならないことがおかしいのでは? と考えたり、逆に、悲しみを抱え続けている人に出会うと「なんとかしたい」という思いに駆られた。
けれどもケアしきれない悲しみがあったからといって、自分を惨めだとも、哀れだともダメな奴だとも思わない。この悲しみと共に生きていこうと思っている。もちろん悲しみを抱えていても、喜びや楽しみ、やりがい、使命感といったポジティブな感情も併せ持っており、悲しみも抱えた自分を受容したということである。
そういった生き方をよしとできたのも「私、仲間の自殺がいまだに受け入れられずに辛くて悲しいんだよね」と伝えた際に、ある自殺遺族の方が「私も多分一生悲しいと思うよ」と明るく答えてくれたことである。
「辛くて、悲しい」という感情を持ち続けていても自分を責める必要などなく、心の中にそっと置いてけば良い、時々それが大きくなってきたら、また誰かと分かち合えば良いのだと思えたのである。
大切な人を失ったときに、悲しみの受け止め方は様々であり、「こうあるべき」という正解はない。そもそも大切な人を失えば、全く元通りの生活にはなれないのである。
ただ自分一人で、抱え続けるのは荷が重すぎる。今苦しんでいる人は、どうか、あなたのタイミングで同じ経験をした人と分かち合ってみてほしい。