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日本の憲法学は本当に大丈夫か?韓国・徴用工判決から見えてきたこと

いま日本政府が追求すべきことは何か

日本が韓国政府に求めるべきこと

韓国大法院が、新日鉄住金に対して、元徴用工への補償を命じた判決は、内外で大きな波紋を呼んだ。今後の日韓関係に大きな影を落とす厄介な問題だ。

ただし今のところ日本政府は、韓国政府の対応を見守るとしている。正しい冷静な対応だ。しかし、もう少し積極的でもいいかもしれない。

たとえば在外公館に経緯の説明を各国で行わせるだけでなく、河野大臣が自ら英語でスピーチをして、対外的な発信をしたらどうだろうか。そのスピーチは、「われわれは、日韓請求権協定にもとづいて、韓国政府が適切な行動をとる、と信じている」と結論づけるものであるべきだろう。

日本は、自分の立場を明確にし続けながら、韓国政府を完全に敵に回さない外交を心がけるべきだ。そのうえで、韓国政府に解決策の提示を求めるべきだろう。

この問題は、基本的には、韓国の司法府によって引き起こされた、法律問題である。まず日本が注意すべきは、不用意に政治的に扱い、あたかも日本のほうが感情的になっているかのような印象を与えないことだ。

〔PHOTO〕gettyimages

確かに、ムン・ジェイン大統領は、歴代の韓国政府の姿勢とは異なるニュアンスの発言をしてきている。しかし公式に請求権協定の見直しを表明しているわけでもない。

韓国における三権分立の原則を否定し、韓国の司法府の判断を理由にして、いたずらに行政府を責め立てることは、生産的ではない。日本の国益に合致しない。

まず日韓双方で正しい協定の理解を明確にする外交努力を払うべきだ。そして可能な「調整」策の提示を、韓国政府に求めるべきだ。

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仮に、請求権協定によって日本に補償を請求する権利が消滅したとしても、個人が救済を求める権利それ自体は消滅しない、という議論に妥当性があるとしよう。それでも強制徴用の問題は政府の行為の問題だったことは強調しなければならない。

そうだとすれば、日本が主張すべきは、個人請求権が消滅したことではなく、万が一存在しても、その対処責任が、請求権協定によって、韓国政府に移っている、ということである。

財政措置なり、新たな立法措置なりを通じて、問題解決のための努力を払う義務を負う当事者となっているのは、韓国政府だ、ということである。「調整」のポイントは、その点の認識の明確化にあると思う。

それにしても、今回の事件の背景には、国際法の要請と、国内法律論との間の「調整」の問題がある。日本も無関係ではない。

日本の憲法学者こそが、誰よりも声高に、国際法に対する一方的な国内憲法(あるいは憲法学通説)の優越を訴えている。

日本の憲法学者が今回の問題をどう見ているのか、興味深い。

韓国大法院判決の論点

判決文の邦訳がないため、大法院判決の詳細は、必ずしも明らかではない。だが伝えられているところによると、大法院判決の内容は、大きな論点を内包している。

判決は、「植民地支配は不法な強制的な占領だった」と断定し、「植民地支配と直結した不法行為などは請求権協定の対象に含まれていない」と述べ、「個人の請求権も協定に含まれたと見るのは難しい」と断定した。

これに対して、13名中の2名の反対意見を出した裁判官(クォン・スンイル大法官とチョ・ジェヨン大法官)は、1965年「請求権協定が大韓民国の国民と日本国民の相手国およびその国民の請求権まで対象としているのは明らか」で、「請求権協定で規定された『完全かつ最終的に解決されたことになる』という文言は、韓日両国はもちろん、国民もこれ以上の請求権を行使できなくなったという意味だと見るべきだ」と述べたという(参照「強制徴用:賠償責任を認めなかった2人の大法官ってどんな人?」)。

請求権協定は、その前文で、「日本国及び大韓民国は、両国及びその国民の財産並びに両国及びその国民の間の請求権に関する問題を解決」を目指していることを宣言している。そのうえで第二条において、「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が……完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」(参照「韓国との請求権・経済協力協定」)。

文言を見れば、反対意見が妥当であるように見える。そもそも日本政府は、「植民地支配と直結した不法行為」という認定を認めない。そのうえで、包括的に「個人請求権」も請求権協定で扱われた、と理解している。歴代の韓国政府も、少なくとも個人請求権も請求権協定で扱われた、という立場をとっていた。

〔PHOTO〕gettyimages

しかし今回の韓国大法院の判断は、両国行政府の伝統的な協定理解を否定した。それは文言上の解釈論のレベルを超えて、そもそも「植民地支配と直結した不法行為」に対する「個人の請求権」を、二国間協定で消滅させることはできない、という法理論によって可能になっているように見える。

請求権協定は個人請求を含んでいなかった、と解釈するのではなく、そもそも含むことができないので含まれていない、という立場を、韓国大法院は取ったのだと思われる。

つまり韓国大法院判決の意味は、「司法府は、法理論上、二国間の請求権協定では個人請求権を対象にできない、と判断する」というものである。

「請求権協定は個人請求権を対象にしていない」という解釈論ではなく、「請求権協定は個人請求権を対象にできない」という法理論であるがゆえに、歴代韓国政府の理解を簡単に覆すような判断ができたのだ。

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しかも補償を要求する相手に新日鉄住金という私企業を選んだことは、「請求権協定は政府間協定なので、個人が私企業を相手に民事訴訟を起こす権利を侵害しない」という法理論に訴えようとする姿勢の反映であろう。

ただし私見では、この法理論は、大きな矛盾をはらんでいる。「植民地支配」はいずれにせよ国家行為である。したがって、その責任を私企業に帰して、損害賠償を命じるのは、根本的に矛盾している。

結局、韓国大法院は、個人の権利を、二国間協定よりも優先させる判断をした。これによって請求権協定が無効化されたわけではない。ただ個人救済を重んじる、という韓国司法府の判断が、明白化されたということである。

大法院判決と国際法との関係

国際司法裁判所(ICJ)の判例があるため、韓国大法院の協定解釈は破綻している、という説も見られる。だが話はそこまで単純ではない。むしろ今回の元徴用工事件は、ある程度はICJ判例を研究したうえで行われているようにも見える。

前例となっているとされる2012年のICJ判例は、イタリア国民がイタリア国内裁判所において、ドイツに対する損害賠償請求を行った事件についてである。

このときICJは、イタリア国内司法における裁判権免除を主張するドイツの主張を全面的に認めた。ただし、注意すべきは、その理由が、国家免除(主権免除)に関する国際法にあったことである。

国連憲章にも定められている「主権平等」の原則、つまり主権国家はすべて平等であり、法の下で一方が他方に優越することはない、という理論により、主権国家は他の主権国家を国内法廷で裁くことができない。それが主権免除と呼ばれる国際法原則である(ただし不法行為が全て免責されるということではないので、実際には複雑な原則ではある)。

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戦争犯罪をめぐる個人の責任と、国家の責任は、違う。

過去15年ほどの間に、セルビア大統領だったミロシェビッチやリベリア大統領だったチャールズ・テイラーが国際戦争犯罪法廷によって訴追されて逮捕された事例が生まれてきており、国家元首ですら戦争犯罪を問われて裁かれることがあるという理解が国際法で確立されてきている。

しかし国家それ自体は別である。国家それ自体の戦争犯罪という考え方は国際法では確立されておらず、全く別の形で不法行為の責任が問われるだけである。

個人と国家は違う存在であるため、前者が問われる罪を、後者は問われない、という考え方を理解すると、今回の元徴用工の訴えが、日本政府ではなく私企業に対するものであったことの意味がわかってくる。

おそらく原告は、請求権協定によって、日本政府への請求が不可能になっていることを、よく理解している。そこであえて、個人が、私企業を訴える形をとることによって、請求権協定の枠外と主張する請求権の確立を狙ったのだろう。

その戦略が奏功し、韓国大法院は、請求権協定の枠外の請求権だという論拠で、今回の決定を行ったわけである。

政府間協定の効力が、私人間の関係を自動的に無効化するわけではないことは、一般論としては妥当である。しかも三権分立の原則にのっとって行政府が司法府に命令を下せないことにも疑いの余地はないため、司法府が行政府とは異なる法理論にしたがって判断を下すことも、破綻した話ではない。

韓国大法院は、協定が前提としている法理論を否定すること――いわば請求権協定の違憲性の判断――もできた。しかし実際には伝統的な行政府の解釈をただ無視して、独自の解釈論を展開した。

韓国大法院は、請求権協定を否定していない。ただその適用範囲に関する新しい考え方を補強した。

国際法の判例集などには出てくる「光華寮事件」という有名な日本国内の判例を参照してみよう。

これは中華民国が留学生のために購入した宿舎の使用をめぐって起こした民事訴訟の判例である。訴訟中の1972年に、日本政府が日中共同声明を通じて中国政府の承認の切り替えを行ったため、中華民国(台湾)の当事者能力が争点になった。

日本の裁判所は、「中華人民共和国が中国の唯一の合法政府であることを承認」した日本政府の立場を尊重しつつも、中華民国にも一定の実体があるため、民事訴訟における訴訟当事者能力は認める、という判断を行った。

政府間関係の理解の枠外で、民事訴訟の私人・非国家組織の関係がありうることを、日本の司法府が独自に判断したわけである。

国際法は、これを許容する。国際法は、一方的に国内法に対する優越を唱えて国内法を否定して見せる法体系ではない。むしろ国際法規範と国内法規範は併存しうる、と考えるのが、普通の国際法的な考え方である。いわゆる二元論的な「等位理論」である。国際法と国内法は、常に完全に一元的に一致するわけではないが、それは単に両者が異なる法体系だからだ、と認めるのが、「等位理論」的な考え方である。

国際法と国内法は、一致しないまま併存するがゆえに、調和を求める。しかし、時に逆に矛盾を抱え込み、義務の衝突をもたらすこともある。そこで必要になるのは「調整」である。「等位」理論は、必然的に「調整」理論のこととなる。

現在、日本政府が韓国政府に求めているのは、この意味での「調整」であると言えるだろう。

国際法を通じて韓国と接する日本政府は、したがって韓国行政府をただ責め立てるのではなく、その「調整」努力を支援し、促進していくべきである。

つまり韓国の国内法廷で私企業に負わされた責任は、国際協定の趣旨からすれば韓国政府が対応すべきものであり、それにしたがって韓国政府が財政措置や立法措置をとることを期待しなければならない。

日本における原爆被害者の例を見てみよう。

米国による広島・長崎への原爆投下は、国際人道法違反の疑いが強い。サンフランシスコ講和条約にかかわらず、国際人道法違反による不法行為に対する損害賠償請求は可能だ、という主張の余地は、理論上はありうるかもしれない。

しかし実際には、日本政府は、独自の被爆者救援制度を導入し、対応している。それは戦後国際秩序を尊重し、日本と米国の間の特別な関係に配慮して、米国に対する損害賠償請求の可能性を排除する要請と、被害者を救済する要請とを、「調整」している結果だと言える。

請求権協定を結び、それにもとづいて経済支援も受け取った韓国政府は、同様の措置をとる責任を負っていると解釈すべきだろう。

最近、日本の中国向けODAの終了が宣言されたが、経済支援には賠償の代替という意味もあった。その役割を中国側も評価する形での宣言となった。現時点では中国に賠償問題を持ち出す様子はなく、中国に対する経済支援措置は奏功したと評価できる。

日韓の請求権協定は、経済支援が主な内容となっていた。個人救済の必要性を否定することなく、日韓の間の請求権をめぐる紛争を防ぐのが、協定の趣旨なのだ。両国政府は、この協定の趣旨に、依然としてコミットしている。

日本政府が追求すべきなのは、こうした「調整」措置の可能性であると思われる。したがってまずは韓国政府が、そうした「調整」措置を取ってくれるかどうかを見守り、支援するべきだ。

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日本の憲法学の「憲法優位説」は大丈夫か

大韓民国憲法は、その前文で、次のように宣言している。 

「悠久なる歴史と伝統に輝く我が大韓国民は、三・一運動によって建立された大韓民国臨時政府の法的伝統……を継承し……」

「三・一運動」とは、韓国併合後の1919年に、日本の統治に反対して沸き起こった運動のことを指す。

つまり、韓国の憲法それ自体が、日本による統治を否定して作られた「臨時政府」の正当性を認め、その「法的伝統」なるものを受け継いでいることを宣言しているのである。

そう考えると、韓国大法院が「植民地支配と直結した不法行為」について語ること自体は、少なくとも国内憲法との関係で言えば、ありうることである。

もちろん大韓民国憲法は、その第六条一項において、次のようにも定めている。

「憲法に基づいて締結し、公布された条約および一般的に承認された国際法規は、国内法と同等の効力を有する」

韓国政府は、自国の大法院の決定を理由にして、国際法(二国間協定)遵守の義務の免除を唱えることはできない。韓国大法院も、請求権協定それ自体を否定したわけではなかった。ただ今回、韓国大法院は、自ら「調整」を試みることもはしなかった。

むしろただ伝統的な協定解釈を否定し、国際法に対する憲法優位説をとるかのように、「三・一運動によって建立された大韓民国臨時政府の法的伝統」にそった立場を選択した。

国際法を見ず、「調整」の必要性を認めない教条的な国内法学者は、日韓の違いを見ず、一方的に憲法優越説を唱える。

日本の司法試験受験者の必携の書である芦部信喜『憲法』から引用してみよう。

「通説・判例は、①条約が憲法に優越すると解すると、内容的に憲法に反する条約が締結された場合には、法律よりも簡易な手続によって成立する条約によって憲法が改正されることとなり、国民主権ないし硬性憲法の建前に反すること……などを論拠として、憲法が条約に優越するという立場(憲法優位説)をとる……」。

しかし、日本国憲法は、憲法学者が作ったものではない。むしろ国連憲章などの国際法規範を重視する者たちが作ったものである。

もともとは、日本国憲法前文も、九条一項も二項も、国際法との「調和」を希求する意図で作られたものなのだ。それらの解釈は、すべてその前提で行うのが、本来の正しい解釈姿勢であるはずなのだ。

ところが、日本の憲法学者は、そのような解釈を否定する。そして憲法学の基本書を根拠として、声高に「憲法優位説」を主張し、いわば日本の憲法学通説の国際法に対する優越を主張する。

こういった教条的な態度は、危険である。日本でも、韓国でも、危険である。

国際社会の秩序を重んじ、国際法をふまえた「法の支配」を尊重するならば、憲法の尊重は、国際法の軽視のことではない、ということを、真剣に受け止めなければならない。