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『シン・エヴァ』、私たちは「ゲンドウの描かれ方」に感動するだけでいいのか? 根本的な疑問




【注意】本稿は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』、『エヴァンゲリオン』シリーズのネタバレを含みます。未見の方はご注意ください。




出発点であり、到達点ではない

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下『シン』)を観る前に、私が考えていたのは、ループでも並行世界でも続編でもぶん投げでもなく、ちゃんと「終わり」を見せてほしい、ということだった。作中の大人たちの行動と責任を、そして庵野監督の成熟と喪失を見てみたかった。何より作中のシンジ、レイ、アスカら子どもたちを解放してあげてほしかった。それに比べれば、作品として成功か失敗かは二の次に思えた。

2021年3月8日、公開初日の朝、劇場で『シン』を観終えた時、こう感じた。庵野監督は、可能なすべてに決着をつけていた。過剰な欲望の表現ではなく、成熟の道を選んでいた。これまでの『エヴァ』の物語に、登場人物たちの人生に、それ自体がディープインパクトとしてのエヴァ現象に、きっちりと決着を付けた。呪縛を自ら解き放ち、弔い、自己埋葬すること。ごくまっとうな断念。これでいいんだと思った。きっとこれでいいんだ、と。

©カラー/エヴァンゲリオン公式Twitterアカウントより
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ところが数日経つと、次第に違和感が強くなってきた。解放された、呪いが解けた、青春が終わった、ありがとう……等々と悠長に感動している場合なのだろうか。ずっと「ガキ」のままの「男」だった「私たち」は、今さら成熟とか、弔いとか、母殺しとか、この20年、30年の間、一体何をやってきたんだ? 恥ずかしくはないのか? そうした羞恥心が強まってきたのである。

もちろん、そうした批判の集中砲火をくらって火だるまになることも、庵野監督はわかりきっていたのだろう。それでもあえてやらざるをえなかったのだろう。しかしそれでもやはり、これは出発点であり、到達点ではないように思えた。

作中では人類補完計画は断念され、人々はシンギュラーな「個」に還る。確かにそれは祝福されるべき事態だ。しかし本当は、そこから、現実の社会的困難がはじまるはずである。シンジの父親ゲンドウが象徴するような大人の「男」たちは、たとえば目の前の貧困と格差、気候危機、ジェンダー不公正などに対峙しなければならなくなる(不十分な形であれ新海誠が『天気の子』でそれらの社会的な主題に向き合ったように)。感謝したり感動したりしている場合ではない。

私は以下、ゲンドウの存在を中心として『シン』を論じていく。無数の人物や謎が重層的に交錯する『シン』という作品の全体像を、私のような限定的な視点から十全に捉えられるとは思わない。だがこうした限定的視点から見えてくる問題点もまたあるだろう。

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誰よりも「チルドレン」なゲンドウ

単純な点だが、次のことを確認しておこう。以前から書いているように(拙著『戦争と虚構』等を参照)、私は『エヴァ』シリーズの中心には、息子のシンジよりも父親のゲンドウがいると考えてきた。

『エヴァ』の世界では、基本的に大人たちが十分に責任を取らず、子どもたちに責任を押し付け、利己的な陰謀に走り、代理戦争を戦わせているのであり、だからこそ、この世界の根本問題が永遠に解決しない(もちろん作中の設定がそれを強いているわけだが、それにしてもやれることはもっとあるはずだ)。その点をもどかしく感じてきた。

ゲンドウは、職場(組織)のネルフでは厳格に冷徹に行動し、シンジやレイを道具のように扱ったりと、愛人の心身を搾取したりと、身勝手な大人にみえる。エヴァに乗るチルドレンの条件は「母親を喪失した14歳の子ども」とされていたが、誰よりもメンタル的に「チルドレン」(ガキ)であるのはゲンドウだった。

ゲンドウの究極の「願い」は、ゼーレの人類補完計画を利用して、かつて実験の失敗で死んだユイ(妻であり代理母でもある女性)を復活させ、一体化することにあった。妻=母なしには生きられず、社会的な他者たちとろくにコミュニケーションも取れないこと、それがゲンドウの根本的な「弱さ」だった。それはよくある未熟で利己的な母胎回帰願望と見分けがつかない。

たとえば私は拙著『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』で、男の弱さとは、自分の弱さを認められないという弱さである、と論じたことがある。その意味では、ゲンドウという男は、たとえ妻子がいても、愛人がいても、組織運営の才覚があったとしても、マインド的には非モテ=インセルの典型であり、よくいる日本の「おじさん」なのである。

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ゲンドウの「成熟と喪失」

戦後の保守的な文芸評論家を代表する江藤淳(大塚英志は、江藤の中にオタク批評家のプロトタイプを見出している)は、50年以上も前の著作『成熟と喪失――「母」の崩壊』(1967年)の中で、戦後の日本人男性たちの成熟をめぐる独特の困難を論じた。

これは熟読していくと複雑で難解なところのある本だが、ひとまず単純化しておこう。『成熟と喪失』の根本主題は、弱い男(息子)がいかにして母(自然)の死を受け容れ、滑稽で無様な姿をさらしながらも、一人の「父」として成熟できるか、という点にある。

しかもその場合、息子は、次第に病んで狂って死んでいく妻(母)を看護・ケアする主体である。しかし妻(母)を助けられず、自分の無力さに苦しめられる。そればかりか、無意識のうちに妻(母)を傷つけて殺してしまった自分、罪悪感を抱えた加害主体としての自分に直面する……。

『成熟と喪失』は、安岡章太郎、小島信夫、遠藤周作、吉行淳之介、庄野潤三などの戦後のいわゆる「第三の新人」の文学者たちを主に論じているのだが、江藤によれば、「第三の新人」とは「中学生的な感受性」(中二病!)を武器にして文壇的出発を遂げた作家たちであり、それは《「子供」でありつづけることに決めた「大人」の世界》(オトナコドモ)であり、「どこかに母親との結びつきをかくしている」。これはまさに「母性のディストピア」(宇野常寛)としての『エヴァ』的な世界を思わせる。

ゲンドウは、『シン』に至って、シンジの指摘によって、ついに自分の(男としての)弱さを認める。そして妻=母との一体化の夢を断念する。それは祝福すべきことではある。しかし考えてみれば、50年以上も前の『成熟と喪失』の分析がかなりの程度ゲンドウにあてはまってしまう、その事実に私たちは慄然とすべきではないか。これほどまでの「変われなさ」がコンティニューされてしまってきたことに。

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大人の責任を示すミサト

その点で注目すべきなのは、「新劇場版」のもう一人の主人公といっていい、葛城ミサトの苦闘だろう。

シンジの世話役でもある年上女性のミサトは、彼女自身の父親との屈折的な父娘関係(研究一途で家族を蔑ろにした父親が、セカンドインパクトの際に自分を守って死んだために、ミサトは父親に対する複雑な愛憎やトラウマを抱えている)もあり、テレビ版や旧劇場版では、ミサトはシンジのそれと共鳴するような未成熟さを見せていた。上司的な面、姉的な面、母親的な面、恋人的な面など、不安定に揺れ動く関係にならざるをえなかった。

今回『シン』を観に行く前に新劇場版『序』『破』『Q』を観返して、次のようなことを思った。『エヴァ』のテレビ版のラストは、カルト宗教あるいは自己啓発セミナーのような演出のために「洗脳エンディング」と通称される。しかしそもそも『エヴァ』シリーズの始まりの光景は「洗脳スタート」と呼ぶべきものだった。シンジは、知らない場所に連れてこられ、状況について詳しく説明されないまま、命令を断りにくい包囲網を作られ、周りから責められ、逃げてはダメだと言われ、混乱したままエヴァに搭乗することを決断させられる……。

大人たちはちゃんと事前に説明するべきだ。自分を捨てた父親と対面して混乱している子どもの決断に、社会的に重要なミッションの成否を委ねるような状況を作るな。そういう身もふたもないようなことを、まず素朴に感じた。

そうした中で「新劇場版」でもっとも、大人としての責任をまっとうしようと努力しているのが、ミサトである。ミサトはシンジに仕事の意味をちゃんと説明し、ケアし、労おうとする。14歳の少年の決断に過度な帰責化をしない。

シンジの意志を尊重し、批判すべき点は批判し、その上で仕事の仲間として信頼してもいく。『序』のクライマックスの「ヤシマ作戦」でミサトが「シンジ君を信じる」と言うのみならず「初号機パイロットを信じます」と言うところなどは、率直にグッと来た。

そして『破』では、アスカが重傷を負い、エヴァに乗ることをボイコットしたシンジに対し、ミサトは「仕事から逃げるな」とも言わず、説得もせずに、ただ、隣で手を取って一緒に笑ってほしい、ということを望むのである(ここは「新劇場版」全体でも屈指の重要なシーンだと思う)。

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そして『シン』に至ってミサトは、自らの未熟さを完全に払拭し(依然として愛する者たちへの不器用さは見られるが)、大人としての責任を生真面目なまでに果たしていく。

ミサトには、ニアサードインパクトを阻止するために犠牲となった加持リョウジとの間に、すでに14歳の息子(息子の名前もリョウジ)がいて、シングルマザーになっていたことが判明する。しかし、我が子には一生会わないと決めており、反ネルフ組織ヴィレの「希望の船」「神殺しの力」ことヴンダーの艦長として、ゲンドウらの人類補完計画を食い止めようとする。そうした難しい立場にありつつも、一貫してシンジを大事に想い尊重していたこと(『Q』の冷淡な態度にも一定の理由付けがされる)が明らかになる。

では結局、ミサトは出産して母親になったから成熟したということか。母は強し、ということか。それは『シン』全体の主題である母殺し(母との別れ)と矛盾するように見える。しかし、そうではない。

ミサトの生き方が示すのは、すべての息子たちを融和的に包み込むような母性主義的なもの(『元始、女性は太陽であった』の平塚らいてふ、アナキスト女性として母系制を研究した高群逸枝に象徴されるような)には見えない。かといって、リベラルフェミニズム的な完全な個人主義とも微妙に異なるようだ。

すなわちミサトは、母性主義的で融和的な母親でもなく、ネオリベラリズム的(ポストフェミニズム)的な職業軍人的女性でもなく、仕事仲間を信頼し、人類の知恵と意志を信じ、神頼みをせず、子どもたち(息子とシンジ君)のことを未来を担うべき「個」として愛そうとする。そして未来世代が存続しうるための、持続可能な環境を作り出そうとする。いわばソーシャルな「母」である。ミサトの成熟が示すのは、母性神話とは無縁な個人主義的な「母」であり、社会変革的な「母」の力だろう。

(付け加えておけば、ミサトに匹敵する社会変革的な女性としては、天朝殺しによってタタラ場を真に自立的な多文化共生のコミュニティへと変革しようとする『もののけ姫』のエボシ――彼女は母ではないが――のことが思い出される)

エボシ© 1997 Studio Ghibli・ND
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このことは、被災者や難民たちが寄り集まったコミュニティとしての「第三村」――東日本大震災の後、あるいは新型コロナ禍の社会のイメージ――に、妊娠した女性や猫たちが目立って多い、という点にも関わるだろう(あるいはいつのまにか増殖していた元実験動物の温泉ペンギンたち)。

とはいえここには、中途半端な形での保守的な共同体主義に撤退するという危うさもあるわけだが(たとえば近年の細田守の作品が、リベラルな個人主義の力を、共同体主義や祖先信仰によってしか支えられない、というジレンマに似ている)、ミサトが示した社会変革的な母としてのあり方には、そうした保守的な母親像とは別のポテンシャルがあるように思われる。パンフレットにはミサトに息と命を吹き込んだ声優三石琴乃へのインタビューが掲載されているが、これは真に感動的なものである。

ここが男たちの行き止まり?

とはいえ問題なのは、『シン』ではゲンドウ/シンジの対決の先に、新たな男性性のイメージを具体的に示せていない、という点にあるのではないか。

男たちは確かにユイ的な母性のディストピアから解放されるが、その代わりに、ミサトを筆頭として女性たちの強さに結局責任を代理させているように見える。無意識のうちに近年のPCやフェミニズムや#MeToo運動に棹差すような形で。実際にミサトが息子やシンジの援助を託すのは長年の女友達であるリツコなのだ。あるいはシンジが最後に手を取るのもユイの元同僚のマリなのである。

庵野はかつて実写作品『式日』(2000年)で、アニメ制作に疲れて田舎に帰った映画監督の男性と、精神を病んだ女性の恋愛を描いていた。主人公の映画監督は、「気が狂うほど人を愛すること」に憧れている。ゲンドウがユイを愛したように。

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他者を愛することは怖いことであり、重たい責任を伴うことだ。しかしもしもその責任を喜びに変えられたら、それが過去の自分を弔うこととなり、私の新たな誕生日になる……。映画よりも重要な現実があり、それを思い知った人間だけが、本物の「監督」になれるのである。

私は『式日』のこうした感覚には、重要な何かがある、と今でも思う。しかし疑問点も残った。『式日』において母なるものの抑圧と向き合い、母親との別れを決断するのが、なぜ主人公の監督本人ではなく、精神を病んだ女性だったのか。ここでもまた、ゲンドウが子どもたちに代理戦争を強いたように、精神を病んだ女性が監督(男)の代理戦争を戦わされていないか。

『シン』のゲンドウが己の「男の弱さ」を認めて「解放」されたのは喜ばしいが、結局『エヴァ』の世界の男たちには未来があるようには思えない。ここが「男」たちの行き止まりであり、あたかも滅びていく種族であるかに見える(「父」としての加持リョウジの生前の行動についてはもう少し知りたかった)。旧世代の「おじさん」たちにできるのは、せいぜい自分(たち)の弔いや埋葬であり、自分の死後も維持され存続していくこの世界への責任を担うことではなかった。

私の論考は、あくまでもゲンドウを中心とする大人たちのサイドから『シン』の決着に疑問を述べたものでしかない。子どもたちの側から見れば――シンジの急激な成長、レイ(仮)の感情の開花、アスカの承認欲求の充足など――、無数の生命の誕生を寿ぎ、農村的自然の豊かさを祝福し、虚構(アニメ)と現実(実写)が一体化したデジタルネイチャーな未来を肯定する物語として読み解けるかもしれない。

滅びていく旧世代の「おじさん」たち、それとは対照的に、手を繋いで未来へと駆けていく新世紀の子ども・若者たち。その残酷なまでの対比が鮮やかに描かれているとも言える。

しかし、こうした旧世代/新世代の切り分けは、何かをスキップしていないか。解放されるには早すぎるのではないか(序盤での重度の鬱状態から立ち直ったあとのシンジは、はっきり言って、『エヴァ』の物語を手っ取り早く完結させるための無敵の狂言回しのようで、成熟や成長のリアリティを感じなかった)。

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では、あらためて、大人の男たちの責任の形とは何か。もはや悠長に成熟を問うのではなく、社会に対する責任を背負った男性像とは。社会変革的な「男性」になるとは。ゲンドウの存在を中心にみるかぎり、『シン』は出発点ではあっても、すべての終わりではありえない。率直にそう思った。

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