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Creator's Blog,record of the designer's thinking

研究者の頭とクリエイターの感性で、書き、描き、撮り、制作しています

エッセイ1024.土地に触れて、土地に残らず

沖縄県那覇市牧志市場 (2022年12月07日)

YouTube に映像を上げ続けて、いつの間にか 425 本になった。
登録者は 69 人。
長く放置していた映像が、いつのまにか 100 回ほど再生されていることもある。
静かな数字だが、いまはそれで十分だと思っている。

過去の映像を見返すと、
どの場所でも私は、
ただ通り過ぎていく“旅人”のままだった。
街に触れながら、街に残らない。
光を受け取りながら、光の中へ溶けていく。

住んでいない土地では、
関わりが深まることもなく、
足跡も静かに消えていく。
それは旅人の本質であり、
寂しさと呼ぶほどの強い感情でもない。
ただ、ふっと胸の奥に影が落ちるだけだ。

もし住めば、
また別のしがらみの中で日々を営むことになるのだろう。
それはそれで自然なことで、
旅人というかたちと矛盾もしない。

沖縄は、ダイビングで何度も通った土地だ。
それでも、私の内側へ深く入り込んでくることはなかった。
通いながら、どこか他人のまま。
景色はいつも少し遠く、
触れれば波のように引いていった。

同窓生のつながりが濃い沖縄では、
地元紙に今も消息欄があり、
年月を経た人々の足跡が淡々と記されてゆく。
土地に根を下ろすとは、
こうした静かな持続のことなのだと感じる。

その対極にある旅人は、
ひとつの土地に溶け込む前に、また次へ向かう。
深く残らず、深く残されず、
ただ道の途中に立っている。

年末が近づくと、
空気が少しだけ冷え、
物事の輪郭が静かに浮かび上がる。
旅人としての自分もまた、
その輪郭のひとつなのだろう。

そんな寂しさがよぎる師走である。

 

エッセイ1023.冷却ファンとクロップ問題──映像機材の現実的評価

FX3とα7S3。chatGPTに制作させた。手持ち画像が無いときは便利なchatGPTである。それはストック発想ではなく、社会の情報を集めてクリエイションするから無限大に生成できるというわけだ。

撮影機材のプロダクトデザインについて考える機会が多い。
最近、ユーチューバーに定番となっている SONY α7S III を見ていた。
発売開始から時間が経った機種ではあるが、ファームアップも行われ、
素数を抑えた設計ゆえに映像機としての仕様が高い。
私の要求する三つの条件のうち、二つは満たしている。

あらためて、私が求める条件を挙げておく。

  1. 4K60p でクロップなし

  2. スーパー35mm モードが使える

  3. 冷却ファン付き

一眼レフタイプの筐体には、映像専用機として見た場合、不要な機能が少なくない。
たとえば ファインダー はいらない。
映像撮影では背面モニターを中心に操作し、必要なら外付けモニターを使う。
実際、私の FX30 にはファインダーは搭載されていない。

また 静止画モード も不要だ。
静止画撮影はまったく行わないため、操作子が増えるだけで紛らわしい。

その一方で、必ず搭載してほしいのが 冷却ファン である。
静止画兼用カメラでは、熱帯地方の炎天下で10分ほど連続撮影するとオーバーヒートし、
バッテリーを抜いて自然冷却するしかなくなる。
FX30 にはファンがあるため、撮影停止に陥ったことがない。

FX30 の“欠点”は APS-C 専用機であることだが、
これは仕様であり、責めるべき性質のものではない。
そのため、条件の 1 と 3 は満たしている。

一方、α7C IIは条件 2 のみが満たされる。
とはいえ手ぶれ補正が次世代タイプに強化されており、
手持ち撮影のドキュメンタリー用途では有効かもしれない。

そもそも 4K60p をフルフレームでクロップなし という仕様自体が、
いまの世代のイメージセンサー等のシステムでは技術的に限界がある。
だからクロップ無しにするならば α7S III や FX3 のように 素数を下げる 必要がある。
他方で高画素のFX2 では 4K60p はクロップされ、
「なぜこの仕様で出したのか」とユーザーの疑問を招いている。

こうしてみると大型の映像機材を除けば、現行の機材はどれも「帯に短し、襷に長し」である。

しかし、高画素のまま 4K60p を実現するセンサーも登場しており、
それを採用した新機種が出れば、
私の三条件をすべて満たす“理想型”に近づくはずだ。

当面は、三条件のうち一つでも満たされればよしとし、
ルフレームの α7C II を候補にしている。

次の世代の橋渡しだから購買意欲は希薄。

ただし冷却ファンがない以上、熱帯地方の炎天下で長時間回せば熱停止の可能性が高い。
節電設計の効果も未知数で、現状ではリスクのある機材だ。

12月5日の最安値は、価格ドットコムでは226,783円。発売開始時から価格ドットコム換算では15%オフだ。橋渡し機材だから今年中に22万をきると自分ご褒美だな。

chatGPTに生成させたα7C2の画素。マイクやリグが少し違えがええだろう。その分オリジナル画像に近い。L字リグとサイドストラップにすればジンバル無しでもゆけるかな。SONY製ツァィス標準レンズをつけると格好いいじゃんと、格好で決断することもありそうだ

コシナCarl Zeiss Planar T*2/50ZM SV シルバーか。chatGPTに作成させたらこうなった。おおっ、似合うじゃないか。そんなレンズをどこから引っ張り出したか。中古レンズ病という病気が再燃しそうだ。うちコシナプラナーもってんね。コシナを付ける方法もあるが、あれってフルマニュアルで重たいしさ。それにコシナのツァイスの色って寒色系が強いのよね。ここはSONYツァイスの色が私的にはよいけど…。

エッセイ1022.個別解としての生活情報と、一般化を志向する文章

京都市二条(2024年12月6日)

12月8日は、太平洋戦争開戦日、針供養、ジョン・レノン忌など、多義的な記念日として歴史・文化の両面に意味をもつ。
一年前の私はちょうどフィリピン渡航の準備を進めており、当時の記録を振り返る機会があった。

その過程で、gooブログが予告どおり閉鎖されていることに気づいた。
この閉鎖は、一見すると「文章編集型メディアの終焉」あるいは「映像優位時代」への移行を象徴しているようにも見える。
しかし、私はこの解釈には慎重であるべきだと考える。

まず、YouTubeInstagram などの映像媒体の台頭は、
伝達媒体の多様化を示すものであり、
文章から映像への一方的な置換を意味しない。
私は文章による学術論文と映像作品制作の双方に携わっているが、
二者は代替関係ではなく、
情報構造の性質に応じた住み分けにすぎない。

gooブログ閉鎖の背景は、媒体そのものではなく、
利用者側の行動様式の変容にあるとみるべきだろう。
実際、goo上には長期間放置されたブログが多数存在しており、
文章媒体への関心の低下が顕著であった。
このことは、生活情報の取得が映像にシフトしたというより、
個人発信のモチベーション自体が変質したと考える方が妥当である。

一例を挙げれば、料理レシピなど、映像による説明が合理的な領域もある。
しかし、それはあくまで「個別解(特殊解)」であり、
生活情報全般が映像に向くわけではない。
生活情報は一般に、
個々の経験に依存する非一般化データであり、
そこから時間を経て抽出され、発表され、社会的に評価された知見のみが一般解に近づく。

これに対し学術論文は、
最初から「一般化可能性」を前提として構築される媒体である。
既往研究の体系的調査、資料の明示、論理構成の透明性、
新規知見の提示、公開による学術的検証——
これらの過程を経てはじめて成立する。
生活情報とは制作過程も目的も手続きも異なる。

したがって、ブログ読者が普遍的知識を求めないのは当然であり、
ブログという媒体の性質を考えれば自然な帰結である。
その意味で、gooブログの閉鎖は単なる「媒体の死」ではなく、
知識行動の構造変化の一側面と理解すべきである。

私は現在、はてなブログで文章を書いているが、
goo から移行して読者数は 1/10 に減少した。
これはプラットフォーム構造の差異に起因する部分が大きいが、
読者数そのものを目的とせず、
文章を書く行為を自己思考の深化の過程として位置づけているため、
特段の対応はしていない。

掲載した写真はJR二条駅のホームから撮影したものである。
乗り換えの途中だったと思われるが、正確な目的地は記憶にない。
覚えているのは、比叡山の紅葉と市街地の眺望を望遠で重ねようとした意図だけである。
こうした曖昧さは生活情報の特性のひとつであり、
その曖昧さこそがむしろ、日常の“質”を形づくっているのかもしれない。

(iPhon13pro)

 

エッセイ1021.冬の入口にて

清水寺(2024年11月30日)

一年前の写真を開いた。
淡い光が画面に残り、
季節が同じ場所へ戻ってきていることを知らせていた。

寒さに弱くなり、
冬が近づくと外出の機会は自然と減る。
昨年は、京都が冬に入る前にフィリピンへ向かった。
乾期の空気は乾き、風はゆるやかで、
日々が静かに過ぎていった。
それは適切な選択だった。

滞在は半年に延び、
四月を過ぎると暑さがはっきりと戻ってきた。
その中で、京都の初夏はやや涼しく感じられた。
今年の京都は長い暑さののち、
ようやく冬の入口に立った。

論文と決算の作業がある。
それらを終えてから、
再びフィリピンへ向かう予定である。
しばらくは京都の冬を受け入れる。

寒さの中で、
人を思い出すことがある。
それが年末の集まりを支えるのかもしれない。

紅葉が終われば、
それぞれの年末が静かに始まる。

(iPhon13pro)

エッセイ1020.機材更新についてのメモ

ChatGPTが生成した私好みのシステム

機材の更新を考えていた。
どうやら SONY は AI を搭載した新機種を開発しているらしい。
私が求める三つの仕様がいまの機種では一部満たされないため、
「ここは新機種を待つべき」と静観していた。

ところが、chatGPT に画像のレンダリングをさせていたら、
ふと価格が下がっている。
「いまが調達どきでは?」と心が揺れた。
その候補が α7C II のシルバーボディである。

価格が手頃で、シルバーボディはデザインが美しい。
これに SONY のガンマイク、L字型リグ、そしてハンドストラップを付ける。
外部モニターや大容量バッテリーはあえて外し、
軽量で取り回しのいいシステムにまとめるなら使いやすそうだ。

確かに 4K60P はクロップされるし、冷却ファンもない。
それでも手ぶれ補正は強化され、スーパー35mmモードも使える。
私の撮影システムにはまあまあのレベルでフィットしそうだ。

それにしても chatGPT の画像生成は侮れない。
妙に良いアングルで、きれいな仕上がりを返してくる。
その画像を見ているうちに、「これで十分では?」という気分にさせられる。

もちろんマイクの形状は実際とは違うし、
GMのレンズがあんなに細いはずもない。
あんな細身のタムロンみたいなレンズなら嬉しいが、
現実はもっと太くて存在感がある。
とはいえ、スリムなレンズのほうが見た目が良いということは理解した。

結局、毎日価格チェックの日々。
ただ年末から正月にかけては値段が上がる。
高くなりすぎたら、潔く放置するだけだ。

chatGPTが生成した画像



エッセイ1019.新幹線がつくる街の“表”と“裏”

新幹線豊橋駅の南側(2025年9月14日)

このブログで“新幹線”と書けば、まず東海道新幹線のことだ。
私はほかの新幹線には乗らない。
北海道へ行くなら運賃のことを考えても LCC の飛行機が圧勝で、
関西からなら二時間もあれば着いてしまう。
早くて安いのなら、飛行機に軍配が上がる。

ただ、ローカルな街へ向かうときは、新幹線を使わざるを得ない。

豊橋駅は、新幹線としては珍しく“地上駅”である。
高架を走ってきた新幹線が坂を下り、地上の豊橋駅を高速通過し、
再び坂をかけ上がって高架へ戻っていく。
その一瞬だけ、車窓から街並みが間近に迫る。

自由席に乗ると、どうしてもホームの端へ行きがちだが、
豊橋駅は北口が立派に整備されている一方で、
南口側はがらりと雰囲気が変わる。
住宅、小さなオフィスビル赤ちょうちんが並び、
どこか“地元の匂い”が濃い。

駅というものは、たいてい“表”と“裏”をつくり出す。
表側にはペデストリアンデッキや広場があり、
計画担当者の意識が隅々まで届いている。
しかし裏側になるとその魔法は途切れ、
“成り行き”で形づくられた街がしれっと広がっている。

そんな裏側に、庶民的な居酒屋が潜んでいるのもよくある話だ。
昔であれば安宿街や遊郭があっただろう。
遊郭売春防止法ができる戦後まで残っていたのだから、
なおさらだ。

鉄道という存在は、街を表と裏に、時に“断絶”という境界線まで引いてしまう。
豊橋駅も、南北自由通路ができるまでは確かに“駅裏”の空気をまとっていた。
近年は整備が進んだが、それでもふとしたところに昔の名残が顔を覗かせる。

そんな空気を感じながら、今日も新幹線で街をまたぐ。

(iphon13pro)

エッセイ1018.季節が冬へ沈む、その手前で

京都市比叡山

この文章を書いている十一月二十一日、
京都はちょうど紅葉の盛りを迎えている。
街のどこかで葉が照り返し、
どこかで散り、
どこかで冬へと静かに身をゆだねているはずだ。

けれど、今年はその光景の中へ分け入ろうという気持ちが不思議と起きない。
締め切りの影が机の上に落ち、
心の景色のいくつかを先に冬へ連れて行ってしまったかのようだ。

通りすぎる紅葉を横目に、
ただ、その“色の気配”だけを受け取る。
手を伸ばすでもなく、
ただそこにある季節の温度だけが、静かに胸に触れていった。

これが過ぎれば師走が訪れ、
京都の冬は底冷えの気配を纏ってやってくる。
季節が坂道を転がり落ちるように、
時間はひと息に冬へ向かっていく。

遠くに実家を持つ人々は、帰省の準備に心を向ける頃だろう。
私の実家は東京にあるが、
正月に帰ることはほとんどない。
きっと今年も静かな部屋で、
紙と画面のあいだに沈み込むように原稿を書いているだろう。

年末は、それぞれの静けさを連れてくる。

今日の画像は iPhone で撮影した。
データに記された「77mm」という数字が気になり、
フルサイズ換算なのかと調べてみると、
なるほど、それはフルサイズ換算値であり、実焦点距離は 9mm だという。
一つの数字が、
レンズの向こうの世界をどう見せるかを決めている。

しかし、画質はやはり心許ない。
最新の iPhone は望遠でも美しく撮れると謳うが、
私には SONY の機材がある。
買い換えたいという衝動は、冬の夕暮れの中で静かに霧散していく。

季節が深まると、
人はふと足を止め、
たわいない事柄ひとつにも
淡い光を見るようになる。

冬に入る心の準備とは、
こうした些細な思索の揺れの中で
形づくられていくものなのだろう。

(iphon13pro)

エッセイ1017.一枚の写真から、明治の貸座敷を立ち上げる

明治建築の3DCGによる復元過程

私の仕事は大きく三つある。
①都市系コンサルタント
②研究者として学術論文の制作
③映像制作
このうち報酬が出るのは最初だけで、②③はほぼ“研究ワーク”である。

いま追われているのは、その二つ目、学術論文の制作だ。

工学系の論文は執筆するのではなく制作という言葉が似合う。

データ収集のためにフィールドへでるのはもちろん、時には測定装置をつくったり、CGを駆使したりとである。
今回のテーマは明治建築の復元。
といっても建物は現存せず、資料といえば明治時代に撮影された外観の写真が一枚だけ。
この一枚から建築設計図面を起こし、さらに 3DCG 化するという、なかなか骨の折れる作業である。

論文である以上、勝手な推測や想像は禁物。
“このくらいだろう”では通用しない。
写真の情報を画像解析して建築寸法を算出し、論拠が示せる形で設計図面を復元しなければならない。それは外観だけではなく、写真には映らない室内も論拠を組み立てて復元するからね。
その作業を夏頃から続け、いまは図面が完成し、木造軸組の 3DCG 化を進めているところだ。

図面があるなら 3DCG は簡単……と言いたいが、そうはいかない。
設計図は平面、3DCG は立体。
特に厄介なのが、入母屋屋根の“斜めに走る部材”の長さだ。

ブログ画像中央上の屋根の小屋組――
垂木を受ける斜めの梁の長さを、まず計算しなければならない。

具体的には、

・水平距離(底辺)6.787
・勾配 3/10(=0.3)
このとき斜材の長さはいくつか?

という問題だ。


■ 計算過程(中学数学レベル)

1. 底辺(水平距離)
6.787(これは事前に三角関数で求めた値)

2. 高さ(垂直距離)
高さ = 底辺 × 勾配
 = 6.787 × 0.3
 = 2.0361

3. 斜辺の長さ(ピタゴラスの定理
斜辺 = √(底辺² + 高さ²)
   = √(6.787² + 2.0361²)
   = √50.217
   = 7.086 ≒ 7.09

こうして求めた長さを 3DCG 上の部材に反映し、
ようやく立体として形になっていく。
やっていることは、大工と大差ない。

なのに、はてなブログは数式が書けない。

この時代にいまだに数式非対応とは、どういう了見なのか。

ワードで書いて貼り付けるか…。

ともあれ、この軸組構造はひとまず完成した。
残るは同じような明治の民家をあと六軒、復元しなければならない。

締め切りの足音はヒタヒタと近づいてくる。
まったく、ヤレヤレな世界である。

 

エッセイ1016.秋を忘れた夕陽、年末へ沈む

東名高速道路(2025年11月16日)

濃尾平野の西の端に沈んでゆく夕陽を眺めていると、
季節が一段、深いところへ沈み込んでいく気配がする。
秋は名乗りを上げる間もなく通り過ぎ、
冬は急ぎ足でこちらに近寄り、もう肩を叩いている。

いま書いている11月21日の京都は、朝晩の空気がひんやりと硬い。
窓を開けた瞬間、冬がこちらの頬を軽く指でつつくような冷たさがある。
暖房を入れる音が、季節の境界線を越えた合図のようにも聞こえる。

年末という時期には、
どうしてこうもわずかな感傷が混ざるのだろう。
一年の終わり、という以上の何かが胸に漂う。
気配に名前はないが、
静かに灯りを落とす部屋のような寂しさがある。

宴でもして気を変えようかと思っても、
映像でも紹介したダンサーのK君は手術を終えたばかりで、
今年は彼の不在が大きな空白となって残っている。
やはり宴会は見送りだろう。

愛知にも確かに伝統の祭は生きているが、
それぞれが点在し、ひとつでは映像の物語を支えきれない。
夜の都市を巡り、ライトアップを拾い集める手もあるが、
寒さが深まりゆく季節に、
その“走り回る覚悟”だけがなぜか湧いてこない。

結局、私は本来の仕事に戻る。
学術論文の執筆もまだ続き、
3DCGもまだ半ばで立ち止まったままだ。

そう考えると、
センチメンタルな気分に沈んでいる余裕など本当は無いのだが、
それでも年末の空気は、
人をひととき立ち止まらせる力を持っている。

忙しさに流されながらも、
この季節だけは、
ふと心の奥に“静かに降り積もるもの”がある。

(iPhon13pro)

 

 

 

 

 

エッセイ1015.のぞみが型落ちで、こだまが最新という話、追記:ウクライナ戦争

新幹線N700系Supreme普通車のインテリア

東海道新幹線は「N700 系で統一されています」と、
いかにも“きちんと管理しています”とすまし顔で言う。
だが実際には N700、N700A、N700S(Supreme) の三種類。

最新の N700S は内装が別世界。
天井は間接照明、全席コンセント、座面沈み込み式リクライニング、
窓枠は航空機インテリアの模倣。
トイレや洗面台まで間接照明で“未来っぽさ”を全力で演出している。

だが正直に言おう。
飛行機のパクリに成功しただけで、革新と呼ぶには弱いけど…。
日本の公共交通にしては頑張ったほう。

この N700S は加速が良いので、新大阪発「こだま」に回される。
こだまは“各駅停車”の皮をかぶったスプリンターで、
ローカル駅を出発した瞬間、
「後続ののぞみ? 知るかよ」と全力加速で逃げ切る。
ガラガラ車内で最新型に揺られるのは快適だが、
こだまが最新で、のぞみが型落ちって面白い国だ。

はい、九州から来る ワンナンバーの「のぞみ」は N700A
堂々と旧型である。
しかも満席率が高く、ところどころはげ欠けたボロ車両。
**ギュウ詰め旧型が最高速度で突っ走るという“令和の国鉄ショー”**が繰り広げられる。

Web予約で「のぞみ」を取ると、まずこの旧型を押しつけられる。
つまり予約システムとは「あなたに型落ちを与える仕組み」である。
私はそんな扱いをされるのが嫌なので、予約は使わない。

自由席の「こだま」か、名古屋まで各駅停車の「ひかり」。
“自由席”という名のとおり、
JR からの干渉を最小限に抑えられる最後の選択枝
景色を撮るなら左右の選択を伴う。
それは当日の天気で決めたいだけなのに、なぜ予約システムに撮影の舵を奪われねばならんのか…。

新幹線は少しづつ進化している。

進化の恩恵を受けたいから自由席なのだ。

最後に一枚、南海電鉄関空特急の個性的なインテリアを載せておく。

南海関空特急ラピュート

(iPhon13pro)

 

追記

以前このブログで、「いずれアメリカは武器供与を絞り、ウクライナ戦争は終息へ向かうだろう」と書いた。その後の動きを見ると、アメリカは静かに、この戦争から距離を置く準備を進めている。トランプさんの28項目の和平提案がそれだ。

最近のBBCニュースでは、米軍トップがウクライナ側と“戦争終結に向けた協議”を行ったと報じていた。興味深いのは、派遣されたのが政治家ではなく、30代の若い陸軍長官だ。EU諸国も日本も、形式上はウクライナ支援を掲げている。しかしアメリカだけは、別の出口を探している。

政治的メッセージを伝えるのであれば外交官や政治家で十分だ。にもかかわらず軍のトップを送ったのは、軍事支援の約束か、また逆に「これ以上支援しても勝ち筋はない」ことを、軍同士のレベルで共有するためだろう。加えてウクライナでは政府高官が汚職容疑で逮捕され、いずれ捜査の矛先はゼレンスキー自身に及ぶ可能性すらある。そんななかで会談の詳細は公開されていないが、軍のトップが向かった以上、話題は限られている。

さらにゼレンスキーは、戒厳令を理由に2024年の大統領選を延期したままだ。従って大統領の正統性が法的に揺らいでいる。和平条約を締結する主体として法的に成立できない、そこもアメリカは冷静に見ているに違いない。

この点を、もっとも早くから理解していたのはロシアのプーチンだ。彼は法学博士の学位を持つ“法律の専門家”である。ゼレンスキーの正統性の揺らぎは、ロシアにとって大きな政治カードになっている。いずれ条約の締結に向けて動き出すと、ゼレンスキーは法的責任がないので締結国の主体として不適切だとロシアは主張してくるかもしれない。

仮に今後あり得る道筋のひとつとして、「汚職によるゼレンスキー失脚」が浮上してくる可能性もあるか。既にゼレンスキーの側近が汚職で逮捕されている。ウクライナは、汚職国家といってもよい。

今和平提案は、トランプさんの28項目の提案に対して、先日のG20の集まりの中でヨーロッパ案が作成された。これが和平への話をややこしくしている。

日本はトランプさんとうまくいってたのに、ヨーロッパに騙された格好になっている。トランプさんに影響力がある高市を入れようというのがEU連合の企みだ。日本はそれに乗っちゃった。つまりEU案は締結の実現可能性がない案だ。これに日本は署名し、結果として解決の道筋を複雑にして戦争解決が長引きかねない案を支持した。

だから日本は静観していればよかったのに、残念な決断だった。

――いったい日本は、どっちを見て政策判断をしているのだろうか。

カメレオンみたいに、よくわからない日本政府だ。

BBC:US military team visits Kyiv as EU warns about Russian plans,21 November 2025

 

エッセイ1014.セミアマ向けに媚び続けた日本、未来を拾った中国

日本のカメラと中国のカメラ

日本のデジカメは中国に完敗――ではなく、
もはや対戦表にすら載っていない。

経済情報によれば、中国・深圳の Arashi Vision(影石創新科技)が手がける Insta360 の売上は770億円、株の時価総額は1兆4,000億円。
創業者は1991年生まれ。
日本企業が“次世代技術者育成”とやらを議論している間に、中国の若者は世界市場を取りに行ってしまった。

アクションカムの分野では、GoPro を追い抜き、
日本勢は“存在した記録”すらない。
かつて世界のカメラ王国だったはずが、今では懐かしの産業遺産である。

Insta360 AcePro2 には Leica(ライツ)レンズが載り、アクセサリーは完璧。
企画・開発・製造・生産まで全部中国。
アクセサリーはユーザーの要望を全部理解して実装してくる。

つまり痒いところに手が届く。

一方でニコンCOOLPIX P1100。
ハンディカム以上の巨大ボディ、時代遅れの前面デザイン。
「アチャー!」では済まない惨状。
開発会議で誰も止めなかったのかと思うほどだ。

プロダクトの差別化として“24mm から 3000mm の超望遠”を誇るが、
3000mm で撮るものといえば野鳥の毛穴か、月の裏側か、あるいは覗いちゃいけないものか。
日本メーカー特有の“使う人間のリアリティを無視したスペック遊び”の極致である。

昔、私もニコンF4にロシア製1000ミリを付けたことがある。
まあ、サーフィンならまだしも、偶然写った木賃アパートの若いお姉ちゃんのストッキング姿まで見える始末で、
レンズ本体よりも“倫理観”のほうが先に壊れそうだった。

だがニコン P1100 の 3000mm なら、ストッキングどころかパンツの柄まで丸見えだろう。
もうこれはカメラではなく“文明に寄生する過激なプロダクト・ウェポン”だ。

そして話は続く。
かつて私が愛用していた防水コンデジ COOLPIX W300 を、ニコンは素晴らしいタイミングで廃盤にし、後継機なし。
市場ではプレミア価格。
需要があるものほど真っ先に殺す――これが日本企業の十八番である。

そんなわけで、コンデジ市場は完全に中国に奪われた。
奪われた、ではなく、
日本が勝手に手放して逃げたと言うべきだろう。

このままいけば、
ミラーレス一眼も時間の問題だ。
そのうち中国メーカーが一眼レフ市場まで飲み込み、
「日本? 昔は強かったらしいね」
と言われる時代が来る。

いや、もう来ているのかもしれない。

私のニコン・クールピクスW300、 ダイビングで活躍した機材

(iPhon13pro)

エッセイ1013.外国人の“最初の失望”を担当する空港

関西空港の入国ゲート(2025年11月19日)

関西空港の入国ゲートは、外国人が最初に目にする“日本の顔”である。
だが実際に見えるのは、高架道路の裏側という、なんとも情けない景色だ。
「ようこそ日本へ」と言いながら、見えるのが“高架道路の腹”である。
これを歓迎と呼ぶのは、いささか図々しい。

桂離宮の“目隠しの松”のつもりなのか――と皮肉のひとつも言いたくなるが、建築家がそんな雅な情緒を考えるはずがない。
彼らの関心は、ひたすら“人と物流処理”である。
おかげで関空の入国口は、芸術性ゼロの“物流倉庫のエントランス”みたいな仕上がりになっている。

北口と南口があるだけでも紛らわしいのに、南口だけも大きな到着表示板の背後の2つのドアから刺客ように突然人が飛び出してくる。
まるでインバウンド客を“忍者ゲーム”にして遊んでいるかのようだ。
出迎える側は、二つの口を同時に見張るため、目がロンパリになりながら待つ羽目になる。
関空は、出迎える人間の目の構造まで破壊する気らしい。

到着案内の液晶表示板はもっとひどい。
リアルタイムどころか、三列目以降は到着時刻だけの“過去ログ”と変わらない。
つまり、三列目に回った便は、
とっくに到着して、荷物も受け取り、通関もすませて、もう外に出ている可能性がある。
こちらは「まだかなぁ」と出口を見つめているのに、当の本人は後ろから「おったで」と登場する。
これを空港というより、出迎える側への罰ゲームと言うべきだ。

長旅を終えて異国に降りたったとき、
真っ先に見るべきは「知った顔」だ。
それが安心というものだ。
だが関空のシステムは、その当たり前すら平気で奪う。
日本の空港は、情報伝達より“利用者を困らせる”ほうが得意なのだろう。

「いないから道路まで探したんだけど……」
こんな茶番が年に何度も起きる国は、そう多くない。

つくづく思う。
人に情報を正確に伝えるという点で、日本は発展途上国どころか“未着手国”である。
日常のコミュニケーションが曖昧と根性論でできている民族が、完璧な案内システムを作れるはずがない。
“あうんの呼吸”など、外国人にわかるわけがないのだ。

(iPhon13pro)

 

エッセイ1012.正確に写す気のない世界と、正確に撮ろうとする人間

岸和田の車窓(2025年11月19日)

さて、嫁を迎えに関空へ向かう。
六地蔵の美容室から関空までの最適ルートなど、京都人の生活圏から外れているので、まずはジョルダンのアプリを叩くところから始まる。

六地蔵中書島→京橋→JR西回り→関空
アプリはいつものように、もっとも“教科書的な”ルートを親切に示してくれる。
だが、そう簡単に鵜呑みにするほど私は素直ではない。
調べてみたら、JRで東回りして今宮から南海に乗るという、安くて実用的な抜け道があった。
時間も値段も同じ。
こういう基本を忘れているあたり、京都人は大阪の鉄道に関しては、おんちだ。

南海に入ると高架線をはしるから車窓の高さが出て、大阪の街が夕焼けで染まっていた。
冬至が近いせいで、早い時刻に街が茜色に色付く。
スマホで撮ろうものなら、ただの“赤い塗りつぶし画像”に成り下がるだろう。
多くの人がそのことに気づかず、「きれいに撮れた」と満足しているのが哀しい。

私の機材のS-Logモードで撮れば多少は救えるが、それでも限界はある。
夕暮れというのは、デジタルが苦手とする色みたいだ。
そんな当たり前の話を書くと、決まって登場する。

「ウチのスマホ、めっちゃ色キレイやで?」と胸を張る姉ちゃん達である。

あれは彩度を限界まで盛り、AIが“盛りすぎた美肌補正”みたいな処理を施した結果だ。
27インチのモニターに映せば、たちまち化けの皮が剥がれる。
美人も化粧を落とせばただの人――という、残酷だが普遍的な真理と同じだ。

「大きい画面で見ないもん! これでええねん!」
彼女たちはそう言って逃げ切る。
縦動画の低解像度で世界を完結させるという、便利で安上がりな幸福論である。

その一方で、SONYは新世代AIを搭載したカメラが登場(注)するらしい。
おそらく次のシネマラインやαシリーズに積んでくるかもしれない。
動画の動きを予測し、絞りもピントも色調も、さらには人間の表情まで読取り早く合わせるという。
そうなれば、スマホカメラは“お化粧で誤魔化す世界”を抜け出せない。

性能の差は…、
現実をどこまで正確に写す気があるか
――その覚悟だけの違いかもしれない。

注:https://youtu.be/x1QvLDpqBww?si=hxeEijm4MsW_0Yhs

(iPhon13pro)

 

エッセイ1011.建前と現実のあいだで街は歪む

京都市六地蔵(2025年11月19日)

さて今日は、嫁がフィリピンから戻ってくる。
こう書くと「里帰りしていたのね」と思われるだろうが、実際には日本にいる時間のほうが短い。
彼女にとっては、**日本こそ“出稼ぎ先の別宅”**みたいな扱いである。

その彼女の指令で、六地蔵の美容室へ行くことになった。
私は白髪のほうが自然だと思うが、「黒にしろ」という。
家庭内民主主義は存在するが、最終意思決定権は常に向こうにある。
まあ、世の中の多くの制度と同じく、建前は平等、中身は別というやつだ。

六地蔵なんて普段まず行かない場所だが、今日は美容室へゆきがてら、“小さな旅”である。
旅と言っても、ただの用事だ。
しかし日常に刺激のない都市生活では、この程度の移動でも“旅情ごっこ”をしないと気分転換にならない。

京阪宇治線沿線の観月橋駅についてWikipediaをのぞくと、
豊臣秀吉が月見の宴を催した」だの「鎌倉末期には橋があった」だの、相変わらず情報が詰め込まれている。
歴史というのは、誰が書いたかも曖昧なものをありがたがる装置である。
私が調べたわけではないので無責任だが、そのくらいの距離感で丁度いい。

六地蔵京都市宇治市の境にある。
その境一つで景観が突然変わる。
宇治市側は規制が緩いから、高層マンションがこれ見よがしに建っている。
大阪に近いので“通勤に便利”らしいが、みんな便利に殺されている気がしてならない。

さらに「マンション投資で儲かる」などという甘い話も飛び交う。
一億のマンションが二億になる?
どこの異世界経済の話だ。
大方は値下がりし、修繕積立金で消耗し、最後は“負動産”化するのが相場だ。
あれを“投資”と呼ぶ神経が、私には理解できない。

この小さな川が市境であり、規制が違うだけで空の形まで変わってしまう。
人間が勝手に引いた線のせいで、街の姿がここまで歪むのだから、都市というものは本当に皮肉だ。

結局、都市景観も夫婦関係も行政制度も、
建前と現実の差分によって構築されている。
そう考えると、六地蔵の川面に映る空が妙に正直に見えてきた。

(iPhon13pro)

Fieldwork1007.名づければ消えるものを、撮りにゆく

舞踏、新城市鳴沢の瀧、ダンサー岩下徹(2025年11月16日)

十一月、紅葉が山肌に火を灯しはじめる頃、
私達は鳴沢の瀧へ向かった。
瀧の脇にひっそりと設えられた簡素な舞台で、舞踏の撮影がある。

パフォーマーは四人。
こちらはカメラ一台。
その不釣り合いな静けさの中で、私はレンズの向こうに流れる時間の気配を探していた。

そのうちの一人、岩下君は元・山海塾のダンサーである。
パリ・オペラ座をはじめ、世界の舞台に立ってきた男だ。
そんな彼が、鳴沢の瀧という原初の空間に立つ。
観客は二十名に満たない。
しかし数の問題ではない。むしろ、このささやかな場が“舞台”という言葉を取り戻す。

瀧の冷気が肌を撫で、苔むした岩壁が湿った光を投げ返す。
その空気を抱きとめるように、岩下君はしなやかに身をほどいてゆく。
踊りなのか、祈りなのか――境界がほどけていく。

案内には「幽玄」という文字があった。
幽玄とは、大気そのものの再生――そんな意味が添えられていた。
私はその文字を目にして思った。
これ以上言葉で綴ると壊れてしまう文字だ、と。

芸術とは、本来“理解する”ものではない。
触れた者のなかに、ひっそりと灯る微光のようなものだ。
その気配が伝わればよく、理屈は後から生まれる影のようなものにすぎない。

だから私は、言葉ではなく映像で拾おうとした。
光と空気と身体がつくる、かすかな揺らぎを。
その揺らぎの中に、名付ける前の“何か”が潜んでいるような気がしたのだ。

もしそれが、ほんのわずかでも映像に宿るなら――
きっと、それは面白い作品になるだろう。

youtu.be機材:SONY FX30,E4 PZ/18-105mm G OSS