これは、あくまでも試論であって、何となく懐いている拙僧の疑問を記事にする次第である。まずはこの一節をご覧いただきたい。 舒州投子山義青禅師、曾て浮山円艦禅師遠和尚に謁して、稍や三載を経るに、遠一日、師に問うて云く、「外道、仏に問う、有言を問わず。無言を問わず、世尊黙〈ス如何〉」。 師擬スルニ開口、遠、手を以て師の口を掩う。 師、此に於いて大悟し遂に作礼す。 遠云く、汝、玄機を妙悟する耶。 師云く、設い妙悟有れども、也た須く吐却すべし。 師の悟則、あきらめ、参究すべし。口をおおはれて大悟する、なきにあらず。たとひ、日ごろよ〈り〉大悟なりといへども、大悟するなり、たとひ、向〈来〉より大悟なしといふ…