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ダダダダ

あれ、ダダダダぁーと、それであれがこれでな!でこうよ。

山の読み方2

大川の滝

屋久島の国道脇にある滝で、ワタシが本州で見たどんな滝より勢いが凄かった。

国道脇の駐車場から徒歩1分でこの滝って屋久島半端ねぇなと思う今日このごろです。

暖かくなったらまた行きたいなぁ。

 

 寒くなってどこにも行きたくないのです。

やる気パラメータが赤くなってギリギリ思考出来ている状況です。

メモアプリ「Google keep」で馬鹿な思考をメモっていた駄文を見ていたら「あれ?なんか良いこと書いてる」みたいなのがあったので貼ってみる。

なんか難しいこと書いていますが、結論とか答えとかはまだ無い。

「思考メモ 作者は自分で読者も自分 自作同人公開自慰かな」

 

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 山は山だ、木々や動物・火口等

色々なもので構成されいているが山は山だ。

 

山はある、否定出来ない。

ただ見方は千差万別、色々ある。

頂上から見たヒト、空から見たヒト、朝日と見たヒト、夕日と見たヒト、日中に見たヒト

木々からの目線、動物からの目線、地中からの目線、川からの目線

色々な見方がある。

どうゆうふうに見るか、どの見方が一番なのか?どの見方がキレイなのか?は個々の自由だと思う。

違いがあって当たり前であり、答えが一つではないことはわかる。

その見方を認める、理解しようとする、答えなんて無いのを認める、一つによることなく思考の真ん中にいることが大切だなとこの山頂で思う。

 

人間も同じでヒトはヒトだ。

腕だけをワタシとは言わないし、頭だけでも脳だけでもワタシでは無い。

体を構成するもの、考え方、感情、能力、そして歩んできた歴史等の

すべてがワタシであり、その一部では「ワタシ」を判断出来ないのではと思う。

 

歴史なども同じで

起こった出来事はある。事実としてはある。

どういう見方をするのか?なぜそう見えるのか?色々と考え方がある。

ただ見方は一つではない。どの目線で見るのかで見え方が変化する。

そして原因もひとつではない。

内的要因、外的要因、人為的要因、気候的要因、文化的要因、情報要因 

1要因でおこったことなどこの世には無い。

1つによることなく真ん中にいて、ベストな選択をしてきたんだと信じたい。

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だからなんだ!?

って話なのですが・・・。

 

あとこれもメモってた

 

セブンイレブンで「中本の北極」を買ってお会計した時に、店員さんに「お大事に〜」て言われた。

 

辛いラーメン買ったので肛門を心配されたのかと思ったみたい。

だからなんだ?なんですが・・。

辞世の句を準備しておこうかな

 屋久島の「平内海中温泉

干潮時にしか入れない温泉ですが、温泉自体は塩っぱくありません(味見した)。

ジジイは長風呂、もちろんワタシも長風呂です。

朝5時ぐらいから2時間居ました。

東北を代表するジジイですから。

 

ジジイといえば

 「老人ホーム」という呼び方が不謹慎らしいので別の呼び方選手権というのをやっていたので面白いなぁと思って見ていたんです(なんの記事か?Xか忘れた・・・)。

 

最優秀賞

ファイナルファンタジー

 

金賞

テラハウス~Last season~

入選

お花畑への近道、四葉荘、お達者クラブ、ノアの方舟

審議中

天国への階段

落選

火葬場待機室

 

正直「火葬場待機室」ってドストレートで良いなぁって思ったのですが、「老人ホーム」より酷い批判をうけそう・・・

で、この長風呂で皮膚がフニャフニャになりながらズーっと考えてたんですよ。

「私なりの新しい老人ホームの呼び方」

やっぱり漢字が良いと思うんですよね。

ただ職業安定所ハローワークみたいな、漢字にすると固いイメージになってしまうのもある。

お、何々ワークって良いね。

あ、そうだ「Death WORK」って良いんじゃね?

これはこれで・・・

直接すぎるなぁ。

 

皆、世の中にいる老若男女の溢れるホモ・サピエンス

逃れられない病気、老化、死。

「死ぬ気になればなんでもOK」みたいなことを言うのは簡単ですが、実際に「死を思う」ことはかなり難しいのではないのだろうか?

 

そう考えてみて閃いたんですよ。

辞世の句を書いとけば良くね?と、死を意識出来るんじゃね?と

 

細川ガラシャ(明智光秀の娘)

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

 

かっこいい!こんなの書きたい!

飛び抜けてかっこいいやつを一発書きたい。

そう思ってサラっと出てきたのが

 

「ピンク色、アカアオキイロ 黒や白 わたしの人生 ネオン街かな?

 

うん、うん・・・

「ワタシの人生、街のネオン看板みたい」となんの引っ掛かりもなく、さらっと出てしまった。

まだこの世にやりのこしたことがあるようだ。

 

ちょっと練習が必要だ。

短歌頑張ろう。一日一短歌みたいなのを習慣化しよう・・・飲み屋で。

山の読み方

大山の紅葉

 

今年もあと2ヶ月

今年は新しく始めた登山

今年の目標であった「なぜ登山をするのか?」を理解しようと週末はかかさず登山をしてきた。

なんとなくです。

この道数十年のヒトにしたら「何いってんだこいつ」という感じなのかも知れませんが、国民の半分は「なんで熊は出るは危険だわ疲れるわ、そんな行動を取るのか?」そう思っていると思うんです、ワタシもそうでした。

 

やっと登ることに意義があると確信できました。

 

どちらかと言うと文系なワタシですが、本や動画から知識を得るように登山は色々な知識を教えてくれます。

「山を読む」

いろんな行動に言えることですが、山の環境・静寂は脳内に恐ろしいほどの情報を羅列してくれます。

まるで壮大な読書体験のようです。

ジャンルとしては「ヒトの行動原理」みたいなことを教えてくれます。

 

以下ワタシが「山を読んだ概略」です。

 

同感してくれるヒトは少ないだろうなぁ・・・。

 

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ー山を読むー


1.信頼関係とは弱さを共有すること。
複数人で山を登ったときに気がついたこと。 
弱さに寄り添えるかどうかがヒトに対する信頼関係・落ち込んだ気持ちを鼓舞するカギになる。

団体行動、例えばサッカーの試合で前半の始まってすぐに先制点を奪われたとき、キャプテンが「下をむくな!まだいける」と鼓舞する。

正解です。

 ヒトは登り坂より降り坂の方がネガティブになります(登山でも同様)。
 ヒトは荷物を上げる作業より荷物を下ろす作業のときネガティブになります。
 ヒトは滑走路に並ぶ飛行機を滑走路から見つめるより、展示室で2階の踊り場からみる飛行機のほうが高揚しません。 

まだ逆転のチャンスがある、アクティブに団体の精神を持っていくのは正しいと思う。

その後、10対0の大差でリードされて前半終了
ハーフタイムのロッカールームでキャプテンが「まだ大丈夫だ!練習してきた実力を出し切れば勝てる!全力で頑張ろう」

これ、なんか見たことあるこのシーン
これは間違いだと思う。
りきむ、自然体でいられなくなる、過去をすべて否定することになる。
ヒトが絶望を感じたときに「頑張る」は毒だ。頑張った結果なのだから・・・。
ではどうしたら良いのか?
 ー弱さを共有するー
「もうだめだと思う」「うんうん」
「あれをやらなければよかった」「うんうん」
「足が痛い・身体が痛い」「うんうん」
この行為が信頼関係を深める。

 

登山でいうと弱音を吐いて引き返す選択を出来ることで信頼関係を深められる。


その後、自然体・身体の使い方を間違わない精神状態、身体の芯に軸が通ったような精神状態に持っていく必要がある。
笑い
ワクワク
初心に帰る。

場面場面での行動は違ってくるが、限界の状態で「頑張る」という鼓舞は信頼関係を阻害し、チカラが出せない結果につながる気がする。


2.男は山の頂点にヒトリで立とうとする、女は山の頂上では無くとも皆で立とうとする。
そして男は頂点から8合目で休んでいるヒトを見下す。

自殺者数は男女比2倍の差がある。
ブッチギリで男性の方が多い。
貧困層よりも富裕層や生活には困らないヒト、そして成功者の晩年等が多い。

男性のほうが明らかに自殺者が多いのはなぜなのか?

 ー孤独は毒ー
孤独が精神を壊し、身体を蝕み、自死を増長する毒

男性の性(サガ)として孤独になろうとする。女性と比べた場合には幼少期→成長期→大人・壮齢になっても男性は孤独であろうとする。
唯一無二の存在になろうとする。
人が持っていないものを持ちたい、ヒトが見たことがない景色を見たい、ヒトが持ったことのない価値観をもちたい。
男性なら共感出来ることが多いのではないか?それほど自制が利かないレベルで「孤独」になろうとするのである。

毒たる「孤独」を防ぐにはどうすればよいか?
 ・山に登れ、自然を体感し、自然とともに暮らす(農業でも可)
 ・ヒトとの関係を切るな、通り過ぎた過去であっても、一度切れたと思った関係であっても。
 ・犬や猫を飼え。
 ・エロを忘れるな(鑑賞・体感)。

これ、ここ重要ですテストに出ます。
「エロ」は孤独男性を救う。


・快楽だけでは飽きる。
快楽だけでは飽きる。「苦痛→快楽」世の中の娯楽はこの法則に則って出来ている。
登山はまさに典型的で登る「苦痛→頂上快楽」

センスとは
リズム、不快→快の妙

赤子が「いないいないばぁ」で笑う。

いなくなった不安から見つけた喜びで笑う。
人間は生まれたときから快楽だけでは満足しない生きもんなんだな。

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「世界でいちばん透きとおった物語」をネタばれ無しで面白さを伝える挑戦を

透きとおってたっ!

 

なにが透きとおっていたか?はネタバレなので言えませんが、伏線回収があまりにも透きとおりスギていて、読み終わってすぐに最初のページに戻ってまた全ページ読みまくる。

 

イデアを具体可するのは思ったより難しい。

「あ!これは良いアイデアだ」と思ったところで、個人の努力でなんとかなれば躊躇なく実行するのであろうが、アイデアから現実までに多人数のヒトが苦労をする未来も予想出来るとなると「・・・やめておくか」となる。

 

そんな途方もないアイデアを製品化出来る日本の出版社が凄い!

 

普通は本の内容や物語を感動するのであるが、出版社に感動してしまう本て唯一無二じゃないかな?

 

ワタシは伏線回収系の本が好きだ。

伏線を回収する過程に興奮するし、予想を裏切られたり予想通りだったりする過程も好きだ。

この本はモロにワタシの好みである「伏線回収系」でありヒューマン・ドラマでもありヒトが傷ついたり嫌な気分になったりすることもない精神的に優しい本であるが、まさか文庫本「まるごと」で伏線回収してくる本と出会うとはこの年齢まで思っても見なかった体験である。

そう「体験」である。

物語は主人公になって、よりそって体験するものなのであると思う。

その物語体験をすべて吹き飛ばす「日本の出版社すげぇ」の伏線がこの本の醍醐味である。

物語の主人公は「本を制作するすべてのヒト」が主人公と言えるこの作品。

 

是非、ネタバレされる前に読むべき。

 

本まるごとが作品、読み終わったあとに最初から最後まで1ページ1ページを本に携わるすべてのヒトからの「新しい体験」の意思を感じる作品。

 

オススメです。

イチイの木で登山体験を捨てる

昨日の大山頂上、まだ木々の葉が葉緑体を変換しきれていない。

来週が見頃かなぁと思う。

 

 

10月が終わる。

振り返ると人生まれにみる「活動的だった」2025年10月。

 

屋久島へ行き宮ノ岳山登頂、島を一周し千年杉を拝み、

四国剣山、石鎚山を登り、九重連山の西側を登りきった。

その合間にも鳥取大山をホームマウンテンとして計7回は登った。

週末の朝食は大山山頂と決めて生活をまわした。

 

そんな活動的な10月をここに記載し、写真を貼り付けてリアルタイムで記録しておけば良かったのですが、山の景色はワタシの技量では文字に起こすことも、画像で表現するのも「なんか違うなぁ・・・」となるのです。

何度も書き起こそうとは思ったのですが、あの景色の中に溶け込んだような感覚を書き残すのはとても難しい。

 

あの感覚はなんなのだろうか?

まず思考の感覚が大自然の中では通常じゃなくなり、おかしくなる。

この世界で行われている営みに関心がなくなる。

頂上で「景色を見る」という感覚ではなく、なにかホモ・サピエンスではとうてい描けない立体的な美しい絵の中に放り込まれて一体化するような・・・。

このきれいな世界の一部なんだ・・・そう自分の存在を実感する感覚なのかもしれない。

 

 

石鎚山から見える太平洋と瀬戸内海なのですが、画像ではその溶け合ったような感覚は伝わらないんですよ。

ワタシの感じている感覚と違うんです。

 

 

九重の中岳からの画像

ん~やはりワタシの腕ではこの感覚を残しておくことが難しいなと思う。

 

書いて良かった。

気がついたのです。

あまりにも壮大なものは画像であれ文字であれ脳は拒絶する。

あまりにも登場人物の多い物語はとても読みづらい。

あまりにも伏線が多いストーリーは見るものを混乱させる。

そんな感じなのではないだろうか?

 

 

昨日、大山山頂付近で見つけた「イチイの木」

ワタシの生まれ育った地域では「ウンコの木」と呼んでいた。

なんとも下品な名前であるが、この実は食せる。

子供時分はよく食べていた。

昔、寺社領だった自然豊かな場所に住んでいたワタシの散策コースのおやつだ。

タネは食べるな!そう兄に言われたっけ(毒あり)。

 

これですね。

なにか一点にフォーカスして思い出を残す。

こういう書き方にしよう。

これなら書けるし撮れる。