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ブラックフライデー
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革命教祖列伝:滝田修 平井修一 滝田修は「躁病的アジテーター」だった。彗星のごとくに現れ、彗星のごとくに消えたが、時代の寵児だった。幕末に全国をおおった尊皇攘夷論は、論理的・現実的で穏やかのものよりも感情的・空想的で過激なものが好まれ、過激派の高杉晋作でさえも超過激派に命を狙われて逃げ回ったというが、新左翼においても滝田の超過激な“トンデル”言説は過激派学生の度肝を抜いたものである。曰く―― <われわれは、もっと決然と、もっと精力的に、またもっと攻撃的に、武器をとらなければならない。「死にものぐるいの、血なまぐさい殲滅戦」を、きたるべき行動の直接の任務としなければならない。 武装蜂起の問題は、遠い将来にことであるとか、目下はその予備的段階なのだとか、と、ことの本質をごまかすことは許されない。迫りくる勝利の武装蜂起をやりきるとは、現在をそのような質で準備すること、すなわち全人的全国的全面蜂
中核派と革マル派 平井修一 小生、弱冠二十歳(はたち)の1971年は過激派・中核派の兵隊として暴れていた。10年間の裁判で懲役6カ月、執行猶予3年をいただいたが、その間の話はさておいて、週刊誌も書かない革マル派の話をつづる。 中核派と革マル派は親戚である。兄弟みたいなものである。「革命的共産主義者同盟・マルクス主義学生同盟」までは同じで、そこから中核派と革マル派に枝分かれする。 兄弟の性格はみごとに違う。小生は横浜市立大学で「現代史研究会」を主宰し、アナーキストからべ平連、共産主義者同盟・情況派、そして中核派、革マル派、社青同解放派までを糾合していた。そう言うとカッコイイが、なに、ただのまったりしたユルフン的なサークルを立ち上げただけである。 で、中核派と革マル派は友だちだったから、小生はどっちへ転んでもよかったのだが、この二派は根本的な違いがある。 小生が反政府運動を志したのは「台湾独
五輪招致、なぜ盛り上がらぬ 平井修一 小生はスポーツにはほとんど興味がないが、東京の五輪招致には大いに賛成だ。五輪は大イベントであり、スポーツファンなら大いに楽しめるし、東京のみならず日本全体の活性化にもなるはずだ。 1964年の東京五輪の時に小生は中学1年生だったが、重量挙げで三宅義信選手が、バレーボールで“東洋の魔女”が金メダルを獲得した時は興奮したものである。マラソンでの円谷幸吉選手の銅メダル獲得も感動的だった。 こういう世界最高峰の舞台で日本人選手が活躍するのを見るという気分を若者に大いに味わってもらいたいものだ。 それにしてもわが国民は五輪招致に盛り上がらないでいる。国際オリンピック委員会(IOC)の調査で国民の支持率は47%と低く、東京と争う他の立候補地の支持率はマドリード(スペイン)が78%、イスタンブール(トルコ)が73%で、大きく引き離された。 理由はいろいろあるだろう
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