はてなキーワード: 県知事とは
それには直接関係ないが、近年のいろいろな選挙の投票傾向に関しての雑感をメモっておく。
いろんな選挙のたびに政治評論家らしき人たちが分析らしきものをいろいろ言っていたが、おそらく大半の一般の人たちにとっては的外れで、もっと単純な動機で選挙の結果が出ているように思えてならない。
それは、噓つきはNOということ、嘘つきにはマスコミも含まれるということ、そのマスコミが世論に十分に影響力があると一部の政治家がいまだ思っていること。だと思う。
ときどき大雑把に言えば、具体的な政策は言わないが自分のほうがうまくやれるから任せろとしか言ってないとかよく聞くと感情に訴えるしかしてない人とか政党とかが思わぬ躍進をするのも
まだ嘘つきになっていない人のカテゴリーにいるからだと思えば納得できるように思う。
また、前の某県知事のパワハラリコール選挙でもマスコミが知事をたたいているからというのも再選の主要因とは言わないが大きなファクターだったように思う。おそらくは報道を見て勢いは自分たちに追い風だと勘違いして
半端なタイミングで不信任案を出した議員たちの事も留意すべきだろう。
そして先日の自民党総裁選の議員票と党員票の偏りとマスコミの予想の外しっぷりにも上記のいろいろが一部反映されいたのかと考える。
以上、思い付きメモ
事件のあった草津町が群馬県にある自治体だったからではないか。
県知事の山本一太氏も自民党国会議員出身であり、各市町村長も自民党系が多い。
また群馬県は総理大臣を四人(福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三、福田康夫)も輩出している。
上越新幹線や関越自動車道もかなり早い時期に整備され、関東地方の一都六県の中でも恵まれている県である。
フェミニスト・サヨク界隈から見ると、群馬県というだけで目の敵にしているのでは?
民主党政権時に建設中止にしたが、地元の反対で結局完成させることになった八ッ場ダムも群馬県だ。
これでも元局長。
元市長(現県知事)が外郭団体整理しすぎ+メンタル面での不調で休職してる若手職員が多すぎにより、局長経験者や部長級経験者でもガンガン現業やらされる。
昨年まではケースワーカーやってたけど、60超えて自転車で真夏に家庭訪問したり、100人の受給者の事務処理を毎月やるなんてとてもじゃないけど無理。
かと言ってモノレールやら財団やらの外郭団体は県OB、地銀OBとの取り合いでなかなか枠があかない。
それでも月にとんでもない数の申請が来て、処理が追いつかない。
俺本当に管理職になる前はこんな仕事こなせてたのか?と自分の経歴を疑いたくなる毎日。
そんでついに数ヶ月前からのミスと問題が顕在化して来てしまって、もう本当にやばい。
こんなの俺が望んでいたセカンドライフじゃない。
とりあえず明日は年休もらった。
もう嫌だ。
今の、条例の制定は地方で独自にできるのに治安業務は国に牛耳られてる状態ってわりといびつだよな。
おれは海外ドラマを見ていてこの分野に詳しいんだがロス市警みたいなのめっちゃカッコイイ度が爆上がりするから絶対に権限移譲したほうがいい。
国は国でFBIみたくなったらこれまたカッコイイ度が爆あげあげの歌舞伎揚げになるからぜったいやったほうがいい
(追記)
と、おもうやん?
でも実態は
日本の警察組織は都道府県が主体となって設置され(警察法第36条)、都道府県が国の法定受託事務(かつての機関委任事務)として行う事務ではないため、一般的には自治体警察とみなされることが多い。しかしながら、都道府県警察への指揮命令権は、都道府県公安委員会ではなく警察庁が有することや、警視正(職制としては警察本部の主要課課長、主要所轄署の署長)以上の幹部は国家公務員たる地方警務官であることから、実態は国家警察と自治体警察の折衷型に近い[11]。
って感じらしいのよ(ウィキペディア)。
都道府県警ってなってはいるけど都道府県知事が警察に対してできることってそんなになくて地方自治体の行政組織の縦割りとは別フレームっぽい。
たとえば最近だと沖縄県警が米軍の暴行事件を県に報告せずに県知事が知らされてなくて激怒みたいなのが発生したのが記憶にあたらしいところ。
(追記)
統合捜査局から派遣されるいけ好かないエリート刑事 vs 汚職と縄張り争いにまみれた道府県警 vs 地方有力者の息がかかった特別職公務員「保安警官」と取り巻きの自警団 で三つ巴や!
そうそう!そういうやつ!。
現代の日本に必要なもの、それは地方警察の闇の軋轢で組織を去らざるを得なかったオッサン元刑事が探偵事務所みたいなのやっててひょんなことからそこを訪れた国のいけすかな若手エリートとなぜか意気投合して・・・!!みたいな!そういうのなんよ。
そっち路線もええな。もちろんエチゴヤHDがビットコインのUSBの入ったマカロンを渡してきたりするやつ。
いいや軍事力だね。各都道府県が独自に軍事力を持ち警察権も兼ねる。神奈川軍警察なんて聞いただけでワクワクする響きだろ。たぶんティターンズぐらい強権だぜ。
そのへんは抜かりなく、すこし前にワイは都道府県軍の増田を書いたんやが anond:20220928120841 軍事と警察で若干違うからなあ。「神奈川軍は神奈川県警の利権に食い込めなかった集団が源流でむしろメチャクリーン」みたいな、そういう複雑な感じで別組織ってのもぜんぜんアリよな。
そこは犯罪人引渡条例を制定するから問題ないとおもうぞ。ただし県同士で戦争になったら一時停止されるから犯罪者の往来が活発になる。
島根と鳥取間では常に開戦してるからお互いの犯罪者を定期的に捕虜交換するイベントがあったりするんだ。
あとは栃木・埼玉・群馬の例の3県境に同時に追い詰められた凶悪犯たちが互いを売り合いながら県境をくるくる逃げ回る展開は新喜劇になると思うけどなあ。
アイドルとかいなくなった所でアスリートとか政治家とか他分野の有名人に群がるだけなんだよ
非モテ高齢未婚男性は「女は容姿でなく男社会で評価されている強者男性に群がる」のを認められないのは分かる
「顔や金などの魔法のアイテムを所持してればそれだけで女が群がるし食い散らかしても許される」という妄想に固執する
モテる女は痩せた美人一択だがモテる男の容姿はバラバラ、男社会から脱落した男はどれだけイケメンでも相手にされないのが現実
女は産む性かつ子供の出来不出来や息災の責任を全て背負わされる分、子供の独立や老後までの人生計画がプログラムされている
だから男の収入と既婚率が比例するのと、地位や高収入を得る前の28歳が男性の初婚中央値なのは何も矛盾もない
そして女が惹かれるのは男社会で評価されてる男なので、結婚後は必然的に「地位や金のある既婚おじさん」にクラスチェンジする
芸能界やその周辺にいる女は芸能界で働いている男は一般男性より優れていると認識している
また、業界人やマスコミやファンにチヤホヤされているので評価が視覚的にもわかりやすい、キャラクターや実績が周知されてるから初対面でも抵抗がない
https://anond.hatelabo.jp/20250126112823
ファーストガンダム 富野由悠季 (38) 安彦良和(32) 大河原邦男(32) 星山博之(35)
ジークアクス 鶴巻和哉(58) 榎戸洋司(61) 庵野秀明(64) 山下いくと(60) 竹(42)
これが致命的。還暦前後の連中の作るアニメなんざ、会社の飲み会でオヤジギャグかまされるのと同じで覚めるのは分かりきってた。
ファーストガンダムを作ってた製作陣と平均年齢でも倍、さすがに感性の瑞々しさが違いすぎる。
で、俺はジークアクスは劇場に行かなかったがテレビ放送は見てる。
みんな思ってるか分からないが、とにかくノリが古い。
今回の炎上のネタの仕込みといい、エヴァのリメイクと思えるような絵面といい、深刻(風)な本編の後に主人公二人が歌って踊るEDといい全てが薄寒い。
じゃあなぜこんなに盛り上がってるのか?おそらくSNSの使い方が異常に上手いんだろう。
どっかの県知事じゃないがおそらくそういう専門の会社が間に入ってると思うが
劇場公開時の熱狂からして嘘くさかった。まあそれで何十億の売り上げになるならやってる方は止められないだろう。
ただ純粋に作品として評価するときに全体的に漂うこの古さはマイナス過ぎる。
ガンダムでなくて良かったんだよ。
LUUP嫌ってそう
「ケーキの切れない非行少年たち」読んでもいないのに擦ってそう
「本当のフェミニスト」について熱弁してそう
県知事がクマの保護を求める電話をガチャ切りした話で気持ちよくなってそう
『サピエンス全史』を読んで賢くなった気でいそう
「逆張りしてるわけじゃないけどさ」と前置きしてから100%逆張りなこと言いそう
「自分、右とか左とかじゃないんで」って言いながら明らかに右に全力で寄ってそう
「マッチングアプリってなんか違うんだよね」とか言いながら実は登録済みっぽそう
「飲みニケーションも悪くなかった」とか言って後輩に説教してそう
「Z世代は繊細すぎる」と言いながら自分の意見に反論されるとめちゃくちゃキレそう
「子どもは外で遊ばせろ」が口癖だけど自分は家でYouTubeばっか見てそう
「昔は良かった」って言ってるときの目が一番輝いてそう
「親ガチャって言葉、甘えだよね」って言うけど自分は親にめっちゃ感謝してるわけでもなさそう
「最近のアニメは萌えに走りすぎ」とか言いながら『らき☆すた』を語り始めそう
「○○する奴って人としてどうかと思う」ってすぐ“人として”基準で語りがち
「〇〇で炎上してたけど、あれくらい言ってもいいと思う」って言いそう
「氷河期世代が一番かわいそう」とか突然言い出しそう
https://tver.jp/episodes/eppp6c5ubs
八潮陥没事故の被害者が発見されて日も浅い中、非常に考えさせられるテーマだった
土砂崩れで道路分断とかは割と聞くから法面付近は怖いなーと思うけど、「突然道に大穴が!」なんて地震でも無ければ想像だにしないよなあ
でも実際は、博多駅前や八潮のように非常に大規模な陥没以外にも小規模なものが沢山起こっていて。これからはもっと増えると
工事中の不手際による陥没は別としても、上下水管・ガス管・電線の埋設系インフラ由来の陥没は点検・修理でどうにか防ぎたいもの
(番組内では「3年前に点検した時はどうもなかった」つってて、そんなのもうどうにも対策しようがない。半月にいっぺんとか点検するわけにゃいかんのだから)
そもそも定期リプレースが必要だけど、埋まってるのは本当に大変よな
原発内とかは14年前のことがあってからは埋めてる管を外に出したからね
もう、他の埋設系インフラも地上に出す…が良いのかね?(5メートル幅の管なんて無理だけどねー。細い管を何本もってことになるね。「道」は「管」でいっぱいになるから、人や車が通る場所は別に作らないと駄目だね。というか「管」用の道を作るのか)
外に作ってからリプレースにしたって大変ではあるけどさあ。地中で迂回させながらは大変よ
「80メートルで90億円かかる」は厳しすぎる。地上ならもうちょっとマシ?
番組では「コンパクトシティにしてインフラを限定的に配備が良いなー(さいたま県知事)」って言ってたけど
若様がおっしゃる様に「こんな山肌にへばりつくようにして暮らしてんじゃあねえよ!こっちこい!」つって過疎地の老人を無理やり引っ張ってくるとか無理だよね
そうなると必然的にディストピアみたいになるよね(インフラバリバリ都会の超便利コンパクトシティと電気もガスも水道も通ってない打ち捨てられたクソ田舎という二極化)
俺一人に必至なアホ共に負ける気が全くありませんね
⚡〰️💣️💥w⚡
文章変えられてるの確認〰️💣️💥w犯人は監視してる阿修羅のごとく総体革命な奴等体制か⚡〰️💣️💥⚡
大音量も行き先で初めはなかった訳で後付けで近辺に細工しているから⚡〰️💣️💥w⚡
まぁ、移動中はなんかしらの電波で仕掛けているのでしょうね、電波だらけですからね😠
だから囲ってる訳ですからね、なぜこんな連中をかばう奴等が多かった?
今は状況変わってると思ってるけど近くの警察署が...
今年の2月初め、役所や寺など行くようになってから、人と深く関わりを沢山持つようになってから急に始まった耳鳴りではない大音量強弱つけて、激しい攻撃、立ってるのがやっとの大攻撃仕掛けてきてから
今は対策し、少しは楽にはなってきた。
しかし家の中や外、移動中だけカルトストーカー続けていて糞ですねアホカルト、書いてある通りの手口である😠
奴等の目的も最近書いてますから⚡誰が殺ってるも書いてます⚡😠⚡ 本当に信じられない馬鹿ルトは普通のおっさんやおばちゃんなどカルト一般人ばかりですね〰️💣️💥
「どう考えても俺を見て、盗聴盗撮、ハッキングして、上やら横やら他にもストーカーと騒音暴力してるとしか思えない」
警察署前で巻き込み事故で4名に自分の被害を話し、捜査してくれと訴え
その事故の二日前には
警察署から出たばかりの🚓に職務質問され2名にも軽く被害を話し、10名の警官に我が家の被害相談しているとはなし、
警官の名を聞いている
「110番したら逮捕」と言われ、外で大声で言われた為に、近くの犯罪者グループに丸聞こえだった為に犯罪が超エスカレートしたと訴えて、
何かあったらなんでも110番してくださいと言ってくれた警官の名前を出して、「何か聞いてないか?警官10名に相談してるのに全く動いてくれない」
と訴え
交番へ行って、更に5名の警官にこれまでの被害を詳しく語り、実際の被害の写真も見せて捜査してくれと伝えたが
会いたい交番の警官には全然会えず😅なぜ?この交番9人も居るのか?
「この被害を大拡散しています😊何かあったら○田警察署の悪質さが全国にしれますからね。」と伝えてきましたし、そう伝えたことも大拡散してます
(*⌒∇⌒*)
警官が「ハッキングされてるんでしょ?」と言ってきましたからね???動いてよ...
アクセス数に対して🌟同じだったけど、今はアクセス数は横ばいで🌟は一割もなしですから犯人が悔しがってるのが伝わりますね〰️💣️💥⚡⚡⚡⚡😁
まぁ、総勢29人の警官と愛知県警2名と検察官一名とその他政党や裁判所、役所、弁護士、人権相談で法務局、司法書士会、弁護士会、精神医療審査会、精神病院他医者、友人や家族など、大家にも社会福祉協議会にも県知事にも手紙を書いてますので、やくしょの長にも手紙書き、社会保険労務士にも社会福祉役所にも相談して、大拡散してるのに
「なぜ警察が動かない?」
首をひねってます😠
でも50人(警官含む)以上、電話で話した人いれたら更に増えて70人、政党含めると100人以上に大拡散しても役所の人達に大拡散しても何も動かないのって政権交代しかないよね‼️
全て名前フルネーム、住所、電話番号記載してます(*⌒∇⌒*)
この記事書くまでいないふりの上がザワザワゴトゴトドンドン、機材音やら騒がしくなりました😁2025.5.3日憲法記念日の8.30から9時まで騒音工作😠
まぁ、車もバイクもあるし😁
思考盗聴確実で、しかも盗聴に盗撮に侵入毎日、他にも多重犯罪グループがいます😠
どう考えても誰も居ないだろの部屋が多く存在していてそこに機材を隠し、上から攻撃してきてますね😠
みんな凄いタイミングで住んでるふりしてますね、ガスライティング〰️💣️💥w反抗丸だし😁
でもアホなんです😁馬鹿ルト
これだけ大拡散してるの知ってるのに今日も、昨日一昨日は諸に嫌がらせ写真見せても嫌がらせできる奴等って誰カルトよ?
周辺住民が圧倒的な罪を逃れようとしていながら密室で嫌がらせして脳攻撃で最悪なカルト共なんです😠〰️💣️💥⚡
technology犯罪Digital 犯罪カルトカオス集団ストーカー😠
馬鹿ルト根暗ポンコツ馬~💫鹿超以外にも凶悪犯罪で、「えっ?こんなじいさんまで?えっ?このおばさんが車幅寄せや行く手を遮るの?えっ?子供に工作させる?えっ?こんなに外人いたっけ?」まぁ、犯人は特定していますが、それ以外にも大勢関わっていて糞ですね‼️
なぜ取り締まらないのか?
絶対に警察が動くように日記と証拠写真と診察をこまめにして、いざというときの為に備えていきます😠
😁w
昨日一日蝉の声だけでしたね😊
奴等は機材を移動して複数の部屋でtechnology犯罪していますね、昨日のニュースは悪意のあるニュース多かったし、ハッキングが許せるレベルではないし、もう、確信に証拠に万全で、良い方向へ(*⌒∇⌒*)
県知事や市長がどれくらい稼ぐかは知らんがチームに2000万円選手なんてごろごろいる
6000万円の人もいる
そんな視点で以下、自分用のメモとして長文を残す。あえて言論自由の優位性といった憲法理論をガン無視するが、どんな規制が適切かといった考えから離れることで、表現の自由の失われた状況の風景がみえることもある。
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とくに「表現の自由による暴力(不法行為性)」をどこまで許容するかが重要な視点だ。欧米と日本では大きく違う。
フランスでは、あらゆる権利が「尊厳ある生」を守るための抵抗に原点を持つ。
その意味で、社会運動やストライキ(争議権)と、表現の自由は同じ線上にある。たとえば、名画にペンキをかける環境団体の抗議活動。日本では即座に「環境テロ」として報道されるが、英仏では「レジスタンス(抵抗運動)」という言葉がより広く使われていた様子だ。これは体制に対して暴力的に抗う行為を意識しているからだ。
環境問題に限らず、農家などの過激な抗議行動(輸入品増加に抗議した放火・破壊行為など)や、労働争議においても同様だ。フランスでは、国家や大組織による構造的暴力に対するカウンターとしての「市民による尊厳を守るための抵抗」に心情的な理解が寄せられる。犯罪としての側面を否定しないまでも「レジスタンス」は革命以来の伝統という認識をフランス社会は共有する。
その背景には、18世紀、カトリック教会が「真理の解釈権限」を独占していた時代に、啓蒙思想が登場し、科学的合理性を武器に公共空間を構築し、新たな政治制度を模索した原体験がある。「神を冒涜する権利」は、黎明期の政教分離の文脈から分化した表現の自由の形であった。
制度の根幹に「科学的合理性」や「絶対的真理」は置かれていない。むしろ、人それぞれ真理と信じる”信念”があり、誰も完全な真理に到達していない、という前提がある。この考えは巡礼始祖たちの宗教的多様性の中で育まれ、やがてプラグマティズムに吸収され、「思想の自由市場」(O.W.Holmes)という発想へとつながってゆく。
もっともアメリカでも、20世紀半ばまでは「有害言論の内容規制」が志向されたが、判事たちはそのたびに建国思想や巡礼始祖の理念に立ち返り、「有害表現を定義できない」という議論に収まった。1970年代には「社会の不協和音こそが強さの証」とまで言い切る判決(1971)もあった。司法がヘイト規制に消極的かつゾーニング規制にシフトしてゆく歴史がそこにある。
トランプの出現などリベラルと保守のあまりの違い、それでも国家として成り立つ社会。それを支えるのは、「一致しないままでも共存できる」という、個人主義を基盤とした社会の強さだ。
会社でも地域や家庭でも、できるだけ摩擦を避けたい。コロナ禍での自粛違反者への度を越した非難などに表れているように、「他人に迷惑をかけるのは不徳だ」という感情が深く根付いている。
この「迷惑感情」は、表現の自由を制限する根拠として働きうる。憲法学では人権の制限原理は「公共の福祉」として整理されるが、実態としてはその時々の「社会の空気」に左右されがちだ。たとえば、受忍限度論という法理をとってみても、それ自体、迷惑感情の社会的「耐性」の程度を空気から測るものにすぎない。日本人の考える公共はフランス人の考える公共とかなり異なる。
電車内CMの強制音声に対する訴訟「囚われの聴衆」事件(1987年最高裁)では、そうした「空気」に抗う個人の主張が結局退けられた。受忍限度という大義名分の下で、「それくらい我慢しろ」と結論づけられたわけだ。迷惑感情による秩序そのものを否定するわけではないが、空気として内面化されすぎると、異論や異質さの排除へとつながりやすく、かつ世代間、階層間の認識ギャップという課題に直面する。
日本には、フランスのように「尊厳のための抵抗」を肯定する文化がない。絵画にペンキを投げれば即「テロ」として断罪される。暴力的抵抗が「歴史ある社会の声」として認識されることはない。
水俣病初期の漁民暴動、60〜70年代の国鉄や病院のストを見ても、「迷惑感情」が前面に出て、GHQが持ち込んだ争議権は本当の意味では社会に根付かなかった。正規雇用では労使協調路線、非正規雇用は分断が続いているのが現状だ。ストライキがなお社会的に力をもつフランスとは対照的だ。
全農林警職法事件(国家公務員の争議権全否定、1973年最高裁)、75年の国労スト権ストは、日本社会が「暴力的な表現や行動」との距離感を決定づけた分岐点となった。
暴れる新左翼へのストレスが頂点に達し、迷惑を嫌った大衆心理が、最終的に「暴力=容認しがたいもの」と司法と行政に決着を迫った形だ。
こうした着地は、人権を市民一人一人の体験として自ら闘って獲得してこなかったという、日本社会の構造的限界を示しているのだろう。
日本社会における「市民による暴力的抵抗」が断罪されやすい背景には、市民の行動が過激なものに映じるの対して、しばしば国家や行政の抑圧や不作為は、暴力として認識されず、社会の中で可視化されにくい構造がある。水俣病における行政不作為、反原発運動に対する過剰な監視、あるいは災害被害者の声の届きにくさなど、国家による制度的暴力や不作為の積み重ねに対して、市民が抗いの言葉を発するとき、その言葉がときに過激さを帯びるのは当然の帰結でもある。だからこそ、表現の暴力性だけを批判的に切り出すことは、構造的非対称性の再生産になりかねない。
構造的な非対称に加えて、もうひとつ重要なことがある。それは市民一人ひとりが権利意識を再生産するための「思い出」や過去の教訓を忘却しやすい社会ということだ。
欧米でいう「人権」とは、突き詰めれば「こういう社会には戻りたくない」という歴史体験から生まれる(米仏だけの例で暴論は承知の上)。その教訓を社会を生きる一人ひとりが繰り返し思い出すこと、それが人権のボトムアップ的な再生力だ。
しかし、日本では「権利」は「国家が授けるもの」として明治以来、教育されてきた。敗戦までその構図は変わらず、戦後はアメリカが新しい憲法と人権を与える側に回った。この付与される構造が、今日の日本においてもなお、自由をめぐる議論が憲法の制度論に終始してしまう要因になっている。
だとすれば、今あらためて必要なのは、自由の意義を自分たちの歴史体験として取り戻すことだ。
特に敗戦前後の記憶――若者を人間爆弾にし、それを大人が見送っていた時代。そして敗戦後、手のひらを返すように価値観を変えた、あの社会の激変こそ戦後日本の原体験であり、空気に逆らう力を考える出発点であるべきだ。
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「戦後社会」と呼ばれる時期―おそらく平成初期まで―に見られた日本の映像表現には、大きく三つの傾向があったように思う。
1. 既成の価値観への反抗
戦中派から戦後世代はかつての「正しさ」に対して疑いを抱き、積極的に破壊しようとした。
映像作品での典型例として、岡本喜八を挙げたい。軍や国家権力を風刺し、戦時の空気を相対化する『肉弾』(1968年)は象徴的だ。
表現が体制批判と自己解放の手段だった時代。道徳や国家的価値観への反抗心がそれを後押ししていた。
「反抗」というテーマは、家族内の世代間対立ないし嫁姑問題、80年代の校内暴力と管理教育という軸での「反抗」など形を変えて表現された。
高度経済成長のもと、戦後社会は猛烈な速度で変化し、かつて「当たり前」だった家族のあり方、地域の風景は急速に姿を消した。
そのような変化の中で、新しい「自分らしさ」を探すような表現が生まれた。家族の崩壊と再生を描いた「岸辺のアルバム, 1977」は社会に衝撃を与えた。
山田洋次の『男はつらいよ』では、理想の家庭像を夢見るも決してそこには迎え入れられない寅さんという存在を描き続けた。
倉本聰の『北の国から』では、泥付きの一万円札をめぐる暴力沙汰などを通して、「義理人情」や「恩を忘れぬ人間関係」が描かれた。
「スクール☆ウォーズ」に代表される大映ドラマにおいては、努力・根性・家族の絆といった「倫理」が過剰なまでに押し付けられる一方で、それは裏を返せば、かつては当然のように共有されていた義理人情や倫理が、社会の中で揺らぎ始め、もはや社会がその正しさを自信をもって教えられなくなっていた時代の反映ともいえる。任侠映画の「落とし前をつけさせてもらいます」というカタルシスもまた、現代社会ではとうに失われた暴力的「自力救済」への郷愁でもあった。
この三つ――反抗、自分探し、郷愁――が、戦後日本の表現の中心テーマであった。いずれの表現にもどこかに心情的共感を呼ぶやむにやまれぬ加害を内包していた。そこに着目すべきだ。
この三つのうち、「戦前の価値観への反抗」は、戦前世代が退場するにつれ次第に衰えていった。最後の強烈な反抗例として、敗戦後に上官が行った部下の処刑を告発した『ゆきゆきて、神軍』(原一男1987年)を挙げることができる。
奥崎謙三の狂気。上官を告発し、天皇にパチンコ玉を撃ち込むなど、常軌を逸したようにも見えるが、そこには彼なりの倫理がある。表現行為が、敗戦前後の記憶を呼び覚まし、組織における人間関係―「上官と部下」「国家と個人」―に対して強烈な問いを投げかけていた。
しかし今、このような強烈な表現は久しく見かけなくなった。反抗への共感はある特定世代の記憶に留まり引き継がれない傾向が見て取れる。あたかも社会全体にノイズ耐性が失われたかのようだ。
何かにつけ「コンプラ違反」として簡単に切り捨ててしまう社会。「こんなの今の時代にはムリ」と。例えば、中井貴一がある制作現場で呈した疑問は示唆的で、全体にバイオレンスなドラマなくせに、コンプラ配慮でたばこのポイ捨てシーンだけがNGになったことがあった。それは思考停止ではないか。
奥崎のような過激な手法であっても、そこに社会や権力構造に対する本質的な問いが込められているならば、無視できない重みがある。原一男のドキュメンタリーは、まさにそうした問いを突きつけるものだ。
『ゆきゆきて、神軍』のようなドキュメンタリーなどの手法には、つねに「出演者の許諾は取ったのか?」という問いがつきまとう。
伊藤詩織氏の『Black Box Diaries』に対する映像や音声の使用をめぐる批判が良い例だ。「フェアユースで正当化可能」とする声(中根若恵)もあれば、「権力や犯罪を暴く表現であればOK」という立場(原一男)もある。しかし、原自身も認めるように、たとえ告発目的であってもセルフドキュメンタリーには「現実を自分に都合よく再構成する」危うさがある。無条件の承認はありえない。その語りが私的な物語にとどまらず、社会的な意味を持つためには、他者に開かれた語りに昇華される必要がある。
では、表現行為に内在する「やむにやまれぬ加害」を評価するのは誰か?
最終的には司法だとしても、まず問われるべきは、共感を持って応える観客であり市民である。
コンプラ違反を恐れて、表現物が公開前に修正されてしまう社会――それが望ましいのか?
私は、暴力性を含んでいても、その中に真摯な倫理があり共感可能性のある表現ならば、それは世間に問うてよいと思う。それを受け止める権利もまた市民にある。内部告発/公益通報もまた、不法行為と公益性のはざまにあるという意味で奥崎謙三の反抗と地続きだ。兵庫県職員の告発とその後の県知事の対応は耳目を集めたばかりだ。
今の日本社会において、「表現の内包する暴力に対する寛容さ」はきわめて低い。
敗戦を体験した世代がいなくなり、記憶として残っているのは「国鉄ストの迷惑」「新左翼の暴力」「オウム事件の恐怖」など、暴力に対するアレルギーばかりだ。
一宿一飯の恩義といった価値観は薄れ、市民は暴力的な自力救済や抵抗運動に共感しなくなっている。
コンプライアンスに敏感な時代だからこそ、私たちはもう一度、「表現の自由とは何か」を原点に立ち返って考える必要がある。
かつてトクヴィルは、革命後のフランスに、公共の名のもとに行われる言論統制など専制を洞察した。一方、アメリカの民主社会には、世論の専制という別の危険をみた。制度的な保障はあっても、多数派が少数意見を排斥するような雰囲気を社会が醸成すると実質的な自由は奪われる、との黎明期アメリカ社会への洞察は、現代のキャンセルカルチャーなどの課題を予見している。
――暴力性を含み得る表現に対して、我々はどのような態度を取るのか。その暴力に倫理的な共感はあるのか。どんな社会を私たちは避けたいと思っているのか――
憲法理論は制度的保障を語る上では有効である。しかし、表現規制論だけでは上記のより根源的で実存的な問いには答えられない。「制度がいかに自由を守るか」ではない議論も必要だ。自由を擁護する倫理的共感の土壌がなければ、制度は簡単に形骸化する。「抵抗」とか「不協和音の強さ」とまでいわないまでも何か核が必要だ。
社会の同調圧力に空気に抗ってその問いを突きつける力、受け止める力が社会から失われたとすれば、それは表現の自由が失われた社会だと思う。
ただ当選者、しかも県知事というのは重い役職であり、選挙違反は注意レベルで収まった。
そこからの調子の乗り方は既報だが、ここで食い止めるべきだったんだと強く思う。
法律違反は一度許されたら二度するし、ヒートアップしていく。それが権力を伴うものなら、権力乱用になる。既得権益側にいるものが法律違反をしたら、どこまでも墜落していくのだ。
そして、亀裂は広がる。それは他人の命を奪い出すほど大きな力になる。
もはや簡単に修復できるものではなくなる。おそらくもう兵庫県だけの問題ではない。
でも修復しなければならない。そうでなければ、この国の歴史にとって最悪の事案の発端となりかねない。
まだ、踏みとどまっている。でもそれは5mm手前ってくらいじゃないだろうか。
今思うとなぜ一期目で新人、しかも政治未経験の斎藤が、そんな姑息なことできたんだろうかとも思う。そこも洗わなければならない。
亀裂は深刻だ。