はてなキーワード: 健全とは
ナインティナインの岡村隆史をはじめ、多くの芸人が誤解している。
電波は有限の天然資源であり、国家が管理する公共のインフラだ。
にもかかわらず、彼らは「嫌なら見るな」と言い放つ。
電波法は、電波利用の目的を「公共の福祉の増進」と明記している。
放送法第一条も同様に、「放送を公共の福祉に適合させ、その健全な発達を図る」と定める。
つまり、電波は芸人の“表現の自由”を保証する道具ではなく、国民の共有財産なのだ。
娯楽はあくまで補助的要素であり、民間放送の経済的持続性を保つための“免罪符”にすぎない。
お笑いの悪ふざけを垂れ流すために電波を貸しているわけではない。
かつては新聞や掲示板しか情報伝達の手段がなく、テレビの電波は“神の道具”だった。
だがいまやインターネットがある。
もし「公共の福祉」を本気で考えるなら、テレビ放送の帯域を縮小し、携帯通信など社会基盤に再配分すべきだろう。
「嫌なら見るな」に対して、私はこう返したい。
「貴重な電波で鬱陶しいものを流すな。やりたければYouTubeや舞台でやれ。」
世の中には、嫌いすら持ってない人たちがいる。
他人の好きがまぶしくて、自分が居心地が悪いという理由だけで他人の好きを破壊しようとする。
先日ファミレスで別れ話を切り出された。一か月ほど冷めたような空気感が続いていたのである程度覚悟していたつもりだったが、面と向かって「もう気持ちがない」「お互いのために別れた方がいい」などと言われたのはさすがにショックだった。正直別れたいとは思っていなかったが、「やり直したい」と相手を説得するだけの熱量のようなものが私になかった。
別れてから彼のどういうところが好きだったのかと考えているが、顔が好みだったこと以外共通の趣味や話題など思い返せば少なかったし、旅行の移動時間をはじめ私が隣にいるときに研究室のタスクをしていたこと、忙しい時にはLINEの返信がかえってこないどころか通知を切られていたことなどぞんざいに扱われた思い出と大切にしてもらった思い出がトントンくらいだった。
思うんだけど、ここ最近で日本の接客のレベルって著しく下がったよね
以前はコンビニや飲食店のホールともなれば、逆に対して愛想良く丁寧に接するのは当たり前で、客から質問されようものならそれはもう誠心誠意籠めて応えていた訳だけど。
それが最近は客に対して笑顔も見せず仏頂面で、ぞんざいだったりぎこちなかったりする店員が増えて、質問されても要領を得ない応えで済ます店員が多くなった
ああいう態度の店員は自分達の頃だったら絶対店長に怒られてたし、それでも改善しなければクビにされて別の人間が雇われていただろう
つくづく2000年代とは様変わりしたもんだ。
いや、最低賃金スレスレで高度な接客を期待される方が本来はおかしいし、
賃金に見合った仕事しかしないというのは健全な事なんだとは思うんだよ
でも氷河期世代としては思うんだよねー
あんな適当な態度でも働く事が許されるなら、自分らの苦労は何だったんだと。
だから老害と言われる同世代に対して一概に責める気持ちにもなれないんだよね。
自分は責任のある立場に付けていないからそんな権力を振るう事はできないが、
今の若い世代は人口そのものが減ったから貴重な労働力として大切にされ、適当な態度でも許されているのだとしたら、やはり氷河期世代のように人数が多いと大切にされないし少子化は正しい事だとしか思えないんだよな。
この増田は末尾に不可視リンクを大量に挿入するタイプのスパム。
これまでの経験上、数分から数時間単位でリンク群を抜いて健全投稿を装ったり、別のリンク群を挿入したりを数時間から丸1日ほどかけて何度もくり返す。(22:19現在はリンクが抜かれているが、状況はいつでも変わりうる)
それはさておき、今回初めて「過去の増田からの丸パクリではなく、X投稿からの丸パクリ」による不可視リンクスパムを観測したので、このように記録しておく次第である。
https://x.com/iototaku/status/1982453347128144024
なので、人文ウォッチの人の「あの人たちって自分たちの敵が出てくる度に日本終わりと言う事に享楽覚えている」という要約は概ね正しいように思える。
子どもの頃は、クラス全員が友達みたいな気がしていた。放課後は誰かの家に集まって、誕生日には大量のメッセージ
席替えで隣になっただけで仲良くなれる魔法みたいな世界。ところが大人になると、誰かと仲良くなるのに理由がいる
気づけば人間関係はすっかり取捨選択の対象になって、友達の定義もアプデされてしまう
だからふと気づく。連絡先の数は増えてるのに、心を許せる相手はむしろ減ってる。SNSで繋がってる人が多いほど、逆に「本当の友達って誰?」みたいな不安が押し寄せる
だけど本当は、その減少は“健全な変化”なのかもしれない。学生時代の友達は「たまたま同じ場所にいただけ」の関係が多い
大人になって残るのは、価値観やテンポや優先順位が合う、いわば選び抜かれた人たち。関係が減ったんじゃなくて、濃くなっただけ
それに、大人は人生のステージがバラバラ。結婚、子育て、転職、介護。置かれた場所が違えば、見える景色も話題も違う
無理に昔みたいに密接でいようとすると、ズレが苦しくなる。距離が空くのは自然なこと
そもそも「友達が多い=幸せ」みたいな公式は、作られた幻想。友達が100人いるより、一人でも自分をちゃんと見てくれる人がいる方が、よっぽど心は強い
タスク処理や財布にも優しい
大人になって友達が減った現実にショックを受ける瞬間ってある。けど、その裏には成長がある。自分の時間や心を大切にできるようになったからこそ起きた変化だ
これが開き直りの心
この童謡の根底にあるのは、「追う者と追われる者」という不健全な構図です。女性が森でクマに遭遇し、「逃げなさい」と言われたにも関わらず、クマは執拗に追いかけてくる。結果としてクマが落とし物を届けに来たという結末ですが、これはストーカー行為を美化し、子どもたちに不必要な恐怖と、不適切な男女の関わり方を無意識のうちに刷り込んでいませんか?
現代社会において、一方的な追跡は決してロマンチックな出来事ではありません。また、「お嬢さん」という言葉も、時代にそぐわない固定的なジェンダー観を助長しています。
子どもたちの歌は、安全と平等を教えるものであるべきです。この歌のように、恐怖を和解でごまかし、「追跡」を無害化するようなメッセージは、現代の教育方針に逆行しています!
私たちは、もっと多様性を尊重し、相互理解を促す、新しい童謡を積極的に推奨するべきです。表現の自由は大切ですが、子どもの安全と健全な発達を守るために、私はこの童謡の公的な場での使用禁止を強く訴えます!
国家は若者をそこに閉じ込め、汗のひと滴まで規律に換え、忠誠と理屈を教えこむ。
その多くは途端に風に晒された絹糸のようにほどけてゆく。
はてなの人々が軽々しく「元自衛官」と呼ぶ者たちは、たいてい曹士である。
任期を終えて静かに去った「満期退職組」――彼らは敗者ではない。
「お勤めご苦労さまでした」と一礼し、
「戦が起これば、また呼んでくだされ」と笑う、その明朗さ。
――ところが、である。
この男は、幹部候補として国費を投じて育てられながら、職場という小さな戦場で立ちすくみ、やがて退却した。
国費によってこれでもかと手厚く育てられ、
いかにもまずい。これは、かなりいただけない。
彼らには、徹底的な庇護と手厚い育成が施されている。
現場の老曹らは、陰に陽に彼らの尻拭いをしながら、「まあそのうち慣れるやろ」と呟く。
それを、この男は「部下が嫌味を言ってくる」と嘆いたらしい。
――ああ、これを俗に「空気が読めぬ」と言う。
――はてなの皆さん。
この男は、諸君らが想像する「誠実で勤勉な元自衛官」ではない。
税金で温室栽培されたのち、自ら花を枯らした哀れなドロップアウトである。
それを自嘲気味に「禊ぎ」などと言っておるが、要するに甘えである。
彼は、おそらく叱られたかったのだろう。
それを禊ぎとして再出発する――そんな芝居を待っていた。
地頭がよいというのなら、せめてその才で汗を流せ。
さもなくば、君はこの国のどこにも居場所を得ぬだろう。
そして、その文明の片隅に、彼の名もまた、
地頭は悪くないらしい。
AIに関する議論を見ていると、どっちもどっちだよなと思うことが多い。
規制派は「人間の文化が壊れる」「AIは悪」と強硬で、推進派は「技術は止められない」「AIを使えない人間が文句を言ってるだけ」と煽り気味。
お互いに冷静さを欠いていて、建設的な議論がしづらい空気になってる。
ほんと、どっちもどっち。
これはもう、明らかな蔑称だと思う。
慎重な意見や批判的視点を持っているだけの人まで、「感情的」「時代遅れ」と切って捨てる。
中にはAIの全部を否定しているわけじゃなくて、「これはOK」「これはアウト」とちゃんと考えてる人も多い。
でも、そんな声すら「反AI」という一言で潰してくるのが今のAI推進派の一部なんだよね。
もちろん、すべてのAIが悪いってわけじゃない。
たとえばChatGPTのような文章生成AIは便利だし、十分活用すべき。
そもそも、文章って基本的に誰でも書けるものだし、創作性や希少性の観点でも、過剰に保護する必要はないと思う。
同様に、機械的に単語を置き換えるだけの翻訳AIや著作権の対象ですらないプログラム生成AIも、創作性が薄いからリスクは少ないし、実務的に役立つ。
あれは、他人の絵を勝手に学習させて、それっぽい画像を吐き出してるだけ。
しかも、それを自分の創作物みたいに堂々と公開して「俺すごいでしょ」ってやってる人がいる。
それって、やってることは泥棒と変わらないんじゃないの?
リアルで他人の作品を盗んで自分の名前で出したら、普通に炎上するのに。
AIになるとそれが「技術」として称賛されるの、どう考えてもおかしいでしょ。
こういうことを言うと、すぐ「反AIだ」と決めつけてくる人がいる。
どこまでが許容範囲か、どこからがアウトなのかを話し合いたいだけ。
それすら許されない空気の中では、健全な議論なんて成立しない。
「反AI」という言葉は、その空気を作るための便利な侮辱ワードになってる。
AI規制派も推進派も、どっちもどっちだと思うのは、どちらも「全部禁止」「全部容認」みたいな極論に走りがちなこと。
大事なのは、「何のために」「どのような使い方をするか」を一つひとつ判断すること。
特に、他人の創作を吸い上げて成り立っているAIに対しては、線を引かなきゃいけない。
それを主張するだけで敵扱いされるような状況が続けば、クリエイター文化そのものが壊れていく。
「反AI」という言葉は、もはや議論を封じるための攻撃的な武器になっている。
慎重派を追い出し、推進以外は「無知」「感情的」と切り捨てる。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
---
---
---
---
---
---
---
---
---
---
---
---
---
---
---
この1週間は、**AIと人間社会の関係性を中心テーマとして、多方面の話題が「技術の急激な進化に人間はどう適応するのか」という問いに収束している**のが特徴的だった。AIは投資・ギャンブル予測から日常の雑談生成まで影響を及ぼし、その便利さと不安が共存している。
同時に、**生活実感(寒さ、子育て、健康不安、ペット)**といった「人間の身体性と感情」に根ざした話題が強く現れ、テクノロジーと人間の温度差が浮き彫りとなった。
食・趣味・ユーモアによる緩和的な会話が全体を支え、「情報社会の混沌を笑いながら受け入れる知恵」がコミュニティ全体に見られた週であった。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
政治に大きな変更を加えるときには、とにかく何かしら批判がなければ不健全なんだよ。
微に入り細を穿って「こういう問題があるんじゃないの?」とブレーキを踏み続ける。
それで法案が修正されることもあるし、検討したうえで「このままでいける」となれば成立させればいい。
直近では問題がなくても百年後くらいに変なやつが総理になってその法律を悪用しだすかもしれないから、
それも監視し続けなきゃいけないよねっていうのが肝心なところ。
「いちいち批判すんな」とか「足を引っ張るな」とか言ってるのは、政治ではなくビジネスのお作法だよ。
新しい事業を興すときに、反対意見を気にするな、スピーディにやれ、とかいうのは、