はてなキーワード: 台風一過とは
この時期になると思い出すこと。ただの吐き出しです。
クソながいのに何の有益情報もないです。書きなぐったので不適切な表現があるかもしれないです。
でも自分で書いたら全然まとまらず読みづらいことこの上なかったのでGeminiに情報を整理してもらってます。なので半分AIが書いた日記ですw
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家の近所を流れる川が氾濫し、この地域が50年以上前に洪水被害にあったことは知っていたけど、土地や河川の改良も進んでいるし、「まー大丈夫でしょ」と軽く考えていた。
当時は”線状降水帯”なんて言葉も一般的じゃなかったし、道路が冠水するほどの大雨もめったにないことだったので。
ところが新築から半年後の台風で道路が冠水し、床下浸水を経験。
その時初めて、この川は海との高低差があまりないため、満潮に大雨が重なると排水しきれず沿岸のあちこちで小さく冠水していたことやこの場所も周囲より少しだけ土地が下がっているので水が溜まりやすく、冠水しやすい場所であることを知った。
「土地選びを失敗したな、調査不足だったな」と後悔もしたけど、その後は道路が冠水する程度で済んでいたから車逃がすの面倒だな位で、そこまで深刻には考えていなかった。
家族で遠出して夜9時頃帰宅し、疲れてそのまま爆睡していた私達。
尋常じゃない雨音で夫が目を覚ましたのは、夜中の1時だった。
「外がやばい。道路が冠水してきたから車を避難させよう」と起こされ、私も飛び起きた。
いつもの場所に車を移動させるため外に出ると、すでに膝下まで浸水していた。
車を逃してしばらく様子を見たけど、水は引くどころか増すばかり…雨も全然弱まらない…
港の満潮時刻を調べると5時過ぎ。「まだ3時間もあるのに、これからさらに水位が上がるの?」と恐ろしくなった。
正常性バイアスが働いて大丈夫だと思おうとしたが、一応夫に「家具、上にあげた方がいいかなあ?」と聞くと迷わず「やろう!」との返事。テキパキと「ソファ!子供のランドセル!電子ピアノ!テレビも!」と指示を出してくれた。
階段を何往復もしながら窓の外の水位を気にしていたら、なんと家の中が水浸しに!!
浸水するときは窓や玄関の隙間から水が入ってくると思っていたから、窓や玄関がまだ無事なのに床下の点検口から水が溢れてくるなんて本当にまさかだった。
足が水に浸かりながら家具の避難を続けたものの、完全に思考停止して目についたメモ帳とかテレビのリモコンとか小さいものを運ぶ私。
そんな中、押し入れにしまってあったひな人形を思い出した夫、本当にGJだった。
和室の畳が浮いてリビングに移動し、床に置きっぱなしだった子供のおもちゃが散乱し、重たい木製のダイニングチェアやテレビ台までプカプカと浮いていた。
水の入り具合から「もうこれ以上は無理」と判断し、自分達も2階へ避難してベランダから見下ろすといつもの道も前の家のポストも隣との境界の柵も全部見えず一面泥水。
避難できなかった近所の車が水没し、コンピューターが壊れたのかライトを点滅させているのを呆然と眺めた。
私はなんかもう笑うしかなくて、一階に降りて水没した冷蔵庫や、浮かんでいく畳の動画と写真をずっと撮っていた。
(後で罹災証明書や保険請求に役立ったから、結果的にはよかった)
子供たちは前日のお出かけの疲れで夜じゅうずっと爆睡していて、それがせめてもの救いだった。
もしこの状況で子供のケアまで加わっていたら、私は耐えられなかったと思う。
少しだけ高くなっている場所に避難させたけど、この水量では無事じゃないかもしれない。
家が無事じゃない上に車まで失ったら、もう絶望だ。
不安を伝えると、夫は「見てくるよ」と言ってくれた、が、外に出ると、道路は夫の身長以上に冠水していた。
通常なら危険だから外に出たらダメだと引き返すところを、判断力が狂っていた私たちは「浮き輪で泳いでいけばいい!」という名(迷)案を思いついた。
子供の浮き輪を膨らませ、防水ケースにスマホと車のスマートキーを入れて出発した夫。
行ってらっしゃい、と見送った後、私は何をしていいかわからなくて、SNSでひたすら情報収集したり、インスタのストーリーにさっき撮った動画を投稿してみたり、窓越しに隣人と会話したりして気を紛らわしていた。
すぐに帰ってくると思った夫は一時間以上帰ってこなくて、電話もつながらなくて、ちょっと不安だった。
そうこうしているうちに空が明るくなって満潮時刻の5時を過ぎ、夫が浮き輪で出発してから2時間ほど経った頃、ようやく電話がつながった。
「冠水した水に流れができて、家に戻れない。今は20メートルくらい離れた家の塀に登って待ってる」とのこと。
車はタイヤの半分ほどが浸かっていたものの、無事だったらしい。
電話を切った私は隣人に夫の様子を伝え、お互いおかしなテンションで「塀の上だって、やばいねwww」と笑い転げながら話していた。
朝7時過ぎ、ようやく少しずつ水が引き始めた。
「2時間も幅10センチの塀の上に立ってた。足が痛い」そう言いながら、夫も無事に帰宅。
(この時は知らなかったけど、後から河川が氾濫していたと知り、一歩間違えれば流されて海だったかもしれないとゾッとした)
子供たちも起き出し、外の様子を見たいとせがんだ。
トラウマにならないか心配で控えめに見せたら非日常感にテンションが上がっていたようだけど、私は疲れ果ててとても付き合える気力はなかった。
夜中に投稿したストーリーを見た友人が、まだ道路に水が残る中大量のおにぎりや飲み物を届けてくれて泣きそうなくらいありがたかった。
隣人も「親戚がマックを買ってきてくれたから」と分けてくれたので、物々交換をしてとりあえずの食事タイム。
改めて家の中を見回すと、畳はキッチンにあり、床には泥だらけの家具や物が散乱していた。
壁も扉も柱も水を吸ってぶよぶよで、システムキッチンの引き出しも閉まらない。
買い置きの食材は水浸し。冷蔵庫も洗濯機も、数時間水に浸かっていたことを思うともうダメだろう。
頭が全然回らないまま外に出て、家から流れて行ってしまったスタッドレスタイヤを探しがてら近所を見て回った。(見つからなかった)
ご近所さんはみんな同じように混乱し、途方に暮れた顔をしていた。
「大変なことになりましたね」と声を掛け合い、励まし合わないとやっていけなかった。
台風一過で空が晴れ渡る中、両親や親戚が駆けつけてくれて片付けを開始。
私も夫もあまりのショックに頭が回らず、代わりに実母がテキパキと指示を出してくれて本当に助かった。
保険請求のために写真を撮りまくり、床の泥を水で流し、濡れたものを外に出して使えそうなものは洗った。
子供たちは邪魔にならないよう妹が実家で面倒を見てくれた。これも大助かりだった。
他にも、手伝いを申し出てくれる友人、
断水しているからと水を持ってきてくれる友人、
「食べ物ダメになったでしょ」と保存食を差し入れてくれる友人、
ペイペイで見舞金を送ってくれる友人…
その他にも本当にたくさんの人の温かさに助けられた。
(行政を通じていただいた義援金ももちろんその一つ。あの時募金してくれた人本当にありがとうございました。)
近所づきあいの大切さも改めて感じた。
手伝う人がいないお年寄りの家の畳を一緒に運んだり、自治会を通じて届いたお弁当を分け合ったり。
結局、仕事は1週間まともに行けず、片付けや保険請求、罹災証明書の発行、修理に関する補助金の情報収集などで走り回る日々。
家の修理も、みんなが同じ状況だから職人さんが足りず、見積もりが出るまでに数ヶ月。工事が始まったのは被災から数ヶ月後だった。
行政の補助はあったけど仮住まいの家賃だけで、水道光熱費は自己負担。(仕方ないけど)
今の家と二重でお金がかかるし、そもそも短期で契約できる物件は数少ない上に良い物件は同じ被害に遭った人との争奪戦。
環境の変化に弱い子供が「絶対に他の場所で暮らしたくない、家で寝たい」と懇願したこともあり、最終的には1階の荷物をレンタル倉庫に運び(補助対象外)、自宅の2階で寝泊まりすることにした。
実家に頼って食事とお風呂を済ませ、寝るためだけに帰宅する二重生活。
これはこれで環境が変わるので子供のメンタルが不安定になって大変だったし物がどこにあるかわからなくて(倉庫なのか自宅なのか浸水被害で捨てたのか)とてもストレスだったけど、なんとか乗り切り、改修が全部終わったのは被災から8ヶ月経った頃だった。
長い復旧の日々を乗り越えて今はもうすっかり元の生活に戻ったけど、あの日の記憶は消えない。
大雨や台風が来るたびに胸がざわつくし、洪水被害のニュースを見ると泣きそうになる。
それでも、あの日にたくさんの人に助けてもらったことを思い出すと、心が少しだけ強くなれた気がする。
これからもその支えを大事にしながら、不安と付き合っていくしかないんだろうなと思う。
線状降水帯、まじでもう二度と発生するなよ。って、雨が降るたびに思っているけど。
第一章、第二章とホラー過ぎて怖かった。韓国映画なら祈祷師が呼ばれて悪魔祓いすることになりそう。
予告の映像だとクラス全体、学校全体が何か秘密を隠してる!それは何なんだ!ってスケールが大きそうな話に思えるけど、そんなことなく隠し事してるのは少年2人でこじんまりした物語だった。
で、問題のラストシーン。親と教師が探しにきた時は大雨だったのに、2人が脱出して出てきた時はめちゃめちゃ快晴。これだけなら台風一過かなと思うが、2人が出てきた場所は秘密基地がすぐ見える場所なのに近くにいるはずの親や教師の気配はない。最後は妄想・霊体で駆け回るのかなとも考えられる。火垂るの墓で最後に兄弟が駅をうろつくシーンみたいなことをしているのかなと。
まずニュースにならない。
興津川水系と言って興津川という清流の表水から上水道を取ってるんだが取水口が流木と土砂で埋まった。つまり取り込めないわけ。流石にライフラインなだけあってもう少し上流に予備的取水口があるんだがこいつの送水管が橋ごと折れた。これで万事休す。復旧させるには重機が必要だが水が引かない。道も細い山道であらゆるところが崩落土砂崩れしかかってる。ある程度水が引いて人海戦術で突貫工事しても濁水処理がかなりかかり早くてこの先数日確定、最悪一週間ダメだそうだ。
かなり昔元々この興津川の渇水で計画断水的なことが必要になったことがあって静岡市の安倍川水系ってところから水を引っ張れるシステムをかなりの予算をかけて完成させてるはずなんだが機能せず。ナント海上保安部が巡視船おきつから給水支援に乗り出すほどの大事になってる。給水車も出てくれているが3時に行って4時間待ち宣告をされた人もいる。たった9地点でしか展開できなかったためだ。小学校の非常水開放して長蛇の列ができたり、民家が自前の井戸水開放したり、ビッグ・エスみたいな民間企業が施設開放して助け合ってる。役所に問い合わせたが明日は多少増えるようだが復旧の目処は立たないという。
つーか、これがニュースにならない。なっても一部で断水が起きています。の一言。
おい!静岡市の半分を占める清水区の7〜8割が断水して、コンビニに食べ物も水もなくドラッグストアの棚も空っぽになって給水所に行けない高齢者妊婦乳児を抱える若い夫婦が死活問題で喘いでいるのにツイッタランドで情報発信してる市議さんは一人、情報は市のHPのみ、アクセス集中で開かない。市長も知事も完全放置。超やばい。
巴川系が越堤して街中泥だらけなのにそれを洗い流す水が来ないので台風一過の晴天高温で粉塵になって舞い上がってる。ガラスも釘も転がる道路脇に故障停止した車が放置され水や泥がはけない道には警官が泥だらけになって交通整理や進入停止にしてる。地獄。
なんで報道で流して救いの手を送ってくれないんだ。棄てられた地なのか清水は。気になる人は「清水区 断水」でツイッタランドを検索してください。
一週間断水とか死人が出るんじゃね?助けてください。
住んでいる家から歩いて15分ぐらいのところに砂浜がある。晴れでも曇り空でも、海を見ているとまったく印象は異なるのにどこか気持ちが楽になるので、他にやることも特にないし、暇さえあれば行っている。
今日は台風一過の晴天がまだ続いていて、朝10時ぐらいに浜に着いたら、俺と同じような地元民がけっこう遊びに来ていた。盛夏のような密集した感じではなかったけども、犬を散歩させている人だとか、少年団の水泳教室みたいのとか、俺と同じようなぼんやりした中年みたいな人とかが浜辺に適当に散らかっていて、活況という雰囲気だった。
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波打ち際で、歩き始めたばっかりという感じの小さい子供とお母さんらしき女性の二人組が遊んでいた。幼児がえっちらおっちら、やじろべえのように左右にバランスを取りながら、右足で地面を踏んだエネルギーを体の左側に、今度は左足で踏んだエネルギーを右側にやるのが見えるようで、そうやって濡れた砂の上を歩いていて、すげーな、と思った。
歩きながら、ちゃんと(というとおかしいが)海の方に向かっていく。
何かしら、原始的に引き寄せられるものがあるんだろうか。まあ、「○○ちゃん、海に行こうか」といって家を出てきたのだろうからはじめからそういう意識なんだろうけど、一つの生命として何か惹かれるものがあるんだとしたら面白いな、と思った。
風が吹いて、水泳教室用に砂浜に積まれていたビート板が舞い上がった。真っ青なビート板が何枚も、白っぽく濡れた砂浜と対比をつくりながら、陽の光を浴びて波打っている海を背景にして幼児の前を舞って流れていった。
子どもは歩くのをやめて、その光景に見入っているように見えた。
もしかするとびっくりして恐怖で固まっていたのかもしれないが、美しいと感じたのかもしれないし、実際、鮮やかな出来事だった。
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そうなんだよ、世界にはこういうことが起きるんだよ、と俺は思う。
俺は30過ぎて世界という言葉の意味が国際的な意味合いでも形而上的にもよくわからないし、それは中年の中でもとりわけぼんやりしている俺自身にも問題があるが、会話がたいして成立しないはずの子どもに向けて語るときだけ、この言葉の正確な部分の一端をつかんだような錯覚を覚える。
それはおおよそのところ、幼稚さをこじらせて自分がよくわからなくなったおっさんのたわ言だが、あえて他の理由を言えば、俺も子どもだったからわかるのだと思う。社会情勢も人間心理のこともわからないが、俺も同じ子どもだったから、ここが美しく印象的なことが起きる場所だということはなんとなくわかる(ということにしている)。
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ちなみに、1~2歳ごろの子ども視力は0.2相当らしい。また、以前、ある絵本の批評を読んでいたら「微妙な色づかいが多すぎて子どもの視覚には伝わらない」というようなことが書いてあった。
こういう具合で、幼児の視界というのは大人が想像するのとは、それこそまるで別世界の可能性がある。ま、そう考えるとやっぱり、上でくどくど書いたことはファンタジーかもしれないな…。
…
乾くのを待ってる間、『ジェイコブス・ラダー』という映画を観たら元気がなくなったので寝た。トータルでは良い休日だったと思う。🦑
○ご飯
朝:フォッカッチャのチーズトースト。トマトとキュウリ切ったやつ。昼:カイワレ大根、ピーマンの塩焼きそば。目玉焼き。夜:豚肉、キャベツ、シメジ、ニンジン、うどんの味噌炒め。おやつ:フルーツゼリー
○調子
午前中は台風がすごかったのだけど午後からは台風一過でいい天気だった。
洗濯物もよく乾く。
明日もいい天気みたいなので、散歩をガチろうと思う。先週雨で断念したのでリベンジだ。
目標は5時起きで始発に乗って電車移動してから散歩。もしくは6時起きで家から散歩のどっちかにしよう。なので今日は早寝。
クレジッタさんを引くことにした。
結果は170連とだいぶ深かった。ただ道中で恒常未所持のタイムトラベルカヤが出たので少しだけ嬉しい。
一応プリコネのガチャはツムギとフェス限を引くルールなのだけど、今回のクレジッタさんは今までにない特別な枠なのでお試しで引いてみた感じ。今後もこういう枠のキャラを引くかは悩んでおく。
ちなみに所属ギルドがちゃんとリッチモンド商工会になってるけど、今後秘書子ちゃんとかも実装されんのかなあ。だとすると、この枠のキャラも抑えたくなるなあ。
○ドラガリアロスト
施設イベントの周回。と言ってもグラブル操作の片手間フルオートだけど。
そろそろルピ不足が深刻化してきた。
ウイークリーミッションの消化と、先日の天井で加入したキャラのレベル上げ。
色々性能見てたけど、バレンタインアグロヴァルとリミテッドイオの組み分けが良さげかな。
バレンタイングリムはリッチ斧二本目より優先しただけあって活躍してもらわないと困るぜ。
○ウマ娘
やっーーーーーーと、ハーフアニバミッションのスタミナ因子2をクリアできた。
配布サポカ集めはモチベの一つなので無事終わってよかったよかった。
Day,0
出発前
ANAのマイルが溜まっていたので、休暇を利用してマレーシアに行くことにした。
なぜマレーシアなのかというと、GWと元号絡みの10連休で韓国に行った時に、「これは非常に国民の同質性の高い国だな」と思い、「次は多様性の高い国に行きたいな」と思ったのと、以前からアジアのイスラム国家に興味があり、ならマレーシアがうってつけなのではないかと思ったからだ。
ニョニャ料理に興味があったのもある。
せっかくだから陸路で行けるシンガポールも行ってみたくなり、さらに予習のつもりで行ったマレー料理屋のママがイポー出身で、激推しされたのも心動かされ、7泊7日の日程でクアラルンプール→マラッカ→シンガポールに入国→クアラルンプールで最終チェックイン→日帰りでイポー→クアラルンプール国際空港から帰国という詰め込みスケジュールとなってしまった。
そんな強行日程なんだが、直前まで緊張感のあるプロジェクトに携わり、出発直前になって台風まで関東を直撃し、出発できるのか心配になったが、台風が巻きで通過してくれたので、フライトに影響はなく、仕事もなんとか終わりが見える形で後輩に留守を引き継いだ。
Day,1
1日目
台風一過の晴天の下、羽田空港国際線ターミナルに向かう。
フライトは23時なので、日が高いうちに向かう必要は本来ないのだが、羽田空港に早めに到着して、ラグビーW杯の日本×スコットランド戦が観たかった。
旅行を計画した時には気づかなかったが、日本の突破がかかる一戦にフライトの日が重なってしまっていた。
旅行に全力を傾けるために観戦を諦めるという選択もあったのだが、いざ大会が始まると、ラグビーの楽しみ方、面白さを伝えたい一心でレビューの投稿などを始めてしまい、おまけに日本代表の大活躍でこの一戦にプール突破がかかる緊迫した状況になってしまい、どうにも観ないわけにはいかなくなってしまった。
羽田空港に早めに行って手荷物預け入れなどを済ませてから、空港に設置されたテレビで観戦してレビューを書いてフライトするというスケジュールになってしまった。
ただでも旅行中は常に記録して旅行記を書きながら過ごしているのに、その上出発前も書き物をするとは、どうものっけから書きっぱなしの旅行になりそうだ。
羽田空港につき、ラグビー観戦にうってつけのモニタのある食事処に陣取ると、一団の外国人がラップトップを持ち込んでウェールズ×ウルグアイ戦を観戦していた。
また、日本戦キックオフが近付くと、モニタに映し出される試合目当てにガタイのいい外国人が続々現れる。
みんな目当ては一緒っぽい。
こちらもモニタはもちろんだが、一応、動画サイトの同時中継を準備して、ダブルモニタ体制で観戦することにした。
この旅行記が投稿される頃には明らかになっているだろうが、日本代表は見事勝利を収め、史上初の決勝トーナメント進出となった。
食堂は大盛り上がりで、レビューにも力が入ったが、そのため出発までがバタバタとしたものとなり、推敲は機内で行う事になった。
あれから10か月が経った。
結局両親は離婚し、父は家を出ていき、見事に家族はバラバラとなった。
わたしは何だか置いてきぼりにされた心境のまんま、モヤモヤとした日々を過ごしていた。
なんとも情けない話だが、深い霧の中にいるような、あるいは泥沼にでもはまったような感じで、どうすればそこから抜け出す事ができるのか、皆目見当がつかないのだ。
そこに台風が襲来。
わたしは、いささか不謹慎だが、それを自分への理由にして、母に電話をしてみた。
久々に話した母の声は、今までになく軽やかな印象だった。
台風前日はスーパーへ買い出しに行き、当日は家に籠ってやり過ごし、今日は友達に会って洪水の話をして来たという。
普段聞きなれないエリアメールが頻繁に来るので、通知音にいちいちびっくりしたわよ、などと楽しそうに話すので、
そうそう、わたしも地震の時は発生が夜だったので、そのあと明け方まで通知音で寝られなかったと、ついノリノリで話にのってしまった。
お見舞いに採れたばかりの南瓜を送るというと、ちょうど買いたかったけど重くて躊躇していたのよ、との返事。
「南瓜大好き」、だって。はしゃいだ声。
わたしは母に救われた。