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2025-07-16

シゲル日本昔ばなし桃太郎

昔むかし、あるところに――

この「昔むかし」という表現でありますが、まず、我々はそこを明確に認識をしていかねばならない、

すなわち、いつの時点を指して「昔」としているのか。それは、どういうことなのか――。

これは単なる時間の経過を表すものではなく、

日本いや日本人、国民のみなさまの物語構造に内在する

記憶」を郷愁と置き換えての文脈であるということは常に意識していきたいと考えて、おります

国民のみなさまにあえて申し上げます

すなわち郷愁の彼方の、かつて、あるところに、

おじいさんとおばあさんがいたのであります

では、なぜ「おじいさん」と「おばあさん」が存在したのか――

高齢化社会の進行と、家族形態の変容を踏まえ、強く意識するとともに、

もう一つの課題である、ここで問われるべきは、

「あるところ」とは果たしてどこなのか。

地理的特定がなされていないという点において、

私たちはその地域性問題をも直視しなければならないのであります

さて、おじいさんは山へ柴刈り行かれた。

ここでも考えねばならないのは、「なぜ柴刈りに行ったのか」ということであります

一方で、おばあさんは川へ洗濯に行ったとされております

この「洗濯」という行為も単なる家事労働ではなく、

現代サステナビリティ観点からも見過ごせない、

まさに国益をかけた戦い、なめられてたまるか、

エネルギー政策地域資源自給自足体制を想起させる、

いや想起せずとも自然無意識意識するべくして単なる

家事と外仕事の分担」と一括りにしてしまうことの危険性について、

我々は深く認識せねばならないのであります

さて問題はここからであります

おばあさんが川で洗濯をしていると、

「どんぶらこっこ、どんぶらこっこ」と大きな桃が流れてきた――

では、この桃はなぜ流れてきたのか。

川の上流には何があり、誰がそこに関与したのか。

自然災害か、人為的投棄か。

仮に後者であるとすれば、誰が、どのような意図で、それを川に流したのか。

単なる果実であるという認識では説明がつかない。

なぜなら、通常の果実は水に浮くような構造を持たず、

また流通経路として川を選択する合理性もない。

ですが、ここでひとつ明確に意識した点をあえて述べるのであれば、

桃が川を流れている――、

まり関税との兼ね合いを懸念せざるを得ない、ということであります

おばあさんはこの桃を拾い上げ、持ち帰ったとされておりますが、

この時点で相続税考慮せねばいけない事案である、とそのように

意識せざるを得ない状況であるとともに、

ここに「拾得物の処理」や「所有権移転」、

ひいては「公共財私有財産境界線」といった問題が内在しており、

これは見過ごせない論点であると考えるものであります

つづく

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