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正倉院展に14年ぶりに登場した蘭奢待…科学の力で再現された「天下一の香り」とは

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編集委員 丸山淳一

 第77回正倉院展(10月25日~11月10日、特別協力・読売新聞社)が奈良市の奈良国立博物館で開幕した。聖武天皇遺愛の (すご)(ろく) 盤や 螺鈿(らでん) 飾りの鏡など、初出展6件を含む67件の宝物が出展される。注目は14年ぶりの出展となる「 (おう)(じゅく)(こう) 」だろう。「 (らん)(じゃ)(たい) 」の別名で知られ、織田信長(1534~82)や明治天皇(1852~1912)らが切り取った天下一の香木だ。一度出展された宝物は、最低でも10年は休ませるというから、本物を見ることができる機会はそうは巡ってこない。

出展された蘭奢待。多くの人が天下一の香木に見入った(10月25日、奈良国立博物館で)
出展された蘭奢待。多くの人が天下一の香木に見入った(10月25日、奈良国立博物館で)

 奈良に足を運ぶのは難しいという人向けには、11月9日まで東京・上野公園の上野の森美術館(東京都台東区)で開催されている「正倉院 THE SHOW―感じる。いま、ここにある奇跡―」(読売新聞社など主催)」を紹介したい。宝物の実物は出展されていないが、宮内庁正倉院事務所監修のもと、正倉院1300年の歴史に没入し、宝物の魅力を「体感」できる展覧会だ。宝物の高精細な3Dデータをもとに、最新のデジタル技術を駆使した華麗な映像が幅約20メートルのスクリーンに映し出され、詳細な調査研究と匠の技によって「再現模造」された10点以上のレプリカが展示されている。

奈良では味わえない香りが東京で

「正倉院 THE SHOW」では高精細な大画面展示で天平文化が紹介される(上野の森美術館で)
「正倉院 THE SHOW」では高精細な大画面展示で天平文化が紹介される(上野の森美術館で)

 蘭奢待のコーナーには、NHK大河ドラマ『 麒麟(きりん) がくる』で信長が切ったシーンの撮影で使われたレプリカを囲んで、史上初めて再現された「蘭奢待の香り」を体験できるガラスの器が並んでいる。戦国時代のドラマ撮影に使われたレプリカには先端部にあるはずの明治天皇の切り取り痕がないから、形状は本物とは異なる。蘭奢待の香りも化学的に調合された“香りのレプリカ”だが、奈良の正倉院展に行って実物の前でいくらクンクンしても香りを聞く(嗅ぐ)ことはできない。天下一の香りを体感する機会はそうは巡ってこないかもしれないと、足を運んで嗅いでみた。

「正倉院 THE SHOW」に展示された蘭奢待のレプリカ。本物とは異なり、写真左下の突端部にある明治天皇の切り痕がない
「正倉院 THE SHOW」に展示された蘭奢待のレプリカ。本物とは異なり、写真左下の突端部にある明治天皇の切り痕がない
ガラス容器の中に再現された蘭奢待の香り。容器を持ちあげて香りを聞く
ガラス容器の中に再現された蘭奢待の香り。容器を持ちあげて香りを聞く

 シトラス系の香りにバニラが混ざったような、これまで嗅いだことがない、とてもよい香りだった――と書いても、どれほど伝わるか自信がない。生成AIに聞くと「甘、辛、酸、苦、塩味の『五味』をすべて含んで奥行きがある」「重厚で威厳と気品に満ちている」などと答えてくるが、奥行きや重さがある香りと言われても、よくわからない。

言葉で残せない香りを残す

 よくわからないのは、筆者の乏しい語彙力と感性だけが理由ではないようだ。生化学者の平山令明さんは著書『「香り」の科学』の中で、嗅覚には、味覚など他の感覚と異なり、「共通に理解できる基礎を学ぶ機会がほとんどない」と指摘している。「『におい』情報の伝達は難しいことが多く、『におい』を表現する独立した 語彙(ごい) の数も決して多くない」という。

『古事記』の「非時香菓」とみられるタチバナの実
『古事記』の「非時香菓」とみられるタチバナの実

 香りと人との付き合いは古く、日本最古の歴史書『古事記』にも「 非時香菓(ときじくのかぐのこのみ) (いつもいい香りを出す木の実)」という香りに関する記述がある。非時香菓はおそらくタチバナの実で、香りは 柑橘(かんきつ) 系だろうとみられているが、いい香りとはどんな香りなのかの記述はない。先人は蘭奢待についても、歴史に埋没してしまわないように「天下一の名香」という冠をつけた上で、どんな香りかは実物を残しておくから嗅いでみて、という形で後世に残すのが最も確実な方法だと思ったのかもしれない。

 しかし、正倉院事務所保存課長の中村力也さんによると、「蘭奢待は今もかすかに香るが、香りは少しずつ失われている」という。完全に香りが消えない今のうちに成分を記録して未来に残さなければ、天下一の名香は失われてしまう。

 宮内庁正倉院事務所はさまざまな研究機関や企業の協力を得て、昨年から蘭奢待の香りの再現プロジェクトに取り組んできた。「正倉院 THE SHOW」で披露されている香りのレプリカは、その成果なのだ。蘭奢待についてはこの連載でも何度か取り上げているが、今回の調査結果で歴史を書き換える事実は判明したのだろうか。

「両種の御香」は同じ木か

沈香の木から樹脂を削り取る住職(ドンナイ省の寺院で)
沈香の木から樹脂を削り取る住職(ドンナイ省の寺院で)

 それを見ていく前に、香木について整理しておく。香木は (きゃ)()沈香(じんこう)(びゃく)(だん) に大別される。白檀は原木の芯にもともと香りがあるが、伽羅と沈香は、インドシナ半島など東南アジアの熱帯林に自生するジンチョウゲ科の樹木が、傷ついたり細菌に侵されたりして修復のために樹脂を出し、それが固まって、何百年もかけて熟成されて初めて、独特の香りを出す。

 一般的には、樹脂が多い木ほど香りが強い。樹脂の割合が増え、比重が重い木は水に沈む「沈水香木」。これが「沈香」の語源となっている。その沈香の中でも脂分が多く色が濃い「黒沈香」をサンスクリット語で「カーラーグル(Kalaguru)」と呼び、このカーラーグルが「伽羅」の語源。伽羅は沈香の中でも上質のものをいい、蘭奢待は香木の最上位の伽羅の、そのまた最高峰とされる。

 香りを再現するには、蘭奢待がいつ、どこで採取されたのか、履歴を知る必要がある。遺跡の年代推計などで使われる放射性炭素年代測定で樹齢を調べた結果、蘭奢待は8世紀後半から9世紀後半にかけて生えた木であることがわかった。8世紀後半まで東南アジアに生えていたとすると、正倉院が創建された天平勝宝8年(756年)頃にはまだ日本に渡来していなかった可能性が高い。

第74回正倉院展に出展された全浅香(2022年10月28日撮影)
第74回正倉院展に出展された全浅香(2022年10月28日撮影)

 正倉院の宝物には蘭奢待と並ぶ「両種の御香」と呼ばれる全浅香( 紅塵(こうじん) 香)という伽羅があり、こちらは正倉院創建時にすでにあったという記録がある。この伽羅の香りは蘭奢待に極めて近いとされ、学者の中には「全浅香と黄熟香(蘭奢待)は同じ木で、全浅香は幹、蘭奢待は根ではないか」という見方もあった。

 しかし、蘭奢待が全浅香と同時に日本に渡来していないとすると、同じ木である可能性は低くなる。正倉院に収蔵された時期も、蘭奢待が宝物目録に最初に登場する建久4年(1193年)以前、としかいえなくなる。蘭奢待の収蔵時期をめぐる謎は、かえって深まったといえる。

最新科学が突きとめた香りの元と成分

世界最大の大型放射光施設「スプリング-8」(本社機から)
世界最大の大型放射光施設「スプリング-8」(本社機から)

 香りが蘭奢待のどこから出ているのかについては、本体から脱落した木片を兵庫県佐用町にある世界最大の大型放射光施設「スプリング-8」に持ち込んで行った。この施設では太陽の100億倍も明るい「放射光」を使って、原子・分子レベルで物質の構造を見ることができる。

 その結果、蘭奢待は木の成長点(維管束形成層)から分かれた組織が何らかの理由で傷つき、そこに香りの成分を蓄積していたことがわかったという。

蘭奢待の香りの成分調査は高砂香料工業が行った(写真はヘッドスペース分析)
蘭奢待の香りの成分調査は高砂香料工業が行った(写真はヘッドスペース分析)

 成分は日本最大の香料メーカー、高砂香料工業(本社・東京都)が担当し、蘭奢待全体を覆って香りを含む空気を分析する「ヘッドスペース分析」と、脱落した小片を加熱して出てくる成分を分析する「ガスクロマトグラフィー質量分析」が行われた。

ラブダナムの香りを出すシスタス。香りは花ではなく葉から出る
ラブダナムの香りを出すシスタス。香りは花ではなく葉から出る

 その結果、300以上の物質が検出され、香りを発する成分はラブダナムの甘い香りが多く検出された。ラブダナム(シスタス)の木は地中海沿岸など温暖な地域に自生し、分泌する樹脂から抽出されるオイルは古代ギリシャの時代から天然香料として使われている。

 限られた木が限られた条件下で限られた部位から出した蘭奢待の香りが、古くから世界中で使われていた、と聞くと拍子抜けする人がいるかもしれない。しかし、入手しやすいラブダナムがベースに使えることがわかったことで、香りの再現にめどがついたのは大きな収穫と言える。最後は調香師に蘭奢待の香りを嗅いでもらい、甘、辛の香りを加えて「蘭奢待の香り」ができあがった。高精度の分析技術と人間の嗅覚を組み合わせた今回の方法を応用すれば、正倉院が保存している他の香料の再現もできるかもしれないという。

全国にある木片の調査が進めば…

多聞山城に持ち込まれた蘭奢待を切らせる信長(『日本歴史図会 第3輯』国立国会図書館蔵)
多聞山城に持ち込まれた蘭奢待を切らせる信長(『日本歴史図会 第3輯』国立国会図書館蔵)

 蘭奢待を収蔵している美術館や博物館も、小片から出自や組織、香りの再現にまで至った今回の調査に関心を持っている。全国の美術館や博物館には数多くの蘭奢待の香片があるが、小さすぎて分析できていないからだ。

 正倉院の蘭奢待には38か所の切り取り痕があり、同じところを2度切っている痕跡を加えると、50回以上切られているとみられる。時の権力者が蘭奢待に魅了され、正倉院を開封して切ったか、切らなかったか、については過去に紹介した( こちら など)。信長や足利将軍家、明治天皇以外の権力者も、おそらく記録に残っていない切り取りを行い、切り取られた香木はどんどん小さくなって公家や大名からその家臣へ、商人や茶人、寺社などへと渡っている。それをすべて追うのは不可能に近い。

 香道が発達した室町時代以降は、珍奇な名香に蘭奢待の名を拝借することも頻繁に行われていた。代表的な名香の銘柄「東大寺」と蘭奢待が混同して使われていたこともある。天下一の名香だけに偽物も多い。蘭奢待として伝わっている香木の中に、正倉院で切られたものだと明確に言い切れるものは一片もないのではないか。

 収蔵する蘭奢待を展示したことがある徳川美術館(名古屋市)、三井記念美術館(東京都中央区)、永青文庫(東京都文京区)は、それぞれ尾張徳川家、室町三井家、肥後細川家ゆかりの収蔵品を継承しており、由緒書きなどで蘭奢待の入手時期もある程度特定できる。だが、それでも不明なことが多い。

 徳川美術館の蘭奢待は、近衛天皇(1139~55)に取り () いた怪物「 (ぬえ) 」を退治した源頼政(1104~80)が、名刀「 ()()(おう) 」とともに拝領したとされるが、そこから最初に江戸城を築いた太田道灌(1432~86)に伝わった経緯は不明のままだ。三井記念美術館の蘭奢待は加賀前田家の重臣でかの前田慶次(生没年不明)の盟友としても知られる奥村 永福(ながとみ) (1541~1624)の、そのまた家臣が持っていたという。元は信長が切った蘭奢待である可能性もあるが、詳細は不明のままだ。信長と細川家の関係からすると、永青文庫の蘭奢待も信長由来と思いたくなるが、それを推測できる記録はない。

 科学的調査をしても、いつ、誰から誰に、の詳しい経緯はわからないだろう。しかし、小片でも原子・分子レベルの組成がわかり、香りが再現できるなら、正倉院の蘭奢待とのつながり解明に近づけるかもしれない。これらの美術館は、1グラム以下、数ミリ単位の木片を未来に伝えようと大切に保存している。たけば瞬時に灰になるから、天下一の香りを聞くこともできない。再現された香りがすべての蘭奢待の保存につながってくれれば、その良しあしにこだわる人はいないのではないか。

主要参考文献
杉本一樹『正倉院 歴史と宝物』(2008、中公新書)
田該典「全浅香、黄熟香の科学調査」(宮内庁正倉院事務所編『正倉院紀要22 2000-03』)
山田英夫『香木のきほん図鑑 種類と特徴がひと目でわかる』(2019、世界文化社)
平山令明『「香り」の科学 匂いの正体からその効能まで』(2017、講談社ブルーバックス)

正倉院展公式サイトは こちら

正倉院 THE SHOW公式サイトは こちら

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プロフィル
丸山 淳一( まるやま・じゅんいち
 編集委員。経済部、論説委員、経済部長、熊本県民テレビ報道局長、BS日テレ「深層NEWS」キャスター、読売新聞調査研究本部総務などを経て2022年6月より現職。経済部では金融、通商、自動車業界などを担当。東日本大震災と熊本地震で災害報道の最前線も経験した。1962年5月生まれ。小学5年生の時、大河ドラマ「国盗り物語」で高橋英樹さん演じる織田信長を見て大好きになり、城や寺社、古戦場を巡り、歴史書を読みあさり続けている。

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7240216 0 今につながる日本史 2025/10/22 15:00:00 2025/10/25 21:43:11 /media/2025/10/20251025-OYT8I50053-T.jpg?type=thumbnail

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