正倉院展に14年ぶりに登場した蘭奢待…科学の力で再現された「天下一の香り」とは
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 第77回正倉院展(10月25日~11月10日、特別協力・読売新聞社)が奈良市の奈良国立博物館で開幕した。聖武天皇遺愛の
奈良に足を運ぶのは難しいという人向けには、11月9日まで東京・上野公園の上野の森美術館(東京都台東区)で開催されている「正倉院 THE SHOW―感じる。いま、ここにある奇跡―」(読売新聞社など主催)」を紹介したい。宝物の実物は出展されていないが、宮内庁正倉院事務所監修のもと、正倉院1300年の歴史に没入し、宝物の魅力を「体感」できる展覧会だ。宝物の高精細な3Dデータをもとに、最新のデジタル技術を駆使した華麗な映像が幅約20メートルのスクリーンに映し出され、詳細な調査研究と匠の技によって「再現模造」された10点以上のレプリカが展示されている。
奈良では味わえない香りが東京で
 蘭奢待のコーナーには、NHK大河ドラマ『
シトラス系の香りにバニラが混ざったような、これまで嗅いだことがない、とてもよい香りだった――と書いても、どれほど伝わるか自信がない。生成AIに聞くと「甘、辛、酸、苦、塩味の『五味』をすべて含んで奥行きがある」「重厚で威厳と気品に満ちている」などと答えてくるが、奥行きや重さがある香りと言われても、よくわからない。
言葉で残せない香りを残す
 よくわからないのは、筆者の乏しい語彙力と感性だけが理由ではないようだ。生化学者の平山令明さんは著書『「香り」の科学』の中で、嗅覚には、味覚など他の感覚と異なり、「共通に理解できる基礎を学ぶ機会がほとんどない」と指摘している。「『におい』情報の伝達は難しいことが多く、『におい』を表現する独立した
 香りと人との付き合いは古く、日本最古の歴史書『古事記』にも「
しかし、正倉院事務所保存課長の中村力也さんによると、「蘭奢待は今もかすかに香るが、香りは少しずつ失われている」という。完全に香りが消えない今のうちに成分を記録して未来に残さなければ、天下一の名香は失われてしまう。
宮内庁正倉院事務所はさまざまな研究機関や企業の協力を得て、昨年から蘭奢待の香りの再現プロジェクトに取り組んできた。「正倉院 THE SHOW」で披露されている香りのレプリカは、その成果なのだ。蘭奢待についてはこの連載でも何度か取り上げているが、今回の調査結果で歴史を書き換える事実は判明したのだろうか。
「両種の御香」は同じ木か
 それを見ていく前に、香木について整理しておく。香木は
一般的には、樹脂が多い木ほど香りが強い。樹脂の割合が増え、比重が重い木は水に沈む「沈水香木」。これが「沈香」の語源となっている。その沈香の中でも脂分が多く色が濃い「黒沈香」をサンスクリット語で「カーラーグル(Kalaguru)」と呼び、このカーラーグルが「伽羅」の語源。伽羅は沈香の中でも上質のものをいい、蘭奢待は香木の最上位の伽羅の、そのまた最高峰とされる。
香りを再現するには、蘭奢待がいつ、どこで採取されたのか、履歴を知る必要がある。遺跡の年代推計などで使われる放射性炭素年代測定で樹齢を調べた結果、蘭奢待は8世紀後半から9世紀後半にかけて生えた木であることがわかった。8世紀後半まで東南アジアに生えていたとすると、正倉院が創建された天平勝宝8年(756年)頃にはまだ日本に渡来していなかった可能性が高い。
 正倉院の宝物には蘭奢待と並ぶ「両種の御香」と呼ばれる全浅香(
しかし、蘭奢待が全浅香と同時に日本に渡来していないとすると、同じ木である可能性は低くなる。正倉院に収蔵された時期も、蘭奢待が宝物目録に最初に登場する建久4年(1193年)以前、としかいえなくなる。蘭奢待の収蔵時期をめぐる謎は、かえって深まったといえる。
最新科学が突きとめた香りの元と成分
香りが蘭奢待のどこから出ているのかについては、本体から脱落した木片を兵庫県佐用町にある世界最大の大型放射光施設「スプリング-8」に持ち込んで行った。この施設では太陽の100億倍も明るい「放射光」を使って、原子・分子レベルで物質の構造を見ることができる。
その結果、蘭奢待は木の成長点(維管束形成層)から分かれた組織が何らかの理由で傷つき、そこに香りの成分を蓄積していたことがわかったという。
成分は日本最大の香料メーカー、高砂香料工業(本社・東京都)が担当し、蘭奢待全体を覆って香りを含む空気を分析する「ヘッドスペース分析」と、脱落した小片を加熱して出てくる成分を分析する「ガスクロマトグラフィー質量分析」が行われた。
その結果、300以上の物質が検出され、香りを発する成分はラブダナムの甘い香りが多く検出された。ラブダナム(シスタス)の木は地中海沿岸など温暖な地域に自生し、分泌する樹脂から抽出されるオイルは古代ギリシャの時代から天然香料として使われている。
限られた木が限られた条件下で限られた部位から出した蘭奢待の香りが、古くから世界中で使われていた、と聞くと拍子抜けする人がいるかもしれない。しかし、入手しやすいラブダナムがベースに使えることがわかったことで、香りの再現にめどがついたのは大きな収穫と言える。最後は調香師に蘭奢待の香りを嗅いでもらい、甘、辛の香りを加えて「蘭奢待の香り」ができあがった。高精度の分析技術と人間の嗅覚を組み合わせた今回の方法を応用すれば、正倉院が保存している他の香料の再現もできるかもしれないという。
全国にある木片の調査が進めば…
蘭奢待を収蔵している美術館や博物館も、小片から出自や組織、香りの再現にまで至った今回の調査に関心を持っている。全国の美術館や博物館には数多くの蘭奢待の香片があるが、小さすぎて分析できていないからだ。
正倉院の蘭奢待には38か所の切り取り痕があり、同じところを2度切っている痕跡を加えると、50回以上切られているとみられる。時の権力者が蘭奢待に魅了され、正倉院を開封して切ったか、切らなかったか、については過去に紹介した( こちら など)。信長や足利将軍家、明治天皇以外の権力者も、おそらく記録に残っていない切り取りを行い、切り取られた香木はどんどん小さくなって公家や大名からその家臣へ、商人や茶人、寺社などへと渡っている。それをすべて追うのは不可能に近い。
香道が発達した室町時代以降は、珍奇な名香に蘭奢待の名を拝借することも頻繁に行われていた。代表的な名香の銘柄「東大寺」と蘭奢待が混同して使われていたこともある。天下一の名香だけに偽物も多い。蘭奢待として伝わっている香木の中に、正倉院で切られたものだと明確に言い切れるものは一片もないのではないか。
収蔵する蘭奢待を展示したことがある徳川美術館(名古屋市)、三井記念美術館(東京都中央区)、永青文庫(東京都文京区)は、それぞれ尾張徳川家、室町三井家、肥後細川家ゆかりの収蔵品を継承しており、由緒書きなどで蘭奢待の入手時期もある程度特定できる。だが、それでも不明なことが多い。
 徳川美術館の蘭奢待は、近衛天皇(1139~55)に取り
科学的調査をしても、いつ、誰から誰に、の詳しい経緯はわからないだろう。しかし、小片でも原子・分子レベルの組成がわかり、香りが再現できるなら、正倉院の蘭奢待とのつながり解明に近づけるかもしれない。これらの美術館は、1グラム以下、数ミリ単位の木片を未来に伝えようと大切に保存している。たけば瞬時に灰になるから、天下一の香りを聞くこともできない。再現された香りがすべての蘭奢待の保存につながってくれれば、その良しあしにこだわる人はいないのではないか。
主要参考文献
杉本一樹『正倉院 歴史と宝物』(2008、中公新書)
田該典「全浅香、黄熟香の科学調査」(宮内庁正倉院事務所編『正倉院紀要22 2000-03』)
山田英夫『香木のきほん図鑑 種類と特徴がひと目でわかる』(2019、世界文化社)
平山令明『「香り」の科学 匂いの正体からその効能まで』(2017、講談社ブルーバックス)
正倉院展公式サイトは こちら
正倉院 THE SHOW公式サイトは こちら
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