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基地はどこへ 沖縄復帰50年

半世紀前、日本への復帰によって沖縄の人たちがのぞんだ未来は、「本土並み」の米軍基地の負担だった。しかし、1972年の復帰前後に次々と姿を消したのはむしろ、本土の基地。なぜだろうか。

本土と沖縄重なる記憶

1952年に日本が占領を脱した後も、日米安保条約に基づき、米軍は全国に駐留し続けた。米軍機の墜落事故や、米兵による犯罪。基地と住民とのあつれきは、本土でも沖縄でも生じていた。

同じスローガンを掲げた抵抗

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沖縄県公文書館提供

沖縄・伊佐浜(現宜野湾市)での土地の強制接収に抵抗する住民たち(左、1955年)と、米軍の試射場撤去を求めた1950年代の内灘闘争(石川県)で使われたむしろ旗(右)

墜落事故

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沖縄タイムス提供

宮森小学校に米軍機が墜落、児童ら17人死亡(左、1959年、現沖縄県うるま市)。市街地に戦闘機が墜落し住民ら4人死亡(右、1964年、東京都町田市)

犯罪

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女児が米兵に殺害された事件を伝える沖縄タイムス紙面(左、1955年)と、米兵が主婦を背後から射殺した「ジラード事件」の調査(右、1957年、群馬県)

声をあげる市民

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基地の街の人々は基地撤去を求め続けた。1970年具志川市(左、現うるま市)、1968年福岡市(右)

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本土から沖縄へ、沖縄から沖縄へ

1950年代や復帰前後、大幅に縮小されたのは本土の基地であり、一部は沖縄に移された。米国が、日本復帰直前の沖縄を本土で縮小する基地の「収容場所」と位置づけていたことを示す米公文書も見つかっている。さらに、復帰に伴う目玉とされた那覇空港返還で、米軍の部隊が日本側の求めによって沖縄・嘉手納に移されるなど、沖縄の負担軽減の名のもと沖縄の中での移転が繰り返されている。

都道府県別米軍専用施設の割合

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沖縄の米軍基地が東京にあったら

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この50年で沖縄でも基地返還が進められてきたが、それでもなお国土面積の約0.6%の沖縄県に、米軍専用施設の約70%が集中している。その面積、約1万8千ヘクタールは東京23区のうち13区を覆うほどの広さになる。その状況は「基地のなかに沖縄がある」とまで言われる。

米軍普天間飛行場はこうしてできた

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街のなかにあり「世界一危険」といわれる普天間飛行場が、今のような離着陸が激しい基地になったのは、日本復帰以降のことだ。本土から部隊が移転したうえ、沖縄県内の基地返還で、県内で部隊が移されたり、機能が追加されたりしてきた。

普天間飛行場の辺野古移設計画

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そうしてできた普天間飛行場を、同じ県内に移すのが、辺野古移設計画だ。1995年に米兵による少女暴行事件が起き、普天間を返還すると決めた日米が県内移設を条件とした。日米は負担軽減の象徴と位置づけるが、沖縄では少なくない人たちが負担は減らないと考えている。復帰から50年を迎えたいま、1人当たりの基地負担の割合を試算すると、沖縄は本土の約200倍にもなる。復帰をはさみ、都心部を中心に本土で基地が次々と消え、一部は沖縄に移った。そこには多くの人たちの視界から基地を見えなくさせることで、本土でも広がっていた基地への反発を抑える狙いがあった。その結果、基地問題はその後、全国の問題として考えられなくなった。沖縄では当時も今も、同じように基地への反発はあるが、その声は届かない。変わらぬ沖縄の負担、ではなく、押しつけられた負担――。そうした視点が「沖縄の基地問題」を考えるためには欠かせない。私たちはそう考えている。

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