写真はロイター
80年前の1941年12月8日(日本時間)。日本は米ハワイの真珠湾で米海軍を奇襲し、太平洋戦争に突入していった。列強に負けじと領土や資源を求めた結果、日中戦争も含めて300万人を超す死者を出すことになる。米との圧倒的な国力差をわかっていながら、戦争へと至らしめたものは何か。文書や証言から、改めて問う。
1939昭和14年
平沼騏一郎首相。1939年8月28日、想定外だった独ソ不可侵条約締結を受けて総辞職
日中戦争が泥沼化する一方で、遠く離れた欧州でもヒトラー率いる独への対応をめぐり、各国が一触即発の状況となっていた。 こうした中、満州国西部・ノモンハンで1939年5月、国境をめぐり日本・満州国連合軍がソ連・モンゴル軍と衝突。日本の関東軍は参謀本部の制止を無視し、戦線を拡大させる。 ソ連のスターリンは「難敵」の独との不可侵条約を極秘裏に模索。そしてノモンハンで背後を脅かす日本をたたくと決断した。 同8月20日のソ連の総攻撃で関東軍の現地部隊は壊滅。同23日にソ連と不可侵条約を結び、対ソ戦は当面ないと踏んだ独は9月1日、ポーランドへ侵攻。第2次世界大戦が始まった。
プレミアムA「ノモンハン 大戦の起点と終止符」1940昭和15年
ジョセフ・グルー米駐日大使。1940年10月1日付の日記から
日本に抗戦する蒋介石の中国国民政府に米英は物資を援助していた。東南アジアから延びる、いわゆる“援蒋ルート”の幹線の一つは仏の植民地、北部仏印(現ベトナム)に通じる。 1940年6月、仏が独に降伏すると、援蒋ルートの切断を名目として、日本は軍隊の駐留を現地の仏印総督府に要求。加えて資源獲得の端緒とすべく経済関係の強化も求めた。同9月22日、武力行使を避けて日本軍が進駐する協定が成立したが、待機中の部隊が一方的に仏印へ侵攻し、一時交戦状態となった。 これに対し米は同9月25日、国民政府に2500万ドルもの援助を公表。翌26日にはくず鉄の日本への禁輸を打ち出し、日米関係は緊張の度合いを増していった。
1940昭和15年
山本五十六・連合艦隊司令長官。1940年9月15日夕方、日独伊三国同盟に向けた海軍首脳会議で
ポーランド侵攻を手始めに、デンマークやノルウェーなどに次々に侵攻していく独。1940年6月に仏を降伏に追い込むと、日本国内でも「バスに乗り遅れるな」と、独と軍事同盟を結ぶべきだとの声が強まる。 同9月7日に独特使が訪日して松岡洋右外相と会談。日独伊三国同盟が現実化する。米英との関係を考慮し、独伊との同盟には反対派が多かった海軍でも、同9月15日の首脳会議で伏見宮・軍令部総長が「ここまできたら仕方ないね」と発言する状況だった。 閣議と御前会議を経て同9月27日、ベルリンで同盟条約に調印。日米開戦に向けた時計の針が、またひとつ進んでいく。
1941昭和16年
永野修身・海軍軍令部総長。1941年7月21日、大本営政府連絡会議で
「北進」して建軍以来の宿敵をたたくべきか、資源を求めて「南進」し、アジアに植民地を持つ欧米列強と戦うべきか。 二つの選択肢の間で揺れる中、日本は当面、南進の際にソ連から背後を突かれるリスクを減らそうと画策した。1941年4月13日、日ソ中立条約に調印。この時点で、日本は独ソ戦が始まる可能性は低いとみていた。だがその思惑に反し、同6月22日、独はソ連へ侵攻する。 この機に乗じて陸軍は演習名目で約80万の兵力を満州に集め、ソ連軍が半減したらシベリアへ攻め込むべく、機会をうかがう。しかし期待した展開は訪れないまま同8月9日、陸軍は北進を断念。石油などの資源を求め、南進への傾斜を強めていく。それは米国との戦いを意味していた。
1941昭和16年
東条英機首相。1941年12月1日、対米英開戦を決めた御前会議で
緊迫する日米関係を打開しようと、野村吉三郎・駐米大使は1941年4月、ハル・米国務長官と会談。日中戦争の仲介などを含む案に、昭和天皇はじめ近衛文麿首相や陸海軍も、当初は前向きだった。 だが、日本は同7月下旬、南部仏印へ進駐。米は態度を硬化させ、日本の在米資産の凍結や石油の対日全面禁輸で応じた。近衛はルーズベルト米大統領との会談で解決を図ったが実現せず、同10月16日、内閣は総辞職した。 後継の東条英機内閣に米国は同11月26日、中国や仏印からの撤兵などを強硬に求める「ハル・ノート」を提示。これに応じられない日本は対米開戦を決意し、同12月8日を迎える――。
プレミアムA No.17日米開戦80年
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